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思い込みから、逃れることはできないか?

通常、人間は思いこみに縛られています。
政府や警察が国民や正義の為に動くというのも思い込みです。
自らの組織の利益のために動く場合もあります。
「人に迷惑をかけてはいけない」という、価値観が善というのも、思いこみかもしれません。

思い込みから、解放されるのは、エネルギーが必要ですが・・・
事実を、正面からみつめると、それが、思いこみであったことが分かりす。
(911テロの周辺で起こった事実を丹念に、検証すると、米政府発表に疑問を持ちます。)
しかし、事実をみつめる作業をしないと、思いこみから解放されないわけです。
また、正面から見つめるという作業を、面倒だからやらないという動きも心にはある感じもします。

とすると、思いこみから逃れることはできない気がします。

可能な限り、思い込みから逃れるにはどうすればいいでしょうか?
唯一、強力な武器は、哲学なのでしょうか?
 

A 回答 (50件中1~10件)

思い込みと 何かの刺激や命令に反応しそれに対して行動する この両者を同じ扱いにするのはあなたの単なる思い込み?

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 No、23の方に近いのですが、たぶんものの見方には2種類あって、思索的に見るか、感性感情的にとらえるか、そのうち、感情には絶対性があると思っています。

「痛くない、痛くない」と言われても、「痛い!」と感じたら、それはもう「痛い!」が正解です。感じたことは疑いようはありません。みんなが「あの映画はおもしろかったね」と言ってても、自分が「つまんない」と感じたら、「あの映画はつまんない」で当人はいいと思います。(「つまんない」と叫ぶかどうかは別問題ですが・・・)

 それに対して、ものの考え方には確かに、思い込み、すりこみがあると思います。そしておっしゃるように、狭い思い込みを訂正して広い視野にたとうとすることが重要で、「相対化」といわれています。

 ただたぶん人間はしょせん思い込みから逃れることは無理で、最初の典型的思い込みは、親の価値観をそのまま真に受けるということだと思いますが、ある時期、親離れの頃、本当にその価値観でいいのかと疑問を持ち始めると、今度は違う価値観を求めて、原点探しや、哲学者に求めたりすると思うのですが、やはりいずれにしても今度は今までの狭い親の価値観とは違う、広い視野を持った人の考え方を信じたり、必要とせざろうを得ないのではないでしょうか?(他力ですね)「自分が信じるのはこの哲学者の考え方だ」と本気で思える思想に出会えない限り、いわゆる根拠のない、堂々巡りと、エネルギー消費を繰り返すだけの不毛な作業に終始すると思われます。

 個人的には、まとまった考え方を持っている人達に、その思想的根拠、原点があるのかないのか、それを求めたこと、求める必要性があるのかないのかを質問したいくらいです。
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 主題や事件を特定してかからないと 思い込みをどうするこうするという切り口からでは 話が進まない嫌いがあるのではないでしょうか。



 ★ 911テロ
 ☆ のみ特定した事例が出ています。
 ★ 正義の為に動く / 自らの組織の利益のために動く / 「人に迷惑をかけてはいけない」という、価値観が善
 ☆ これらもまだ抽象的で一般的な問題の立て方になります。

 あるいは別様に考えるとすれば
 ★ 事実を、正面からみつめる
 ☆ これだけでも じつは ものごとははっきりしません。そうすれば《思い込みから自由になる》かどうかは分からないものです。つまり
 ★ 事実をみつめる作業をし
 ☆ ても その結果が思い込みでないとは限りません。人間の認識とは そういうものです。

 では問題を特定すれば 思い込みではない認識ができるのか?
 問題は 当事者やあるいは第三者をも含めて人間が――ということは一人ひとり《わたし》がということですが――その問題に対処する方法を考え方策を実施し その結果についてどう受けとめるか。けっきょくこのとき《よかった》という声が強く多いか それともそうでないか ただこれだけで《思い込みからの自由度》が決まるというに過ぎません。

 釈放された船長を英雄と見て歓迎するというのも われわれから見れば あぁ何たる思い込みであることよとなりますが 無事帰って来たというひとつのことについては 思い込みではないと思っていることでしょう。そこに国家としての行動がからまってくると――端的に言えば 国家がその領土を得たのは 力で取ったか それとも先取りしたからかなのですから―― どこからどこまでは思い込みであるのか 分からなくなるところがあります。
 だって弱腰外交だうんぬんと声高に言う向きにとっては ふつうの人間としての見方が国家の行動には通用しないという前提を置いているのですから。つまり 力による凌ぎ合いだと見ているのですから いかに固有の領土だと明らかにしても 力で奪えば――国家としては――それが現実だということ・つまり《思い込みではない》ということになります。
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長い回答が、判り難いと云う事なので、ごく手短に書いてみます。

思い込みとはものの見方の事ですが、この世界は二つの要素で出来ています。一つは真実の世界です。是は宇宙全体を貫いている真実から構成されている世界です。

ではもう一つの世界とは何か、それは『妄想=頭の中で再構成された』世界です。物事を論理的に考えて、論理的に再構築する世界です。

一つの事実の中に二つの世界が交じり合って世の中が構成されています。真実を見抜く目が開けることを『第三の目が開く』と言います。

論理的に考えることから返ってその論理の中閉じ込められてしまう事実を言っています。有限の世界からの超越とは、論理的に考えることの限界を突破することを意味しています。

有限の壁は、論理的に考えるその考え方の中に返って、限界を作っています。論理を超えた論理は、全ての論理を捨てたときに、その姿を見ることが出来ます。

宗教臭くなると言われたとしても、人間の心の半分が元々宗教で出来ている事が分らない事が、寛解と云う限界を精神医学の世界に、もたらせています。
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 極力事象や人、対象に至る主観の接触側への見極めが必要になるという事だと思います。

極力というのは出来る限りという意味です。もし思い込みに囚われてそこから抜け出しにくい状況(脅迫的な心理誘導(しつこい勧誘や組織に属してなかなか辞め難い状況に置かされている)など)に関してはその状況に置いて電話なら切るとか迷惑電話に関して警察に相談してみるとか幾らでもあります。そのように状況の隙を狙って脱却するということです。
 >(911テロの周辺で起こった事実を丹念に、検証すると、米政府発表に疑問を持ちます。)
まったくです個人的にもどう考えても以下の情報が正しければ間違いなく偽装工作だと思います。
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たとえば人気俳優のファンが観た主演映画の感想と


その映画の製作に関わったスタッフなり
映画関係者が観る感想は異なるだろうことは想像できますよね。

  
1.ストーリの展開を感情論からの視点で面白い映画と評価する。
2.効果的な演出と捉えて、分析する楽しみを得る視点と評価が違うと思います。

1.は確かな原因、根拠から結果を導く演繹をしています。
2.は現象が成立するための根拠を探る帰納をして演繹をさらに発展させて導く構えです?

物事を固定する目的の知識の体系を学問と呼びますが、
哲学だけはそれが無理で、したくてもしちゃいけないのです。
私(実はバカなのに)の偉そうな確定文的な言い方にも問題があるかもしれませんが、
哲学は提案以上のものではなく
真理というのがあるなら検証を重ねてもそれは不動の大地のごとくあるもの。
その不動の大地とて暗闇の空間宇宙に浮かんでるだけですから。

論証の根拠として
別に演繹や帰納に拘らなくても、
コペルニクス的転回は多元的にあると思いますよ。
転回された哲学を更に脱構築(ずらす)してお届けしてしています。
どういう風と、言われても。直感です。
それと図書館にもないネタが少々あるからですね。

妄想といえど手品にはタネも仕掛けもあって、
一応仮の証明はそれで出来ます。それで判断の中止となります。

もうネタも尽きたよ~;

「我が解説が新たな架け橋と踏み台にならんことを祈る!お好きなように」(師匠&弟子)
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この回答へのお礼

 
お疲れ様でした。
 

お礼日時:2010/10/01 17:57

哲学は錯覚や固定観念(思い込み)を逆に利用した


「手品」とか「忍法」であるかもしれませんね。

共通知識の範囲内の対話は
「常識」とか「老人語(未承認)」といい
そのため対話ははずみますが探求に至れません。

哲学は「奥義」を語るもので
過誤されていた日常が当然でなかったと気づけるのです。
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この回答へのお礼

 
すみません。よく分かりません。

>哲学は錯覚や固定観念(思い込み)を逆に利用した
「手品」とか「忍法」であるかもしれませんね。

この様な論法はいいのでしょうか?
ここは、哲学カテです。
それなら、哲学カテを多少意識した、ロジックを用いるべきだと思います。
つまり、演繹法、帰納法等の思考方法用いる事を意識すべきと考えます。

簡単に言うなら、主張には、根拠を添付せよ。です。

根拠のない主張は、検証されません。検証されないなら、妄想と同じです。

ここは、妄想を語る場所ではないと感じています。

根拠を添付下さい。
 

お礼日時:2010/10/01 15:52

「ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じること。



この定義に則って考えた場合、思い込みの良くない点は、
「ある考え方を、合理的でない推定に基づいて、執着的に固く真実だと信じること」となると思います。
そうすると、「人間はなぜ、合理的でない推定に基づいてまで、(ある考え方を)執着的に固く真実だと信じようとするのか、信じたがるのか」という、人間の思惟の指向性について考える必要が出てくるでしょう。
このように考えた場合、ご質問の内容は、かなり根源的な場所にまで降りていかざるを得ない問題を含んでいるように思われます。

まず、「理」とは「物事の正しい筋道」を意味するでしょうから、「合理的」は「物事の正しい筋道に合った」という意味になります。ちょっとくどくなりますが、上の疑問文を書き直すと、
『人間はなぜ、正しい筋道に合わない推定に基づいてまで、(ある考え方を)執着的に固く真実だと信じようとするのか、信じたがるのか』
となります。

ここで、
「人間は、何が正しいのか(正義か)ということに関して無知である」
という一つ目の想定が成立するように思います。
無論、この場合、絶対的正義を意味します。
自分にとってだけ正しいことは正しいとは言わないでしょうし、それは正しさの概念から逸脱するからです。
しかし、自分にとって(広義での)良くないことが正しいことであるはずもまたありません。
つまり、「自分にとっても他者にとっても正しいこととは何か」という点に関して、人間は未だ答えを見出せていない、という事実があるのだということになりそうです。

ある対象を人間が認識する場合、まず感性によって感覚的に受け止めるはずですが、次の段階として、あるいは殆んど同時にその対象への概念を形成するでしょう。
概念、あるいは表彰と言っても良いと思いますが、そこには必然的に「思う」という作業が自動的になされるはずです。
しかし、上で述べてきたように、
「自分にとっても他者にとっても正しいこととは何か」という点に関する答えの無いまま、こういった認識に至らざるを得ないとすれば、人が思うこと、すなわち「思い込み」と同義になると言えるでしょう。

このような次第で、(あくまで現在の人類の進化段階においては)「思い込みから、逃れることはできない」と私は思います。
これが直接的な回答になりますが、ご質問の真意を考慮し「思い込みの弊害を最小限度に抑えるためにはどうすべきか」という点についても蛇足的に述べてみます。
これに関しても、先に述べてきた内容から、
「他者への想像力を十分に発揮するよう意識すること」が、取っ掛かりになるのではないでしょうか。

実行が危ぶまれそうな結論になってしまいましたが、
「人間は、何が正しいのか(正義か)ということに関して無知である振りをしているだけ」
なのではないか、という2つ目の(希望観測的)想定もできるような気もしています。
 
自分で実行できていないことを述べるのはなかなか気恥ずかしいものですが、このように思います。  
  
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asaqです



そうですよね
私はかなり初期の段階からそう思ってました^^;

私はNO,28で
>思い込みという言葉を国語辞典で引くと
>深く信じこむこと。また、固く心に決めること。
>となっています

と言う風に既に定義を提示しております

同じくNO,28で
>質問者さんの逃れたい思い込みとはどんなものですか?

という形で質問者さんの定義を聞いたのですが
その返答が思い込みの定義についてではなかったので
しつこく聞くことを致しませんでした

今にして思えばもっとはっきりと定義を教えてくださいと
ストレートに聞くべきでしたね
すいませんでした

では本題に話を戻しますが
思い込みの定義はもちろん質問者さまに合わせます
そうしないと意味がないですから

「ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じること。」

上記の定義における合理的とは辞書を引きますと
1 道理や論理にかなっているさま。「―な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「―な処置」
となります

この場合1が妥当だと考えます

私はここまでずっと思い込みをある意味肯定してきました
そして上記の思い込みの定義で考えてもやはり
思い込みには良い場合と悪い場合があると考えます
もちろん私の定義した思い込みと比べるとかなり悪い面が増えますが

良い面とは
常に時代を動かしてきた人物は思い込みが激しかったと思います
科学者にせよ
為政者にせよ
英雄にせよ

なぜなら道理や論理とはその時代によって変化するもので普遍的なものではないからです
世界中の人がそれは非論理的だと否定しても後世では常識になることも多々あったことは
歴史が証明していることです

悪い面は
恋は盲目(ある意味良いことなんですが(笑))
宗教(これも善悪両方の側面がありますが)
偏見
差別
などなど

私の立場をもう一度確認させていただきます
思い込みは良いときも悪いときもあると考えます

そして質問者さんの質問は思い込みをなくすには?ですね

その答えは
不可能です

思い込みを減らすなら出来る努力は
知識を増やす
なるべく客観視する癖をつける
感情でものを考えない
常に広い視野をもつ
などなど
たくさんあると思います

しかしどこまで行っても思い込みはなくなりはしないでしょう
その理由は
思い込みとはどこまでが思い込み?
物凄い思い込みがレベル100だとするとレベル3はまだ思い込み?
ではレベル1の思い込みってどんな感じなんでしょう?
という問題があります
何を子供の屁理屈みたいなことを言ってるんだと思うかも知れませんが
非常に重要な問題です
思い込みをなくす方法があったとしても思い込みがなくなった状態を定義しなくては
本人が思い込みがなくなったと思ってもそれが思い込みなんていうオチがありえます

しかし思い込みがなくなった状態の定義とは可能なんでしょうか?
私は不可能だと考えます
どんなに人の話を聞くようにしても、客観視しても、広い視野を持っても
なくなったと思った事自体が思い込みかもしれないという疑念を振り払うことが
出来ません

そして次の問題が
価値観です

人は価値観を持っています
それは美、味、文化、嗜好、感性などなどすべての事柄に対して価値観を持っているでしょう
価値観とはある意味思い込みではないでしょうか?
自分が好きだと思う物に対して人の意見を聞きますか?
聞くときもありますね
でも聞かなくてもいいですね
合理的でなくてもいいですね
価値観のすべてがそれでいいわけではないですが
価値観のいくらかはそれでいいですね

私がどんな女性が好きか?これは私の勝手ですね
確かにファッション紙やメディアでセンスを磨くのもいいですが
磨かなくてもいいですね

そして価値観は上記にあげた思い込みの悪い面(良い面)に繋がっていきますね
では価値観をなくせば思い込みもなくなるか?
なくなるでしょう
そして人でもなくなるでしょう
価値観を持たない人間はいません(正常な状態であれば)

だから私は思い込みをなくすことは出来ないと考えます

そしてやっぱり悟りは思い込みの究極の形だと思います

最後に、矛盾していると突っ込まないでほしいのですが
もし思い込みをなくす方法があるとすればそれは
「愛」なのかもしれないとふと気づきました
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この回答へのお礼

 
>質問者さんの質問は思い込みをなくすには?ですね

・・・・(;_;) グスングスン
なんで、そう思うの?

同氏のNO28での書き込み。
>すいません、勘違いしていました
>質問が「可能な限り」ということを見落としてました・・・・

そう、私の質問は、
>思いこみから逃れることはできない気がします。
>可能な限り、思い込みから逃れるにはどうすればいいでしょうか?

です。
思い込みをなくす事は出来ないと思っています。思い込みを減らす方法を聞いています。
だから、思い込みは嫌いなんだ~・・Y(>_<、)Y

>思い込みを減らすなら出来る努力は
>知識を増やす
>なるべく客観視する癖をつける
>感情でものを考えない
>常に広い視野をもつ
>などなど
>たくさんあると思います

そう、僕もたくさんあると思います。
その中で、どれが効果が高いか検証したいというのが問いの趣旨です・・・

思い込みをなくすことは出来ないと、相当のスペースに根拠を書き込んでいますが、
そもそも、思い込みは出来ないと思っていますから。・・・
これって、asaqさんにとって、相当なエネルギーを使っているでしょう。
僕も、読み込むのに、それ相当のエネルギーを消費します。
(これを読んでいる第三者もそうでしょう。)
これって、悲しいでしょう!

この、悲しみを減らすにはどうしたらいいか?
というのが、この問いを立てた、きっかけです。。・゜゜・(>_<;)・゜゜・。
 

お礼日時:2010/09/30 19:58

>「ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じること。



ガリレオの時代には、微分積分学もまだ知られておらず、現在の高度な数学は何も知られていませんでした。彼の知っていた数学は、加減乗除、すなわち現在の日本で算数と呼ばれている算術と、幾何学だけでした。もちろん、虚数も知られていません。また、そんな算数を使って巧く説明出来た自然界の現象は、物体の落下と単純な振り子だけであり、他には何も知られていませんでした。そんな途轍もない未熟な算数と、僅かな例きり知らないにも拘らず、ガリレオは、「数学は自然界を記述するための言語である」と言っていました。彼はその時代の合理性な推定の域を超えて、それを固く真実だと信じていたようです。それはあたかも、「数学は男女の中を記述するための言語である」と言っているのに匹敵するくらい、とんでもない思い込みの主張でした。ガリレオの思い込みが後になって、たまたま巧く行っていることが判ったから良かったものの、彼の思い込みが当たっていなかったら、ガリレオは単なる変わった人だった訳ですね。

他の例では、ニュートンの力学は、数学体系として無矛盾であり、それ自身で閉じている合理的な力学体系であるとこが知られています。その合理的なニュートン力学しか知られていなかった時代に、ニールス・ボーアはニュートン力学とは完全に矛盾する原子模型を提案し、その正当性を、合理的なニュートン力学の推定の域を超えて、固く真実だと信じていました。その後、ボーアの原子模型はニュートン力学をその特殊な一部として含んだ、もっと一般的な量子力学の発見へと導きました。こんなのも、ボーアの思い込みがたまたま当たっていたから良かったものの、彼の思い込みが当たっていなかったら、ボーアは単なる変わった人だった訳ですね。

我々が科学を前進させるためには、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じることが如何に本質的だったかを、繰り返し実証して来ましたね。
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