「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

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信長たちがいる時代は壁などを作る技術はありましたか?(竹や木などは含めません)

A 回答 (5件)

壁などを作る技術があったというだけならば、飛鳥白鳳期の寺院、例えば、京都府木津川市にある高麗寺では、築地塀は東西方向に約40メートル分見つかったそうです。

 発見された築地塀は、7世紀のこので、内側に倒れた状態で、築地塀の上部の屋根にふかれた瓦もそのままの状態で残っていた部分もあったのだそうです。
http://www.shikoku-np.co.jp/img_news.aspx?id=200 …
http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/1234567 …
8世紀中頃と推定される仙台の多賀城の政庁の南門でも築地塀が出土しています。
土塁などを城の防御施設として作る場合、その側面の一部を崩壊防止を兼ねて石積みにすることも、あったと思います。
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zyousi/saitama …

穴太衆石積みの歴史と技法  福原成雄
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc= …
「続正法論」によると,南北朝末期の応安元年(1368年)8月25日,延暦寺の衆徒が万所集会(寺内の諸般議決機関)を開き,28日に御輿を担いで入洛することを決定するが,京都側の西坂は大変険阻で通りにくいので,坂道を修築するよう穴太のの民に重ねて厳しく命令するように決議している(6)。上記のことから,穴太氏が穴太衆積みの起源である横穴式石室墳の石室作りにたずさわり,その後最澄とともに比叡山に登り土木工事を請け負うの民である技術者集団として結び付き各種堂塔伽藍の造成,基礎石垣,登山道の土留石垣,水田整備にともなう石垣畦,井戸の構築等を通じて穴太衆と呼ばれる職能集団を形成していったということが推測される(写真‐2.3.4.5)。
「信長の時代について」の回答画像5
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ネット情報を検索しては、




土の壁自体は古代からありましたが、飛鳥時代(6世紀末~7世紀、推古朝を中心とする時代)になると、「土工」「白土師」「灰工」といった職業が登場。奈良時代初期の壁工事には、上塗り用として主に白土(白粘土)が使用されるようになります。鎌倉時代(12〜14世紀)に入ると、奈良時代末期~平安時代初期に登場した土蔵を、より火災に強いものにしようと技術も向上。室町時代(14~16世紀)後期、茶道の普及に伴い登場した「数寄屋造り(茶室建築の手法を取り入れた住宅様式)」の意匠に必要だったことから、土壁は日本家屋に深く浸透するようになります(土壁のほかには、長押を省く、面皮柱や荒壁、下地窓などを用いるといった決まりがある)。また、壁塗工事を行う職人が「左官」と呼ばれるようになったのも、この頃(室町後期の「桃山時代」)からだといわれています。
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安土城など、あれだけの城を築ける


技術があったのですから
壁ぐらい作る技術は、十分にあった
と思います。
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有りましたよ。

奈良時代からね
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城壁は土に凝固剤を入れて作っていましたね。


それが信長などよりずっと前の時代です。
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