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なぜ、北朝の明治天皇が、正成の銅像をシンボルのように皇居の前に建てたんですか?

A 回答 (3件)

南北朝正閏問題というのがあって、北朝が正統とする派と、南朝を正統とする派がせめぎあっており、時代によってどちらが優勢かがあります。


薩長土肥の武士は南朝を支持していましたから、明治天皇もそれを無視することはできず、「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」で南朝を正統としています。
で、現在は、、宮内庁を始めとして、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになえいます。

と言うことで、楠木正成は忠臣と言うことになっています。
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朝廷が南北に分かれたのは、楠木正成が足利尊氏に負けて、死んだ後の


話です。
楠木正成が大楠公と祀られたので、足利尊氏は天下の謀反人となり、
下野国の足利の民は、未だに肩身の狭い思いをしてます。
足利市民は、1991年(昭和46年)に放映のNHK大河ドラマ「太平記」
で使われたセットを保存して、大事に守っています。
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鎌倉幕府を倒した、足利尊氏は後醍醐天皇に政権を返上しています。
朝廷の、その後の政策に不満を持った、武士団が反乱を起こし、
足利尊氏は、その中心になったのです。
明治維新後、不満武士や重税に喘ぐ農民の反乱が起き、時代が似ています。
中心となる徳川慶喜が頑なに謹慎したので、反乱は単発に終わりました。
後醍醐天皇側の中心は地方豪族の楠木正成では無く、新田義貞です。
新田家は徳川家の祖先ですから、新田義貞を忠臣には祀れません。

歴史は勝者が造るの典型例なのです。
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>朝廷が南北に分かれたのは、楠木正成が足利尊氏に負けて、死んだ後の


話です。

違います。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を攻めた時、
幕府は光厳天皇を立てて戦う。
まだ楠木正成は生きていますよ。

朝廷は鎌倉幕府の最後の将軍の時に
すでの南北に分かれています。

鎌倉幕府は北朝を立てていました。

>南朝正潤論は3種の神器を持っていたほうを正統ということで
北朝を外して南朝にいた後醍醐~後亀山を正統にして
皇位の数えなおしをしたわけです。

南朝が正統になれば、
楠木正成は忠臣です。
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