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それとも共同墓地に埋葬入されたのですか?
古墳には何百人という人柱が周りを囲んでいるようですが、まさか自分の権力知らしめるために、強制労働させてた民の中から生きた人間を選んで生き埋めにしたわけではないですよね?

質問者からの補足コメント

  • 人柱に選ばれた人は、逃げられなかったんでしょうか。その場で取り押さえられて連行され、生き埋めにされたのでしょうか、

      補足日時:2021/08/10 00:07

A 回答 (7件)

> 古墳には何百人という人柱が周りを囲んでいるようですが



そのようなものが発見されたという話は聞いたことがないです。

  ~~~~ 魏志倭人伝に次の記載があります ~~~~
卑弥呼以死。大作冢。径百余歩。狗葬者百余人。更立男王。国中不服。更相誅殺。当時殺千余人。
卑弥呼、すでに死し、大いに冢(つか)を作る。径は百余歩、恂葬(じゅんそう)する者、百余人なり。更に男王を立つるも、国中服さず、更ども相(あい)誅殺し、当時、千余人を殺す。
  ~~~~ 日本書紀に次の記載があります (現代語訳)~~~~
二十八年冬十月五日、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。
十一月二日、倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬った。このとき近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたてた。日を経ても死なず、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞かれて心を痛められた。群卿に詔して、「生きているときに愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は議って殉死を止めるように」といわれた。
三十年春一月六日、天皇は五十瓊敷命・大足彦尊に詔して、「お前たちそれぞれに欲しい物を言ってみよ」といわれた。兄王は「弓矢が欲しいです」といわれた。弟王は「天皇の位が欲しいです」といわれた。そこで天皇は詔して、「それぞれの望みのままにしよう」といわれた。弓矢を五十瓊敷命に賜わり、大足彦命には「お前は必ずわが位を継げ」と仰せられた。
三十二年秋七月六日、皇后日葉酢媛命がなくなられた。葬るのにはまだ日があった。天皇は群卿に詔して、「殉死がよくないことは前に分った。今度の葬はどうしようか」といわれた。
野見宿禰が進んでいうのに、「君王の陵墓に生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」と。使者を出して出雲国の土部百人をよんで、土部たちを使い、埴土で人や馬やいろいろの物の形を造って、天皇に献上していうのに、「これから後、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と。天皇は大いに喜ばれ、野見宿禰に詔して、「お前の便法はまことにわが意を得たものだ」といわれ、その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。よってこの土物を名づけて埴輪といった。あるいは立物ともいった。命を下されて、「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損ってはならぬ」といわれた。天皇は厚く野見宿禰の功をほめられて、鍛地(かたしところ・陶器を成熟させる地)を賜った。そして土師の職に任ぜられた。それで本姓を改めて土部臣という。これが土部連らが、天皇の喪葬を司るいわれである。いわゆる野見宿禰は土部連らの先祖である。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、身狭の桃花鳥坂(橿原市築坂)にある倭彦命(実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろ)の墳墓(桝山古墳)の築造時期は5世紀前半です。
https://enkieden.exblog.jp/20714559/
https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bu …
このあたりには、無茶苦茶古墳が密集しています。
大きな墳墓を築造するには、多くの人手と年月が必要です。 人口がそれなりにあった地域なのでしょう。 当時、平均寿命がどのくらいかわかりませんが、10年間、20年間という期間では、この周辺でも、数千人は死んでいるでしょう。 人口が3000人しかいなくても、年間100人くらいは死んでいたとすれば、墳丘築造に10年懸かるとして、1000人は死んでいるでしょう。その死んだ人の大半95%くらいは、死んだら野原、山腹に放置されるか、簡単に埋葬されていたはずです。 墳丘築造作業にかり出されて使役される人も事故や怪我、病気等で何人も死んだと推定するのが自然です。 そういう死人の遺体の処理とか、大怪我でもはや労働不能の人たちを「処分」したということは多数あったろうと思います。

> 強制労働させてた民の中から生きた人間を選んで生き埋めにしたわけではないですよね?

まだ十分に労働できる人物を埋めてしまうことはしなかったでしょうが、怪我や高齢などで役立たないと判定された人を埋めてしまったということならば、あり得るでしょう。 大規模土木工事中なので、穴や土は大量にあります。 
50年間、100年間では、人間も野生生物も大量に生まれ、大量に死にますが、10年後、20年後にまで遺体が残るのは希です。 日本の土壌だと数十年で骨も溶けてしまいます。 特別の配慮をしていなければ、半世紀も経てば、遺体はなくなり自然に戻ります。
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>天皇陵作るために強制労働中に死んだ近隣の民が、古墳の周りに埋葬されたのですか?



一言でいうと「いいえ、違います」です。
殉死したのは「天皇の妻や子供、その一族」だったことがほとんどで「民」は一部の兵士や不可触民を除けば、殉死はしていません。

で、今の感覚だと「とはいえ、一人の死で殉死者を何人も出すのはおかしい」ということになるのですが、当時はそうではないかったのです。

なぜなら「権力者が死んで、別の権力者が支配者になれば、結局飢え死にする可能性が高かったから」です。

当時は食料供給がギリギリで、ちょっとした干ばつや長雨などがあれば、有る程度の人は民も含めて餓死することが多かったのです。
 だから姥捨て山もあったし、子供が生まれても食わせられないから殺す、ということもあったわえです。

権力者の身内は当然に優遇されています。しかしその権力者が死んで別の人になれば、別の人の身内が優遇されるし、場合によっては権力の秘密を知っている身内は疎まれて殺されることもあるし、食料が足りなければ当然に餓死させられる対象になりやすかったわけです。

だから「権力者が死んだので、その権力者のおかげで生きてきた人は一緒に死んであの世でお仕えするのが当たり前」という考え方で人柱にされていたのです。

それが埴輪に変わったのは「食料生産が増大し、そう簡単に餓死しなくなったから」です。
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殉死ですか。


途中でやめるために
埴輪に切り替えた

日本書紀読んで勉強してから、
来てください。

何でも聞けば答えると思わぬほうがいいですよ。

余りにも
ユダヤとか
女性天皇
女系天皇とか
不勉強な
事が多すぎますよ。

きちんと
ただしい歴史知識
持たず、
学のないことばかり
いうと
相手にされませんよ。

ただ
迷惑がられて
馬鹿にされるだけですよ。
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労働中の遺体は、近くの墓地へでしょう。


完成後、中の構造を知ってる人を強制的に人柱に。
埋蔵品を盗掘されないための知恵。
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この回答へのお礼

設計者とか、働け!働け!とムチ持っていた人達が、
人柱に殺されたのですか?

お礼日時:2021/08/10 00:05

物証のある人柱



①猿供養寺村の人柱
②吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑
③日出城の人柱
④江戸城伏見櫓の人柱
⑤常紋トンネルの人柱
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どうですかねぇ~


そういう説は時代によってコロコロ変わるので何とも言えませんし全ては想像の域を出ないものと思います。ピラミッドだって昔は奴隷や犯罪者を強制労働させて作ったとされていましたが、最近ではボランティア的な人達で作り上げたと言ってる学者さんもいますしね。
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いや、古い鉄道の柱なんかにはちゃんと人骨が埋まっているとこありますよ。

亡くなってからでしょうけど。
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