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既成宗教における神はまず第1に非知、非経験であることが基本ですよね。
ところが同時に既成宗教における神は例外なく人格を持ちます。
それどころか神の子イエス・キリストまでいます。
なぜ非知、非経験であるはずの神が人格を持っているのか?
またなぜ非知、非経験であるはずの神に神の子イエス・キリストがいるのか?
説明してください。

A 回答 (11件中1~10件)

お礼にて質問を明確にして下さりありがとうございます。



ご指摘の「(本来は)非知・非経験的なる神(であるはずの存在)を人格によって説明しようとした」という点や「そこで登場したのが神の子イエス・キリストとその奇跡」という点は私も同意しますし、そのことが「愚かの極まり」ではないことも説明させて頂きました。これらの点以外に最初のご質問に関連したご質問がないようでしたら、私の対応はこの辺で終わらせて頂きます。
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お礼として頂いたご質問に返答させて頂きます。



>その啓示はどこでなされていますか?
>聖書の中でなされているのでは有りませんか?

仰る通り、キリスト教は聖書を通して神が啓示(特別啓示)をしている、と信じます。

>その聖書はいったい誰が書いたものですか?
>聖書は神が自らの手で書いたのですか?
>多くの人の手によって書かれたものではないのですか?

伝統的なキリスト教では、聖書は「著者の背景に聖霊(神)が宿りながら記された」と信じます。これを神学では「霊感」と呼び、聖書が他の書物とは異なる「聖典」であることの根拠のとなっています。

>神が真に非知・非経験的なものであるなら、非知・非経験的のままでよいのではありませんか?

まさしく仰る通り、神には人に対して自身を明らかにする義務や責任はありません。それにも関わらず神は神の自由な意志から人に対して自身を明らかにしたのです。これは「神が自ら人との関係を築こうとした行為」であって、この行為にこそキリスト教の核心である「神の愛」が示されている、と理解しています。

>また神が真に非知・非経験的なものであるなら、これを人格によって説明することは不可能であり無意味ではありませんか?

仰る通り、擬人言語を用いて神という存在の全てを説明することは不可能です。しかし、最初の回答でも述べましたが、神が擬人言語を用いた啓示で明らかにしたのは、神という存在のほんの一部です。三次元の立体を二次元の紙の上に描いて、その立体のある程度の情報を共有できるように、神は擬人言語を用いて「ある程度」の神に関する情報を明らかにしたのです。

>ましてやそのために神の子イエス・キリストを持ち出すなど愚かの極まりでは有りませんか?

申し訳ございませんが、頂いたご質問の中でこの質問だけ質問の意図が読み取れませんでしたので、回答しかねます。
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この回答へのお礼

非知・非経験的なる神を人格によって説明しよーとした。
そこで登場したのが神の子イエス・キリストとその奇跡ではないのですか?
それゆえ神の子イエス・キリストは擬似言語ではないのですか?

お礼日時:2022/04/25 07:35

>神の子イエス・キリスト



神の名を語る人がいるのです。
我は神なり。
神が生んだキリストだから、それに逆らうものは罰を受ける。
だからキリストの言葉を神の言葉と思い、絶対の服従を誓えという事ですかね。

キリストはそんなに偉いですか。
磔になっても蘇る。そういう通常の人間にはない脅威の力を
持つ超人。これがイエスですか。
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★ (№7お礼欄) 守るべきもので無いのであれば、それはイツハリです。


☆ 文脈もしくは条件が違います。

○ 〔☆ それをあたかも神のごとく見なして守るならば〕

☆ です。

★ 守るべきもので無いのであれば
☆ という条件づけとは 別です。

さらにそして 《あたかもオシへを神であるかのごとく文字通りに守るならば ころす》という表現は 狙いの一つとして 《律法(戒律のようなもの)を完全に守る人は ひとりもいない》といった意味合いを知る必要がある・・・と言っているのです。
 
まるで あり得ない解釈をあなたは なさっています。




★ 守ればひとをころすのであれば、それもイツハリです。
☆ 同じく 情況を異にします。

☆☆ あたかもオシへを神であるかのごとく
☆ という条件が違います。
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★ (№6お礼欄) その聖書はこれらの者によって書かれ、編纂され、そして広められたモノです。


あなたもそれを利用している一人です。
☆ 文献資料は 中立です。



☆☆ >聖書の文字通りの文章・オシへは ひとをころすと言っています。

★ であればそのよーなものはイツハリです。
イツハリは焼き払うべきです。
☆ 舌足らずでした。

○ 聖書の文字通りの文章・オシへは 〔☆ それをあたかも神のごとく見なして守るならば その〕ひとをころすと言っています。
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この回答へのお礼

>○ 聖書の文字通りの文章・オシへは 〔☆ それをあたかも神のごとく見なして守るならば その〕ひとをころすと言っています。

守るべきもので無いのであれば、それはイツハリです。
守ればひとをころすのであれば、それもイツハリです。

いずれにしてもそのよーなものはイツハリです。
イツハリは焼き払うべきです。

お礼日時:2022/04/24 10:17

★ (№4お礼欄) 聖書の中に数多く登場するイエス・キリストの奇跡物語は「説明のために」なされたものではなく、まさにそれ自体が目的になっている。



☆ どうしてそういう解釈が成り立ちますか?

ちなみに ローマ教会やプロテスタントのそれらによる主張は あきらかに別としてください。それらはそれらで批判すればよいでしょう。わたしの説には通用しません。




わたしの説の証拠は 次のパウロの見解です。:

▲ (コリント後書 3:5 ) 文字はころし 霊は生かす。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/2corintian …

☆ 文字すなわち――もともとは 律法〔を神のごとくに守ること〕ですが 解釈として――聖書の文字通りの文章・オシへは ひとをころすと言っています。

ゆえに 聖書は 《説明のために》書かれたものなのです。霊ないし生命性において読まなくてはいけません。
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この回答へのお礼

>ちなみに ローマ教会やプロテスタントのそれらによる主張は あきらかに別としてください。それらはそれらで批判すればよいでしょう。わたしの説には通用しません。

その聖書はこれらの者によって書かれ、編纂され、そして広められたモノです。
あなたもそれを利用している一人です。



>聖書の文字通りの文章・オシへは ひとをころすと言っています。

であればそのよーなものはイツハリです。
イツハリは焼き払うべきです。

お礼日時:2022/04/24 06:56

仰る通り、特に「絶対神」は本質的に非知(人間ではその存在を知り得ない)で非経験(超自然)的存在です。



しかし、キリスト教においては、神(ヤハウェなる神)が直接的に歴史に介入し、聖書を通してご自身を明らかにされたことによって(神が明らかにされた範囲は)神について知ることができるようになった、と考えます。ちなみにこれを神学では「啓示」と呼びます。

また、神は人が理解できる次元を超えた存在なので、ただ単に自身を明らかにしても人間には理解不能です。そこで、神は自身の本質よりも低次元な「人間が理解できる言語」を用いることを通して人間が神についてある程度理解できるようにしました。ちなみにこれを神学では「擬人言語」と呼びます。

つまり、キリスト教が信じているのは「神が明らかにされた神という存在の一部」といった方が適切かもしれません。もっとも、人間は有限的な存在なので、神が自身の100%を明らかにしたところで人間には理解不能どころか認知不能なわけですから。

この点からするとイエス・キリストは「擬人言語化された神の啓示の完成形」ということができるでしょう。

このように「神がその本質として非知・非経験的な存在であること」と「神が(啓示のための擬人言語として)人格(位格)を持っていること」や「神の子と呼ばれるイエス・キリストの存在」はキリスト教においては矛盾しないと考えられています。
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この回答へのお礼

>このように「神がその本質として非知・非経験的な存在であること」と「神が(啓示のための擬人言語として)人格(位格)を持っていること」や「神の子と呼ばれるイエス・キリストの存在」はキリスト教においては矛盾しないと考えられています。

その啓示はどこでなされていますか?
聖書の中でなされているのでは有りませんか?
その聖書はいったい誰が書いたものですか?
聖書は神が自らの手で書いたのですか?
多くの人の手によって書かれたものではないのですか?
神が真に非知・非経験的なものであるなら、非知・非経験的のままでよいのではありませんか?
また神が真に非知・非経験的なものであるなら、これを人格によって説明することは不可能であり無意味ではありませんか?
ましてやそのために神の子イエス・キリストを持ち出すなど愚かの極まりでは有りませんか?

お礼日時:2022/04/24 05:34

★ (№3お礼欄)


聖書の中で、
神の子イエス・キリストは説明のために登場したのではありません。
神の子イエス・キリストは目的として登場しています。

☆  意味が分からない。

どこからそういう解釈になるのでしょう?

たとえば:
★ 神の子イエス・キリストは目的として登場しています。
☆ としても そのことも・ほかのことも みな説明のための表現手法であるといったことは 成り立ちます。両立します。


イエス・キリストを:
★ 目的として登場
☆ させたという大きく物語手法でしょう。
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この回答へのお礼

>☆  意味が分からない。

あなたの話の中で、「説明のために・・・」とのイツハリが多くあります。
真実は「説明のために・・・」ではなく、それが目的になっているのです。
聖書の中に数多く登場するイエス・キリストの奇跡物語は「説明のために」なされたものではなく、まさにそれ自体が目的になっている。
実際ローマ教会は堂々と奇跡認定ビジネスまでやっていますからね。

お礼日時:2022/04/24 05:44

★ (№1お礼欄)


神を人格化したいのであれば、非知、非経験から始める必要はありません。
人格を備えた超常現象として始めればそれで十分です。

☆ ① 《神を人格化したい》のではありません。説明のために使ったに過ぎない。

②  神は 経験事象であることを超えており 認識の対象としては《非知》であるという基本の定義〔上の説明規定〕を大前提とするからには その《非知、非経験から始める必要》があるのです。そのぎゃくの順序にはならない。


③  《神を人格化したい》のではなく 《非知なる非経験の場ないしチカラ》である神を さらに説明するというとき――つまり よりよく知っていたいからですが―― 擬人化して表現するとよい。・・・このように最初の聖書記者たちは考えたのです。


④ すなわち:

神:非経験の場ないしチカラ
→ 概念による説明: 絶対性・無限
→ 属性: 真理・道・生命;愛;全知全能
→ 説明のための擬人化: 絶対性⇒絶対者⇒創造主
→ さらに説明を工夫すると物語化: 絶対者=創造主という・あたかも人格を持った主体を主人公にした物語にして描いて見せる


⑤ あくまで物語として語ったということであり 非経験のチカラであるからには人間の目に見えず知性も捉え得ないからには 《超常現象》ではあり得ません。超常現象は 〔結果だけについて言うものだとしても〕経験事象です。
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この回答へのお礼

>☆ ① 《神を人格化したい》のではありません。説明のために使ったに過ぎない。

聖書の中で、
神の子イエス・キリストは説明のために登場したのではありません。
神の子イエス・キリストは目的として登場しています。

お礼日時:2022/04/23 22:35

★ なぜ非知、非経験であるはずの神に神の子イエス・キリストがいるのか?


☆ 説明のひとつとして次のように考えます。



☆☆ 【Q:イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。】~~~~~~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11366563.html?msclk …

(あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんそのコイトスをつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言った。――これが ひとつめのウソです。

(い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。
 
(い‐a) つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。

(う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなはずですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言った。

(え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。




(お) 第二のウソは 神は どんな名であろうと みなまとめて ただひとつであると言いました。〔☆ 註:このこと自体はウソではないのですが それを示すために採った手段に ウソっぽいものがあります〕。

(か) それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。

(き) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。

(く) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。



(け) このウソによれば 人びとは 泣こうが笑おうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば――《特異点》を見た思いである―― ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。

(こ) しかも やがては 名の違う神どうしの――または同じ名の神どうしであってもの――ケンカは もう用無しとなるという手筈がととのった。

(こ‐a) みな われがわれに還る。世間と完全に和解することができるらしい。そのために 大嘘をついた。イエスという男。
  
(こ‐b) 宗教のオシヘは――《無い神》という名の神を奉じる無神論なるオシへについても――どうでもよい。のだと。普遍神をさししめした。ィエホシュア。


☆ ご教授ください。
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