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神に祭り上げられた人を、次のように二分します。
①.生前に傑出した業績を残した人 (ここでは業績系と名付けます)
②.霊が恨みを持っており、人々がそれを鎮めようとしていた人。(ここでは、恨み系と名付けます)例として、崇徳上皇・後醍醐天皇・平将門・菅原道真など挙げられます。

ところで、このカテで、最近神に祭り上げられた人を尋ねたところ、5名様から貴重な御回答を頂き感謝します。6神が挙げられましたが、その全部が①の業績系であり、②の恨み系はいませんでした。

質問は、最近は、なぜ恨み系の人が祭り上げられなくなったのでしょうか?
(1.恨みを持った大物はいなくなったのかな
 2、前項の人がいたとしても、人々は神に祭り上げようという気持ちが薄れたのかな)



質問者のみ補足コメントをつける

A 回答 (4件)

そもそも「なんで恨み系の人が祭り上げられたのか?」ということを考える必要があります。



昔は人がたくさん死にました。戦争で数えきれないほど死に、疫病で数えきれないほど死に、飢餓でも死ぬし、ちょっとした病気でも死んだわけです。

でも、そういうたくさんの人々が「恨み系」になって祟るとは言われなかったし、戦争で負けた側の将が祟ったのは平将門ぐらいです。

となると、祟り神になるのは「権力を握っていた人」に限定される、と言えそこに「恨み系を奉ること」のメカニズムがありそうです。

ハッキリと書いてしまうと、なぜ奉るかというと「残党勢力が大きいから」です。
 崇徳天皇は一時権力を握り、その後権力闘争に負けて讃岐国で崩御した後、天変地異が起こるようになります。

で「これは崇徳天皇(上皇)の祟りだ」と言われるようになるわけです。
権力側は何を恐れたのか?

当然ながら、この当時人はたくさん死んでいます。権力者で政治闘争に敗れて無念の死を迎えた人もたくさんいたわけです。でも「なぜ崇徳天皇だけ、祟りと恐れられたのか?」といえば《崇徳天皇を擁護する、または崇徳天皇側で集まっているグループが権力闘争(クーデター)に乗り出すこと》を恐れたのです。

天変地異や大災害が起きた後は、必ず大量の人員を導入して復興を行いますし、治安が一時的に悪化するので武力も投入して監視するわけで、どこの誰かも分からない勢力が武力をもって潜み、一気にクーデターを起こすことも可能になるわけです。

だから、権力を保持してる側は「崇徳上皇の息のかかった連中がまた動くのは困る」と思ったでしょうし、だからこそ「死んだあとちゃんと葬式をしなかったのをちゃんとやって、神社に奉ろう」ということになったと考えるのが自然です。

そう考えれば、平将門が死んでも兵力は残っているし、優秀な跡継ぎが軍隊を率いることも可能だったのでしょうし、菅原道真は元々朝廷側にも「かわいそうだ」と同情している人たちがかなりいた、と言われています。

また道真公は死後30年ほど祟ったとされていて、そもそも「なんで太宰で祭祀したんだ。あれだけ帰りたがったのだから都で奉ってやれよ」という不満が結構あったのでしょう。だから、その不満の雰囲気が「この天変地異は道真公の祟りじゃ、まだ怒っておられる」と判断する理由になったといえます。

というより、そもそも平安時代は天変地異の多い時代で、御所に落雷して人が死ぬのは珍しいとしても「祟りで人が死ぬ」なんて《どうやって祟りとそうではないものを区別するのか?》ということを考える必要があります。

それはつまり「残された人たちの中に、祟りを望む人たちが居て、そういう人たちが政治騒乱を起こしかねなかった」からです。

ちなみに「神社を作って奉りすることで、祟りを防ぐ=残党勢力がトラブルを起こさないようにする」というのは、たぶん出雲大社が最初です。
 
 日本は和の国という価値観があるので、死んできちんと名誉回復したら、それ以上は異議を出さない、という認識が有ったから神社を作ったり、その他の名誉回復の祭りを行うと《祟りが収まった》とされたわけです。

近代になって、祟り神が出ないのは民主政治になったからです。民主政治は政治闘争で死なないし、負けても盛り返すことができます。だから祟る必要はないし、そもそも祟りを起こせないです。

じゃあ「祟る」という認識は日本人から無くなったのか、といえばそうではなく、たとえば「雨男・雨女」などは「人間の質が天候に左右する」という祟りのメカニズムと同じだし、今上天皇の即位式も直前まで雨だったのに、式が始まる数分前に雨があがり虹まで見えたのは「さすが天皇陛下だ」ということになっているわけで、要するに日本人のメンタリティは、これだけ近代化科学万能の時代でも平安時代とそれほど変わらないわけです。

で、最後に「三島由紀夫は祟り神じゃないのか?」です。

上記のようなメカニズムなら、三島由紀夫は祟り神です。だって、死ぬ直前にクーデターを主張し「俺の無念を後に続く者が晴らしてくれ」と割腹自殺しています。

で、神社が作られたのは、三島と共にクーデターを志望していた人たちが「三島は死んだ。ここに神として奉ることで、遺志を封印する」という意識が有ったのだと思います。そうしないと、当時の雰囲気では左翼ゲリラみたいに内ゲバになってしまう可能性も高かったからで、これも祟りであるわけです。

もう一つ、明治以降の祟り神の可能性が高いのが西郷隆盛です。
かれは西南戦争で戦死し、他の兵士たちと一緒に葬られて、今はその場所に南州神社が絶っています。これは土地の人々が隆盛の遺徳を慕ってお参りし結果的に神社が建立されたもので、西郷隆盛個人を奉ってはいませんが、それに近い状態なわけです。

でも、上野に西郷さんの像がありますよね。あれ、どう考えてもおかしいです。

だって、西郷隆盛は時の政府に反抗してクーデターを指導した人物、まだ明治政府の地盤が固まっていないのに政府の方針に反対した人物であるわけで、銅像なんて建てるのはおかしいといえます。

でも、明治22年の憲法発布の大赦で名誉回復し、有志の募金で像を建てられたわけですが、当初は軍服姿の予定が、猛烈な反対をする勢力があって、浴衣で犬と散歩という「和平を楽しむ」姿になったと記録されています。

これも神社ではないですが「奉ることで残党勢力が実力行使しない」というやり方そのものです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
1.恨み系の人が祭り上げられた理由
<「残された人たちの中に、祟りを望む人たちが居て、そういう人たちが政治騒乱を起こしかねなかった」>ので、
<「神社を作って奉りすることで、祟りを防ぐ=残党勢力がトラブルを起こさないようにする」>ですね。
2.最近、恨み系の人が祭り上げられなくなった理由
<民主政治は政治闘争で死なないし、負けても盛り返すことができます。だから祟る必要はない>わけですね。
良く分かりました。

お礼日時:2022/05/28 12:46

神道の考えでは、亡くなった人は神になりますから、自然災害は、怨念や無念で亡くなった人の祟りであると結びつけました。


しかし現代では、自然災害は自然災害であり、怨念や無念で亡くなった人の祟りではないと考えられるからです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
現代では、<怨念や無念で亡くなった人の祟り>とは考えられなくなったのですね。

お礼日時:2022/06/01 12:26

#1です。

回答を投稿してから「ああ、こういう風に回答すればよかった」と思い付いたことがあるので、補足します。

それは「行動の正当性・正統性」というものについてです。

人間の行動、特に集団での行動には「その行動を行う正当性」が必要です。
たとえば、赤穂浪士が吉良に復讐を行ったのは、一般に家来たちが辞世の句を詠んで「私たちの殿様が《吉良を打ち取れず無念》と思っている」と考えたから、だと言われています。(異論もあります)

つまり「家来として殿の無念を晴らすのが忠義」だったわけで、この「殿の無念を晴らす」ということで大石内蔵助を中心に時間をかけて謀議を図っていったわけです。

この時「殿の無念」という意識が無ければ彼らが自害する方向を選ぶ行動はしなかったはず、といえます。

この時、もし浅野家が取りつぶしにならず、内匠頭を赤穂で神社で奉るとか寺で大法要を行うことができたなら、忠義あふれる家来が「殿の無念を晴らそう!」と言っても、必ず「殿はすでに祀られおられる」とか「殿はすでに仏として成仏しておられる」という人たちがでて、討ち入りにつながらなかった可能性も高い、といえるわけです。

なぜなら、当時の日本人の「信心」というのは「死んだらきちんと供養して、供養したら祟らない(化けて出ない)」という前提だったからです。
(そういえば、鬼滅の刃の鬼なんて死そのものが供養ですよね)

逆をいえば、道真公の祟りが30年も続いた、とされるのは、道真公のシンパが、何かあると「そら、まだ道真公はお怒りだ!」といい、それに同調する人たちが30年間しつこく主張し続け、それを「正当なこと」と思う人が当時たくさん居たから、今でも「祟り」と言い伝えられているのです。

つまり「祟り」のメカニズムを紐解くとそこには「生きている人間の意思」があったと考える方が妥当であるといえます。

そしてそのよう「意思」が集まり「集団行動の正当性」になると騒乱が起きるわけで、それを鎮めるために「奉る」という行為で「怨念は消えた=君たちの行動に正当性はなくなった」という解決法を取ったのです。

現代の日本人ももちろん「行動の正当性」を必要としますし、それはもちろん「多くの人の意思」なのですが、それを政治や社会のメカニズムにしてしまったのが「民主主義」です。

だから民主主義の社会では常に多数の人々の意思が社会に反映されるわけで、となると「祟り」という言葉を使って集団を作り出す必要性はなくなります。
だから現代は「祟り」を理由に神社に奉られるような人物は生まれにくいわけです。

でも、偉人を奉ることを日本人はまだしていますし、オウムのような新興宗教は「奉る」ことで集団の正当性を作り出している、ともいえます。

今は民主主義が機能していますので、祟り神は出てこないでしょうが、民主主義が機能不全になったら、また祟り神が復活しても不思議はない、というのが日本人のメンタリティなんだと思います。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうござます。
<当時の日本人の「信心」というのは「死んだらきちんと供養して、供養したら祟らない(化けて出ない)」という前提>なのですね。
現代は<民常に多数の人々の意思が社会に反映されるわけで、となると「祟り」という言葉を使って集団を作り出す必要性はなくな>なるわけですね。
民主主義のいいところですね。

お礼日時:2022/05/29 16:47

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12957340.html
5名様から貴重な御回答を頂き感謝します。6神が挙げられましたというだけのことでしょう。
神道で、死者を神として祀っているような方は、頑固者でも、性格破綻者でも、自死者でも、偉業達成者でも、恨みから凶行に及んで死んでしまった者でも、死んだらもれなく神として祀っているいるでしょう。
ネットで回答を寄せたりしないだけです。
孝明天皇、明治天皇、昭和天皇が、崇徳を神として祀るように指示したのも、恨みを持っていたかどうかとは関係のないこと、祖霊をもれなく祀るためではないでしょうか。 天皇も神道系ですから。
それに、日本で神として祀っているのは、龍、馬、雷、鯰、狐、樹、滝、泉、山、岩、人間、人工物、なんでもありのような状況です。 もちろん、どんな神でも、神を祀っているような人は、現代日本の15~64歳人口 7441万1千人、65歳以上人口3622万7千人の中で、200万人にもならないでしょう。 でも、仮に「神を祀る人」が200万人もいるのならば、どんな対象でも神としてまるられてはいないことを確認するのは無理です。 教えて!gooの回答から推定するのは論外です。
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この回答へのお礼

ご尤も

お礼日時:2022/05/29 16:43

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