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南北朝時代、南朝方の宗良親王が信濃へ移り、香坂氏等の力を借りて北朝方と争ったのですが、最終的には北朝に敗北してしまいました。
このあたりが諸説紛々で、いまいち曖昧なまま理解できません。
いろいろ調べた結果、甲斐国の桔梗ヶ原での戦いに敗れた後、上杉朝房率いる東国軍に攻められたらしいとまで分かりましたが、そのあと宗良親王がどうなったのかが分からないのです。吉野に帰ったとか、信濃で没したとか、いろいろで…。
また小笠原貞宗が守護であるはずなのに、上杉朝房が信濃の守護になったと記載されているものもあって、もう実際にはなにがなんだか分かりません。
詳しいことをご存知の方、また詳しい資料を載せているサイト様をご存知の方、知っておられたら教えてください。お願いいたします。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
この時期は、諸勢力が入り乱れるので本当に理解しにくいですよね。
私は信濃の地方史は詳しくありませんが、概略を述べさせて頂きます。
諸人物の年代を見てみます。
小笠原貞宗(1291~1347)
上杉朝房(?~1371)
宗良親王(1311‐1385?)
宗良親王は、『続史愚抄』などによれば、元中2(1385)年8月に没したと言われています。元中6=康応1(1389) 年以前には確実に没していたようです。
彼らの活躍を見てみます。
建武2(1335)年7月北条時行を擁して諏訪氏を中心とし中先代の乱がを起こります。中先代軍は一時鎌倉を奪いますが,足利軍のまき返しにあい失敗に終わります。信濃では、南北朝内乱への過程で中先代党は南朝方にくみし,守護小笠原貞宗を中心とする小笠原一族,村上氏,高梨氏等は北朝方にくみする構図ができあがります。
その状態で、小笠原貞宗の晩年である興国5=康永3(1344)年ころ,宗良親王が南朝方武士香坂氏の根拠地である伊那郡大河原の地にはいり,同地は東国・北陸道方面の南朝方の中心地となって,南北朝内乱は最盛期をむかえます。正平7=文和1(52)年に宗良親王は征夷大将軍となり,また新田義宗・同義興らに支えられて一時鎌倉を制圧したがまもなく奪回され、越後に落ちます。
その後、親王は越後を撤退して、正平10=文和4(55)年、桔梗ヶ原(信濃国です)の戦で小笠原長基(貞宗の孫)に敗れ信濃国の南朝方は再起不能となり,北朝方の支配が決定的となります。
正平24=応安2(1369)年、鎌倉公方足利氏満の命令を受けた関東管領の犬懸上杉朝房が関東の武士を引き連れて大規模に大河原を攻撃します。上杉朝房が信濃守護に補任されたのは、正平19=貞治3(1364)年だと思いましたので、鎌倉府では信濃支配を期して関東管領を守護とし、大河原攻撃に備えたと思えます。
この時期の守護については、安定していないと思った方がよいでしょう。守護職権の行使との兼ね合いもありますので、ここでは省略します。信濃守護職の変遷については、佐藤進一氏の『室町幕府守護制度の研究(上)』に載っている?と思いましたのでご参照を。
ちなみに、小笠原貞宗・政長・長基・長秀の四代は、信濃守護に補任されているようです。
宗良親王は大河原を守り抜きましたが、北朝方の勢力は止まる事を知らず、文中3=応安7(1374)年、親王は失意の内に信濃国を脱出し吉野に戻りました。天授3=永和3(1377)年、仏門に入り、天授6=康暦2(1380)年、南朝方の君臣の和歌『新葉和歌集』を撰し、和歌をよくして家集に『李花集』があります。その後再び信州に下ったと言われておりますが、詳細は不明です。既に諏訪氏も北朝につき、年齢的な事も考慮すると政治的な下向ではないと考えてよいと思います。
資料については、
http://www12.ocn.ne.jp/~sakumo/siryou.html
の第2資料室では、学術的にこの時代の文献が載っています。
個人的には、『長野県史』の通史編を読むのが、比較的詳細で解りやすいのではないかと思います。また、長野県は『信濃』『伊那路』などの地方史雑誌が多く発刊されていますので、丹念に調べれば、この時期の論文など多く目に出来ると思います。
こんなものでいかがでしょう?長文失礼しました。
とても詳しい説明をしていただき、本当にありがとうございました。どうしてここまで詳細を知っておられるのかと、驚かされました。
信濃国では世代を背負って立つような名のある武人がさほどいませんが、語られなかった歴史もあるのだと改めて思い知らされました。色々とご教授ご鞭撻、ありがとうございました。教えていただいた文献も早速探してみたいと思います。
No.1
- 回答日時:
「井伊谷の歴史」
http://www.geocities.jp/iiyano36/rekibun2.html
地元びいきなのか浜松近辺では「宗良親王は元中二年井伊谷で歿した」といわれ、供養塔もあります。
http://www.genbu.net/data/toutoumi/iinoya_title. …
ただどうも1380年新葉和歌集を撰してからは不明な部分が多く、李花集からその後を類推するしかないようです。
多くの資料でも没年不明となってますね。
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