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南北朝時代の暮らしを知りたいです。
60年間、毎日頃し合ったというイメージがあるのですが短絡的な解釈ですよね?
米ソの冷戦みたいな感じでしょうか?
敵とエンカウントするとバトルスタート!ってなってたんでしょうか?
ところどころで小さな戦いが起こっていた?
北朝で内部分裂が起きて、南朝どころじゃなかったらしいですが。
そうなると戦国時代もどんな暮らし?て思いますね。
戦が起こってない間は、敵の領土に入っても何もなかったんですかね?
何もなかったわけないと思いますが。

A 回答 (5件)

先ほどの回答で


後小松亭だけ誤字有。
後小松帝と直してくださいね。
後はそのままお読みください。
以上。
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南北朝というのは


鎌倉幕府打倒をもくろんだ
後醍醐帝に対して
賊軍になるのを嫌って
鎌倉幕府が始めに光厳帝を立て、
日本に本来、1人しかいない筈の帝が2人いることになって
争い起きた。
幕府倒れた後、
今度は足利尊氏が
賊軍嫌って
光厳帝に院政、光明帝に
天皇なる形で北朝再興。
室町幕府君臨
でも3種の神器の無い天皇として
でしたね。
後醍醐帝の子孫がずっと
神器を独占。
後亀山帝の代に奪って
以後は北朝が独占。
南朝は奪還謀るが、
負け戦で
最後は後南朝潰されて
神器はすべて
北朝に
奪い戻された。
今でも闇南朝あるらしいが、
秘密組織で
どうなっているかは不明ですね。

熊沢・天内・その他、明治に沢山
偽物が名乗りを挙げた。
明治になって光厳帝~後円融帝までは
歴代から外された。
後小松亭を切れが
いいとか言って
ちょうど
100番目の帝になるように
代数を調節して
はみ出し帝は、
闇に消えたね。
本当はもっと
多いと思っています。

今の今上帝は
北朝で
南朝から奪った
3種の神器で継続していますね。
でも、北朝でも
帝は帝。
失くしてはいけません。
亡くなると
日本は終わりです。
国王と同じです。
日本という国号自体、
意味をなさないことに成るに
気が付く人減りましたね。
悠仁親王さんは
大丈夫かなあ。

南北朝から
応仁・文明の大乱で
京都は焼け野原になった。
応仁・文明の大乱時の
最後の南朝帝の
西陣南帝は
誰だか今以って
謎の儘ですね。
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なんで南北朝時代は長引いて全国規模の戦乱になったのかと言えば、近隣武士同士の土地を巡る争いからです。

それまでは鎌倉幕府が一元的に問注所でさばいていたので、敗訴した側は受け入れるしかありませんでしたが、敗訴した側は勝訴側とは別陣営に駆け込んで土地に対する権利を認めてもらうようになったのです。
こうして全国的に武家方と宮方に分かれて近隣同士で争ったのです。
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戦国時代に日本を訪れた宣教師が、日本は平和な国だと記録を残しているのだから、西欧基準で云えば、日常的な意味での個人同士や組織同士の殺し合いが少なかったのでしょう。


一揆にしても、農民が農機具を手に取って武士と合戦するのではなく、農民が団結して領主と交渉する感じの平和なモノが大半だったらしいですからね。

おそらく南北朝時代も同じだったのではないかと思われます。ただ、南北朝時代が戦国時代と決定的に違う点もありました。
①天皇が2人いてお互いに相手の存在を認めることが出来なかった点。
②奥州から九州まで日本全国の武士が、長距離を移動しながら激しく戦っていたことが多く、日本史上初めて全く知らない未知の土地で全く知らない者同士が戦うことが多かった点。知っている者同士の戦いは遠慮もありますが、知らない者同士では方言が違うので言葉も通じにくいため、遠慮がないのでマジで殺し合いになりやすい。

以上から、戦国時代よりは激しい戦いも多かったのではないかとは思います。
しかし、それでも西欧基準よりは残虐性が高い戦いにはならなかったのではないかと思います。
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南北朝時代の日常としては、北条早雲の大河マンガ「新九郎、奔る!」を読んで見ればいいかと。


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