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イエス・キリストの亡くなった日は何年の何月何日でしょうか?
処刑された日のことです。
13日の金曜日であったのは作り話だという話を聞きましたが。

よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

聖書『ネヘミヤ記』第二章1節に「アルタシャスタ王の第二十年、ニサンの月」と書かれておりますがはっきりはせず、処刑されたのは、西暦30年4月7日金曜日と推定されています。

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キリストの死亡日については実は確定的なことがわかっていませんが、新約聖書の記述を見る限り、過越しの祭りの準備の日だということがわかっています。

これは、春分の日の翌日で、しかも満月の日に設定されており、曜日を考えると、二つの可能性があります。一つが、No1の方の挙げた、AD30年、4月7日。もう一つがAD33年4月3日です。この二つで決着はついていませんが、現在、どちらかというとAD33年の説が優勢になりつつあるようです。というのは、ルカによる福音書には、キリストが処刑された日の、昼から3時ごろまで全地が暗くなったという記述があります。これが、地中海地方全体にみられた実在の天文現象であることが、古代文献の記述からわかってきたからです。これが起こったのがAD33年なのです。
また、蛇足ですが、ダニエル書の預言を正確に計算すると、キリストはAD32年以後も生きていることが暗示されるので、この点からもAD33年説が整合性があります。(もっとも、ダニエル書の件は、預言の神秘性を信じない人にはただのオカルトです。)
ただ、AD33年説をとると、キリストの死亡年齢や、宣教期間が、伝えられた期間より長くなってしまうので、そこの部分の整合性はわかっていません。いずれにせよ、決着はついていないというのが現状です。
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聖書には他に「過ぎ越の祭りの日(無酵母パンの日)」の日が描写されており、当時の暦で「ニサンの月の第13日」という事だそうです。

ただ当時の暦の「第13日」というのと現代の13日とでは全然意味が違うというのは記憶しておいて良いと思います(現代の元旦と旧暦の正月のように)。そう云う事を計算するとNo.1の方のお答えになるのだと思います。
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Q12月13日はキリストの命日!?

親から12月13日はイエスキリストの命日と教えられたのですが、これって本当でしょうか?確か25日がクリスマスで、クリスマスはキリストの復活祭ということは覚えているのですが...。誰か教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

ちょっと違うと思います。
12月ではなく、13日の金曜日にイエス・キリストが磔刑につけられたので、13日の金曜日は忌みの日とされ、キリスト教では13という数字も嫌います。

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qイエスの生涯について・・・

『イエスの生涯』についてレポート用紙1枚にまとめるように言われたのですが、はっきり言って1枚にうまくまとまりません。入れなければならない重要な事柄ってなんですか?

Aベストアンサー

 
レポート1枚が、どれぐらいの長さか分かりませんが、次のような風に書けばよいでしょう。

1)誕生

イエスは、乙女マリアから生まれた。父は名義上ヨセフであるが、本当の父は「聖霊」である。天使ガブリエルが、マリアに処女受胎を告知して、イエスが、偉大な人になると告げた。

2)公生涯の始まり-洗礼と試練

イエスは成長し、悩みを持った。彼は、神への悔い改めを語っていた、洗礼者ヨハネの弟子となり、ヨハネから洗礼を授かった。その時、天からの声を聞き、イエスは自分が「神の子」であることを知った。

イエスにはなお迷いがあった。彼は荒野にでかけ、さまよいつつ考えた。悪魔が現れ、わたしを拝みなさい、あなたを地上の王にしてあげよう等誘惑したが、イエスはそれを退け、40日の荒野での試練で、自分の使命を自覚した。

3)宣教の開始

イエスは、「悔い改めよ、ときは訪れた」と述べて、神の審判の日が近いことを宣言すると共に、悔い改めるにはどうすればよいかを教えた。

イエスの教えに納得する人が現れ、イエスは、病人などを癒した。人々は奇跡の人とイエスを信じ、その噂は広まった。イエスには、また弟子ができた。

イエスは、奇跡を起こしつつ、弟子たち、信者たちに、様様な教えを、たとえばなしによって語った。イエスの信者たちは増えて行った。彼らは、イエスこそ、救世主(メシア)ではないかと信じた。

4)パリサイ派の妨害

イエスは、人間の平等を語り、律法は人のためにあるのだと教えた。イエスの信者は、社会の底辺の人々が多かった。

パリサイ派は、ユダヤ教の敬虔な信者でエリートであったが、イエスについて反感を抱いた。賤しい人と親しく交わるイエスはいかがわしいと彼らは考えた。また、律法を破るイエスの行為を非難し、イエスに難問を出したが、イエスは、それに対し素晴らしい回答をしたので、パリサイ派もかなわなかった。

5)イエスをメシアとする人々の期待

イエスは、人々からメシア(救世主)であるといよいよ信じられた。メシアは、ユダヤ人の王国を築き、かつてのユダヤ人の栄光を再現し、ローマからの政治的独立を実現する人だと人々が信じていた。

ローマからの独立運動を考える人たちが、イエスに接近し、信者となり、イエスに政治手的な救世主を期待した。

パリサイ派は、自分たちが侮辱されたと考えていた。イエスを打ち破らなければならないと彼らは考えた。

6)イエスのエルサレム入城・陰謀・最後の晩餐

イエスは、陰謀のあるのを承知で、エルサレムに入城する。人々は、熱狂し、メシアがユダヤの独立を実現するのだと信じ期待した。

パリサイ派はイエスを排除するため、ユダヤの支配階級であるサドカイ派と共謀し、イエスをわなにかける計画を立てた。彼らは、イエスの弟子ユダを銀で買収し、イエスを裏切らせることとした。

イエスは、陰謀を知っており、自分の運命を知り、弟子たちに、自分の死後の教えや布教を語り、最後の晩餐を弟子たちと共にする。イエスはその後、ゲッセマネの苑に行き、神に祈る。

7)イエスの逮捕と裁判

イエスが神への祈りを終えると共にユダが現れ、イエスは逮捕される。サドカイ派の大祭司はイエスを尋問するが、イエスは何も答えない。

イエスを死刑にしようと考えていた敵対者たちは、イエスをローマ総督ピラトの元に連れて行く、ピラトは、ローマに対する反逆者とは思えないと判断するが、サドカイ派の圧力に屈し、イエスに死刑判決をくだす。

8)イエスの死

人々は、イエスの弟子たちも、イエスに失望し、あるいは恐怖でイエスを裏切り、イエスから去り遠ざかる。イエスは十字架を自分で背負い、ゴルゴタの丘に至り、そこで、十字架にかけられる。

イエスは、「神よ、神よ、なぜわたしを見捨てられるのか?」と言い、そして死んだ。イエスの死後、奇跡が起こり、ローマの百人隊長は、「この人は、本当に神の子だった」と言った。

9)イエスの復活

イエスの遺体は、信者に引き渡され、洞窟に一時的に葬られた。しかし、三日後、信者の女たちが、見に行くと、イエスの遺体はなくなっていた。

その後、イエスは小数の弟子たちの前に姿を現し、わたしは亡霊ではない、生きたイエスであると述べた。弟子たちは信じ、イエスはその後、天へと昇って行った。

以上の9項目でしょう。長い場合は、短く書き、短い場合は、長く書けばよいでしょう。
 

 
レポート1枚が、どれぐらいの長さか分かりませんが、次のような風に書けばよいでしょう。

1)誕生

イエスは、乙女マリアから生まれた。父は名義上ヨセフであるが、本当の父は「聖霊」である。天使ガブリエルが、マリアに処女受胎を告知して、イエスが、偉大な人になると告げた。

2)公生涯の始まり-洗礼と試練

イエスは成長し、悩みを持った。彼は、神への悔い改めを語っていた、洗礼者ヨハネの弟子となり、ヨハネから洗礼を授かった。その時、天からの声を聞き、イエスは自分が「神の子」で...続きを読む

Q西暦はイエス・キリストの生まれた年を0年(基準)としていると聞くのですが、実際は

西暦はイエス・キリストの生まれた年を0年(基準)としていると聞くのですが、実際は
紀元前4年頃 に生まれたそうです。 なぜ違っているのでしょうか?

Aベストアンサー

暦の最初ほど現代に意味のないものはないんですよ。

まず現在のグレゴリオ暦は1582年に制定され、それ以前のユリウス歴はシーザーが紀元前45年に制定しました。この間にキリストが生まれた訳で、暦が先にあるのです。

そしてユリウス歴が間違ってずれるからグレゴリオ暦に改良されたので、ずれます。
wikiによると
>1900年3月1日から2100年2月28日までのユリウス暦とグレゴリオ暦のずれは13日となる。
だそうで、大幅にずれます。

西暦紀元を0年から始めずに1年からはじめてしまった。
前年は紀元前1年ですから、1年空白ができます。

さらに年齢は、満年齢と数え年があって、0歳と1歳からはじまる。

西暦をカウントしはじめたのが6世紀。当時のローマ歴を遡って聖書に忠実にカウントして歴史考証をしなかったのです。
で、1000年もたったグレゴリオ暦の計算を始めた頃に、本当は紀元前4年から7年頃じゃね?と気づいたんですが、教会の記録を新たに全部書き直すのは無理なので、キリストの生まれた年よりも残っている記録のほうが大事なのでそのままになりました。

暦の最初ほど現代に意味のないものはないんですよ。

まず現在のグレゴリオ暦は1582年に制定され、それ以前のユリウス歴はシーザーが紀元前45年に制定しました。この間にキリストが生まれた訳で、暦が先にあるのです。

そしてユリウス歴が間違ってずれるからグレゴリオ暦に改良されたので、ずれます。
wikiによると
>1900年3月1日から2100年2月28日までのユリウス暦とグレゴリオ暦のずれは13日となる。
だそうで、大幅にずれます。

西暦紀元を0年から始めずに1年からはじめてしまった。
前年は紀元前...続きを読む

Q聖書はいつできたのでしょうか?

聖書が書かれた時期について教えてください。

質問1:旧約聖書は、いつ頃からいつ頃までの間に書かれたのでしょうか?

質問2:新約聖書は、いつ頃からいつ頃までの間に書かれたのでしょうか?

Aベストアンサー

旧約についてはよく知りませんので、
質問2について。
原本は1~2世紀だといわれています。いろんな説があるのですが福音書で最も早いのがマルコ福音書。40年代末~70年までの間なのですが(下限は確実)それ以上確実な証拠は特になく(心情的にはともかく、確定できないので)このあたり、としか言えないようです。
パウロの書簡のうち真作のものが50~60年。これとマルコとどちらが早いかが神学的には重要らしいですが特に証拠はありません。どちらが先でもおかしくないです。(少々別の流れだったような形跡があるので)
他の福音書がマルコより後なのは確かで、大体70~90年あたりか?
その他の文書もいろいろな時期ですが遅くとも2世紀のうちには書かれていたようです。
ただし注意するとこの時期、新約聖書なる文書は存在しません。
別々の人によって書かれた内容的にもばらばらの文書があり、また教会・地域によってはこれらの文書のうちいくつかは認めない、逆にこれら以外の文書を認める、といった状態が続き徐々に整理され、結局27の文書をひとつのものとして、正典ということにしたのは4世紀ごろ、アタナシウスあたりから、ということになります。(文書で確認できる限り)
その後写本の段階でも修正されたりして、印刷の時代まで書かれ続ける、ともいえるのですがとりあえず元の文書は1~2世紀ということです。

旧約についてはよく知りませんので、
質問2について。
原本は1~2世紀だといわれています。いろんな説があるのですが福音書で最も早いのがマルコ福音書。40年代末~70年までの間なのですが(下限は確実)それ以上確実な証拠は特になく(心情的にはともかく、確定できないので)このあたり、としか言えないようです。
パウロの書簡のうち真作のものが50~60年。これとマルコとどちらが早いかが神学的には重要らしいですが特に証拠はありません。どちらが先でもおかしくないです。(少々別の流れだったような形...続きを読む

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Qイスラエル人ってユダヤ人なの?

タイトルのとおりです。中東問題の番組をみてて気が付いたんですが、イスラエル国民について教えて下さい。

1.イスラエル国民=全員ユダヤ人ですか。
2.人種的には白人ですか、アラブ系ですか、基本的に。
3.宗教的には全員ユダヤ教の信者ですか。 イスラム教や仏教を信仰するイスラエル人っているんでしょうか。
4.ユダヤ人のために建国した国がどうしてユダヤって言葉を国名に使用しなかったでしょうか。
5.パレスチナ人って全員イスラム信者でしょうか。
6.よくパレスチナ難民っていいますが、彼らのパスポート発行はどこが行なっているんでしょうか。
7.パレスチナ人は、例えば漢民族とかクルド族とか一緒で、民族性でいえば全員同じ民族なんでしょうか。

HPをみても難しいので、簡単にご回答願えれば幸いです。

Aベストアンサー

一般に、民族とは文化的背景、特に言語を共有する集団を指します。共通の言語は共通の生活領域を前提とすることが多いので、結果的に、民族は同一人種から構成されることになります。しかし、ユダヤ人は例外です。
ユダヤ人は2000年前に国家を失ってから世界各地に離散していたので、言語や肌の色に共通点はありません。ユダヤ人とは、原則的には「ユダヤ教徒」からなる宗教的集団なのです。
※それでは「ユダヤ教徒」とは何かということが問題になりますが、複雑過ぎてここでは深入りできませんので、ユダヤ教徒を自認する集団でも、その奉ずる教義によってはイスラエル当局からスンナリとイスラエル国籍を付与されない場合があることだけを指摘しておきます。イスラエル当局のいう「ユダヤ教」とは、端的にいえば、神殿時代(以降)のユダヤ教を指しています。

現在、イスラエルは、ユダヤ教徒およびユダヤ人の母親から生まれた子供をユダヤ人と認め、国籍を付与しています。後者がユダヤ人とされる理由は、ユダヤ人女性は自分が生んだ子供をユダヤ教徒として養育する宗教的義務を負っていることにあります。よって、日本人も、ユダヤ教に改宗すればユダヤ人になることができます(教義や歴史に関する難しい試験や、宗教指導者による面接などがありますが)。

イスラエルには、ユダヤ人=ユダヤ教徒以外にも、キリスト教徒やイスラム教徒である国民が存在します。なぜなら、現在イスラエルの領土となっている土地には、古くからユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混住していたからです。しかし、現在では、ユダヤ人=ユダヤ教徒が圧倒的多数を占めていることは確かです。

人種構成はさまざまです。ユダヤ人=白人というイメージとは裏腹に、アフリカ系(黒人)やアジア系(黄色人種)のユダヤ人も存在します。なお、言語についても、公用語であるヘブライ語を解さず、出身地の言語しか話せないユダヤ人も多数存在します(特に、旧ソ連崩壊後に入国したロシア系ユダヤ人)。

イスラエルという国号についてはすでに回答されています。宗教的な意味のある国号です。

パレスチナ人とは、パレスチナ地方の住民を指す言葉です。すでに指摘したとおり、パレスチナ地方にはもともとユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混住していました。民族的には、アラブ人(アラビア語)、ユダヤ人(アラビア語・ヘブライ語)及びキリスト教系少数民族が存在しました。しかし、ユダヤ教徒であるパレスチナ人はイスラエルに迎え入れられたので、現在のパレスチナ人は多数のアラブ人とキリスト教系少数民族からなっています。

パレスチナ地方は、その大部分がイスラエルに、一部がヨルダンに併合させました。ヨルダンが併合したのは、ヨルダン川東岸といわれる地域です。この地域に住んでいたパレスチナ人は、幸か不幸か、ヨルダン人としてヨルダンの旅券を所持することができます。

参考URL:http://homepage.mac.com/ceramic_tsuka/rekisipage.html

一般に、民族とは文化的背景、特に言語を共有する集団を指します。共通の言語は共通の生活領域を前提とすることが多いので、結果的に、民族は同一人種から構成されることになります。しかし、ユダヤ人は例外です。
ユダヤ人は2000年前に国家を失ってから世界各地に離散していたので、言語や肌の色に共通点はありません。ユダヤ人とは、原則的には「ユダヤ教徒」からなる宗教的集団なのです。
※それでは「ユダヤ教徒」とは何かということが問題になりますが、複雑過ぎてここでは深入りできませんので、ユダヤ教徒...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)


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