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20歳男です 何故人間はいろんな物事を自分に都合よく解釈してしまうのですか?都合の悪い現実を知って心が傷つかない為ですか?
最近気づいた自分の例だと、学生の頃いわゆるリア充や体育会系でやんちゃな人達を心の中で見下していた。なぜなら彼らは日々を適当に生きていて、堕落していると思い込んでいた。そしてその仲間に入ってない自分をまともな人間だと思っていた。でも彼らは毎日を楽しんで生きて、人間力も高かった。コミュニケーション能力も高く、社会に順応する準備が出来ていた。人間として彼らの方が魅力的だった。今になって考えたらそれを認めたくなかったので自分の方がまともだと思い込みたかったんだと気づいた 
と言う事がありました

A 回答 (5件)

「人間はいろんな物事を自分に都合よく解釈してしまう」。


これは正しい。

しかし、それ以降の観方は、おそらくですが、論理が逆ではないかと思われます。
多分、やんちゃな人達を心の中で見下していた時は、本当に見下していたのでしょう。
しかし、その間違いに気が付いた。そのときにご質問者は自分の愚かさを認めたくなかったので、「本当は最初からそのことに気付いていた」というように記憶を書き換えたのではないかと思われます。

とはいえ、もちろん、ご質問者のいうほうが少なくとも半分は正しいということもあります。
その場合は、心の中では、やんちゃな人々を見下しつつも、彼らをうらやむ心もあったということになります。
今になって、見下す心よりも、うらやむ心の方が正しかったと判断できるようになったということでしょうか。

日常的には、人は見たいものだけ見て、聞きたいことだけを聞く。そういう動物です。見たくないことや耳に痛い言葉はスルーしてしまいがちです。人は安易に流されることを好み、面倒は避けたいと思ってしまうからです。

しかし、ご質問者は、いずれにしても見たくない現実や聞きたくない現実を直視できたわけです。立派だと思います。

とはいえ、問題はこれからです。
気付いた現実を再びスルーしてしまうのか。それとも直視し続けて問題解決の道を模索するのか。

ご検討を祈ります。
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自分の思うがままに生きなされ。


 自分よりも劣っていると思う奴がいれば、ソイツからすれば、貴方の方が劣っていると思われてる訳で、お互い様なのさ。
 それを認めたら負けだわ。
 信じない。俺は認めない。
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> 人間はいろんな物事を自分に都合よく解釈してしまうのですか?



「何故」をカットして、上の文を作ってみました。
マイナス思考とかネガティブ思考、私がダメなんだという思考も、結構あるようです。 そうなると、《いろんな物事を自分に都合よく解釈してしまうこともするし、いろんな物事を自分が悪いと解釈してしまう不都合の原因を自分に求めることもするし》ということでしょう。 
それに、自分に都合よくも、自分を不都合にも考えず、比較的客観的・第三者的に眺め、他の先行理論や意見などを参考にしつつ考えるということも、結構多いと思います。

「A:リア充や体育会系でやんちゃな人達を心の中で見下していた」、「B:授業で勉強・試験で高成績・いろいろの資格取得にだけ不乱」、「C:夢想・空想・小説文学に浸りきる」、「D:起業・投資・金儲け・人脈探しに生きてる」、「E:友人やネット情報・ユーチューブの動きつれて盛り上がり重視のインフルエンサー&フォロアー」 まあE人が多いのでしょうが、とにかく、いろいろの人がいるモノで、「人って、~~~なんだ」と言えるほどのことはないです。


忸怩、慙愧、後悔というのは、結構多いです。 焼き肉じゃなくて、麺類にしておけばよかった、あのとき勝負をかければよかった、やっぱ攻めてばかりじゃなくて守りもしなくちゃ、あんとき告白しておけば、なんで遊んでしまったんだ宿題しておけば、、、、
人間でも、犬猫でも、時間は一方向に一度だけしか流れないので、やるやらない、どれをやる、どれをやらない、どの程度やる、どの程度で抑えるも、一つしかできないです。 
で、たまたま、犬猫に比べて、記憶力、エピソード記憶の想起力が高くて、しかも、仮定形で思考したり、空想を巡らす能力を豊富に持っている人間は、ヒマになったりすると、その余裕の中で、過去に遡って違う選択をした場合を思い浮かべやすいのです。
試合中や戦闘中でも、ちょっと時間があると、「あんときアアじゃなく、コウしてれば」のようなことを思う人も出てくるのです。
そういうのを妄念とか雑念とかいうことも多いです。今試合中、今戦闘中なのですから、そんな妄念・雑念は追い払って、今・次にパワーを注ぐべきでしょう。 後悔先に立たず、覆水盆に返らずなど、余計なことを思ってないで、せっかくの脳力(?)は、今・次の手を考えるべきでしょう。 
忸怩、慙愧、後悔は、ヒマで、リラックスして空想でも楽しみたいような気分のときにやるのが正解です。


> 今になって考えたらそれを認めたくなかったので自分の方がまともだと思い込みたかったんだと気づいた と言う事がありました

気づき間違え、考え違い、推定のミスです。
『それを認めたくなかった』って部分を、当時に戻って、どう思い、感じていたのか、さらに探って見るといいでしょう。
心理学に、防衛機制 defense mechanism という用語があります。
防衛機制にも色々ありますが、今回の場合でいえば、反動形成、あるいは昇華、その混在のようなものが近いと言えば近いのでしょうが、『堕落している・見下すべき行為態度である』と感じていたのが当時の実感であるのなら、当時の価値観・ゾレン・当為がそれをなしたか、あるいは方法評価が妥当ではないと見なしたのであって、反動形成や昇華などの防衛機制ではないです。
当時も今も、《社会に順応する・社会的成功》を重要視していた場合、社会に順応する・社会で成功者の道を進むには、学歴、学校での成績、勉強こそ大事だという評価表を使っていれば、まともな攻略法は勉強に専念のような視点になってしまい、リア充や体育会系でやんちゃなは《サボリ・怠惰》で愚かな行為でしかないです。 社会に順応する・社会で成功者の道を進むには、《人間社会でのネット構成力、情報能力、リーダ性、人心把握力、コミュ力、説得力、カリスマ性、市場動向見極め力・利害判断力、情報収集力、冷静さ、知識活用力、自分の社会的信用や知名度・経歴・地位学歴である》という評価表を使っていれば、まともな攻略法にとっては、(授業に真面目にでて、高成績を取ること)は3番目くらいの優先度になっていたでしょう。
今も、《社会に順応する・社会的成功》を重要視するのを継続するのであれば、大学時代のことをうじうじ思っているのは、ダメの見本例に挙げられるくらいのことだとわかるでしょう。 今の自分の環境で、何をするのが社会的成功により強く関わるか、自分でとりうる戦略・戦術・手法を考えた場合に、なにをすべきかを考え、方針が決まったら、懸命にやることです。 方法を思い悩んでうじうじしても、何もできず、時間が過ぎ、落後していくばかりです。
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人間の性質としては、都合よく解釈するというのはないと思います。



なぜなら、もしそうなら、生涯を通して都合の悪いことは認めないはずで、結果都合の悪いことというのは存在しなくなりますから。

なのにあなたは認めています。

認めることは自己成長の第一歩だと思います。
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コンプレックスや自分の認めたくないところを人は無意識に避けてしまうような気がします。



一面だけで判断するのではなく、自分なりに噛み砕いて理解をするということが大事のではないかなと思います。
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