こんにちは。お世話になります。

デカルトは方法的懐疑により「全ては夢である可能性」を疑ったとのことですが、デカルトは「全ては夢である可能性」を、どのような手法により乗り越えたのでしょうか。

「明晰かつ判明なものは確実に存在する」
「誠実な神が私を騙す訳がない」
「コギト・エルゴ・スム」
等までは理解できるのですが、これらの論拠から「夢説」を乗り越えるに至る過程が理解できません。

宜しくお願い致します。

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A 回答 (10件)

デカルトは最初にあらゆるものを疑います。


「考えている自分」も疑ってみる。
夢のなかで考えているんじゃないか、と。
この部分、『省察』にはこんなふうに出てきます。

わたしたちが目覚めているときに持つ思考は、すべて夢のなかでも現れうる。その夢のなかの思考は真であるとはいえない。
けれども、夢のなかでの感覚が偽であるとしても、感覚をもたらすわたしたちの身体は確かに存在しているではないか。
画家が想像力にまかせて頭のなかに絵を描いたとする。
確かにその絵はほんとうには存在しない。それでも彼が使用した「色」だけは現実のものでなければならない。
それと同じように「考えているわたし」がたとえ夢のなかの存在であったとしても、「そう考えているわたし」は確かに存在している。
だからやはり「考える」ということにおいて、わたしは存在しているのだ。
と、デカルトの論理の流れはこうなっていきます。

『方法序説』ではこの部分、すっ飛んでるから、ちょっと「え?」という感じがすると思うのですが、『省察』には上記のようになっています。

ここはすごくおもしろいところです。
デカルトは最初、あきらかに存在論(わたしがある、ということは、どういうことなのか)として、もんだいを立てている。
けれども、いつのまにか認識論(わたしが考える、ということは、どういうことなのか)にもんだいは移ってるんです。
事実、デカルト以降、近世の哲学は存在論から認識論に移っていくんですね。

回答はここまで。あとはちょっと余談です。

ところで「夢」、なんでここで出てくるか、ちょっと不思議な気がしません?
わたしはしたんです。その昔、『方法序説』を初めて読んだときに、夢なんて話がいきなり出てくるのがすごく奇妙な気がした。
で、家にあったブリタニカを調べてみたんです(家にあったのはカナーリ昔の版なんで、いまのは変わってるかもしれない)。
そしたらこんなことが書いてあった(細かい記憶は全然なくて、日付や地名はこの文章を書くために確認をとってあります)。

デカルトは1619年、ドイツのウルムというところに宿泊してたんです。デカルトが23歳のときです。そのころデカルトは「自然を数量化すること」について、思索を重ねながら、数学の勉強をしていた。11月10日、昼間から霊感にとらわれていたデカルトは、夜、寝てから、三つの夢を見たという。
これで、自分が数学者・哲学者になる、という啓示を得た。

へえー、夢でお告げかぁ、と思って、このことはずっと記憶に残ってました。
ご質問をきっかけに、その夢の中味が気になって、ちょっと調べてみました。
原文は英語なんですが
http://www.urantiabook.org/archive/science/binio …
ここのなかに夢の内容が詳しく出てきます。

ひとつは、突風に煽られて教会と、風にまったく影響を受けていないような人々のほうに押しやられる、という怖ろしい夢。
ふたつめは、落雷のような大きな音が聞こえて、たくさんの火花を部屋の中に見た夢。
みっつめは、非常に心地の良い夢で、自分が一冊の「辞書」と紙の束を持っている。そのひとつは詩で「人生ではどのような道に従ったら良いだろうか?」ということばで始まっていた。見知らぬ男が詩の断片を渡してくれる。それには「然りと否」と書いてあった。

デカルトはこの夢を解釈して、「辞書」というのは、雑多な知識を意味する。自分がその知識というものを改革し、科学のもとに統合するよう運命づけられている、と思うようになるんです。

ここらへんはデカルトの夢問題として、いろいろ研究されてるみたいですが、ともかく、デカルトはこの夢を「啓示」ととらえるんです。
啓示というのは、デカルトも学んだスコラ学にとっては、「神の直接の教え」として大変重く受けとめられるものだったようです。
デカルトにとって、夢というのは、自分の出発点をなす重要なものだったんですね。

ところでデカルトが始祖とされるこの合理主義によって、のちに宗教の根本原理はだれにとっても自明のものであるから「啓示」というものは必要ないと見なされるようになっていきます。

こんなところを見ても、みずからは前の時代に属しながら、新しい時代への転換の礎石を築いたデカルトという哲学者の存在のおもしろさがよくわかりますね。

参考URL:http://www.urantiabook.org/archive/science/binio …

この回答への補足

デカルトには限らず、「この世界は夢ではない」ことを証明した人は居るのでしょうか? ご存知でしたら教えて頂けないでしょうか。宜しくお願い致します。

補足日時:2005/04/08 01:06
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

前回の質問ではお世話になりました。

デカルトは「この世界は夢ではない」ことを証明した訳ではないのですね。

お蔭様で「我思う、故に我あり」と「夢説」とをリンクさせることができました。

URLもありがとうございました。デカルトは10歳から研究を始めていたのですね。10歳から研究とは・・・ 10歳の頃、カブトムシを捕まえることにばかり熱中していた私には想像がつかない話です・・・

お礼日時:2005/04/07 23:23

#6、#13です。


夢についてもうひとつだけ。

デカルトのコギトには、やはり独我論に通じていく問題があります。
というのも、あらゆる存在の根底に「考えるわたし」を想定してしまったからです。
「自己」だけが確かなもの、という独我論は、どうしてもでてきます。

この独我論をつきつめて考えた人にウィトゲンシュタインがいます。
この人の独我論に対する考え方は、前期と後期では多少ちがうのですが、ここでは後期のウィトゲンシュタインの考えを、簡単に紹介することで、「世界が夢かどうか」は、実はそれほど大きなもんだいではないのだ、ということを書いてみたいと思います。

この世界も他者もすべてが「わたし」の意識の像にすぎない、というのが独我論です。
「わたし」が死んでしまうとする。世界はどうなるのか。
少なくとも「わたし」にとって、世界はもはや意味をもたない。
世界は「わたし」が存在する限りにおいて、存在する。

ところがこの独我論には、決定的な矛盾があります。
「この世界にはわたししかいない」とことばに出して言う。
それは、あくまで、聞き手の存在を前提としている、ということです。
「この世界に確実に存在するのは自分だけだ」と語ることは、他者に「わたし」の意志を伝達する行為なんです。つまり、独我論は、「語る」ことによって、誤ったものになるのです。
こうやって、ウィトゲンシュタインは、独我論を乗り越えていく筋道を示します(ここから先は、以前紹介した中山さんの本を読んでみてください)。

わたしが見ている世界と、あなたが見ている世界がちがっていても、実はたいした問題ではないのです。

今日わたしは帰りがけにオレンジを買ってきました。
わたしは、オレンジはオレンジ色だと思っています。
あなたも、オレンジ色だと思っていますね。
けれども、もしかしたら、わたしは緑色を「オレンジ色」と言っているのかもしれないんです。
わたしの目には、オレンジが緑色に映っているのかもしれません。けれどもわたしは、わたしの目に映るその色を「オレンジ」と呼んでいますから、だれにもわからないのです。

それでも問題は起きません。
それはわたしたちが言語という共通の基盤を通じて意志を伝達できるからです。

ここからはわたしの結論です。異論があるかもしれませんが(笑)。

この世界は、もしかしたらだれかの夢の世界なのかもしれません。
そのだれかが目を覚ますと、終わってしまう夢の世界なのかも。
けれども、たとえそれが夢だとしても、この世界のなかで生きる「わたし」とわたしではない「他者」が、言語を用いて意志を伝達できているわけですから、夢であるかどうかはたいした問題ではない、と思います。
たとえそのだれかが目が覚めて、終わったとしても、そのときに困る「わたし」はもはや存在していません。

そう考えてみると、世界が夢であろうがなかろうが、わたしにはたいしたもんだいではないように思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ウィトゲンシュタインは、そのような方法で乗り越えようとしたのですね。

この世界が何であれ、この世界で生きていることには変わりませんよね。

お礼日時:2005/04/14 14:25

どういうふうに回答したらいいか、ずいぶん悩んだんですが。



まず、「わたしのいる世界」と、「わたしの夢の世界」を考えてみましょう。
絵がかければ一番良いんだけど、書けないから想像してください。

「世界のなかにいるわたしが、夢を見る」
この場合は「世界」という一番大きな枠がある。
つぎに「わたし」がそのなかに入れ子のようにすっぽりと入る。
さらに、「わたしの夢の世界」は「わたし」の入れ子のなかに入ります。
そういう構造になっている。

そのとき、「わたしの夢の世界」は、「わたし」のなかに組み込まれていますから、「わたし」から離れて、単独には存在しません。
「わたし」が、目が醒めれば、その「わたしの夢の世界」は消滅します。

ところが、問題なのは、一番外側の「世界」です。
これがだれかの夢だと仮定する。
入れ子の「わたし」も「わたしの夢」も含めて、世界全体がだれかの夢、と仮定するんです。
それは「わたし」と同じような誰かなのだろうか。
それとも、まったくほかの、たとえばエイリアンの夢なのかもしれない。
もし、そのエイリアンが夢からさめてしまえば、「わたし」はもちろん、この世界そのもの、こうしたもんだいそのものが消滅してしまうんです。
そして、それが誰かの(もちろんその誰か、はわたしかもしれませんが)夢でない、ということは、どうやったって説明できない。
だって、「わたし」の知らないことがこの「世界」でおきる、つまりその「できごと」は「わたし」から独立してはいますが、「世界」のなかに含まれています。それをすっぽり入れ子のように包む何者かがいない、ということは証明できないんです。

ここまでいくと、SFみたいになってしまうんだけど。
どうかしら。納得がいきましたか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お世話になっております。

まず、前回の質問「(前略)主体の知識に無いものを、客体が知識として持っていると言うことは、『私の居る世界は夢ではない』ことの証明にはならないのでしょうか?」についてですが、その後、「この理論では『私の居る世界は夢ではない』ことを証明できない」ことを理解できました。

次に、今回のご回答についてですが、色々と考えて見たのですが、現時点の私には「他者の夢説」も否定することはできませんでした。

お礼日時:2005/04/12 01:43

おはようございます。


お礼拝見しました、なるほど、感心いたしました。

夢を見ているときに目を閉じていると認識できない

確かにその通りで、他人に登場してもらうしかありませんが、その他人も夢の中の登場人物かもしれないわけですね。

#1さんの仰るように夢と現実があって、他人が夢を見ている状態と自分が夢を見ている状態が同様なことや、何度も夢を見たり、夢から覚める経験から「了解」は出来ても証明できないのかもしれませんね。

う~んまたまた白旗ですかね(苦笑。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ご回答ありがとうございます。

fishbowl66さんですら白旗なのですから、私に解けないのは当然ですよね。少し安心しました。(でも、解けなくて悔しいです)

お礼日時:2005/04/11 13:08

またまたお邪魔します。


決してストーカーでは有りません。
単に、回答数を増やす為に、無駄な回答を書き込んでいます。

デカルトが乗り越えたのかどうかは解かりませんが。

すべてが夢である可能性は乗り越えねばなりません。

夢と現実の違いを比較すれば出来るのではないでしょうか。

私の考える限り、夢を見るのに「視覚の器官」つまり、「眼」を使用していません。
ほとんどの人が、夢見る時には目を閉じています。
夢は脳の中だけで、脳の視覚野の一部が「視覚の器官」からの刺激を受けずに反応しています。

ひとたび、眼をあければ、外から外的刺激が「視覚の器官」に殺到してきます。
ある種の光の波長を反射する何かがあるのです。

存在があやふやなのではなく、私たちの表象があやふやなのではないでしょうか。

他のご回答者様と意見が異なりますが、
私が思い違いをしているかもしれませんので、回答してみましたが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

一部、私の能力では理解しきれない部分があるので、もしよろしければ教えて頂けないでしょうか。


>私の考える限り、夢を見るのに「視覚の器官」つまり、「眼」を使用していません。(後略)

夢を見ている(寝ている)ときに、「現実(と思われる)世界では目を閉じている(眼を使用していない)」と言う認識はないように思います。つまり「夢を見ているときに目を閉じている」ことを本人が認識するには、「その夢から覚める」と言う条件が必要になるかと存じます。これを前提に思考を進めたのですが、私の頭では、ご回答の理論から「私の居る世界が夢である可能性」を乗り越えることはできませんでした。

この辺りについて教えて頂けたら助かります。宜しくお願い致します。

お礼日時:2005/04/10 19:34

頭の悪い私なので、本屋で哲学の本を手にとっても「一体何語?」ととても買う気にもなれず、我が家にある唯一の哲学関連の本は『ソフィーの世界』なのですが、確かそれ書いてあったなぁ。

。と本を開いたら一発でその箇所開けました!(きゃー あたしってすごい と自画自賛)

他の方が既に同様の事を書いていますが、私なりの受け取り方を書かせていただきます。


えっと。
懐疑主義者たちは、2+3=5ということも疑いました。
本当は6かもしれない、でも神が私たちに5と思わせているのかもしれない。
  ↓
でも神が悪さするはずがない
  ↓
じゃあ 悪い霊が我々を真実から遠ざけているとすれば、我々はニセモノを本物と思い込んでしまっているのかも。
  ↓
全ては夢かも。何も信じられない
  ↓
思考停止に陥った。



デカルトも懐疑主義者でしたが、従来の懐疑主義者とはチトちがった。

確かに全て疑わしいが、一つだけ信じていいことがある。
我思う 故に我あり。
ソフィーは「だからなに? 別段珍しくもなんともない結論よ」と思った。
ソフィーはそんなこと当たり前だと思っています。 
『じゃあ「私は散歩する だから私は存在する」とも「私は食べる だから私は存在する」とも言えるじゃないか。
それだって夢かもしれないじゃあないか。』
 ↓
ブブー!
 ↓
そういう言い換えは夢ではない証明にはならない。
もしそういう言い方で表現するとすれば「私は散歩していると考える。だから私は存在する」としなければならない。
散歩しているのも食事をしているのも肉体。
散歩していると思っているのは心としての私。
ここから思考を展開していったみたいです。
これだとまだ「そういう夢を見ることだって可能だから それも夢じゃないの?」って反論されますよね。
我思う ゆえに我あり 危うし!


で、そのあとデカルトは神の存在を証明できれば、全ては夢というものを否定できるんじゃないかって考えたわけです。
えっと・・・
<考える私>以外の存在 つまり善の神の存在が証明できれば、一つじゃなく(夢じゃなく)とすることができる と。
つまり2+3=6ではなく5であるという感覚は夢ではないとすることができる と。
観念と現実が一致しているとなれば、私が私を思うときこの私は幻ではないとなるわけで。

で、デカルトは『神の存在』『私(心)の存在』『その延長の存在』は確実だとしました。
今回は夢か現実かって事なので、えっと・・・。
自分の外に存在する『現実』と思考の中に存在する『現実』は全く違う性質を持つとしました。

一つは思惟するもの→精神。
もう一つは延長(ひろがり)→物体。

例えば人間は悲しんだり喜んだりします。心がありそれは変化します。
石はどうでしょう。
だから心は実体だとしました。

デカルトは人間以外を物体だとしました。
他の動物は延長(ひろがり)だとしました。
だって動物は 我思うゆえに我あり なんて思わないから って。

ソフィーはちょっとまったー! と思いました。
日本の法律も動物は物品だとしていますよね。
したがって他人のペットを殺したら、器物破損罪になりこそすれ、殺人とかそういう重い罪にはならない。

デカルトはこうやって 我思うゆえに我あり に確信を持つ代償として、他の動物は物品であるとしてしまいました。

だと思います・・・


なんかアダムみたい。
イヴはアダムのあばら骨から作られた物体で心などないから粗末に扱っても神は気にも留めないだろう って思ったかどうか。
ユダヤでは女は人間として数のうちに入ってなかったという事実。
がーーーん! わたしゃ 物体かい!って物体と思われている私は果たして心を持たない物体、、、なわけないですよね~。
従ってわたしはアダムの延長(物体)なんかじゃないぞーー!と思っています。
証明しろって言われたら、ガンガン喋ってアダムの予想外の反論をまくしたてて、ねじ伏せちゃう。
あたしゃ アダムの世界のうち(夢)になどいないわい!です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「ソフィーの世界」一冊で、これだけの知識を得てしまうkigurumiさんって天才ですね。


>がーーーん! わたしゃ 物体かい!って物体と思われている私は果たして心を持たない物体、、、なわけないですよね~。

本当ですよねw 相手が自分のことをそう考えていたら冗談じゃありませんよね。

お礼日時:2005/04/09 23:48

>「私の居る世界」について証明できないのは、対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由との解釈でよろしいでしょうか



まず「主観-客観」ということばを哲学の文脈で使うときは、気をつけた方がいい。
実は、カントのところで意味が大きく転換してるからなんです。
ギリシャ時代の考え方があって、デカルトがそれを引き継ぎつつ、転換を持ち込み(デカルト自身は前の用法で使っていながら)、カントがコペルニクス的転換をやってのける。
以降、哲学で「主観-客観」というときは、カントを踏まえたものになります。

まず主観、もともとギリシャ語ではhypokeimenon、この概念がラテン語に受け継がれてsubjectumとなります。「変化の底において同一であるもの」という意味でした。
桜は四月に花が咲き、五月に青葉になり、秋が来ると紅葉し、落葉する。けれども、「桜そのもの」は変わらずに存在し続ける。それがsubjectumです。このsubjectumは、さまざまな意味を持っているのだけれど、少なくとも今日で言う「主観」の意味は持っていなかった。

じゃあ、「主観」に当たる語は? objectumです。
subjectumが、わたしたちの心に現れるありよう、花が咲き、青葉となり、紅葉し……と「外界に実在するものの観念」がobjectumだった。そうなんです。今日の「客観」はここから来ている。

へ?
主観、というのは、変化しない「(いまでいう)客観的なもの」?
客観、というのは、表象で「(いまでいう)主観的なもの」?
頭、こんがらがっちゃいそうだね。
だけど、デカルトもまだその使い方をしています。

デカルトは「変化の根底において存在し続けるもの」を実体と呼びます。subjectumだね。
ただし!
デカルトの三実体。「神・物体・精神」。
意識する主体も、実体なんです。
「考えているわたし」という、もっとも「主観的なもの」がsubjectumとなった。
歴史が動き出しました。

ここでカントが登場します。
カントはこんなふうに考えるんです。わたしたちは桜を、表象(心に映るイメージ)としてのみ、とらえることができる。花も咲いていなければ、葉もついていない、落ちてもいない、「桜そのもの」を知覚することはできない。
わたしたちにできるのは、認識の形式(時間と空間)を通して、わたしたちに与えられている「桜の表象」を認識する、ということだけだ。

この、人間が認識しうる、花が咲き、青葉に変わり、落葉し、という「現象としての桜」は、主観によって支えられている。
(うつりかわっていく)現象の根底にあって、現象を支えているsubjectumは「主観」だ(おおっ、ひっくり返ったぞ!)。
そして、このような「主観」が、対象としてとらえるものは何だ?
それは、この「主観」に対して「投げ与えられている」ものだ。「人間の表象」だ。それが「客観」だ。

え、待って待って。
「客観的」っていうでしょ? 
「それは客観的に見て正しい」とかって。そういうときの「客観的」って、どういうこと?

それもカントから来ています。
カントは人間の表象と「物自体」が一致することは証明できない、という。そのかわり、人間の表象の構造を分析して、これが普遍的なものであることを証明しようとした。
人間の表象は、個人的なものではなく、あらゆる人に等しく能力として与えられている(みんなが取り外せない緑のサングラスをかけているように)。だから、「主観」の作用とは独立に存在しうる。

わたしたちは「現象」として与えられている世界は認識できるけれど、「世界そのもの」は認識できない、とカントが言った、っていうのは、そういうことです。

でね、ここから

>対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由

ということが出てくるまで、またいろんな人が出てきて、それこそ主観-客観が主体-客体として訳し分けられるようになった経緯とか、すんごいいろいろあるんです。
だから、そうとも言えるし、そうでないとも言える。#2の方が書いていらっしゃるのは、おそらくハイデガーのことだと思うんですが(ちがってたらごめんなさい)、ハイデガーみたいにデカルトのコギトを受け継いで、「存在者」であることについて考えるひとも出てきます。

ごちゃごちゃしてるんです。ほんと。哲学に「すっきり」を求めてはいけません。
哲学を勉強したら、自分のまわりの現象を、きちんと理解するための概念が手に入るような気がする。
だけど、そんなことはできません。かならず、もっと知らなければならないことが出てくるし、おまけに、これまで自分が「知っている」と思っていたことさえ、打ち壊していくようなものなんです。
ただ、「いまわからないこと」が、いろんな本を読んだりしているうちに、いつの間にか自分のなかに定着している。ふりかえってみると、なんとなく整理できている。だけどそのころ、自分はつぎの「わからないこと」に頭を悩ましてるんですが。
だから、ゆっくり、焦らないで。

ごめんなさい、いよいよわからなくさせちゃう回答を書いたかもしれません。
わからないところがあったら、なんぼでもつきあいますんで。

この回答への補足

夢の件ですが、当質問において、ご回答者様から頂いたご回答の内容には、それ以前の私にとっては未知なる知識が含まれております。「私の居る世界は夢」なのであれば、ご回答者様から頂いたご回答の内容は、既に私の知識に含まれているものでなければおかしいように思います。主体の知識に無いものを、客体が知識として持っていると言うことは、「私の居る世界は夢では無い」ことの証明にはならないのでしょうか?

宜しくお願い致します。

補足日時:2005/04/09 23:30
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

コペルニクス的転換の件、了解致しました。

哲学では同じ言葉でも哲学者によって意味が異なる場合が多いので訳が分らなくなりますね。

本当、一つのことを考えているうちに、別の疑問が湧いてきますね。

お礼日時:2005/04/09 23:05

>「この世界は夢ではない」ことを証明した人は居るのでしょうか? 



これ、すごくおもしろい質問です。
まず結論的に言って「この世界は夢ではない」ことは証明できないと思います。

というのはね、「この世界は客観的に存在している」ということは証明できないから。
「あなたが見ている世界」と「わたしが見ている世界」が同じものであることは証明できないんです。

まずカントは、人間は、世界そのものは把握できない、と考えるんです。人間の理解する「世界」は、人間が自分に理解できるかたちで認識した「現象という世界」だ、と。
ここでの「世界」というのは、つまり人間が認識できる総体なんです。

このあいだのおさらいですが、デカルトは明晰で判明な観念にもとづいた推論を展開すれば、確実な真理にたどりつける、と考えました。ここでの「観念」というのは、ものごとが心に映った像です。

この「観念」(心に映る像)と、物そのものが一致するとどうして言えるのか?
デカルトは神の存在が、そのことを保証してくれている、と考えるんですね。

でも、もう少し時代がくだっていくと、「神様が保証してくれてるさ」では通らなくなってしまう。

デカルトのころには物が心に映った像も、外から受け取った情報をもとに自分が考えたことも、まとめて「観念」と呼んでいましたが、カントのころになると、それを分けて考えるようになります。

事物の像は「表象」、知覚情報をもとに「表象」を形作っていく人間の精神作用を「感性」、この「感性」で得た情報をもとに判断したり推理したり、という思惟作用を行うものを「悟性」と呼ぶようになります(ことばがごちゃごちゃしてるけど、いったんことばが指し示す範囲を呑み込むと、ずいぶんスッキリ考えられるようになるから、焦らないでがんばって)。

カントは「表象」と物そのもの(カントの用語では物自体)が一致することを証明することは出来ない(人間は、物自体を考えることはできない)とするんです。

そのかわり、すべてのひとが同じ表象を持っている、そのことを証明しさえすれば、表象は客観的に保証される、と考えたんです。
心に映ったある像(表象)を、悟性が分類し、整理してたとえば「木」という概念を割り当てる。
この思考能力は人間が普遍的に同じだ。だから、この概念は普遍的なものなのだ。

つまり、物=表象、かどうかは証明できないけれど、みんなが同じ概念を持っているから、だいじょうぶ!というわけ。

だけどね、これも実は危うい。
カント自身も言ってるんです。すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている、と。

つまり、これって「人間が認識する世界も、人間の感覚器による一種のバーチャルな世界である」ってことなんですね。
となると、世界のリアリティっていったい何なんだ、って話になってくる。

世界が夢ではない、なんて、だれにも証明できないんです。

たとえばバークリーなんかはもうはっきり、主体が意識し、知覚している間だけ世界は存在する、なんて言っています。こういう考え方を「独我論」っていうんだけど、またこれはこれで長い話になってしまう。

だから本を一冊紹介しますね。中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書)
「〈ぼく〉は現実の〈ぼく〉ではなく、ほかの誰かの夢かもしれない。だがそれなら、ほかの誰かとは誰だろう……」
こんなふうに始まります。書いてあることはむずかしいところもあるけど、相当わかりやすく書いてあります。哲学史のなかでは、圧倒的におもしろいよ。

この回答への補足

少しこんがらかってきた為、確認を頂けたら助かります。デキの悪い生徒で申し訳ありません。

「私の居る世界」について証明できないのは、対象の中に主体(私)が含まれている為、通常の主観-客観の図式が成立しないことが理由との解釈でよろしいでしょうか?

逆に、「夜寝ているときに見る夢」が、本当に夢であることの証明もできないと言う解釈でよろしいでしょうか?

補足日時:2005/04/08 23:17
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。いつもお世話になっております。

「私の居る世界は夢ではない」ことの証明はできず、行き着く果ては「独我論」になる訳ですね。そして独我論を否定することもできないのですね。

今読んでいる本を読み終えたら、教えて頂いた書籍を読ませて頂きます。(しかし、私にとって哲学書は難解過ぎる為、いつになるか分らない状況です。言葉の意味を辞書で引きながら読んでいるレベルですので・・・)

お礼日時:2005/04/08 23:40

私は何も分からないのですが、認識主体の自己不可知性という言葉があるそうです。

要するに認識するための主体は客体(すなわち認識の対象)にならないからこそ認識というもの(の存在)が可能になるということらしいです。私はこれはコギトエルゴスムの意味することかなと思っています。主体以外は夢でもよいのではないでしょうか。逆説ですが、主体は認識の対象にはならないが、だからこそ主体として存在することができるということではないでしょうか。主体も夢であるということはできますが、そのときそれは主体ではなくなっているはずです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主体以外は夢であろうと現実であろうと、大きな問題ではないのですね。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/04/07 23:20

私はデカルトについてはよく知っていません。

ただ少し助けになればと思います。

夢の対比として現実というものがあります。例えば、あなたが今いる現実は夢の出来事かもしれないと疑うことはできるでしょう。しかし、その夢から覚めた現実というものをそのとき同時に前提としていないでしょうか?もちろん夢から覚めた現実もまた夢だったということは可能性としては消えないでしょう。そして永遠に現実にはたどり着けないかもしれません。それでは、現実とは一体何だったのでしょうか?現実がないとしたら夢もまたなくなってしまうのではないでしょうか?ゆえに「全ては夢である可能性」はなくなってしまう。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

「夢がある」と言うことは「現実もある」と言うことですね。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2005/04/07 23:19

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 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 No.3です。

 アウグスティヌスに通じておられるようで 必要ないとも思いましたが このスレッドとして もう少しくわしい議論をと かえって 思いました。 


 以下のようです。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わた...続きを読む

Qbe free of ~「~が無料である」

be free of ~ は「~が無料である」という意味ですけど、これはなぜ be free from と言ってはいけないのですか?

「~がない」という意味の時は、be free of でも be free from でもどちらでもいいのに、なぜ「~が無料である」という意味の時は be free of としか言えないのですか?

Aベストアンサー

場合によるので例を探さねばなりませんが:

free of charge は「無料」で良いのですが、これは free from charge とは言いません。後者は「料金はあるが無料」みたいなニュアンスで論理がぎくしゃくしてちょっと変なのです。

変わった内容ですが free of sex desire を free from sex desire とは言いません。後者は「性欲はあるがそれから自由」みたいなニュアンスで論理がぎくしゃくしてちょっと変なのです。

free from enemy は「敵がいない」という意味で正しい表現ですが、free of enemy というとちょっと変に聞こえます。

一方 (free from/of) mistakes/taxation/disease/lumps などは幾分ニュアンスの差はあってもどちらも使えます。

はっきり「ない」と言い切れる状況には of、あっても(いても)おかしくないのにタマタマいない状況を指すには from が適切なのです。難しいですね。

Qデカルトのコギトはどこが独自性なのか

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
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 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考
   する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。

 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。

 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
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 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。


 デカルトのコギトに独自性はあるのか?

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神にお...続きを読む

Aベストアンサー

『省察』の「省察二」には
~~~~~~~
しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html
~~~~~~~
と書かれています。
であるから、「われ有り」は前提からの帰結である、と考えざるを得ない。
また、このことは
「どうして私が存在しなくて、私が思うことがあろうか、と言っています。」とデカルトが言っているのであろうば、
これは
「私が思うならばわれ有り」
の対偶であり、「われ思う。故にわれ有り」であることの証。

で、たとえ、「われ思う」と「われ有り」が(論理として)同値であったとしても、
~~~~~~
では、「われ思う、われあり」とはいったい何のことなのか?
それは「私の思考=私の存在」、もっと簡略化すいれば「思考=存在」と言ったことになります。
~~~~~~
は成立しない。
たとえば、
 2は整数である。 2は偶数である。
から、
「整数(である)」=「偶数(である)」
とはならないのと同じこと。
「われ思う、われあり」であることから言えるのは、
「われ思う」と「われ有り」の真偽が一致すること。
このことから、「思う」と「有り」という述語(関数)が一致することは言えない。

なぜ、デカルトが命題というわざわざ言葉を使っているのだろうか。
なぜ、幾何学や論証という言葉を使っているのであろうか。

『省察』の「省察二」には
~~~~~~~
しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は...続きを読む

QFREE TIBET の意味

FREE TIBET!FREE TIBET!

チベットの問題で最近この言葉をテレビでよく見かけますが、
これって「チベットを自由にして!」って意味ですよね?

だとしたら英語の表現としておかしくないですか?

自由にして!だったら「BE FREE TIBET」にならないとおかしいですよね? FREEってそれだけで動詞になるんですか?

Aベストアンサー

はじめまして。

ご質問1:
<だとしたら英語の表現としておかしくないですか?>

おかしくないです。

1.スローガンなどは、ある程度文法無視のところもありますから、あまり気にされなくていいと思います。

2.スローガンは、文法より語感、リズム、アプローチ、主張の強調といった点に焦点をあててます。

3.ここでも、FreeとTibetという2つの単語さえ目につけばいい、という創作者の意図から作られたものと思われます。


ご質問2
<自由にして!だったら「BE FREE TIBET」にならないとおかしいですよね?>

それもおかしいです。

1.文法的に正しくは
BE TIBET FREE
BE FREE FOR TIBET
「チベットを自由にして」
です。

2.Tibetは目的語になるので、SVOCの文にするか、前置詞を対象に補うなどする必要があります。

3.なお、BE TIBET FREEはLET TIBET BE FREE「チベットを自由にさせて」の口語的な表現です。


ご質問3:
<FREEってそれだけで動詞になるんですか?>

なります。

1.意味は「~を解放する」「~を自由にする」という、目的語をとる他動詞になります。

2.一般にはfromを補って「~から解放する」という言い回しでよく使われます。

3.その意味では、この英文は文法上もかなっており、意味上も
「チベットを解放せよ」
と文意が通じます。

4.From China「中国から(の解放)」と敢えて対象を明記していないのは、明示することで相手を刺激することを避け、平和的なスローガンにしようとする創作者の意図があったとも考えられます。


ご質問4:
<これって「チベットを自由にして!」って意味ですよね?>

だいたいそういう意味です。

1.このFreeを上記のような他動詞とすれば、直訳は「チベットを解放せよ」「チベットに自由を与えよ」となります。

2.このスローガンをぱっと見た感じでは
「チベットに自由を!」
と受け取りました。つまり、Tibetはfreeという他動詞の目的語ととらえた解釈です。

3.ただ、その微妙な感じ方は人それぞれ違うと思います。人によっては、Freeを上記でご説明したような形容詞と感じるかもしれません。

ただ、誰もがこの2文字から受取るイメージは同じですから、各自の完成で感じ取ればいいのだと思います。


以上ご参考までに。

はじめまして。

ご質問1:
<だとしたら英語の表現としておかしくないですか?>

おかしくないです。

1.スローガンなどは、ある程度文法無視のところもありますから、あまり気にされなくていいと思います。

2.スローガンは、文法より語感、リズム、アプローチ、主張の強調といった点に焦点をあててます。

3.ここでも、FreeとTibetという2つの単語さえ目につけばいい、という創作者の意図から作られたものと思われます。


ご質問2
<自由にして!だったら「BE FREE TIBET」にならな...続きを読む

Qデカルト曰く「私以外の全ては無根拠」なのに何故皆平然と生きているのですか?

デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力も・・・
心から愛していたあの人も・・・

全ては無根拠であり、何の論理の裏打ちもないってことですね。

世間知らずの僕はこの事実を知った日、雷を打たれたようにショックを受け、空虚な気分になりました。しかし、少し世間に目をやれば、全くそんなことを気にせずに人々は生きているように感じるのです。
ここでクエスチョンです。

・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書などを参考にしたのですが)
・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?
・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

まだ社会人にもなっていない僕には全然分かりません。教えてください、m(_ _)m

デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力...続きを読む

Aベストアンサー

>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?

ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過ぎ
今ままでに色んな考え方や哲学が生み出されてきた
デカルトの思想はそのうちの一つでしかない


>・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?

まあ、甘い点があるよね
確かに全ての事柄は無根拠であると言えるけど、それを言ったところで何?って話でしょ
(凄く簡単に説明してます。多分、この辺りを真面目に説明するとここでは書ききれない)
ついでに他の方も回答されているけど、自分自身の存在自体証明不可能なんだよ
であれば、デカルトの思想の根幹が揺らいでしまう


>・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きてい
>る「覚悟の人々」なのでしょうか?

一番最初に答えたように、デカルトの思想自体を知らない人もいるよ
ついでに言えば、その思想を知っていても、覚悟なんかなくても普通に生活できると知っているというところかな

存在の証明ができなくても「実際に存在している物は存在している」
それを前提としなければ頭でっかちの、悲壮感だらけの事しか考えられない人間になるだけ
正確には、時にはデカルトの思考について考えるのは温故知新として必要だけど、古い時代の考えから前に進まなきゃ何も始まらない


ちなみに全ての存在の証明が無いとご質問者様は生きていけないのかい?
自分が好きな物や人の存在が証明できなかったら、ご質問者様はその好きな物を嫌いになるのかい?


また物の価値なんて自分で決める事



PS.哲学する事はいい事だと思ってます。ただし、頭でっかちになっちゃダメだよ。理論じゃ説明(証明)できない事も多々あるって考えていた方が真理に辿り着く早道だと思うしね

>・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?

ご質問者様が考えている様なことを考えていないか
また、そんな事考える必要もないから
これに加え、それを知っていても「現在自分が生きている」をいう事実を否定できないから
これを否定できない以上は「生きているという状態を続ける」のが普通だよ
自殺とか苦しい事から人は逃げる傾向があるからね


>・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など
>を参考にしたのですが)

間違ってないけど、囚われ過...続きを読む

QRADIO LINE FREE という音楽編集ソフトを使っているのです

RADIO LINE FREE という音楽編集ソフトを使っているのですが、音を編集するときには、SOUND ENGINE FREEというソフトを使うことになりますよね?
で、保存して、終了すると、RADIO LINE FREE上の音が編集後の状態になるわけですが、その際、SOUNDENGINEFREEを終了すると、RADIO LINEFREEの今、編集した部分が消えることがあります。
原因はなんでしょうか?

また、RADIO LINE FREEは、すぐにフリーズして、作成途中のものが消えるのですが、これはパソコン自体の容量不足などによる問題であって、ソフト自体の問題ではないのでしょうか?

Aベストアンサー

>原因はなんでしょうか?
バグのようです
http://www.cycleof5th.com/services/forum/comments.php?DiscussionID=458&page=1#Item_0

個別で使用したほうがいいです
私は
RADIO LINE FREEでMIX後、
SOUNDENGINEFREEでエフェクトかけています
(あるいは、逆)

Qデカルトの方法序説が理解できない

 デカルトの、4つの法則を西洋哲学関係の本で読み、とても良い方法だと思って、早速彼が書いた「方法序説(英語)」を読んでみたいのですが何回読んでも理解できません。
何か例を使ってこの4つを説明して欲しいです。

 日本語で、読みたいのですが、海外に住んでいる為すぐに手に入れることができません。日本語訳版で読んだらしっかり理解できるのでしょうか?
また、この本で述べられている事を実行するには、数学でやるような証明問題が、出来ない人には、理解するのが難しかったり、この方法を人生の中で使う事は難しいのでしょうか?

もし、この本の内容を完璧(100%とはいいませんが)に理解できるおすすめの本があれば教えてください(日本語でもかまいません)


よろしくお願いします。

Aベストアンサー

方法序説はいわゆる「論文」ではないので、読みやすいほうだと思います。簡単に言えばgoal314さんがおっしゃる通りです。ジグソーパズルに例えてみましょう。
第一 パズルのピースを並べるとき、確かなものしか並べませんよね。迷ったら保留にすると思います。確実なものだけを受け入れて考えると言うことです。
第二 ジグソーパズルをいきなり全体的に完成させることはできません。隣り合うピースを比べながら並べます。部分部分を積み重ねて、全体を完成させていくということです。
第三 パズルの場合、簡単なのは端っこからまん中へだんだんと完成させていく方法です。中央から並べ始めるのは難しいです。このように簡単な所から進めれば、比較的簡単に、確実に完成できるということです。
第四 パズルがとりあえず完成したら確認します。残ったピースがないか、間違ってはめ込んでないか。これが再検討です。

確かに常識的ですが、改めて言われれば「なるほど」という感じですね。

参考URL:http://teigakuin.hp.infoseek.co.jp/kougi/tetugaku/hohoujosetu.htm

方法序説はいわゆる「論文」ではないので、読みやすいほうだと思います。簡単に言えばgoal314さんがおっしゃる通りです。ジグソーパズルに例えてみましょう。
第一 パズルのピースを並べるとき、確かなものしか並べませんよね。迷ったら保留にすると思います。確実なものだけを受け入れて考えると言うことです。
第二 ジグソーパズルをいきなり全体的に完成させることはできません。隣り合うピースを比べながら並べます。部分部分を積み重ねて、全体を完成させていくということです。
第三 パズルの場合、簡...続きを読む

QLoadLibraryしたらFreeLibrary

DLLをLoadLibraryしたらFreeLibraryは必要だと聞いていますが、
リッチエディットでRICHED32.DLLをLoadLibraryした場合もFreeLibraryは必要ですか?

LoadLibraryしてFreeLibraryが不要な場合はありますか?

Aベストアンサー

>DLLをLoadLibraryしたらFreeLibraryは必要だと聞いていますが、
>リッチエディットでRICHED32.DLLをLoadLibraryした場合もFreeLibraryは必要ですか?

必要です。


>LoadLibraryしてFreeLibraryが不要な場合はありますか?

ありません。必ずFreeLibraryしてください。

FreeLibraryをコールしない限り、DLLが
メモリにロードされたままになります。

Q逆の立場から≫(下の)安楽死に賛成するための論拠

下の「安楽死に賛成するための論拠」の質問とは逆に、
安楽死に対しては否定の側からの、
厳しい質問、反対する論拠、また、
賛成側から質問したこと
→(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=175232 参照)
がどのように返される可能性があるか
ぜひとも教えてください!!

やっぱり、私たちだけで考えていると
どうしても考えが偏ってしまうようなので…
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

[http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=175232]の回答に挑戦的に反論する形になりますが、これはあくまでディベートの素材です。
回答者の方々の意見を否定しているわけではなく、このような意見に対してこのような反論が存在するという情報提供です。
そもそも、私自身は安楽死賛成派です。

<No.1>
>安楽死の根拠に挙げられるのは、『個人の幸福の追求権』だと思っています。
そもそも、なぜ個人に幸福追求権が認められるかは、問題が深すぎるので敢えて問わない。しかし、近代的権利概念を前提としたとしても、個人の権利というものは他者の権利を侵害しない限りでは無制限に許容されるが、他者の権利を衝突する場合には多かれ少なかれ制限を受けるはずである。
それでは果たして、「死の自己決定権」は、他者の権利を全く侵害しないか。ひとつだけ例を挙げれば、残されるものの悲しみ、すなわち家族の幸福追求権、を無視しているではないか。
この点の利益衡量を示せない限り「死の自己決定権」を直ちに認めることはできない。

>「現在の医療で治療法がなく、合理的に考えて、患者が死を迎えるまでの時間までに、苦痛を取り除く治療法が新たに開発されえない時」、この患者に救われることのない苦痛の時間をあえて継続させる理由を示せるかどうか。
不治の病に安易に安楽死を認めることは、医学の発展を妨げる。「何とか助けたい」という家族の思いが、新しい治療法を発見する努力の推進力となってきたのである。
なるほど、確かに安楽死を認めても最後まで治療を続けるという選択肢もある。しかし、安楽死が容認されてしまうと、「さっと殺せ」という暗黙の社会的圧力に家族と患者は晒されることになるであろう。特に「他人に過ぎない」医者は病院経営の事情から治療に消極的になる可能性も否定できない。
とすると、安楽死を認めることは医学の発展を妨げるばかりか、「とにかく治療する」というヒポクラテス以来の医学の基本テーゼを否定し、医学そのものの基礎を危うくする。
患者にとっての苦痛の時間は、「絶対避けられない死」に対して人間が無駄な抵抗を試みる人間の歴史・存在意義そのものである。

<No.2>
この方は反対派なんですよね。

<No.3>
>残されつつある者の側の経済的・精神的負担
すると、他人に迷惑をかける人間は死んでもよいということになる、。
なるほど、今のところ家族は「大変だ」と苦しんでいるかもしれない。しかし、実際に死なれた後、どのような感慨を持つか。
人間が社会関係的存在である以上、他人の死とは自己の一部の死といえる。老いていくに従い、ぽつりぽつりと家族・友人を失い最後には自分も消える。この一連の過程が死である。
生老病死が個人にとって不可避の苦行であるなら、他者の死に付き合うことも全く同じ意味で不可避の「苦行」です。そこで無駄な努力をすることに生の存在意義があるはずだ。

>安楽死に反対するということは安楽死を希望する人の決定権を侵害しているが、安楽死に賛成することは必ずしも生きつづける権利を侵害するわけでなく患者さんの選択肢を増やすものである
理論上そうかもしれない。しかし、社会的圧力というものがある。
それは明示のもでなかったとしても、患者を、なんか死ななきゃいけないような気にさせてしまわないか。
確かに、選択肢が増えるだけなら何の問題もないかもしれない。しかし、それが一人でも死ななくてもいい人間を殺す可能性があるとしたら、やはり問題があるのである。

<No.4>
>そもそも私達は望んでもいないのに無理矢理(存在)を被ったのですからその押し付けられた迷惑な(存在)を返上するのは至極当然のことです[原状回復請求権]。
>原状回復はさせない、できないと言うのであれば私達に許可なく私達を産み落とさないでもらいたい[発生拒否権]。
>発生は拒否できず原状回復はならずというのならこのオトシマエはどうつけてくれるのか?[損害賠償請求権]。
これに対する回答は既に<No.1>の方に対する第一の回答で示したので、ここではもう少し根本的な問いを立てます。
人間が生きていることは所与の前提であり、これが厳然たる事実である。生きている前の「原状」というのは存在するのだろうか。
なぜ、我々は発生を拒否できるのか。むしろ我々の発生は独り父母の行為にのみかかるのであるから、我々の存在は父母の所有に服するのではないのか。それなのに、我々は父母から自由で有り得る。それだけで不思議なことである。

[http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=175232]の回答に挑戦的に反論する形になりますが、これはあくまでディベートの素材です。
回答者の方々の意見を否定しているわけではなく、このような意見に対してこのような反論が存在するという情報提供です。
そもそも、私自身は安楽死賛成派です。

<No.1>
>安楽死の根拠に挙げられるのは、『個人の幸福の追求権』だと思っています。
そもそも、なぜ個人に幸福追求権が認められるかは、問題が深すぎるので敢えて問わない。しかし、近代的権利概念を前提とし...続きを読む


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