電子書籍の厳選無料作品が豊富!

殺人は認められない。しかし、現実問題として政治側の癒着が大きすぎて被害者を救済する法律は何十年も作られなかった。
どのような判決になりますか?
また、裁判員はどのように影響を及ぼしますか?

A 回答 (10件)

No.4だけど、石井議員も伊藤市長も政治的理由で殺害されたが、山上の安倍殺害こそ政治とは全く関係がない。

 山上が安倍を殺害した理由は全くの私怨であることを、山上自身が公言している。 質問者は噓をついてまで、山上の蛮行を肯定するような間違った態度をとるべきではない。
    • good
    • 0

今回精神的な病の問題が無かった事から、統一教会による被害妄想の部分が無いと判断されました。


彼の生活の中での無差別なテロによる殺人となったので、量刑は一人殺害であっても身勝手な犯行として、おそらく死刑になるでしょう。
銃刀法違反や改善の余地がない悪質性や元総理を殺そうという計画的で反社会的な行為は一人殺害での裁量ではないですね。
反省の余地がないのと、安倍さんではなく他にも被害があるような危険な行為であって、一人ではなく大量に人が死ぬ危険性の行為であって死刑は確実です。
統一教会の信者の子供であって、母親から生活資金を何十年も援助してもらい、それが滞ると統一教会を憎むようなやり方は通用しません。
母親の甘えによるダメな中年男性の犯行であって、それを許す事は到底無理
    • good
    • 0

#6です。

お礼ありがとうございます。

>今回の場合は、そのもととなる法律に問題があったケースかと思うのです。それでも、法律は法律のみで杓子定規に判決がされるのでしょうか?

日本の法律は「行為を罰する」ものです。近代法の国の法律は全部同じ「行為だけを判断する」ものになっています。なぜかというと「行為以外の事情を含めると人権や平等が成り立たなくなるから」です。

たとえば戦前には刑法200条尊属殺人というのがありました。子供が親を殺すと、普通の殺人よりも重い罪だったのです。つまり「親殺しはより重く罰する」という社会的な事情を含めていたと言えます。

戦後、最高裁で違憲判決がでて200条は適用されなくなり「誰が誰を殺しても、同じ量刑」になりました。だから逆を言えば、山上容疑者の裁判でも「情状酌量されることはあるかもしれないが、裁かれるのは《殺人》という行為そのもの」なのです。

私はこの原則がある以上、法律(特に刑法)に不備があるとは思いません。

>裁判員制度のようにコストと手間をかけるものは、非合理的であり税金の無駄ということになりませんか?市民感覚を取り入れるのが裁判員制度かと思うのですが違うのでしょうか?

ある程度までは市民感覚を取り入れることになっています。ただ、裁判員制度ができたことで、実は「量刑が重くなる」傾向なのです。
 となれば、本来、山上容疑者は「厳罰に処される」方向になるはずで、たぶん質問者様が想定している「量刑が軽くなる」方向にはいかないでしょう。この裁判だけ量刑が軽くなるとするなら、それは「行為を罰する」のではなく「感情的に裁いている」ということになります。

では、なぜ「裁判員制度」があるかというと「国民主権の国家において、国民を裁くのがなぜ専門家だけなのか?」という疑問があるからです。

立法は国民主権の選挙で選ばれた議員が法律を作り、行政も選挙で選ばれた党を中心に首相や大臣たちを選んで仕事を行いますが、司法だけは最高裁判事の国民投票と(選挙で選ばれた党の代表である)内閣による指名だけで、選挙のような付託をうけていない、という批判があったのです。

だから「国民の代表が裁判に参加し、有罪無罪と量刑を決める」という方式になったわけです。

もちろん、山上容疑者の犯罪が裁判員裁判によって「無罪」になる可能性はゼロではありませんが、そのような判断が社会に与える影響の大きさと、近代法は行為を判断するもの、という原則からみて「市民感覚」というものが整理される機会でもあると思います。

>なお、国民の反省ですが、自民党以外も他のカルトを含めると多く関わっていますし、そもそも論として選挙で選べるのかという気がします。

選挙で選べない、なら山上容疑者がやったことは「無駄」以外のなにものでもありません。なぜなら「安部元首相を暗殺しても、次から次へと同じような政治家が出てくる」ということだからです。
 逆に、そういう人物を暗殺しても無罪になるなら、今度は「選挙なんて不要、誰でも政治家になっていいが、悪いことしたら暗殺されるだけ」になるわけです。

>完全に関わってない党というかカルトにアンチの党もありますが、国益全体を考えると非常に危うい気もするのです。

宗教側も国民である以上、政党と関わることを禁止することは難しいでしょう。

問題なのは「統一教会が宗教を隠れ蓑にして、不法に近い形で儲けていた」という部分です。
 これは、たとえば帳簿の監査や、被害者の訴えで文化省が立ち入り検査する、などの方法で防ぐことができるかもしれません。

いずれにしても「暗殺」という形の後で様々なことが分かり、その結果改善されるというのは「民主主義の敗北」以外の何物でもないです。
    • good
    • 0

日本は罪刑法定主義です。



法の不備は情状酌量要素にならないし、犯罪を世直しとすることも酌量要素にはなりません。それどころか、「勝手な妄想で被害者を逆恨みし」のように悪い方向に評価されるでしょう。

自身の不遇はあるにせよ、その直接の原因ではない者への凶行は逆恨みにさえもなっていない。だから彼の勘違いな主張は全て退けられ、それどころか刑を重くする方向に作用することもある。計画性や殺意の有無も明確。
    • good
    • 0

#1です。

お礼ありがとうございます。

矛盾していないです。

まず裁判は「法律問題として扱われる」もので、事件が起きた経緯や原因などによっては、情状酌量が行われますが、基本は「法律に違反した」という事実に基づいて判決を受けます。

この点において裁判官は「個人の不幸な出来事と政治家の行動や政府の行動の因果関係」について判断しない、のです。

だからその判決に「山上容疑者の行動の結果、様々な社会的影響があったとはいえ、考慮されることはないです」と説明しました。

裁判員も裁判官から上記のような指摘を受けます。つまり「個人の思いはどうであれ、犯罪とそれに対応する法律の適否で量刑判断してください」ということです。

これが裁判の原則です。

一方、質問者様は「殺人は認められない。しかし、現実問題として政治側の癒着が大きすぎて被害者を救済する法律は何十年も作られなかった。」
という設問の仕方をされています。

私はこれを「山上容疑者の行為を国民はどう受け止めるべきか?」という、ことだと解釈しました。

これは判決とは必ずしも一致しません。なぜなら私たち国民は有権者として「感情を含めた政治判断」を下すからです。

したがって《私たち国民は「暴力が無ければ正常化できなかった」ことを恥じるべき》という受け止め方が必要になります。

以上を踏まえてお礼にある
>いずれにしても、杓子定規に判決を受け入れさせることは、結局は無関心、無作為であり、異ママのやり方考え方の延長線であり、恥すら感じない恥行為になりませんか?

判決はあくまでも「法的行為に対する責任」であることを理解していただきたいです。だからそこには「国民感情としての《殺人はいけないが、しかし・・》という思いはくみ取られない」のです。

なので判決は判決です。

しかし、山上容疑者の行為とそれによって起きた数々の事象(たとえば自民党が統一教会とズブズブだったと分かったことなど)は、国民が刮目して正す必要があります。

このような行為を国民が行わないなら、まさに無関心・無作為であると言えるでしょうが、それは選挙などの行動で表すものであって裁判とは直接関係しません。

>責任ある主権者の対応には思えないのです。

ですから、責任ある主権者であるなら、今の時点ですでに「暴力が起きるまで、是正することができなかったこと」を深く反省する必要があります。

そして、これから(民主主義では時間がかかりますが)、正しい形に直してくのは主権者の責任です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度、回答いただきありがとうございます。

今回の場合は、そのもととなる法律に問題があったケースかと思うのです。それでも、法律は法律のみで杓子定規に判決がされるのでしょうか?
それであれば、裁判員制度のようにコストと手間をかけるものは、非合理的であり税金の無駄ということになりませんか?市民感覚を取り入れるのが裁判員制度かと思うのですが違うのでしょうか?

なお、国民の反省ですが、自民党以外も他のカルトを含めると多く関わっていますし、そもそも論として選挙で選べるのかという気がします。完全に関わってない党というかカルトにアンチの党もありますが、国益全体を考えると非常に危うい気もするのです。

お礼日時:2022/12/24 14:57

政治側の癒着云々は一切関係ありません。

山上容疑者は単なるテロリスト。そもそも被害者でも何でもないわけですし、ましてや安倍元総理にとっては理不尽な難癖以外の何物でもないわけですから、情状酌量の余地は何もないはずです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
政治が腐敗して機能していない今回の場合、被害者を救済するにはどのようにするのが最善だったのでしょうか?
また、その政治的無作為について政治家はどのような責任になりますか?ここに情状酌量の余地はないのでしょうか?

お礼日時:2022/12/24 14:17

戦後、政治家が成人で精神疾患がないと判断された犯人に殺された事件は以下の2件。



2002年10月に、民主党の石井紘基衆院議員が、右翼団体代表に自宅前で刺され死亡した事件。
2007年4月に長崎市の伊藤一長市長が選挙の遊説後に暴力団組員に撃たれ死亡した事件。

上記2件とも、犯人は無期懲役に処されている。 よって、判例を特に重視する日本において、精神鑑定で刑事責任能力ありと判断された山上の刑が無期懲役より軽くなることはあり得ない。 更に、安倍元首相の殺害は上記2件よりも格段に社会的影響が大きく、極めて綿密に計画されたものゆえ死刑判決が下る可能性は高い。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

その2件については政治腐敗とは関係がないと思います。今回の場合、政治が腐敗し機能していないわけです。この方法以外に国を動かし法律を作ることは事実上困難だったようにみえるのです。実際、何度も法律を作ろうという話はあったようですが政治によりそれが止まっていたようですし。トップがあれだけ癒着しているとどうしようもないように思います。

過去、事件(テロ)を起こすことで、それが契機になり法律が作られ、事件を起こした本人の処遇がどの様になったのか分かる判例はありますか?
テロは紛れもない犯罪であるが、極めて多くの人がテロを起こすに至った原因に対しての法律が必要だと感じているケースです。
普通に考えれば、テロで法律を変えれば、そのテロを認めたことになるので日本のように法律や規律を重視する国ではありえないことだと思います。しかし、今回はほとんどそのテロリストの主張どおりに法律が作られそれに誰もが反対していなく不思議な状態に見えるのです。逆にテロがなければ恐らくこの法律ができることは当分あり得なかったように思うわけです。テロを事実上認めているような気がしてならないのです。

お礼日時:2022/12/24 14:24

当然と殺人罪、銃刀法違反等で死刑です。


裁判員も大多数の賛成と思われます。
なお、政治家との癒着は、統一教会に限らず大なり小なりあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

そこまで殺人を憎むなら、この殺人者の主張どおりに法律を作るのはおかしくないでしょうか?
今回の場合、テロは紛れもない犯罪であるが、極めて多くの人がテロを起こすに至った原因に対しての法律が必要だと感じているケースに見えるのです。裁判員にしてもその点は考慮しないのでしょうか?
市民感覚を取り入れるのが裁判員制度ですよね。
普通に考えれば、テロで法律を変えれば、そのテロを認めたことになるので日本のように法律や規律を重視する国ではありえないことだと思います。しかし、今回はほとんどそのテロリストの主張どおりに法律が作られそれに誰もが反対していなく不思議な状態に見えるのです。逆にテロがなければ恐らくこの法律ができることは当分あり得なかったように思うわけです。テロを事実上認めているような気がしてならないのです。

お礼日時:2022/12/24 14:27

殺人罪、銃刀法違反等で無期懲役。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

そこまで殺人を憎むなら、この殺人者の主張どおりに法律を作るのはおかしくないでしょうか?
今回の場合、テロは紛れもない犯罪であるが、極めて多くの人がテロを起こすに至った原因に対しての法律が必要だと感じているケースに見えるのです。裁判員にしてもその点は考慮しないのでしょうか?
市民感覚を取り入れるのが裁判員制度ですよね。
普通に考えれば、テロで法律を変えれば、そのテロを認めたことになるので日本のように法律や規律を重視する国ではありえないことだと思います。しかし、今回はほとんどそのテロリストの主張どおりに法律が作られそれに誰もが反対していなく不思議な状態に見えるのです。逆にテロがなければ恐らくこの法律ができることは当分あり得なかったように思うわけです。テロを事実上認めているような気がしてならないのです。

お礼日時:2022/12/24 14:27

>どのような判決になりますか?



テロリズムによる公人の殺人、という事を踏まえた判決になるでしょう。
山上容疑者の行動の結果、様々な社会的影響があったとはいえ、考慮されることはないです。

>また、裁判員はどのように影響を及ぼしますか?

「影響を及ぼさないようにする」でしょう。その上で「殺人という罪について、という事実だけを評価して判断する」ことになります。


元首相の暗殺、これによる影響が大きく、その結果数々の闇が暴かれたのは事実ですが、むしろ私たち国民は「暴力が無ければ正常化できなかった」ことを恥じるべきです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
前半と後半部分が、ちょっと矛盾していませんか?
主権者である私達が、法律がこうだから、暴力はダメだから、同じ犯罪がうまれると困るから。まぁ実際には色々面倒だからという理由が大きそうですが。いずれにしても、杓子定規に判決を受け入れさせることは、結局は無関心、無作為であり、異ママのやり方考え方の延長線であり、恥すら感じない恥行為になりませんか?責任ある主権者の対応には思えないのです。かと言って手段として殺人を認めるわけにも行かない。ただ、権力者側に問題り変えることができなかったのも事実。

お礼日時:2022/12/24 09:28

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!