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こんにちは。
ステンカ・ラージンなのかステン・カラージンなのか解らないですが、
知っているのはコサックの親分みたいな人で、日本でも有名な歌曲の歌詞では、
どこかの御姫様を貰ったけど子分に諫められて川に放り込んでしまった、
あとひどい処刑の仕方で死罪、ということです。
どう言う人だったのでしょうか?ただの暴れん坊?それとも義勇の人?
宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

コピペ


 
1670年、ロシアのロマノフ朝(ツァーリはミハイルの次のアレクセイの時)に起こった農民反乱を指導したドン=コサックの首領。

正しくはステパン=ラージン。
あるいはスチュンカ=ラージンとも表記する。
セテンカというのはステパンの愛称という。


コサックはロシアのモスクワ大国時代、農奴制が強化されて、
農奴への収奪が激しくなったとき、
自由を求めて南ロシアの草原地帯に逃れ、
半農耕・半遊牧の生活を送るようになった人々をいう。

それぞれの首長に率いられて、次第に地域的な武装集団となっていった。

ドン=コサックとは南ロシアのドン川流域で活動していた
自治的な戦士集団であり、
たびたび黒海沿岸やカスピ海沿岸に遠征し、略奪行為を繰り返していた。

ラージンの率いるドン=コサックは、
ヴォルガ川中下流でロシアからの独立をめざして反乱を起こし、
アストラハンを拠点としてロシア帝国に抵抗した。

ロシアはそれまで、コサックに自治権を与え、
トルコなどからの国境防備などに利用していたが、
ラージンの反乱に対しては弾圧に転じた。

ステンカ=ラージンは捕らえられ、翌年モスクワの赤の広場で、
四つ裂きの刑で殺され、
反乱後すべてのコサックはツァーリへの忠誠を誓わされ、
その自治権は大幅に奪われた。

ステンカ=ラージンの記憶は民衆の中に長く記憶され、
約百年後の1773年に起こった農民反乱、
プガチョフの反乱につながっている。  


ステンカ=ラージンは、ロシア民族の英雄であり、
民謡「ステンカラージン」は広く歌われている。

作曲家グラズノフは交響詩ステンカラージンを作曲している。
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この回答へのお礼

あー、やっぱり英雄されているのですか。
交響詩は聞いた事が無いですが民謡を聞くとすごく美しい旋律で、
(でも歌詞と合っていないような)
どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/05/04 11:46

ステンカラー人です。



コサック地に生息する
少数民族です。
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この回答へのお礼

参考程度にします。(するかぁー!)

面白いけどこんなんじゃダメです、良く質問文を読んで回答して下さい。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/04/30 18:19

「ステンカ・ラージン」はこの項目へ転送されています。

アレクサンドル・グラズノフが作曲した交響詩については「ステンカ・ラージン (グラズノフ)」をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%81 …
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この回答へのお礼

これ見ると徹底的に体制に反対した人みたいです、
なので民衆側のようですが沢山人を殺しています。
義の部分が見えて来ないです。
歌はあんなに美しいのに、なんでだろ。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/04/30 18:17

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