
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
日本人は今日でもそうですが、昔から教育というものが好きな国民だったようです。
教育といっても、色々ありますが、まず、一般的にいう学校教育、専門の教授がいて特定の施設で教える教育が、なんと、今から約1300年前からあったのです。文武天皇が制定した大宝律令(701年)という法律の中に、『学令(がくりょう)』という学校制度を定めた教育法令があります。
学校制度に関する法律としては、ローマと中国の唐につぐ古いものです。
さらに興味深いのは、私立学校という制度を、平安時代に既に持っていたということです。
藤原冬嗣(ふゆつぐ)が創設した観学院(821年)。空海が開設した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん、828年)は、身分があまり高くないないために、大学や国学に入れない人々のために造られたもので、、今日京都の東寺にある種智院大学はその名をとったものです。
大宝律令に出てくる学校には、大学と国学があります。大学は、中央にある最高教育機関で、地方官吏と中央の官吏の子弟を集め、官吏を養成するところです。国学は、地方の官吏の子弟や一般庶民でも優秀な者を集めて地方官庁の役人を養成するところでした。
この大学と国学の教育内容は、主に法律を教えることを目的として、中国語の文字、漢文、漢詩など外国語も教えており、その内容も相当程度高かったことも分かっています。
No.4さんが例に挙げられている弘法大師空海のことで思い出したことがあります。
今を去る1100年前、空海は平戸の田浦港から遣唐使船に乗って中国に渡りました。時に空海31才でした。
四国の讃岐出身の空海は、18才の時に京に出て大学に入りました。しかし、空海は、せっかく大学に入ったのに、ほどなくしてドロップ・アウトしてしまいます。そして、乞食同然の私度僧(自分勝手に頭を丸めて坊主になること)となって、四国の山奥に入り、山岳修行者となります。
これ以後、31才の年に遣唐使船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたかは明らかではありません。『謎の空白時代』と言われます。山野を巡り、寺院を巡り、修行に修行を続けたと推定されるだけです。それが、いかなる修行であったかは明らかではないのです。
彼が遣唐使船に乗り込むに至った経緯も明らかではありません。ただ一つはっきりしているのは、彼がその直前まで私度僧であったことです。空海は留学僧として遣唐使船に乗り込みました。しかし、留学僧となれるのは、正式に出家した僧だけです。そこで空海は、遣唐使船に乗り込むほんの一ヶ月前に、あわてて東大寺で正式の出家を果たすのです。その記録が東大寺に残っています。
遣唐使船に乗り込んだ空海は一介の無名僧にすぎませんでした。彼に注目する者など誰もいなかったのです。
しかし、唐の地に入るや、空海はたちまち頭角を表わします。10年余に渡る彼の修行時代の蓄積が一挙に吐き出されて、唐人から最高の知識人として遇されるに至るのです。密教の権威、恵果阿砂梨をして、門弟の中国人僧全てを差し置いても、外国人たる空海に、密教の全てを伝授しようと決意させるほど、空海に対する評価は高かったのです。
『謎の空白時代』に、彼がどこで何を修行していたかは明らかではありません。しかし、その修行がもたらしたものは、歴史にはっきりと刻印されています。唐に滞在した僅か一年の間に、空海は名も無き留学僧から、密教の全てを伝授された当代随一の高僧となったのです。
No.9
- 回答日時:
漢字は表意文字ですし、当時の教養ある人々は漢文の読み書きはできますから、他の方も書かれているように、中国語による意志疎通は、今よりも簡単だったのでしょう。
(現在の中国語のように日本で使われているのと書体が異なることもありませんし)また、当時の社会では、渡来人の子孫がかなり重要な役割を果たしており、歴史上、有名な人物の中にも渡来人の子孫がいます。
遣唐使やそれに同行した留学生の中にも渡来人系の人がかなりの割合でいるようです。
No.7
- 回答日時:
日本語で漢音、呉音、唐音と漢字の読み方に違いがありますが、これはその当時の発音の名残だそうです。
このことからもわかるように中国語も時代によって変遷しており、当時の話し言葉はいまとは違ったものです。現在の中国語は漢文とはかけ離れたものですが(文法も違う)、当時は話し言葉も書き言葉である漢文と近かったのではないかと思います。
漢文がわかれば話し言葉もある程度できるようになったのかもしれませんが、当時は#5さんのいうような発音ではないとおもいます。
この回答へのお礼
お礼日時:2005/05/02 14:52
ご回答有難うございました。
現在でも案外、難解な英文を読むことによってアメリカ人より頭を鍛えられるという側面もありそうですね。当時も似たような事情があったのでしょうか。
No.6
- 回答日時:
#4ですが、書き忘れましたが、#5の方が言われるとおり、知識人は常識的に中国文化を理解してたと思います。
我々でも、特に英語教育を受けて無くてもYes,No,Writeなど分かりますし、中学生でもThis is a pen.程度は知ってます。
当時の中国はアジアにおいては唯一の超大国であり、周辺諸国には現在のコカコーラやマクドナルドを通してアメリカ文化が入ってきたように、中国の文化が流れ込み、知識人は渡来人を通じて異国の文化を吸収していったと思います。
先に書いたように朝鮮経由で多くの人間や物資が入りますから、中国語の原書も当然入り、僧侶はそれを勉強し、公家は中国の有名な書家や詩人をお手本に教養を磨くので、読み書きは出来ますし、他人と差をつけようと思えば、会話も習ったのでしょう。
No.5
- 回答日時:
聖徳太子の頃から奈良時代にかけて、中国語は、貴族や学者、僧侶が知っていなければならない国際語でした。
その必要度は、中世のラテン語、現在の英語以上です。中国大陸との交通が盛んになり始めた頃までは、朝鮮や中国からの知識人が通訳をつとめました。聖徳太子が隋に派遣した小野妹子も、外国人を通訳として連れて行きました。
その後、日本から、学問僧、学生らがぞくぞく中国に渡り、仏教、諸制度、文学などを学んで帰って来るようになると中国文字を中国語で読むことが普通のことになってきました。お経も日本語訳したものを除いては、中国音で棒読みしており、それで理解することができました。貴族や学者、お坊さんは、例え片言でも、ちょっとした日常会話くらいの心得が必要でした。また、漢詩文も流行しましたが、これも中国音で棒読みでした。今日のように、返り点を付けて、上がり下がりして日本風に読むのは、平安時代に入ってからのことです。平安時代には、和歌、和文が盛んになって、中国語は忘れられ、ごく一部の人達だけが読めるようになったのです。
聖徳太子が作った『一七条憲法』の『以和為貴』も『和をもって貴しとなす』と読むようになったのは、平安時代になってからです。聖徳太子自身も、中国語読みの『イーホウウエイクイ』を日本訛りの発音で読んでいたと考えられています。
No.4
- 回答日時:
これに関しては空海が参考になりますが、彼の場合途中で海賊と間違えられ足止めを食らい、大使藤原葛麻呂にかわり、福州の長官へ嘆願書を代筆して疑いを晴らしてますから、この時点で文章に関しては問題なく読み書きできたことが伺えます。
ただ我々でもそうですが、外国語の読み書きが出来ても、会話が出来ないことはままあります。
ところが入唐後暫くして、青龍寺の恵果和尚を訪ねて教えを受けてますので、この時点では専門用語も理解できたわけで、ネイティブ並みの会話能力はあったと推察します。
幾ら天才でも事前の勉強が無ければ、日常会話はとも角専門用語を駆使して会話をすることは無理ですから、日本で語学教育を受けたと考えます。
日本では朝鮮半島と交流は深く、高句麗や新羅などの情勢で、南朝鮮の王族なども亡命してきてますから、そうした亡命した知識人の子孫から漢語を習ったと思います。
朝鮮は中国と接してますから、知識人であれば中国語を話せても不思議ではないですし、日本への亡命者は知識人や技術者など、最先端の教育を受け、テクノロジーを持った方ですので、日本で教育関係の役割を担ったかと。
No.3
- 回答日時:
当時は「駅前留学」のような学校はなかったからみなさん「書籍」で学ぶしかなかったようですね。
しかも中国語の参考書もほとんどありませんから、原文の「漢籍」を「漢文」として読み下したわけです。
さらにその「漢籍」自体が希少だったわけで、自ら漢文を書くという勉強方がとられたと聞き及んでいます。
で、そういう方々の漢文読解力&漢作文力に長けた人物をを選抜したわけです。
ですからいざ唐に言っても会話はままならず、当初は筆談にて意志の疎通を図ったと思いますよ。
ただし、遣唐使に選ばれるような人はもともと超優秀な方が多いので、しばらく滞在すると、完璧に中国語を自分のものとして、中国で高位の役人になるような方も出てくるわけです。
No.1
- 回答日時:
当時の日本の、知識層は、漢文が読めるのが必須です。
そもそも平仮名などは平安中期以降、それも女性が使う文字で、基本的には朝廷の公文書などは漢文です。また中国も現在は、漢字を簡単な略字体にしていますが当時は漢字ですから。
日本と中国は、文字という意味では共通言語だったといっても過言ではありません。読み方などはすぐに覚えられるのでそんなに苦労はなかったと思われます。
もちろん、これは日本の当時の朝廷に使える身分の人や高僧レベルの人間という意味ですが。
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