あなたの習慣について教えてください!!

「信仰者」の仏像の拝観のしかたについて。
あくまで仏様を参拝にきた信仰者でも「仏像」としてよく鑑賞したいと思う事はあると思います。
「単眼鏡」を用いる事でより精緻に鑑賞する事が出来ます。
しかしながら、仏様の視点で考えれば、単眼鏡まで持ち出して顔をジロジロ見られる事に他ならず、「不敬」になるのではないかと思ってしまいます。
あくまで、信仰者として仏様に祈りを捧げる為に参拝し、その際に単眼鏡を用いて「鑑賞」するのは不敬に該当すると思われますか?
又、神社における神様においてはどうでしょうか?
理由も併せてお願いします。

A 回答 (6件)

寺や神社が収蔵している仏像や神像が、X線調査や科学的調査されていることがあり、制作年代や修理の経歴の調査、制作方法、作者の確定に使われていることがあります。

 多くの場合、そういうような子細で厳密な調査は、寺や神社に断りなく行われるものでも、強制執行されるものでもなく、寺や神社の最高責任者兼宗教上の「偉い人」の了解・許諾の下で行われているでしょう。 宗教上の「偉い人」が、仏像や神像を科学的に調べるのは不敬でよくないと断じているのであれば、そのような調査はできないです。
「専門家ならば直接に触れて調査しても不敬ではないが、信者が参拝位置から単眼鏡で覗くのは不敬である」ということは、なさそうです。
ただし、一種のマナーはあるので、隣で一心不乱に像に向かい祈っている人がいるときに、大きな単眼鏡を利用して覗くのは、配慮がないです。 しかし、老眼・近眼・乱視であろうがさほどでなかろうが眼鏡を使用して眺めるくらいは、マナーがないとは言われないでしょう。
著作権保護など利権がらみで、写真撮影が禁じられたり、他の参拝者などの迷惑を避けるためにフラッシュや探照灯を禁じていることはあるでしょうが、床に三脚や一脚を突いて単眼鏡を使用するなどにならなければ、不敬でもないでしょう。
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例えばの話ですが、お釈迦様が何万人と言う聴衆を相手に説法している所を単眼鏡や双眼鏡で見るのは不敬に当たるでしょうか。

むしろ熱心な信徒であればあるほど「お釈迦様のお姿をもっとよく見たい」と考えて単眼鏡や双眼鏡を使おうとするのは極めて自然なのではないでしょうか。

「鑑賞」と言う表現ではあるいは「不敬」と感じる人がいるかもしれませんが「お姿をよく見る」と考えれば問題ないのではと思います。
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>不敬に該当すると思われますか?


思わないね。

仏像とは教義の象徴である。
ただ「涅槃寂静」と言ってもそれがどういう境地かどうすれば至れるか雲をつかむような話だから、せめてその穏やかな顔や品のある姿で分かりやすく伝えようとしたのである。
いくら有難く拝んでも教義を会得できなければ意味がない。

そういう鑑賞はブッダも望んでいない。
ブッダは病気で苦しむ弟子が自分の像を刻んで拝んでいると聞き言った。
「私の像を拝んでも意味はない。教義をよく吟味しなさい」
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仏舎利を納めたりしていることもありますのでじろじろみてどうかな、と、思わなくも無いですが、美しい彫りや、金箔などが残っていたりする

と、じっくり見たくなりますよね、それで、無意識に手を合わせたくなるのが人の心の美しさではないかと思います
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仏像は人間が人の形に彫ったただ木像です


それを拝むのは人の自由です

相手は木です、それを彫ったものです
ので彫った人彫刻師を拝むべきです。

今新しい時代の幕開けです
令和=霊和です,霊との和合の時です
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じっくり見てはいけない仏像は「秘仏」として、全く開帳されないか、特定の日だけしか開帳されません。



開帳されているということは、じっくり鑑賞して欲しいということですから、単眼鏡を使おうが双眼鏡を使おうが全く構いません。むしろじっくり鑑賞することこそ信仰心の発露でしょう。

神道の本尊は基本的に由緒ある一品モノであることが多いので、原則的には開帳されませんが、その点、仏教の仏像はそもそも拝んだり見てもらうことを前提に制作されたものです。
何の問題も無いでしょう。
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