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幕末の長州藩で、吉田松陰本人と長井雅楽は 仲が 良かったのですか?悪かったのですか?
吉田松陰は ペリーの黒船でアメリカに密航しようとし、長井雅楽は 松陰の死の2年後ですが「航海遠略策」を提唱しました。
2人が 仲が悪かったとしたら、吉田松陰は反幕で 長井雅楽は親幕だったから?

A 回答 (2件)

吉田松陰と長井雅楽の仲は、良好だったと考えられます。



吉田松陰は、長井雅楽を「長井先生」と呼び、尊敬していたと伝えられています。長井雅楽も、吉田松陰を「松陰君」と呼び、弟子として可愛がっていたようです。

二人は、ともに長州藩の藩士であり、尊王攘夷の志を同じくしていました。吉田松陰は、長井雅楽の「航海遠略策」を高く評価し、その実現に尽力しようとしていました。

しかし、二人の間には、ある程度の意見の相違もあったようです。

吉田松陰は、尊王攘夷の実現のためには、幕府を倒すための武力行使が必要だと主張していました。一方、長井雅楽は、開国を受け入れ、西洋の技術や学問を取り入れることで、日本を強くし、幕府を倒すことができると考えていました。

この意見の相違が、二人の仲を悪くしたとは考えにくいでしょう。むしろ、二人が互いの考えを尊重し、議論を重ねることで、尊王攘夷の実現に向けた新たな道を模索していたと考えられます。

また、二人は、それぞれ異なる立場から、尊王攘夷の実現に貢献しました。吉田松陰は、多くの門下生を育成し、彼らが尊王攘夷の志士として活躍する礎を築きました。長井雅楽は、藩政改革に尽力し、長州藩を攘夷のための拠点とすることに貢献しました。

二人の活躍が、幕末の日本に大きな影響を与えたことは間違いありません。
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同じ藩ですから、仲が悪いという話は、残ってません。


しかし、良いというほどの親交はなかったでしょう。
松陰は、藩の外にいるか、牢獄の中にいるかで、まぁ、困ったちゃんとみてたでしょう。
時代の流れが急な時期でしたから、松陰の生前はまだ倒幕うんぬんという思想はありませんでした。
両者ともに、長州藩のためにという点では一致しています。
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