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加藤周一はお好きですか?

教えて下さい。

A 回答 (1件)

高校や大学で(文系理系を問わず)、先生たちは単に各科目を教えるだけではなく、ポツリポツリと教養について語ることがある。

そんなとき加藤周一の名前が挙がり、『羊の歌』(岩波新書)などが推薦されていた。私も本屋さんで買い求めた。
あれから数十年もたって、本は手もとに無く、記憶もおぼろげになっている。それでも私は、ところどころを思い出すのである。

『羊の歌』(1968年)は自伝的エッセイだ。生まれた1919年(大正8年)がひつじ年だったことにちなむ。生来、争いを好まない羊のような男で、羊の傑物(けつぶつ)というのが想像しにくいように、私も日本人の平均的な一人であると、加藤は謙遜する。
しかし、彼は東大医学部を出た医学博士なのだった。父親も東大医学出の内科医で、青山胤通の弟子だったという。胤通といえば明治医学界の大物じゃん。つまり加藤のとこは医者の中でもエリートなのである。ただし、父は東大内科医局を辞めて開業して、あまり繁盛してなかったらしい。

とは言え、日本人の平均ではなかった。加藤は一中・一高・東大のエリートコースへ進むのだが、その前の小学校は普通の公立校だった。学校の友達が遊びに来て、加藤の母親がケーキと紅茶でもてなす。友達は「お前のおっ母(かあ)はいいなあ」と、感に堪(た)えたような声を出したという。百年前の日本の庶民には、「ガキの分際でケーキと紅茶」が珍しかったのである。おやつといえば、ふかした芋や炒った豆の時代だったのだろう。

当時、小学校は6年・中学校は5年だったが、超優秀者はそれぞれ1年ずつ短縮する五修・四修というのがあった。加藤は五修をやってのけるが、四修には失敗して、父から叱責されたという。どんだけレベルが高い家系なの。翌年無事一高に入った。

まあ、この本には加藤らしく思想遍歴の考察もあったと思うが、私はあまり思い出せない。一高ではテニスに熱中して、練習の後の飯はうまかったとか、そんな他愛無いエピソードのほうを覚えている。
もう一つ思い出すのは、日本が戦争に負けて東京が焼け野原になった後のことである。東大内科教室は長野県の上田に疎開していたが、東京の本郷(ほんごう)へ戻ってきた。本が手もとになくて正確な引用ができないが、加藤は次のように書いている。
「焼き払われて見通せるようになった東京の上には、本当の空が広がっていた。戦時中の美辞麗句のプロパガンダはもう無かった。本当の空は、たとえ焼け跡であっても、うそで固めた宮殿より美しいだろう。この時ほど私が希望に溢れていたことはない。私はまだ何事も始めていなかったのだから、凛々たる勇気の挫(くじ)けようもなかった。腹は常に空いていた。しかし人はパンのみにて生くるものではない」。
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この回答へのお礼

ごていねいに、ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/29 14:03

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