プロが教えるわが家の防犯対策術!

ユダヤ教・キリスト教の方にお伺いします。

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1.旧約 (創世記1:1)はじめに神は天と地とを創造された。
  からの
  (創世記2:4)これが天地創造の由来である。(後略)
  ここまでは「神」が主語です。

  しかし(創世記2:4)(前略)主なる神が地と天とを造られた時、
  からの
  (創世記3:23)そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
  ここまでは「主なる神」が主語です。

2.(創世記3:22)主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。
   主なる神は「われわれ」と仰っています。

質問1
上記1.2より、神と主なる神は別で、主なる神は「われわれ」と仰っているのですが、
何故に一神教なのですか?

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3.(創世記4:14)(前略)わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
   そしてカインはノドの地に住み
  (創世記4:17)カインはその妻を知った。
   とあります。

質問2
カインの妻はどうやって存在したんですか?サルか何かですか?
いや、4:14には「人はだれでもわたしを」とある。サルではなく人です。
この「ひと」はどうやって存在したんですか?

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4.創世記3章 アダムとエバがリンゴ(善悪を知る木の実)を食べる部分です。
  人は「女が食べさせた」といい、女は「へびが食べさせた」と言います。

質問3
原罪とは、神の命に背いた事よりも「言い訳をしたこと」ではないのでしょうか?
神の命に背いた事もあるでしょうけれど、言い訳の方が罪が重いのではないでしょうか?

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5.(創世記 1:4)神はその光を見て、良しとされた。
   神は、自分のみわざを確認されています。
  (創世記2:18)また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
   と、けものと鳥をお創りになられます。しかし
  (創世記2:20)(前略)人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
   とあります。

6.(創世記6:6)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
  (創世記6:7)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

質問4
上記5.6.より、神様たちが万能なのは、自分のわざを見直し、必要なら手直しをするからではないのですか?
つまり、PDCAサイクルを回すから万能なのではないのですか?
後年、イエスも「悔い改めよ」と同じことを仰っています。

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7.(創世記4:8)カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
  (創世記4:9)主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

質問5
アダムとイブが林檎を食べて犯した原罪以外にも、主なる神にウソをついたという
「第二の原罪」があるのでは?
質問1にも関係しますが、一神教というのはひとがウソをついてるのでは?
いまだに「第二の原罪」(仮称)はひとから持ち去られていないのでは?

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8.ノアの洪水の後、ノアは農夫となりぶどうを作り、ぶどう酒を作ります。
  ぶどう酒を飲んで酔って裸で寝てしまいます。
  カナンの父・ハムが兄弟に告げて、セムとヤペテが着物をかけます。
  (創世記9:24)やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、
  (創世記 9:25)彼は言った、
  「カナンはのろわれよ。
  彼はしもべのしもべとなって、
  その兄弟たちに仕える」。

  自分の孫を呪うって、人間のやることですか?

質問6
ノアが孫を呪ったのは、第三の原罪ですか?

質問7
創世記ではなく出典は割愛しますが、聖櫃(アーク)を作り金で飾り熾天使ケルビムを飾ります。
中に入っている石板には十戒が納められ「偶像崇拝をしないこと」と書いてありますが、
見事に矛盾しています。
これは、第四の原罪ですか?

出エジプト記には「神に指示された通り」とありますが、矛盾に気づくかどうか、
神はひとを試されたのでは?
(アブラハムに「子供を生贄にせよ」と仰って試された、という実績があります)

質問8
イエスが十字架を背負って持って行ってくださったという原罪は結局どれですか?

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聖書の引用元:口語訳旧約聖書(1955年版)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/

質問者からの補足コメント

  • 聖櫃のケルビムについて

    聖櫃には十戒を書いた石板が納められ、石板に記載された内容(ソフトウェア)は現在に伝わっております。
    肝心な部分はソフトウェア(十戒の言葉=主なる神との契約内容)であって、それをきちんと履行することこそ重要ではないのですか?
    十戒の入れ物に過ぎない聖櫃を飾り立てて、わざわざ「神の臨在を示す」必要はどこにあるんですか?
    きちんと履行しないから、イエスが出て「仕切り直すからちゃんとやれ」と仰ったのでは?
    そういう図式ではないのですか?

    であれば、聖櫃を飾り立てたことは「悔い改める」べきポイントではないのですか?

    イエスは「律法学者のいうことは聞きなさい。いいことを言ってるからである。」「しかし実行が伴わないのが悪い」と仰いました。新約のどこでしたっけ?
    その通りではありませんか?

    と私は思うのです。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/06 18:33
  • 皆様へ補足1

    創世記(6:1)人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、(6:2)神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
    「人」と「神の子」が出てきます。創世記6章に主なる神は「主」と記されています。
    じゃ、ここに出て来る「神の子」とは誰なんでしょうか?

    これも「人」はアダムとイブの子孫、「神の子」は主なる神じゃない方の神が造ったひとのこと。
    こう考えるとすっきりします。
    「神と主なる神は別ではないか」「なぜ一神教なのか」という疑問の根拠に、この話も追加いたします。

      補足日時:2024/04/06 18:46
  • 皆様へ追加質問

    質問9
    我々人間は、主なる神が未熟な神でありそれがため出来損ないになってしまったことを認め
    でも「仕方ない」と、主なる神を赦す必要があるのでは?

      補足日時:2024/04/06 20:11
  • No.2さま 
    悔い改めよ、の具体例について。

    あなたの言葉通り「原罪とは人間が罪を犯してしまう性質そのものである」と定義します。
    であれば「主イエスが十字架と共に、過去・現在・未来の人間の原罪を背負ってくださった」
    という教義から考えると「主イエスは罪を犯す性質を持っていってくださった」となり、
    イエス以降の人間は罪を犯さない筈ですが?
    矛盾しているということは、現在のキリスト教の考え方がどこか間違っていることを意味します。
    (こういう弁証法を背理法といいます)
    どこかを修正する必要があるのでは?
    まずあなたの原罪の定義からコトバンクなどと異なります。これを真っ先にこれを疑います。

    そういう修正をしなさい、と「悔い改めよ」とイエスは仰ったのではないでしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/06 20:24
  • 回答者へ おことわり

    No3とNo4の回答は、私は削除依頼出してないのですが運営の方で削除したようです。
    確かに、相当に汚い言葉を使ってました。
    そういう言葉が出るということは、精神的に良くない状況だと思われます。
    もう一度落ち着いて、悔い改めるとはどういうことか、を考えてみてください。
    私は「悔い改めよ」と「カイゼン」「PDCAサイクル」は本質的に同じものだと思う。
    それをもう一度ご自分で考えてみてください。

    聖書によると、主なる神ですら悔いています。聖書にそう書かれている事実を認めてください。

    フランシスコ・ザビエルが日本人に論破されたという動画がいくつか出ています。
    その頃とちっとも進歩していないように思います。

      補足日時:2024/04/07 22:33
  • 主なる神が犯した原罪に付いて

    ・ひとをお創りになり、善悪を知る木の実を食べると死ぬであろう、と仰ったが、死ななかった。
     これは、主なる神がウソをついていた可能性があること。

    ・林檎を食べた時、烈火のごとくお怒りになったのでしょう。人間に呪いをかけたこと。
     ここは後にキリストをして「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と言わしめています。
     反省されているようです。

    ウソをついた事、呪いをかけたことは「主なる神が犯した原罪」ではないのでしょうか?
    主なる神は誰かにこれを告白し、赦しを受けたのでしょうか?

    父と子(キリスト)と聖霊は三位一体です。キリストが持って行った原罪とは、主なる神が犯した
    原罪だけで、人間の原罪は持って行ってくれなかったのではないでしょうか?

    そう考えた方がいろいろ辻褄が合うと思うのです。

      補足日時:2024/04/12 14:14
  • No11様

    すみません。御礼の宛先を誤爆いたしました。本来No12様に充てるべき内容をNo11様に書いてしまいました。お詫びして訂正させて下さい。

    以下本来の返信
    神は未熟ではありませんが、主なる神は未熟です。一発で決めたのと見直しているのと、6日目に再度見直してはなはだよかったのと、ノアの頃になって「ひとと生き物を作ったことを悔いる」と、雲泥の差です。この2者が同一なはずがない。つまり複数の神がいる、と私には思えるのです。
    逆にどうしてそこまで、同じ神であるという考えに縛られているのでしょうか?
    創世記を読んでください。

    もしNo11様がここで「なるほど」と思ったとしても、ネットを離れて仲間内にこの話をしたら「お前は何をたぶらかされたんだ」と元の考えに引き戻されてしまうのかも知れません。
    結局、主なる神が行った「カイゼン」はなされないままですね?

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/13 00:08
  • No19様
    創世記に神と主なる神が出て来る理由は、少なくとも2つ考えられます。
    1.同一神格だが聖書の著者が異なり別の記載になった
    2.本当に別の神格だった

    説1であれば、ノドの地にいた人々やカインの妻の存在が説明できません。
    またノアの洪水の直前に記載があるネピリム(ネフィリム)の部分ですが、ひとの娘と神の子が別に出てきます。
    これは、ひとが「主なる神が創った末裔」、神の子が「神が創った人の末裔」と解釈すると辻褄が合いますが、同一説ではどう説明するのでしょうか?
    ネフィリムは英雄(共同訳)や勇士(私の引用元)、the mighty men(英語)とあり、悪い意味ではない。が主なる神は全滅させるという選択をします。悪がはびこっていたからです。
    悪の元というのは、主なる神の末裔がもたらしたものではないのでしょうか?

    ここからも、説1は違うのでは?という疑問が拭えません。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/04/13 19:38
  • プンプン

    ベストアンサーを選ばずに閉めます。

    神と主なる神が同一、かつノドの地の人を説明できる一つの仮説   ←所詮仮説です
    主なる神はひとを創った後「助け手を造ろう」と創造されました。
    で、ひとは全ての家畜と空の鳥と野のすべての獣に名を付けたとあります。
    つまり主なる神は家畜を創造されたわけです。

    ひとと交雑可能な亜人とでもいうべき家畜がいて、
    それがノドの地のひとやカインの妻になった。
    こういう可能性は考えられます。

    もちろん、亜人?の方が優れていた可能性も十分にあります。
    エデンの園で善悪を知る木の実を食べたわけでもないので、いわゆる原罪も持ってないでしょう。
    であれば、ひとを創ったあと「改善すべき点」が見つかり、そこを対処されたのでしょう。
    PDCAサイクルを回していた筈、という結論にも回帰します。

    例えば、こういう説明を求めていたのです。
    得られそうにないので閉めます。

      補足日時:2024/04/14 17:32

A 回答 (17件中1~10件)

ご質問にお答えします。



まず、「原罪」とは、個別具体的な罪を犯すか否かに関わらず、人間が生まれつき持っている、罪に傾いた性質を指す言葉です。
従って、どれが原罪か?とか何番目の原罪か?などと問うことは無意味です。
このことを前提にお考えください。

質問1についてですが、「神」と「主なる神」は同じです。
聖書学者のうち、いわゆる「文書資料仮説」を支持する人たちは、創世記1章1節~2章4節前半までと2章4節後半以下では元の資料が異なると考えます。つまり、創世記の初めの部分には、神をただ「神」と書きたがる人の残した資料を引用しており、続く部分には、神を「主なる神」と書きたがる人の残した資料を引用しているというわけです。
これは聖書の史料批判の重要な論点ですが、一般の読者にとってはどうでもいいことです。

神が創造の際に「我々」と言っているのは、ただ一人の神を信じる宗教の聖典としては奇妙ですが、その謎を解くヒントは、神が自分を「我々」と呼ぶのは人間の創造の際に限られる点にあります。
1章27節で「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(新共同訳)と言われています。
つまり、人間が男女という異質だが本来一体である(2章24節)存在、お互いに不可欠であり、互いに支え合い、助け合うべき存在として創造されたのは、神に似せて造られたからだと聖書は教えているのです。
言い換えますと、人が交わりの中に生きる者として存在しているのは、実は神がご自分の中に交わりを持つ者であるからに他ならないということです。
その交わりとは、言うまでもなく父・子・聖霊の交わりです。
聖書の神は唯一無二の存在ではありますが、決して孤独ではなく、父なる神と子なる神キリストと聖霊なる神という三つの位格が相互に交わるという本質を有しています。これを「三位一体」と言います。
誤解されやすい教義ですが、三体の神ではなく、三つで一つの神なのです。
神を信じる者はキリストを通して罪を贖われ、聖霊を通して聖化されますが、それはこの三位一体の交わりの中に入れられるためです。キリスト教の教える救いが目指しているのはその点なので、聖書は人間の創造の場面で神に「我々」と言わせているのです。

質問2についてですが、カインの妻やカインがエデンの東で出会う人々がどこから来たかを説明する必要はないと思います。「神が創造なさった」と言えば済むことだからです。
もっとも、カインの父アダムは1000年近く生きていましたし、カインとアベルとセト以外にも子どもをもうけたのですから、カインはただ単に自分のきょうだいに逢っただけなのかもしれません。
しかしそもそも、アダムとは「人間」を意味する言葉なのですから、人類の始祖としか見ないのは単純すぎる解釈です。まして、アダムの役割をカインの父親としての立場に限定するのは、創世神話の登場人物に対する非常に狭い見方であると言わざるを得ません。

質問3についてですが、上で申し上げた通り、原罪は個々の罪とは別の概念だからこそ「原罪」と呼ぶのですから、アダムとエバの犯した罪とは別に考えましょう。
それはともかく、神の命に背いたことよりも言い訳をしたことの方が罪が重いというのは一理ありますね。二人は素直に謝れば良かったのですが、そうせずに他者に罪を擦り付けようとしたのはなぜか。まさしくそれが原罪のなせるわざだと言えます。人間は生まれつき罪を犯す方向に傾いているというだけでなく、罪を自覚せず、悔い改めることを拒む傾向を持っています。神が人の罪を告発する時は立ち帰るよう促す時なのですが、人は皆、神の憐れみを理解できなくなっています。それが原罪を負う人間の現実なのです。

質問4についてですが、PDCAサイクルとかどうでもいい話を混ぜるな。
本当に自分の聞きたいことだけを聞きなさい。

質問5についてですが、嘘をつくのも原罪に原因があります。
真実を全てお見通しの神に対して隠し事ができると思い込む、
その愚かさに人はなかなか気づかないのです。
「一神教というのはひとがウソをついているのでは?」→意味不明です。
上述のとおり、「第二の原罪」は存在しません。
と言うか、「第二」と言うなら「原」の意味は何なんだってことです。
論理的に成り立たない言葉ですよね?
質問6の「第三の原罪」についても同様です。

質問7についてですが、ケルビムは神の御臨在を示すものであって偶像ではありません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

まず、PDCAサイクルについて
・「神」は見直したらよかった。手直しする必要はなかった。
・「主なる神」は見直したら「助け手を作ろう」と後から創造された。
・更にノアの洪水の時は「創造したことを悔いる」と聖書に書いてある。
 これが「反省し行動を改める」以外の何者だとおっしゃるんですか?
 ですので、現在の語彙でPDCAサイクルと説明しました。
 神も主なる神もイエスも、PDCAサイクルを回し、回せと仰った。
 現に、アダムとイブが林檎を食べた時主なる神はアダムたちを呪った。
 右の頬を打たれたら激怒した、みたいなものです。
 それがキリストの時代になると「右の頬を打たれたら左を出せ」とまで進歩していらっしゃる。
 主なる神の成長を認めるべきではないでしょうか?

その他、まだ納得できない点
・原罪は蛇にそそのかされ主の命に背いた事と言われています。
https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E7%BD%AA-60495
・固有名詞で言うと「神」はエロヒーム「主なる神」はエホバ・ヤハウェ・YHVHと言われている説明は?
・そもそも創造された順番が違います。「神」は人を最後に創り、「主なる神」は最初。
・創世記には主なる神が「見よ」と仰っています。誰に向かって「見よ」と仰っているんですか?人間以外の存在=別の神ではないですか?
それに「ひとは我々のようになった」とあり、我々の中にひとは入っていません。ご説明には「小学校から国語力を見直せ」くらい言いたくなります。

貴方は私にウソをついたのですか?
なおかつPDCAサイクルの部分は全然説明になっていない。

・上記より「神と主なる神が同一」とは思えず、カインの妻は主なる神以外が作ったひとという疑問が拭えません。
「主なる神」がアダムとイブ以外を創造したとは聖書に書いてありません。
「神」が創造したとはあります。
「神が創造した方の人間」がカインの妻ではないのですか?

尚私のこの「お礼」の文は、あなたの右の頬を叩くようなものです。
これに対しあなたが怒りを覚えたのなら、あなたはイエスのみ言葉通りの
ことを行っていない、つまりアンチキリストではないでしょうか?

お礼日時:2024/04/06 17:59

ご返信いただきありがとうございます。



PDCAサイクルについてですが、
チラシの裏にでも書いてればいいんじゃないですか。
私はあなたの暇潰しの遊びに付き合いたくはありません。
神の成長について語る前にあなた自身が成長すべきですよね(゚∀゚)

「蛇にそそのかされ主の命に背いたこと」は原罪の定義じゃなくて
単なる説明ですよね?
それとも、コトバンクの編集者は神学者なんですか?

「神」はエロヒーム、「主なる神」はヤハウェと言われている説明は?
と仰いますが、原語を知っているならなぜ「神」と「主なる神」と書き分けられていることについて質問したんですか?
おかしいですよね?
それに「固有名詞で言うと」と書いておられますが、エロヒームの原義は普通名詞としての「神」ですよ。

「そもそも創造された順番が違います」と仰いますが、2章4節後半以下の創造物語は順番について何も書いていませんし、厳密に言えば、2章4節前半までの創造物語も、順番を書いているのではなく、どの日に創造されたかを記しているだけです。
それぞれの著者がそれぞれの関心に従って書いているのですから、「神」による創造と「主なる神」による創造が矛盾するわけではありません。

「見よ」というのは読者に向かって言っているに決まっているじゃないですか。
なぜ別の神の存在を想定する必要があるんですか?
屁理屈を捏ねるのはやめましょうね。
あなたがしているように、神から語りかけられているのに無視してしまうのも、原罪のなせる業です。

「それに『ひとは我々のようになった』とあり、」以下の文は全く意味不明です。
おそらくあなたは私に論破されたのが悔しくて悔しくて、とにかく何か言い返してやらねば気が済まないと、頭に血の上った状態で、自分でも訳の分からない文章を思わず書いてしまったのでしょうね。
まあ、若いから仕方ない(*´▽`*)

「小学生から国語力を見直せ」ですって?
あなたは日頃からそう言って叱られてるんでしょうね。
素直に反省することをお勧めしますよ。

「貴方は私にウソをついたのですか?」とお書きですが、そうやって回答者を嘘つき呼ばわりすることで自分のちっぽけなプライドを保とうとするのは惨めじゃありませんか?

「PDCAサイクルの部分は全然説明になっていない」とのことですが、
それは当たり前です。
説明してほしかったら、まずあなたが説明するに値する中身のある話をすることです。
坊やにはできるかな?

「疑問が拭えません」とのことですが、それは仕方ありません。あなたの主張は、神を信じたくないのでどうにか聖書に難癖付けてやろうとする浅ましい魂胆から生まれたものだからです。
それもまた原罪に由来しています。

「主なる神がアダムとエバ(イブではない)以外を創造したとは聖書に書いてありません」とは、あなたの仰るとおりですが、「創造しなかった」とも書いてありませんよね。
神は天地の全てをお造りになった創造主なのですから、存在するものは全て神が創造なさったのです。
それが唯一真っ当な理解です。
なぜあなたは捻くれて他の神を想像するのですか?

もしあなたがちゃんと聖書を読んだことがあるなら、「神」と「主なる神」の使い分けが創造物語に限った話ではないことくらい分かるはずです。
両者を別々の存在だと考えた場合、話が成り立たなくなりますよね。
あなたはそれをどうやって説明しますか?

あなたは私があなたに怒りを覚えると想像していますが、
鏡をご覧なさい。
怒り狂っているのはあなたの方ですよね。
私はただあなたをカワイソウに思うだけです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

だいぶお怒りのようですね。冷静さが欠如しています。
先のNo1の「お礼」の最後の文読みました?

旧約でも新約でも人はPDCAサイクルを回さない。
そこで主なる神はムハマンドに啓示を与えたのではないですか?
でも十字軍でそれを責め滅ぼうとしてしまった。

次の手でガリレオ・ガリレイやチコ・ブラーエ、レオナルド・ダ・ビンチ
といった面々を使わし、科学を興らせたのではないでしょうか?
科学の重要な柱に「自己修正性」つまりPDCAサイクルを回すことがあります。
つまりは、主なる神が行ってきたことそのままではないのでしょうか?
(となると、ガリレオたちもまた預言者か?という話にもなります。
 私はそう思っていますが、話が脱線しますのでこの辺で)

PDCAサイクルは、あなたがどう思うと重要です。
あなたはイエスが仰った「悔い改める」ということをこれまでやってきてないのでは?
PDCAサイクルを軽視している時点、或いは「悔い改める」と本質的に同じ、
と気づかない点で、そう読めます。
トヨタみたいに「カイゼン」という名前でもいいです。

☆旧約聖書による限り、主なる神は完全ではありません。
 自分が生き物を創造したことを「悔いる」ということを行っています。
 旧約で「主なる神は完全ではない」と読めない方がおかしい。
 一発で決めた「神」とは雲泥の差があります。
 主なる神とは未熟な神ではなかったのでしょうか?

☆また「原罪とは人間の持つ罪に傾く性質」ということにします。
 その人間をお創りになったのは主なる神です。
 主なる神が未熟だったから、そういう性質を持った人間ができた。
 それを後から悔いた。
 こういう事ではないのですか?
 「あなたの言葉から」考察するとこうなるんですけど?

☆未熟だったとすると、狡猾な蛇=神に反する存在が生まれてしまったのも
 説明できませんか?
 尚あれはサタンではない。「主なる神が造った生き物」と明記してある。


確認です
主なる神は未熟だったが成長している。
PDCAサイクルを回し、カイゼンし、何よりご自身が悔い改めている。
そう思いませんか?

お礼日時:2024/04/06 20:05

沢山ありすぎですね、質問が。


そもそも、キリスト教の何の聖書を読んでこうなっているか、分かりませんが、聖書は預言者が書いたものとされてます。
だから、不完全なんです。ここ重要なんです。
不完全な人間が完全な神のことをたった一つの本に書けることができましょうか?
不可能です。
しかも、キリスト教はモルモン、エホバ、統一教会、カトリック、プロテスタントなどなど、宗派が多くあるのは知ってると思います。
宗派が同じだと歓迎し、宗派からぬけると仲間意識が無くなる。

私はそういうのが嫌いだったから、キリスト教でありながら、
隠れキリシタンとなっています。
聖書は不完全です。
キリスト教もの宗派も人が作ったものですので、不完全です。
不完全な人がいくら集まっても、完全な神のことを書きあげるのは
不可能ですよ。
聖書がどうのこうのではないんです。
あなたがどう思い、どう信仰するかが正解です。
ごめんなさい、貴方の質問に全然触れてなくて。
少しでも貴方のためになってくれたら良いなって思ってます。
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この回答へのお礼

聖書は不完全
納得できるご意見でした。ありがとうございました。
納得いかないのは、聖書が完全と思ってる人の思考回路です。

それと私の疑問の1個でもいいですが具体的にお答えいただければと思います。
・キリスト教は何故一神教なのか。
・原罪は神の命に背いた事よりも、言い訳をしたことの方が罪が重いのではないか?
・聖書によると神様もPDCAサイクルを回してると思う。どう思うか。
・第二、第三の原罪はあると思うか?
こういう所にお考えをいただければと思います。

お礼日時:2024/04/11 18:37

質問1は「諸説あり」でしょう。

三位一体の考え方からいわゆる三位神だと考える立場もあれば、天使を含めて言われたとする考え方もあります。

質問2の「カインの妻」に関しては単純に「アダムとエバの子供」と考えていいでしょう。アダムとエバからすべての人類が生まれたとする考え方から言えばカインの妻も当然アダムとエバから(orその子孫から)生まれたと言う事になります。
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この回答へのお礼

神と主なる神をどう扱うか、は諸説ありだと思いますが、
なぜ一神教なのかが判りません。
後のキリスト教にて、父と子と聖霊が三位一体であるとされる。
それと同義で神と主なる神は一体である。こういう意見でいいでしょうか?
そうすると、人間と生き物を作った順番が一致しないという問題が出てきます。

聖書によるとアダムとイブの子は最初の子がカイン、次がアベル。カインはアベルを殺し追放され、ノドの地にすんだ。その後アダムとイブには、アダムが130歳の時にセツという子供が生まれているようです。
恐らくこの3人だけ、と思われる描写と、それ以外にも子供をもうけているという描写両方あります。

カインは追放される時に主なる神と話していますが、
(創世記4:14)(前略)わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
とあり、ノドの地の住人はそこそこ数が多いような描写となっております。
(創世記4:17)(前略)カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。
とあります。町ができるほどの人数がいたということになります。
従って、アダムとイブの他の子どもという説は考えづらいです。

これらをまとめると、神と主なる神が別で、神が造った人がカインの妻の一群、主なる神が造ったのが「ひと」と「女(ひとによってイブと命名される)」という解釈に私は至ったのです。
が、一神教を譲らない人ばかりですし、イブの妻がどうやって存在したのかを明確に教えてくれる人がいません。

カインの妻とは、アダムとイブの他の子供じゃないのか?という説には納得はできないものの、合理的解釈を示してくれたのはNo6様が初めてであり、お礼申し上げます。

お礼日時:2024/04/11 18:58

キリスト教は何故一神教なのか。



一神教というのはちょっと慣れない表現の仕方ですよね?
お察しします。神が一人しかいないのは、唯一真理も真なる事実も、現実も、「答え」は、「一つ」しかなく、神がもしも2人いたとしたら、
何か不完全だから2つに分かれたという解釈ができてしまいます。
理解しにくければ、一神教を信じなくても良いのですよ。
聖書のヨハネの黙示録に、神はαでありβでありγであると書いてる箇所があります。
完全なる神は、「完全でなければならない存在」なんです。
だからといって、それに疑問持ったり、信じないからと言って、罰せられることはありませんから、心配しなくてもいいですよ。

・原罪は神の命に背いた事よりも、言い訳をしたことの方が罪が重いのではないか?

そうですよ。よく読んで、考えているのですね。
神が、命にそむいたくらいで原罪にさせるわけがありません。
アダムとかイブが、へびもそうですが、人のせいにして、自分を正当化していることに神は怒ったのだと思います。
これが原罪です。

・聖書によると神様もPDCAサイクルを回してると思う。どう思うか。

うーん、すみません。PDCAの意味が分からないです。

・第二、第三の原罪はあると思うか?
こういう所にお考えをいただければと思います。

第二だろうが第三だろうが、人それぞれ罪は小さくても大きくてもありますからね。
いちいち聖書に従わなくてもいいです。
それを第二第三の原罪と語る人もいると思いますが、キリストや神からみて、原罪を持っていた人間は創世記のアダム夫婦でしょうね。
私なりに一応書いておきましたが、何か不明な点がありましたら、
また質問してもらっていいですか?私のような輩で良ければとは思いますが。
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この回答へのお礼

PDCAサイクルとは、P:Plan(計画)/D:Do(実行)/C:Check(チェック。問題があるかどうか。あったらどういう問題があったか、を確認する。)/A:Action(改善策を検討する)→再度Pに戻る。
これを繰り返し(だからサイクルという名前がついている)、問題点がなくなるまで試行錯誤・改善を続けるというものです。

聖書で言うと、創世記にて(神の方が)それを見て良しと言われた、の部分ですが、みわざを行い(D)確認して(C)問題が無かったので良しと言われた(Aは不要だった)。こういう事です。
更に6日目の終わりには全体を確認されて(C)「はなはだよかった」(A不要だった)とあります。

(主なる神の方が)ひとをお創りになったが(D)、文中にはありませんが確認されて(C)、その結果助け手を作ろう(A)という結論に達しました。
文中にはないですが何を造ればいいか検討されたと読みます(P)。その結果野の全てのけものなどをお創りになり(D)文中にはないですが確認され、その結果人にはふさわしい助け手が見つからなかったという結果になっています(C)。
次なる策を考えられ(AとP)、人を眠らせてあばらぼねから女をつくり(D)もうこれ以上の改善策が思いつかない等だったのでしょう。ここで終わられています。「良かった」という判断は聖書に記載されていません。

更に創世記6章には、主なる神は地上に人を造ったのを悔いて、心を痛めた、とあります。お造りになったものは失敗作ということだと思います。で、洪水で全滅させる計画を立てられます。
こういう部分も、PDCAサイクルと読まざるを得ません。
これは、主なる神が結果を見てノアの時代に「やっぱり全滅が妥当」と判断されたのだと思います。

神と主なる神のこういう行動が、私はPDCAサイクルに合致すると読みます。


それが後世、イエスを遣わした時には「悔い改めよ」という言葉として
今に伝わっているということだと思います。

お礼日時:2024/04/11 22:05

質問の中にあった「第二の原罪」「第三の原罪」云々は原罪の概念と矛盾します。

それを罪と考える事はできるかもしれませんが、原罪の意味から言って「第二の原罪」云々はあり得ません。「第二の原罪」と言うのは言ってみれば「豪華な粗品」などと言ってるのと同じです。
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この回答へのお礼

豪華粗品というより、第二の初恋、第三の初恋の方が矛盾の向きが似てるかもです。

第一の原罪というのはアダムとイブが林檎を食べたこと。
それが子々孫々に至るまで根深く残っているから問題になるのだと思います。
もうちょっと言うと、神の命に背いた事と、言い訳・責任転嫁をしたこと。
私は後者の方が罪が重いと思っています。

で、私が言う第二の原罪は、カインが主なる神にウソをついた事。
弟を殺したことは?という疑問があるかも知れませんが、アダムとイブが林檎を食べて怒られたときに、主なる神に呪いをかけられます。
(創世記3:15)わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
つまり、肉親同士殺し合うようになれ、と呪いをかけられたのです。
その通りになったので、これは何が悪いかというと主なる神の呪いでしょう。
これは人間の罪だとは思いません。

が、それとは別に、ウソをついた事は罪になると思います。
この罪の重さは原罪の責任転嫁をしたことに勝るとも劣らないと思います。
実際、言い訳がましいことやウソをつくことは、現代人の中に残っています。
これを「原罪」の類と考えず、なんと考えるのだろうか。
そういう意味でこのウソは原罪の一つ、第二の原罪と言っていいと考えます。

林檎を食べたことが人類最大の罪だと思っていたが・・・もっと酷い罪を犯したようだ。
初恋で言うと、あれが初恋だと思っていたが、今度こそ本当の初恋に違いない。こういう感じです。


脱線
ホモ・サピエンスは今から7万年ほど前「虚構を信じる」力を得たらしい。
つまり見たことも聞いた事もない空想上の存在を信じる力です。
同時にウソをつくことも覚えたらしいです。サピエンス全史という書物にあります。
ウソをつくようになるその前は、言い訳じみたことを言って、それが通用した?ので責任転嫁を覚え、ウソを覚えたという順番ではないかと思います。
聖書の記載と一致する、と私は読みます。

脱線
仏教では悪いことをすると地獄に堕ちかねませんが、罪の重さは
殺生→盗み→邪淫→飲酒→妄言(ウソ)の順で重くなります。
ウソが一番罪が重い。
カインのウソはこれに似てるのではないか、と言う気もします。

お礼日時:2024/04/11 22:35

キリスト教(およびユダヤ教)がなぜ一神教かについては単純に「神が一人だけだから」と言う理由です。

前述の三位神も簡単に言えば「神とイエスと聖霊で一人の神」と言う所から「神が三人いるわけではない」と考えているわけです。

とは言え普通に考えれば「神とイエスと聖霊で一人」と言う考え方は無理があり過ぎます。実際三位一体の神を認める立場であっても「神秘」などと言ってごまかしているのが実情のようです。

なおキリスト教のすべてが前述のような三位一体の神を認めているわけではなく「神とイエスは別人(?)」とするシンプルな立場もあります。少なくともそちらの考え方の方が「キリスト教は一神教」と納得しやすいと思います。
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この回答へのお礼

創世記における神が一人(一柱)というのが、どうも理解できません。

なお、三位一体は過去説明いただきました。
父と子と聖霊は、人間世界で例えると神様株式会社の代表取締役。
そういう類推で考えてみてはどうだろうか、というご意見でした。
例えばそういうものかも知れない、と納得いきました。
今回は「三位一体っておかしいのでは?」という質問ではありません。

創世記の主なる神と神とは、生き物を作る順番も全然違いますし、
見直しをする必要があった、なかったも全然違います。
後のノアの時代(第6章)には主なる神は「人や生き物を作ったことを悔いる」と仰っていますが、神は第1章・第2章で「よしと言われた」後に最終チェックで「見直したらはなはだよかった」とあります。
この二柱の存在は全く別物だと読めます。
神は天地創造に慣れている手練れの創造主、主なる神は未熟な創造主。
そう読めます。

なのに、なぜ一神教なのか、というのが疑問なのです。


我々は、我々を作った主なる神が未熟な神であったことを認めて、
でも「仕方ないか」と、主なる神を赦さねばならないのでは?
こういう疑問も付きまとっています。

お礼日時:2024/04/11 22:48

鋭い指摘ですね。


私、実は聖書の創世記の何日に何を作ったというのは信じてない感じなんですよ。
神なのに、作った結果、必要だったから良しとしたり、ダメだったなんて
心理は、人間的ですよね。
聖書を書いたという預言者が、人間のイメージの限界だったんだと思います。
先ほども言いましたが、聖書は不完全です。
良いなと思うところだけ取り出して、学ぶという形をとればいいと思います。なんていうか、本当のキリスト教徒より、貴方は勉強してるなってびっくりしてますね。

PDCAサイクルと言えば、確かにその通りですね。
意味を教えてくれてありがとう。
貴方の指摘は的中してると思うよ。(^^♪
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
神様目線で見て「合格点」「不合格点」があったんだと思います。
それで「神」は良しと言われた。「主なる神」は良しとは言えなかった。
だから、この2者は別物で、なおかつ「主なる神は未熟な創造神」では?
と思います。

謙遜するわけではありませんが、普通に小説と論文と両方を読んでればこれくらいは読めるようになるはずだと思います。
また、良い文学作品はいろんな解釈が可能で、どの解釈も一理あるというものです。旧約聖書の創世記も私のような解釈は不可能ではないと思います。
それを、どうしてかたくなに拒否する人がいるのかが判りません。

神様たち(複数形です)がPDCAサイクルを回している以上、主なる神によって最初にできた人間は未熟な状態で作られたものでしょう。
善悪を知る木だって「食べるとあなたは死ぬであろう」と言ってるのにアダムもイブも死にませんでした。
善悪を知る木すら所定の性能を発揮していなかったようです。
狡猾な蛇みたいな変な奴ができたのも仕方がなかったのかもしれません。

我々が不完全なのは、主なる神が未熟だったためであり、われわれもいい加減「主なる神は未熟だった」ことを認め、主なる神を赦さねばならないのでは?
という疑問もあります。

お礼日時:2024/04/11 23:09

三位一体の神に疑問があると言うのでなければ、創世記を読んで「神はただ一人」(注:お礼コメントで書いていた『柱』と言う単位はこの場合はふさわしくないと思います。

神様を数える単位はどんな場合でも『柱』と言うわけではないはずなので)と言う事に疑問を持つ理由が分かりません。神が「われわれ」と言っている事については学術的にも「天使を含めて言っている」と言う考え方が十分成り立つ事は先に書いた通りですから、そこをクリアできるのであれば「神は一人と言うのはおかしい」と考えなければならない理由は何もないはずだと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「神」も「主なる神」もPDCAサイクルを回しています。
「神」の方は見直したけれど問題なく「よし、と言われた」で済んでますが、
「主なる神」の方はそうでもない。創造主として未熟です。それが記載されているのが創世記6章の「ひとと生き物を作ったことを悔いる」です。
であれば、その人間性ならぬ神性においても未熟だった可能性は大いに考えられます。

未熟であるが故、善悪の木の実を食べてひとが言い訳をした時、激怒されたのでしょう。呪いをかけてます。
いかに神様であってもこれはやっちゃいけなかったことだったかも知れません。
それを「神の原罪」と言うべきなのでは?と考えた次第です。
別の言い回しで「原罪の人間サイドの面」と「原罪の神サイドの面」と
言った方が判りやすいかも知れません。
売り言葉(ひとの言い訳)に買い言葉(呪い)かも知れません。喧嘩両成敗です。

まず、主なる神は未熟だったという認識から、No11様とは異なるとは思います。創世記6章を見て、未熟じゃないと言い張れるものでしょうか?
主なる神が後悔していらっしゃるので、我々人間も出来損ないであるのは仕方がない、と、主なる神を赦す必要があるのでは?
つまり、呪いをかけられたという「神の原罪」を赦す必要があるのでは?と思います。

三位一体という考えから言うと、神はイエスを使わして人間の原罪を持って行ってくれました(作戦は失敗したように見えますが・・)
人間も、主なる神の原罪を持っていく必要があるのでは?と思います。

主なる神は善悪を知る木の実を食べられた時呪いをかけましたが、キリストの頃になると「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と進歩しています。
ただ、仏の顔も三度とも申します。

もう一つ。
ひとを創った後善悪を知る木を植え、「これを食べると死ぬであろう」と仰ったものの、ひとも女も死にませんでした。
これは善悪を知る木も性能不十分だった、またはひとに食べられないために主なる神がウソをついた、どちらかだと思います。
後者であれば、ひとにウソをついたということも神の原罪ではないのでしょうか?

お礼日時:2024/04/12 23:53

そもそもの話、質問者様は「原罪」とは何か(原罪の意味)を御存知なんでしょうか。

本当に御存知だとしたら「神の原罪」などと言った支離滅裂な事は言えないはずですが。少なくとも質問者様の言われる「原罪」とは一般の用語としての「原罪」とは意味の異なった、言わば質問者様が独自に作られた「造語」と言わざるを得ないと思います。
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