No.5ベストアンサー
- 回答日時:
家康が、松平氏が清和源氏の流れを汲む一族であることを証明しようときに浮上してきたのが清和源氏の末裔だった「得川氏」。
家康は強引に自分の松平を得川に結び付け、ついでに縁起を担いで「得」の文字を「徳」に変えて天皇に改姓を申請した。
さすがに簡単には認められなかったが、近衛前久に頼み込んで無茶苦茶強引なこじつけで何とか「徳川姓」を拝領した。
家康としては、松平のままでは、織田はまだしも武田や今川のような清和源氏の中でも名門の一族から、格下の一族に観られてしまう。
だから、何としても家格を武田・今川に近づけたいという想いで徳川姓をゲットしたかったのだろう。世の中、今も昔も「ブランド」は大事ですからね。戦国の世と言えども清和源氏のブランドは欲しいでしょう。特に家康は自分の一族は清和源氏の末裔だと信じ込んでいたとも云われています。それが他家の人々からも認められる証拠が欲しい思いが非常に強かったのでしょう。
No.6
- 回答日時:
三河国の守護は一色氏で松平氏は守護代です。
松平氏は氏素性が不明の氏族で武力で、のし上がり一色氏の配下になった。
応仁の乱後、一色氏が衰退して、守護職は空位の状態でした。
松平氏内の対立や吉良氏、牧野氏、水野氏なども虎視眈々と守護職を
狙っていました。
この争いに決着つける術を家康が思案中に家臣が松平氏の菩提寺 大樹寺に
家康の5代前に、八幡太郎義家の末裔新田氏の分家の世良田氏のそのまた
分家の徳川氏から松平氏に養子に来ている系図を見つけたのです。
早速、朝廷に徳川氏を名乗る許可を求めたのです。
この頃の朝廷は大金を積めば、系図の真偽を確かめず、許可する状態
でした、こうして源氏性の徳川氏を名乗り、更に大金を積んで、
三河国守護の官職を貰い、三河国を官職の力で争い血を流す事無く
支配する事が出来たのです。
No.3
- 回答日時:
初代家康の話として回答します。
たくさんいる松平氏の中でトップであることを明確にするためです。
また松平氏から徳川氏に改姓したのではありません。徳川の名乗りができたのは当初は家康だけです。秀忠以降も徳川の名乗りを許されたのは将軍家の他は御三家、御三卿など特別な家だけです。
ダメだったとは?
「徳川の天下統一は松平のままではできなかったのか?」という意味であれば、それは歴史のイフですね。誰にもわかりません。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
-
家康の「神君伊賀越え」とは?
-
聞け、まるなげの唄
-
武家:何代目の数え方
-
秀吉や家康は、自分のこと(一...
-
織田信長存命中の徳川家康の石...
-
秀吉の遺言には・・・。
-
「かもしれない」と「やもしれ...
-
徳育論争(1879年)について教...
-
義経逃亡の見破り。
-
戦国時代の人々の名前について
-
丹後はあっても丹前の国はなぜ...
-
現代人が江戸時代以前の人と会...
-
戦時中の焼け野原の中、どこで...
-
兵士達の性欲処理
-
お公家さんの末裔は今、どの様...
-
戦前の唱歌「人生航路」につい...
-
5尺六寸てどれくらいの長さです...
-
怖い質問です。昔の人はどうし...
-
柴田勝家とお市の方の辞世の句...
-
秀吉さんにご縁がある土地は
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報