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クリストフ・コッホの意識をめぐる冒険」2012より引用します。

<① 意識は、重力や電荷などと並ぶ、現実世界の基礎的な構成要素の一つなのだろうか?言い換えると「ある種の物質には意識が宿り、それ以上でもそれ以下でもない」とする汎心論の考え方は正しいのだろうか?②それとも、多くの科学者や哲学者が信じているように、「意識は、物質がある程度組織化されると突然立ち現れる」という、無から創り出されるものだろうか?>             ①と②は引用者が付け加えた記号です。

2012年時点おいては、コッホは①を信じているようです。ロジャー・ペンローズ の量子脳理論に近いですね。
不肖私は②と思っています。組織化されると創発により突然意識が生まれる、のだろうと想像しています。

質問は、賢者の皆様は、意識についてどのようにお考えですか?  ①・②・その他

質問者からの補足コメント

  • ①について補足
    原子・陽子・電子・素粒子のように、意識子を、コッホは考えているようです。

      補足日時:2024/06/26 10:01
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A 回答 (9件)

訂正です4ではなくて3です

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この回答へのお礼

ご丁寧に

お礼日時:2024/06/28 13:18

返答4は違ってますね


意識は対象とそれに応じる所定の部位とが量子もつれ的なもつれあった状態の事でそれが明瞭化したじょうたいと言うことです
もつれが解消するとはその逆で明瞭な状態を不明瞭な状態にすることすなわち意識しなくなったと言うことです
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この回答へのお礼

再度のご解答ありが労ございます。
了承しました。

お礼日時:2024/06/28 13:18

意識・認識とは、識という言葉を使っているように、心の作用・働きですね。


①は、物質にも心(精神)が存在していると認めているようで、②は物質が心(精神)を“発生”させる、と云っているように思えました。

parkさんは、意識という心の働きに付いて考えておられるようなので、直接の《回答》ではありませんが、参考にはなるだろうと思い、次の一文を贈ります。
明治から大正にかけて活動された、山崎弁栄(べんねい)という浄土宗系のお坊さんの《説》です。

色心不二観、主観客観本同一本質
 主観の心象と客観の物質とは、現象に於いては物質と心象と全く異なる如き観あれども、其の根底に於いては一致せざるべからず。是、致一論者の説の如く、物心二界は同一本体を内外二面より見たるものと言うことを得べし。
 自身が外面より観ずれば全体物質ならざるはなし。内観する時は全体一の観念態のみ。自己の実験は之を一切の人類に推論することを得べし。自己外面は物質にして内面は精神なること、之を一層広げてすべての植物に及ぼし乃至無機物に通じて推論し、地球及び太陽系にいたり、外観は物體なるも、内観は不識精神即観念態なることを推すべし。

 致一哲学。内界外界致一、現象には異なるも根底には致一し、形而上学は現存と意識の本質同一を論ず。二面を包括せる宇宙一體の一大観念態に達すべし。致一の理は宇宙全體に通じて一大観念を客観主観の両面より観じたるに外ならず。主観客観は論理によりて裁判せられしも根本的一致なり。現存の内容は観念的にして、実現の方面は意志の活動なり。外界には因果的に現ずるは、内面の動機として理性の秩序として。

 二者同一観念態を両面より観ずるが故に本質不二となりと云うも、現象の異なることは忘るべからず。

 宇宙は内観は一大観念態なり。宇宙一大観念が、内容の理性によりて、意志によりて発動すれば秩序となり、因果律に関係を以て万有を顕現す。

 一切の個体はこの根底を自己の精神とせざるなし。自ら観ぜよ自観と一大観念とは連絡して全く宇宙と一体なり。一切の個々は悉く如来大圓鏡智の一員ならざるはなし。

『蛇足』
※ 認識と意識の区別、または使い分けのための根拠。
☆ 認識という働きは《受動的》であり、意識という働きは《能動的》である、と。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<①は、物質にも心(精神)が存在していると認めているようで、②は物質が心(精神)を“発生”させる>のですね。
<認識という働きは《受動的》であり、意識という働きは《能動的》>ですね。


申し訳ありませんが、<山崎弁栄>様のお言葉は、歯が立ちません。私がもし成長した暁には、食い付けるのかもしれません。

お礼日時:2024/06/27 11:55

脳は古典物理的に振る舞うだけでなく量子物理的にも振る舞っている事からそれを踏まえて


意識は働くまたは働かせるその理由は不明瞭な状態を明瞭化させるためであると同時にそれに応じている自身の所定の部位を不明瞭な状態から明瞭化させた状態にするため
この一方の状態を確定(対象を明瞭化する)させたその瞬間にもう一方(それに応じる自身の所定の部位)が確定(明瞭化させた状態)するその物理現象はまさに量子物理における量子もつれにあたる
であるならば意識とは対象とそれに応じる所定の部位とが量子もつれ的にもつれあった状態となります。
量子もつれは量子物理であると事から意識がそれに当たるならば生命体は意識を作り出したのではなくてそれを意図的に利用するようになったとなります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
いつものことながら、御回答は難解ですので、勝手ながら私が分かるように・自分流に整理しました。
1.脳は古典物理的にも量子物理的にも振る舞っている。
2.意識とは対象とそれに応じる所定の部位とが量子もつれ的にもつれあった状態となります。
3.意識の役割は、不明瞭な状態を明瞭化させるためであると同時にそれに応じている自身の所定の部位を不明瞭な状態から明瞭化させた状態にするため。すなわち量子もつれの解消するためである。
4.生命体は意識を作り出したのではなくて、量子もつれを意図的に利用するようになった。

お礼日時:2024/06/27 18:18

三次元空間上のある種の特定の電磁場の状態に対応して


どこかに認識の主体のコアができるのではないか
と思っています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
難解ですが
<三次元空間上のある種の特定の電磁場の状態に対応して
どこかに認識の主体のコアが>なのですね。

お礼日時:2024/06/26 09:47

人間の精神は意識だ. けで成り立っているものではなく、むしろ人間の意識は人間精神の一部にしかすぎません



日本語の意識と言う言葉は元々仏教から来ています
「九識論」という一つの法理がありここでは意識の事を
感覚器官をとおして働く“識”、すなわち認識作用を、”前五識”といいます。“眼識”“耳識”“鼻識”“舌識”“身識”です。さらに、感覚器官によってとらえるこれらの外界の情報を”意識”が統合していく
 
“意識”のことを“第六識”ともいいます。これには、ものごとを分別したり、判断したり、また想像したりといった働きも含まれます。通常、私たちが「心」という場合、ほとんどがこの“意識”をさしています

では眠っているときの“意識”は、どう位置づけられるかと言うと。
睡眠中は、“意識”の働きのレベルが下がって、もはや外界の“情報”をキャッチできない次元、つまり無意識の次元になるとされています

仏法では、インドの世親らによって、“意識”の奥に広がる“内なるコスモス(宇宙)”を、「唯識論」で体系づけているのです。
仏教では“意識”の内奥に、第七の“末那識”という領域を発見しました。この“末那識”とフロイトの解明した無意識(個人無意識)の領域とは、共通するのです。ここまではユングやフロイトの学説でも説明できます、

この意識について仏教では、更に第八識、第九識とある訳ですが、
現在の生命科学、深層心理学も遥かに及ばない、茫漠たる未知の領域を解き明かしています
長くなるので、終わります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
意識の内容/階層はわかりました。
仏教には、それ以前に、意識はなぜあるの・如何にして生じたの、についての説明はないのですか?

お礼日時:2024/06/26 12:11

私も不肖の者ですが 私は➀と考えます



②でいう組織化とはどこまでのことを言うのか?世界全体の組織化があって初めて無数の意識は生まれたのではないのか と考えました それは汎神論と言っても可い気がしますので 解答は➀としたいと思います
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
①ですね。
私は、組織化とは<世界全体の組織化>ほどには考えておりません。あるものが数個うまく集まれば、意識が創発によって生まれる。ただしこのくらいでは意識メータの針を動かすことはできませんが。

お礼日時:2024/06/26 09:56

意識とは意思の延長であると考える。


よって、①と思う。
『『意志と表象としての世界』(ショーペンハウアー)第二巻「意志としての世界の第一考察」第21節 「身体」を介して知られている「意志」は、全自然の内奥の本質を認識する鍵である。「意志」は「物自体」であり、盲目的に作用するすべての自然力のうちに現象する。』wikipediaより
八百万の神を、当然と考える汎神論的日本人には、左程違和感の無い思考であろう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
申し分けないのですが、意識と意志とがこんがらがって、よく理解できません。

お礼日時:2024/06/25 16:29

インターネットとAIボットの出現により過去の意識に関する考察はすでに意味がなくなっています。

つまり意識は存在しなくても結果が出力され意識の有無はむしろ重要ではないということ
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<意識は存在しなくても結果が出力され意識の有無はむしろ重要ではない>ですね。


気になったこと。
ゾンビでない・意識を持った人が、当面存在するはずであるから、意識の問題は等閑しておくことはできない、と思いますが。

お礼日時:2024/06/25 16:18

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