限定しりとり

北朝のほうが、直系の先祖です。
なぜ北朝を正当としなかったのでしょうか?

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A 回答 (2件)

日本人の判官びいきで強い北朝よりも弱い南朝がひいきされる下地はあった。


そこに南朝の有力武将だった新田義貞の子孫であるとして徳川姓を名乗るようになった徳川氏が天下を取って幕府を開いたことから、一気に南朝が盛り返し、水戸藩主の徳川光圀が南朝正当論を組み込んだ『大日本史』の編纂を始めるに至って、南朝正当論が主流となっていった。

この水戸藩は徳川幕府の御三家ではあったが、将軍は出せないという不文律があり、幕府よりも朝廷寄りの勤王派の巣窟として知られていた。
幕末の動乱も、勤王攘夷派の中心だった水戸藩が、幕閣の開国方針と正面衝突し、大老井伊直弼の水戸藩潰しが最大の狙いだった安政の大獄と、それに反発した水戸浪士たちが井伊直弼を襲撃暗殺した桜田門外の変へと突き進み、その勤皇の精神を受け継いだ長州などが中心となった幕末の動乱に突き進み、遂には明治維新の成立となった。

つまり維新政府の幹部連中は、特に元武家だった連中は、南朝正当論を組み込んだ『大日本史』に感化されまくって倒幕を成功させた連中だった。
かれらが北朝出身の明治天皇までも動かして南朝正当論を国家的な柱に据えたのはそれが原因だ。
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徳川光圀の大義名分論が採用されたから。


光圀の歴史思想は水戸学として幕末に大流行し、いわゆる「幕末の志士」などと称される薩長偽官軍の輩も大いに影響を受けたのです。
そいつらが、若い頃に受けた洗脳から解けずに、「南朝こそ正統」という主張を曲げなかったことから、北朝が偽物となったのです。
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