10代と話して驚いたこと

演奏家によって同じ曲を演奏してもかなり違いますが、本来こういうことは起こるべきではないことが起こっているのでは?楽譜を丁寧に読めば、おのずと演奏の幅というものはそれほど広くはないどころか、かなり限定的なはずです。だから誰が何の曲を演奏しても大体はほとんど同じにならなければおかしいのです。
ところが実際はそうなっていない。これは演奏家があまりに勝手だからじゃないですか?ひどい例にすると、Allegro moderato ♩⁼72と書いてあるものが♩⁼59くらいで演奏されているものもあります。

A 回答 (12件中1~10件)

最近、MLBを見るようになって、感じるのは、


米国国歌歌唱が、「人毎に違う」と言う事実。

これから考えると、西欧人というのは、「個性、独創性」
こそが重要で、「音符」なんかは、「どうでもいい」のだろう、
と言う事。

日本人は、「楽譜」に表現されたものは、「忠実に再現する」
ことを重要視するが、西欧人にとっては、「個性、独創性」
こそが、重要なので、最後は、原曲なんか「どうでもいい」
のだろう。

確かに、オリジナリティは、重要だと思うが、私は
日本人なので、楽譜がある以上「再現性」が重要だと
感じる。

日本が、精密機械、先端技術に向いて居るのは、
この「アバウトを許さない気質」のせいかも知れない。
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この回答へのお礼

なるほど!個性を表現するという伝統習慣が指示記号さえも消してしまうという『文化』なのかもしれないですね。

お礼日時:2024/10/21 07:41

演奏行為とはその曲との恋愛である。

というのはG・グールドの考えなのですが、あなたはその作曲家の下僕になりたいんですね。
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この回答へのお礼

はい。

お礼日時:2024/10/23 21:05

ある程度は限定的ですが、解釈の幅はあっていい、あったほうが面白いし、それが芸術です。


 解釈の幅をほとんど許さない、精密機械の設計図面や指示書とは違うのです。
 楽譜はそれほど精密には演奏のすべてを表現できないものだと思います。もちろん、「田園」の楽譜で演奏して「運命」になることはないでしょう。
 亡くなった作曲を生き返らせて、どんな解釈で演奏したらいいのかをいちいち尋ねることはしません。
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この回答へのお礼

だから演奏とは作曲家への冒涜なのです。

お礼日時:2024/10/22 21:24

みんなが意見を言えるって、なんと良い社会でしょう。



私の意見は、
演奏家たちが見ている世界を共有したいです。
演奏家たちが作ろうとしている世界を見てみたいです。
だって私は煩悩のかたまりですから。

バイロイトの指輪で、背広を着た神々が出てきたことがありましたが、それは演出家が見た世界だと思います。

ギリシャ神話風の衣装しか認めないかどうかは、個々の聴衆が決めれば良いことだと思います。

私は、もし月光の第3楽章をチンタラ弾いていたら、再生を止めます。
そう、嫌なら聴かなければ良いだけです。
でも、他人が聴いているところに行って、再生を止めろとは言いません。

指示に対する振れ幅のリミットが、♩⁼72±10なのか、♩⁼72±30なのか、それは受け手が許容するかどうかです。
これは各自で決めればよいので、ご質問の件は平行線をたどると思います。±○○が正解、なんて出ませんよ。

誰が何の曲を演奏しても大体は「ほとんど同じ」にならなければおかしいのは同意しますが、逆にそうする義務もありません。

てか、興味のない人には、全てが「ほとんど同じ」に聞こえているんです。

例を挙げれば、シーア派もスンニ派も同じだと思っています。だって興味が無いから。それを言うとムスリムは怒るんですよね。彼らにとっては重要なんでしょう。真言宗も曹洞宗も同じくせにね。

自分の信念は大切ですもんね。お気持ちお察します。
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この回答へのお礼

一番の要は公開されるクラシック音楽は「Business」だと言うことです。それが最優先されます。でもそれでいいのか?と私は逆らいたいわけです。だからストイックに堅苦しく行けば最高の結果が得られるのにと提起しています。

お礼日時:2024/10/22 12:02

個性と言うのは演奏者の技術や使用楽器の事でしょうか?ロマン派などは情緒を廃するのではなく特定の情緒を持って弾く事を強いているように思いますけど。

丁寧に読む事が理論を優先して読むのか作曲家の願うように読む事を意味するのか?歴史的録音を聴くと奏者の技術的特徴や限界が個性を生んでいるように思います。
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この回答へのお礼

問題は心の姿勢です。自身が作曲家の下僕になれるかということです。

お礼日時:2024/10/22 12:04

メトロノームが発明されて以降のテンポ指定は作曲家による客観的な物ですが、作曲家の意図より優先するものがある演奏家や作曲家自身も認めそうな別解釈の結果自己の判断で適切に選択されたテンポはあるように思います。


同じ解釈の演奏が永遠と繰り返されるのも飽きてしまうでしょう。ラベルのパヴァーヌのように解釈させないのが作曲家の理想なのでしょうか?音楽は言葉のようなもので、ある文章を思いついた人がこの文章はこのスピードとこの抑揚で読まねばならないと主張する事に似ているのかもしれません。
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この回答へのお礼

指示がなければ何したっていいわけですよ。でも普通は細かく指示されている。解釈の余地などありません。忠実に演奏すればおのずと演奏者の個性が光るのです。

お礼日時:2024/10/21 22:02

そうか!



私には音楽に対する「情」があって、煩悩にまみれているから、演奏家ごとに違う世界が見えるのか!

納得しました。家内にも、そう言うようにします。

そしたら、「もっと心を洗え。そうすれば演奏家の向こうにある作曲者の思想が透けて見える。だったら誰が演奏しても同じだろ。」とか言われそう。
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この回答へのお礼

過剰な情はアートにとっては不要です。

お礼日時:2024/10/21 22:00

No.5です。



思い付いたことがあったので、再投稿します。

私は現代音楽は、誰が演奏しても同じに聴こえるので、まったく興味の対象にはなりません。
ブルマラも同じに聴こえます。

つまり、興味のない人にとっては、何ら差を感じません。

だから、「ほとんど同じにならなければおかしい」とは一部の感想であって、多くは「同じじゃん」「何が違うの?」と思っているのではないでしょうか。

少なくとも、私の家内は絶対にそう思っています。
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この回答へのお礼

はっとしました。なぜ現代音楽には差がないか。そこに「情」がないからです。「情」こそは音楽への冒涜であり煩悩の泉です。

お礼日時:2024/10/21 11:13

ある意味、共感できるご意見だと思います。


また、演奏家間の違いが分かるという点には、ますます共感します。

もし演奏の幅が無いならば、私のようにCDに散財する馬鹿は居なくなるでしょうね。

ところが実際はそうなっていないので、新しい刺激を求めて、ついつい新譜CDを買ってしまうんですよね。

でも、これは演奏家が勝手なのではなく、コレクターの勝手ですね。
新譜CDが出るのは、このような需要があるからでしょう。

色々な演奏が増えて、色々な主張をするのは、私のような馬鹿が需要を作っているからなんですね。

普通は、同じ曲を何枚も集めたりしません。それは家内からいつも指摘されています。
(さらに気に入ったCDだけを聴いているので、他は不要だと言われています)

本当にごめんなさい。
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この回答へのお礼

作曲家指示通りに皆演奏しても、それは百人十色似おのすがらなるのです。

お礼日時:2024/10/21 11:09

>楽譜を丁寧に読めば、おのずと演奏の幅というものはそれほど広くはないどころか、かなり限定的なはずです。



いいえ、そんなことはありません。
英語の文章を「日本語に翻訳」するのと同じぐらいバリエーションがあります。翻訳者の腕の見せ所で、受験生の「いかにもな直訳」では面白くありません。

「楽譜」に書かれた情報は、英語の文章などもずっと少ないです。少なくとも「音色」の情報は皆無です。
「楽譜」には全く書かれていない「会場の響き、残響」や「観客のざわつき」も考慮しないといけません。(グレン・グールドなどは、客席の咳払いで演奏を変えたといいます)

同じ演奏家も、大家になればなるほど、予定調和的なマンネリ演奏を嫌って毎回違った演奏をします。
ピアニストのマルタ・アルゲリッチが加わった室内楽が「丁々発止」で面白いのはそんな理由からです。共演者がアルゲリッチにけしかけられて熱くなっていくのが分かります。
指揮者でも、フルトヴェングラーやバーンスタインなどはそのタイプですし、どんな指揮者も「本番のノリ」や「本番は奏者の自発性に任せる」ということが多いようです。
クラシックだからといって「定型的」に演奏するわけではなく、ジャズの「ジャムセッション」に近い演奏が日常的に行われていると思います。

高価なチケットを買ってベルリン・フィルを聴きに行った人が「まるでCDを聴いているような完璧な演奏だった」というのを聞いて、「だったらCDを聴いていればいいじゃん」と思います。(99%やっかみですが)


>ひどい例にすると、Allegro moderato ♩⁼72と書いてあるものが♩⁼59くらいで演奏されているものもあります。

それは、取るに足らない、些末なことだと思います。
「そこに、音楽はあるのか?」が重要なだけです。
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この回答へのお礼

いや、そのような考え方には全く共感しません。楽譜が自由を認めているならいいです(それこそ現代音楽)ところが多くのクラシック作品は自ずと制約があるのが当たり前であり、演奏者の勝手な解釈に作曲家が怒るのも当然のことなのです。

お礼日時:2024/10/21 11:07

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