ルネサンスと近代合理主義の違いを教えてください。どちらも似たようなものだと思っていたのですが、やはり違うのでしょうか。

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A 回答 (3件)

>「古典には古典に表現され得ない社会の根底的状況が反映されていない」のところがよくわからないのですが。

「古典には古典の社会の根底的
>状況が反映されていない」ということでしょうか・それと、考古学的手法とは具体的にどのようなことなのでしょうか。
比喩としては歴史学と考古学の違いを考えてもらえばよいでしょうか。文字資料だけでは、その時代の全てを明らかにすることはできません。特に庶民社会の構造などはハイ・カルチャーには現れないのです。
従って、文字資料以外の「遺跡(ex.陶器)」を収集し、古典古代を理解しようということになります。近代考古学の前身としての古物収集(antiquarianism)です。

>ルネサンスは古典に戻ったのに対して、デカルトは、古典には戻らずに自分を信じて物事をとらえていったのですね。でも、デカルトは、古代のアリストテレスを
>参考にしたと聞いたことがあるのですが、これはあくまでも参考で、古典をそのまま持ってきたということではないのでしょうか。近代合理主義はルネサンスの
>限界を破って発展させたという認識でだいたいの所は良いのでしょうか。
はい、大体そんなところです。デカルトは、古典を完璧に理解した上で、それに満足せず、そして新たな方法論を打ち立てたのです。そこがデカルトの天才たる所以です。

もっとも、ルネサンスや近代合理主義の評価は、現在でも揺れているところがあるので、私の見解もあくまで参考ということで。

時間がないのでこの辺で。
中途半端に思わせぶりなことを書いて無責任なのですが、1、2週間ほどネットから消える予定なのでよろしくお願いします。
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この回答へのお礼

>比喩としては歴史学と考古学の違いを考えてもらえばよいでしょうか。文字資料だけでは、その時代の全てを明らかにすることはできません。特に庶民社会の構造などはハイ・カルチャーには現れないのです。
従って、文字資料以外の「遺跡(ex.陶器)」を収集し、古典古代を理解しようということになります。

ご回答くださって、ありがとうございます。なるほど、考古学の存在意義というのはそこにあったのですね!!なるほど、確かに文字情報だけだと、庶民の生活はあらわれてきませんね。そこに歴史学と、考古学の違いがあるんですね。とても参考になりました。

>デカルトは、古典を完璧に理解した上で、それに満足せず、そして新たな方法論を打ち立てたのです。そこがデカルトの天才たる所以です。

なるほど、デカルトは古典を理解して上で、新たな方法論をうち立てたわけですね。確かに新しい知の体系を想像するとはスゴイ人だったんですね。

お礼日時:2001/09/25 00:59

啓蒙思想と社会契約論の違いに答えたものです。



先述のように上手く説明できないのですが、正確性を無視して、社会科学的な面に限って、簡単に説明します。

ルネサンスは、ミケランジャロなどのイメージがありますが、根本にある思想は、イタリア社会の混乱の中、古典の研究によりローマ・ギリシャ社会の成立の構造を明らかにし以って現在のイタリア社会の状況と対照させようという発想です。しかし、古典には古典に表現され得ない社会の根底的状況が反映されていないという限界がありました。その限界を超えるため考古学的な手法なども流行りました。

近代合理主義は、そのような限界を踏まえ、デカルトの方法序説に「古典も疑わしい」という趣旨の言葉があるように、古典その他の論拠となり得るものを全て疑わしいと否定した上で、それでもなお社会を成り立たせる原理は何か、と考えたとき、それは「理性」に違いない、というものです。カントの範疇論などは理性の構造を明らかにした最たるものです。

キリスト教との不連続性は指定されるとおりですが、最近は連続面を研究するのが流行っているような気がします。

専門ではないので、あまり具体的な事は言えませんが、以上のような問題意識で両方を整理しなおしてみると面白いかもしれません。
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この回答へのお礼

>啓蒙思想と社会契約論の違いに答えたものです。

その節はどうもありがとうございました(^^)

>しかし、古典には古典に表現され得ない社会の根底的状況が反映されていないという限界がありました。その限界を超えるため考古学的な手法なども流行りました。

すいません、「古典には古典に表現され得ない社会の根底的状況が反映されていない」のところがよくわからないのですが。「古典には古典の社会の根底的状況が反映されていない」ということでしょうか・それと、考古学的手法とは具体的にどのようなことなのでしょうか。

ルネサンスは古典に戻ったのに対して、デカルトは、古典には戻らずに自分を信じて物事をとらえていったのですね。でも、デカルトは、古代のアリストテレスを参考にしたと聞いたことがあるのですが、これはあくまでも参考で、古典をそのまま持ってきたということではないのでしょうか。近代合理主義はルネサンスの限界を破って発展させたという認識でだいたいの所は良いのでしょうか。すいません、ほとんど学校の倫理のお話でしゃべっているので、歯がゆいところもあるかと思いますが、御説明していただければ幸いです。

お礼日時:2001/09/24 01:29

明確な定義はよく知らないのですが、



ルネサンス:
 中世末期に発生した、古代ギリシャ文化への復古運動。

近代合理主義:
 デカルトの二元論が始まりかと。存在を精神と物質に分けることにより
 近代科学が宗教(キリスト教)からの干渉を受けずに、独自に発展して
 いくことが可能となった。

こんな感じで理解していましたが。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。ルネサンスは思想面では人文主義とか、人間中心主義とかいわれていますよね。これも、中世のキリスト教からの干渉を受けずに人間の目で見たものを信ずるという点で、近代合理主義と似ていると思っていたのですが、両者の間にどのような違いがあるのでしょうか。

お礼日時:2001/09/22 08:01

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 私生活主義という言葉があるのですね。わりと定着した言葉なのでしょうか?
 こんな例で考えてみてはいかがでしょう。
 ある学級で、今度の連休に皆で金を出し合って出かけることになりました。ただし海と山と各自が選んでどちらかに行くことになりました。
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 私生活主義という言葉があるのですね。わりと定着した言葉なのでしょうか?
 こんな例で考えてみてはいかがでしょう。
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ご質問は、デカルトの『省察』あるいは哲学史のを読んでいけばわかるかと思いますが、ここで簡単に書いてみます。

まず、デカルト自身は中世の末期に位置する人物であることを頭に入れておいてください。
中世の哲学の根本的な考え方というのは、哲学のすべての体系が真理であることは、神によって保証されている、というものでした。
けれどもその神が存在することを、どうやって証明したらよいのか。
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>感覚を介した経験に由来する認識に信をおかず、生得的・明証的な原理から導き出された理性的認識だけを真の認識とする立場

というのは、そうしたデカルトの立場をさします。

感覚はときとして人間を欺く。
日常的な経験も、夢と疑うこともできる。
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>生得的・明証的な原理
とは、このことです。

そうしてこの思惟する存在の確実性、これを出発点として、そこから明晰で論理的な観念だけにもとづいた推論を積み重ねていけば、確実な真理にたどりつけると考えたのです。

デカルトは人間の観念を
「生得的な観念」
「修得的な(感官を通して外から受け取った)観念」
「構想的な(自分でつくりだした)観念」に分類します。

長くなるので結論だけを言ってしまいますが、デカルトはわたしたちが生得的に神の観念を持っているというのは、神がわたしたちに神の観念を生得的に与えたからにほかならない、それゆえに神は存在する、と証明していきます。
こうして人間の認識には確実な根拠が与えられた。

ところがデカルトの意に反して、デカルトのうち立てた哲学の中心は、神は物体の存在を証明するための媒介となっていき、神から「考えているわたし」に移っていってしまうのです。それが、「近代」という時代であり、そうした意味で、デカルトはまさに中世から近代への転換点に位置づけられるのです。

わかりにくいところがあれば、おっしゃってください。
以上、岩崎武雄『西洋哲学史』(有斐閣)をおもな典拠としています。

ご質問は、デカルトの『省察』あるいは哲学史のを読んでいけばわかるかと思いますが、ここで簡単に書いてみます。

まず、デカルト自身は中世の末期に位置する人物であることを頭に入れておいてください。
中世の哲学の根本的な考え方というのは、哲学のすべての体系が真理であることは、神によって保証されている、というものでした。
けれどもその神が存在することを、どうやって証明したらよいのか。
この保証がなければ、哲学は意味を失う。
神の存在を証明すること。
これがデカルトの目標だったわけ...続きを読む

Q封建主義と協調組合主義の違いをおしえてください

Feudalismとcorporatismの違いがわかりません
表をつくらなければいけないのですが
どこがどうくらべて違うのかがわかりません
わかるかたいたら教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

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