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日経サイエスンスに科学ジャーナリストのR.ニュワーが執筆した臨死体験の記事から引用します。

多く臨死体験者の体験談によると、
<人生を振り返り、自分の行為が他者にもたらした喜びや痛みを感じることなどを通じて自分がしたことを道徳的に評価する場合もある。「興味深いのは、人が死ぬ時には自分の道徳基準に基づいて自分を評価しないことだ。」と(略)パーニア(略)はいう。「普遍的な基準に基づいて評価する」。>
(略)はpark123による
パーニアは医学部の救命救急・蘇生研究室の室長

質問は、自分の道徳基準とは、各人がそれまでの人生において経験し造り上げてきた基準であり、
普遍的な基準とは、万人が持っている生得な基準、と考えて良いですか?

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A 回答 (8件)

人間には生まれる前から持っているものが在ります、赤ん坊を見た時誰でも気付くものです、それは不安とか安心する事や更に言うなら恐怖までも全て知っています。



その他にも生命の維持機能に関しても既に全てを知り尽くして、生命活動を行う機能が付随しています、もっと言うなら細胞分裂をするタイミングでも順番でも全て知り尽くして生まれています。

その原動力を仏性と釈迦は名前を付けたのだと思います。或いはそう云った働きそのものが仏性と言ったら良いのかも知れませんが、自意識は全く関知していない事柄です。

此処が貴方の質問事項になっていますが、自意識と自身の命の働き=仏性=誰でも持っている万人共通の意識(価値観)と云った二つの意識による見解の相違です。

肌の色を問わずに人類共通の事柄の一つになりますが、素晴らしい事柄とか演技を目にした場合では『万人共通の反応をする場合がある様です』これをスタンデイングオベーションと云っている様です。

もう一つ例を挙げるなら、自分は何者か?と云った人類共通の疑問です。是は宗教に於いても共通していますので、具体的に説明をしたいと思います。

宗教の原点に帰るなら説明し易いと思います、宗教の原点は死からの救済、或いは死なないで済む方法の探求かも知れませんが、人類永遠の願いという意味での『永遠の命』を希求する心の働きと云っても良いのかも知れません。

この願いを強く感じた場合を『ノイローゼ』と云っています。日本語で云うならば『死に対しての恐怖症』これは神経症の中での不安障害や恐怖症と云っても良いものですが、神経症やノイローゼになる原点とか仕組みを説明すると尚更分かり易いと思います。

神経症の原因は「心の矛盾」が関係していますので、人間の脳の機能から解説します。

人間の脳の機能です。(脳の構造です。)人間の脳内には二つの意識が存在していると云った科学的な説明です、ウイキぺデアからです。

是はてんかんの治療のために左脳と右脳を繋いでいる脳梁の切断を一つの治療の方法として行っていた時代の話です、沢山の脳梁が切断された人が存在していた時代の研究成果の一つです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。

こういった話はにわかには信じられないかも知れませんので、動画で説明させて頂きます。この状態を自らが脳卒中になったために、体験として語っている動画を載せてみます。

脳科学者である女史が脳卒中になってしまって、右脳の自分と左脳の自分を体験として語っているものです。  

  

人間の苦しみは心の矛盾とか対立とか分裂を生き難さとか、苦しさとして感じています。漠然とした不安感は、右脳の機能である生命の源からの『圧迫感』という意味があります。

右脳には生まれ持った働きがあります。その働きとは『自我意識の働きによる働き、=人間を動かす、或いは人間の生きるための動機付けと云った一面もあります。

思春期頃に脳の機能分化は完成に近づきます、その頃になると『心は二つの機能になって相争うようになって来ます。』これが『失楽園の心の裏側を示していまあす、』

聖書の中でアダムとイヴが知恵の木の実を食べた事が原因で、神に背く事になったと書いています。この事は全ての人間に付いて語っている言葉です。

右脳の機能と自意識が折り合い難くなると云った内容です。赤ん坊でさえも出来ていた事柄でさえも、神を疑ったために神経症とか恐怖症になってしまって苦しんでいるという意味です。

神経症の症状は大変に苦しいものです、何故なら自身の命を働かせている意識との仲違いを意味しているからです。大げさな言い方をするなら『自身の命の源の意思』から精神的な圧迫を受けているとも云えるからです。

右脳の意識は人間の無意識を統率をしている意識の事です、神経症の中の吃音とか書痙とか不眠症で説明すると分かり易いです。

人間の恙無い毎日を簡単に説明します。自意識と無意識は絶えず交替しながら人間としての生活が成り立っています、話をする場合では『自意識は話の内容をまとめているだけです。』後は勝手に口が話していますが、この時自意識が口を動かそうとする事で吃音が発症しています。

書痙も不眠症も同じです、眠る時には『自意識は無くなっています、』この時には無意識の自分が交替をして、身体も心も自我意識は無意識の預けています。

この交替劇が出来なくなった時を神経症と呼んでいます。

キリスト教でも仏教でも人間の最高の状態を幼子とか嬰児と云っていますがこの事が関係しています。幼子も嬰児も左右の脳の機能は未発達であって畢都のものとして働いているからです。

結論ですが、仏教では悟りを開く事によって『生死の問題が解決する。』として人間の魂の救いは成就しています。

キリスト教でも神と会って和解する事によって、自分と神の優先順位が確定する事によって、自我意識が出しゃばる事が無くなる事によって、人間の魂の救いが成就するという意味です。

これは脳科学的に表現すると分かり易いです。

悟りを開く事も、神と出会うと云う事も同じものを言葉を替えて云っているだけです。その内容とは『脳梁の中で二つの意識が出会う事に拠って、二つの意識(左右の脳同士の間に)ホットラインが開通するという意味です。

これによって人間の苦しみが消滅する事を意味します。大人の嬰児が誕生した事を意味します。禅などでの生死の問題が解決した、という意味は大人の嬰児になったという意味です。

神との和解も同じ意味です。

自意識は現実世界を生きていて、現実の世界から一歩もそれ以外の世界を出る事が無い状態ですが、仏性とか神の世界は人間の現実から超越した世界観から成り立っています。言い替えるなら右脳の仏性とかの世界は自意識とは違って、霊性とか魂の世界観を伴っています、言い替えるなら全世界中の魂と繋がっていると云う理由から、個人との価値観とは反対になっていると云っても良いのかも知れません。

一言で言うならば、自分の幸福とは『自分以外の人達の幸福を願い事』詰り『利己主義から博愛主義』と云った価値観の変更を伴う事を意味します。

従って自分が死ぬ事に対しても恐れが無くなっている、と云った価値観が全く逆になってしまう事を意味します。
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私が死にかけた時、感じたことは



闇が近づいた

でした。

評価も何もありません。恐怖はある。死ぬとは、闇に呑まれることなのだと知った次第でした。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
評価も基準もなかったのですね。

お礼日時:2024/12/18 12:51

参考迄に 


弱い者を助ける「正義」を好む気持ちが生後6か月の赤ちゃんに芽生えていることが京都大学の研究でわかった。研究成果は英科学誌「Nature Human Behaviour」(電子版)の2017年1月31日号に発表された。

人間には生まれつき「正義感」が備わっている可能性を示す画期的な研究という。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
生後6か月の赤ちゃんに<「正義」を好む>普遍的な基準を持っているんですね。

私はおぼろげですが次の実験を思い出しました。正義に関係しているような赤ちゃんの心です。
①赤ちゃんに坂のある映像を見せます。②大きな〇が坂をゆっくりと(大儀そうに)登ります。
③次に△が来て(助けるがごとく)〇の後につけます。〇の登りが速くなります。
④そして上から□が〇の前に居座ります。(あたかも登っている○を邪魔するように)
⑤少し後に〇△□の積み木を赤ちゃんに見せたら、(嫌いなごとく)□には手を出しません。

お礼日時:2024/12/11 15:54

うーむ、これは非常に深い内容のある話ではないでしょうか?



人は平素、自分の価値観、哲学を基準として生きているはずです。
しかし、それを絶対的に確信している人は稀でしょう。自分の「信念」として、意地になっているとか、固執しているとか言った方が正鵠を得ていると思います。

それに対し「普遍的」と感じるものを心のどこかで持っていて、それと自分の信念との相剋を意識しているように思えます。

その相剋感を解決しようと努力する人は稀であり、大抵は死の時までそのままになっているのではないでしょうか?
だから、死にあたって自分の一生の言動、思い等を走馬灯のように振り返り普遍的道徳基準に照らし、苦しんだりするということになるのでしょう。

人は何故その「普遍的道徳基準」を持っているのか?一生のうちに生得していないそれを何故持っているのか?

おそらく、深層心理学でいう「集団心理」のようなところにあって、各人が個人差はあれ、感じることができるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
誰もが心の深層には集団心理として普遍的道徳基準を持っており、死に際しては<自分の一生の言動、思い等>がその基準に照らし合わされるのですね。

お礼日時:2024/12/11 10:13

質問者さんがいう「普遍的な基準」とは、臨死体験という言葉からも、この世の基準ではなく、「あの世で決まっているこの世の生き方基準」みたいなものだと思います。


つまりは、閻魔大王とか秦広王、初江王など7人の裁判官が死者の罪や功績を判断するときの基準を指しているのではないでしょうか?

この世で生きている間に、殺人、盗み、あるいは他人や動物の命を助けるとか、困っている人を助けるなど、すべての行為はポイント制で判定されて、その合計によって、行き先が決まるとかいう話と同じでしょう。

ま、普通の方であれば、それらの裁判官の判定基準に文句をいうことはないかな?なんて思います。
そして、あの世では、6番目の裁判官が再審請求を受け付けてくれるので、「俺があそこで犯罪を犯したのには理由があるんだ、ちょっと情状酌量があってもいいんじゃあないか!!」もできるそうです。
裁判官の判断自体を否定するってわけではないから、判断基準が問題になっているわけではないみたいですし。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
「普遍的な基準」とは、「あの世で決まっているこの世の生き方基準」なのですね。個人的ではなく、あの世で、ということですね。

お礼日時:2024/12/10 17:37

#2



>普遍的な基準とはどういうものといっているのかをお訊ねしているわけです

だから「ありません」とお答えしている通り、ないものをまるであるかのように答えることはできません。
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この回答へのお礼

そうですか

お礼日時:2024/12/14 11:51

道徳に普遍的な基準などというものはありません。


時代や社会情勢、地域や宗教などによって道徳は異なります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

普遍的な基準の有無を質問しているのではなく、
普遍的な基準とはどういうものといっているのかをお訊ねしているわけです。

お礼日時:2024/12/10 12:50

そうですね、質問者の思われてる通りだと思います。

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<そうですね>ですね、

お礼日時:2024/12/10 12:23

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