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最近の中国の反日騒動で、日中の歴史に興味を持ち
いろいろ調べているのですが、

蒋介石(国民党)は、毛沢東(共産党)と対立していたのに、張学良に拉致された後、毛沢東と話し合い、今までと一変して、共に日本と戦おうという事になりましたよね。

日本からの援助等で、親密だった蒋介石が、なぜ急に反旗を翻したのか、この話し合いがどのようなものだったかというのが知りたいのです。推測でも結構ですので、どうか宜しくお願い致します。

A 回答 (5件)

密室での交渉なので推量するしかありませんが、


仲介に立った張学良は父親を日本軍に暗殺された事から強い反日家でしたが日本軍の進撃をくい止めるにはそれまでの内紛をやめ国共合作して日本に当たるべきであると蒋介石に迫った筈です。

蒋介石は張学良により軟禁状態でしたからこれを拒絶すれば身の安全は補償されないのでやむを得ず承諾したのだと思います。
しかし蒋介石は信義を重んじる人なので、密約で脅迫されたからと破棄する事無く国共合作を守り抗日戦を続けました。

しかし張学良の裏切りは許さず彼を逮捕監禁を続け、台湾へ逃走する際も同行して監禁し続けました。
張学良が自由の身になったのは蒋介石の死後かなりたってからです。

国共合作は結果的に成功で日本軍は中共軍のゲリラ戦法により多大の損害を受けその対策に大兵力を割かざるをえませんでした。 
優勢であった中国戦線で敗北を喫したのは中共軍との戦いくらいです。 

おそらく密約の中には対日単独講和禁止もあったと思われ、日本政府の国民政府への講和交渉も阻まれたと思います。
思えば日本が張学良の父親を満鉄爆破事件で暗殺したことから始まった一連のドラマともいえましよう。

   
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この回答へのお礼

ありがとうございます。歴史はいろいろな事が絡み合って作られていくのですね。

蒋介石が死ぬまで張学良を監禁し続けたというのには
驚きました。

でも、親しかった松井石根を裏切った形になったことはどう考えていたんでしょうかね。

お礼日時:2005/05/25 23:39

#4に事実関係の表現に不正確な部分があります。



>世界のどの国も満州は日本が中国の赤化を防ぐ防波堤として領有することは暗黙の了解でしたから。

この記述は、日本の満州占領を強硬に排除しようとした大国がなかった、という点では正しいのですが、しかし国際連盟が日本の撤退を求める決議をし、それに対抗して日本が国際連盟を脱退したことを考えに入れると、正確ではありません。本音では容認したとしても、建前として非難したことの意味は、戦争の違法化の流れのその後のあり方を考えるならば、大きかったと思います。アメリカの日本観を大きく変えたことも重要です。また、これは独伊の国際連盟脱退よりも前のことですから、独伊に先例を提供したことの意味も無視できません。
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この回答へのお礼

国連を脱退した事は、他の国に、注意深く見守らなければと思わせたでしょうね。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/05/31 14:25

蒋介石は、中国4000年の歴史を継承する皇帝になろうとしていました。


それを阻むのは毛沢東と共産党。
項羽と劉邦みたいな世界です。

蒋介石にとっては、日本は赤化を防ぐために利用するものでしかありませんでした。
世界のどの国も満州は日本が中国の赤化を防ぐ防波堤として領有することは暗黙の了解でしたから。

西安事件の後、日本は満州から中国本土にも手を伸ばしましたし、近衛の失言(国民政府を相手にせず)もあって泥沼に・・・

先ずアメリカの支援を受けながら共産党と一緒に日本を叩いて、その後共産党を叩こうという腹だったのでしょう。

共産党に中国を追い出される運命を悟っていたら、歴史は変わっていたかも知れませんね。

中国皇帝の証である故宮の宝物は、蒋介石が台湾に持ち込みました。
中国が台湾を核攻撃しなかったのは、宝物を失うからではないかと思います。

故宮の宝物が北京に戻るときが、大中国が復活するときでしょう。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

故宮の宝物というものがあるのですか。それを手に入れて、ひとつの中国にするというのは悲願なのでしょうね。

お礼日時:2005/05/28 12:29

どこにそういう風に記述しているでしょうか?ちょっと間違ってる所があると思います。



蒋介石政権は親日ではなく、親米政権です。親日の政権は汪精衛のです。歴史的に汪精衛の影響力はずっと蒋介石と毛沢東より弱かった。

当時、日本軍は東北三省を占領し、中国全国反日活動が盛上がったが、蒋介石は反日行動せず、「攘外必先安内」(外患を防ぐ前に内患を取除く)の議論を持ち出した。そして、張学良の軍隊に、日本軍から撤退し、共産党への攻撃命令を出した。張学良がその命令を抵抗し、不作為しましたので、蒋介石自ら東北へ張学良を監視しよう東北へ行ったが、張学良に拘束された(「兵諫」)。その行動は全国に騒動させ、民意が殆ど張学良に傾け、蒋介石政府に抗日を要求した。当時、アメリカ、イギリスなどのアジア利益は日本に食込まれる恐れで、各国が中国を利用し、日本を制圧する傾向で、蒋介石政府に圧力を強く与えた。政局不穏途方に暮れた蒋介石政府はその圧力に従い、共産党と連合し、抗日の「国共第二次合作」が始まった。

当時そんな政治大人物なのに、もし簡単に自分立場を軟禁状態での承諾で抑えられるのは不思議だし。当時の政治と世界範囲での各列強の利益闘争の観点で見たほうが、より客観的、本質的な歴史を見えると思います。 勿論当時でもなく、現在中国の反日騒動などの問題も、表面ではなく、国際的、戦略的に国家利益の面で見た方はよりすっきりだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですか、蒋介石は親日政権というわけではないのですね。「攘外必先安内」と松井石根との親密さ(日本留学中からの親交)でそういう風に判断してました。

汪精衛についてもいろいろ調べてみようと思います。

お礼日時:2005/05/26 16:19

張学良といえば張作霖の息子としか認識していませんでした。

結構『活躍』していたんですね。

一般的には『叛旗』です。
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この回答へのお礼

『叛旗』でしたか、ひとつ勉強になりました。
どうもありがとうございます。

お礼日時:2005/05/25 23:30

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