ど素人です。簡単に説明お願いします。

A 回答 (1件)

それは精神と物体の二つの実体のことだと思います。


実体は、他のものなしで存在できる存在です。これは神だけです。
他のものなしで存在っていうのは、生まれるための原因が他のものにないって
ことであり、存在するために他のものの助けがいらないってことです。

で、もうちょっと広い目で見て、
存在するために神さましかいらないようなものも実体と呼びます。
(つまり神に創造されたもの、あるいは神によって維持されるもの)
それが精神と物体です。
それで精神の本質は思考であり、物体の本質は延長とされます。
これが一番大事な属性で、他の属性はみんなこの中に含まれるのです。
延長というのは、縦、とか横、とか高さがあるってことです。
縦も横も高さもない物体って想像もできませんよね。

で、精神と物体は当然お互いがなくても思考したり、延長を持ったりするわけです
(神さましかいらないので)
そのためこの2つは全く関係なく、むしろ反対な関係なわけです。

すると、人間みたいな精神と物体の合わさったものはどうなってるの?と
つまりどうやって、意思によって体を動かしたりできるように関係するのかというと
それは神さまが頑張っているからです(笑)
肉体は時計のように機械じかけでうごくようなものであり、心がその内に入っても動きは左右されますが、機械の仕掛けには変わりありません。
動物には心がないとされているので、ますます機械そのものです(笑)
この2つの間に深くて暗い河があることがデカルトの心身二元論の問題とされています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しく教えていたただきありがとうございました!
とても参考になりました!

お礼日時:2001/10/10 10:25

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【宗教の仏教の思惟(しゆい)とはどういう心境のときの状態、状況ですか?】

【宗教の仏教の思惟(しゆい)とはどういう心境のときの状態、状況ですか?】

Aベストアンサー

対象を心に浮かべてよく考えること。また、浄土の荘厳 (しょうごん) を明らかに見ること。

Q論理の間違いを説明する文の内容が、理解できません。どなたかもっと簡単に説明してもらえませんか?

論理の間違いを説明する文

「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
 大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。したがって、いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ」

上記の文は、すべてを網羅していないのに、網羅したと考えて結論を導く間違いの単純な例ということです。

{AのためにはBをしなければならない。CのためにはBをしなければ
ならない。したがって、いずれにしてもBをしなければならない}が論理的に正しいためには、
「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅していなければなりませんが、例文の場合では網羅されていないからです。←と説明されていました。

質問(1)
すべてを網羅しなければならない、とありますが上記、大食いの例文での「すべて」とは何を指すのでしょうか?

質問(2)
「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅していなければなりません←この文の意味が理解できません。

では「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅する、としたらいったいどうなるのでしょうか?

説明できる方は、ぜひ詳しく教えてくだされば嬉しいです。
よろしくお願いします。

論理の間違いを説明する文

「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
 大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。したがって、いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ」

上記の文は、すべてを網羅していないのに、網羅したと考えて結論を導く間違いの単純な例ということです。

{AのためにはBをしなければならない。CのためにはBをしなければ
ならない。したがって、いずれにしてもBをしなければならない}が論理的に正しいために...続きを読む

Aベストアンサー

#7です。
あくまで一素人の考えですが、
「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず」
が正しいか否か、ということとはまた別の問題であるように思います。
これは#7でも触れたように、
「大食いすべきかどうかを【身をもって】知るためには大食いしてみなければならず」
と書くべきところのケアレスミスであろうと捉えます。

大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ。

これを、次のような例に置き換えて考えてみました。

あの世があるかどうかを知るためには、死んでみなければならず、
あの世が無いかどうかを知るためにも、死んでみなければならない。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。

この場合、
「あの世があるかどうかを知るため」と「あの世が無いかどうかを知るため」で、
『すべての「~のため」を網羅』していることになると思います。
「ある」と「無い」が正反対の意味であることが明白だからです。
「全ての色は赤であるか赤でないかのどちらかである」が正しい命題である(と思うのですが)、
と同じ理屈で、
「あの世はあるか無いかのどちらか」でしょうから。

しかし、

あの世があるかどうかを知るためには、死んでみなければならず、
あの世が【楽しいかどうかを知るため】にも、死んでみなければならない。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。

という場合は、たとえば「あの世がつまらないかどうかを知るため」が考慮されていないことになります。
すべての「~のため」を網羅していません。
この論理では、たとえ死んでも、「(あの世が)つまらないかどうかを知ることができる」という保証はしていないわけです。
それであるのに、「いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。」
と言うのは筋が通りません。
は結論として偽だったことになります。
それで、論理的ではない文である、ということになるのだと思います。

これを論理的にするためには、

あの世がつまらないかどうかを知るためには、死んでみなければならず、
あの世が【つまらなくないかどうかを知るため】にも、死んでみなければならない。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。

のように表現しなければならないでしょう。
 
 

#7です。
あくまで一素人の考えですが、
「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず」
が正しいか否か、ということとはまた別の問題であるように思います。
これは#7でも触れたように、
「大食いすべきかどうかを【身をもって】知るためには大食いしてみなければならず」
と書くべきところのケアレスミスであろうと捉えます。

大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。
したが...続きを読む

Qこの英文の意味は?

この文章の意味はなんでしょうか?
どうやらAndrew blackburnという方の言葉?のようですが…

Aベストアンサー

あなたがやりたいことはなんでもやりなさい。今日という日はあなたのものです。

Q創価学会の教えを具体的かつ簡単にお願いします

会社に創価学会の方がいます(中年女性A)
その方は、毎日のように同僚の悪口を私に言うのですが
どうやら自分の都合の悪いこと(仕事のミス)を指摘されると悪口を言うようです。

兎に角、毎日毎日毎日他人に悪口を聞いているとAと会話するのも顔も見るのも嫌になります。
悪口など言う人はどこの会社にもいるでしょうが、悪口の数が尋常ではありません。
決して大袈裟ではありませんが、悪口を言う人の30倍は言います。

そこで質問です。

創価学会では、他人の悪口など言わない等の教えはないのでしょうか?
宗教ですから道徳などを教えるものだと思うのですが
Aは全く道徳的ではありませんし、社会のルールは守らないような人です。

Aのような人がたまたま創価学会員なのか?創価学会員になるとAのようになるのか?

真面目に創価学会を信仰されてる方には嫌な質問かもしれませんが、創価学会の基本的な教えについてご回答ください。

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>創価学会では、他人の悪口など言わない等の教えはないのでしょうか?
>Aのような人がたまたま創価学会員なのか?創価学会員になるとAのようになるのか?

創価学会は関係ありませんね。
その人の、性分なのでしょう。
教えとか教義以前の問題ですね。

自他共に人間生命に内在されている“仏の生命”
を尊び、人生をよりよく生きる為の宗教です。
他人の悪口を言うためのものではありません。

そう言ってあげてください。


※タイトルに「創価学会の教えを具体的かつ簡単にお願いします」
とありますが、これについては省略します。

Q意味を研究する事って

こんばんは。
今、授業で「認知意味論」を学んでいます。私は「意味を研究する事に意味があるか」という質問に答える事になったのですが、意味が無いと言ってしまうと授業が成り立たないので意味があると答えるべきだと思いました。
しかし、その根拠となる事柄がなかなか思いつきません。「どんな語にも意味があり、言語活動は意味を伝達する事であるから」ということだけでは、意味を研究する意味の根拠としては乏しいと思うのです(語の持つ意味が重要だとしても、言語によって意味は違い、その全てを網羅するのは不可能に近く、また、ある一つの言語に限っても、類似した意味の区別をつけることは困難、つまり意味というものは曖昧なものだから。)
そのような訳で、意味を研究する事の意味はどこにあるのか、皆様の考えをお聞かせ願いたく、質問しました。
また、私は専門家ではないので難しいことは分かりません。もし上の私の考え方でおかしなところがあれば訂正頂ければ助かります。

Aベストアンサー

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられた意味が重要だからです。逆にいえば、ある駒を見つめていてもその駒の持つ意味というものは決して理解できません。

これと同様に、意味というものは全体の関係性の中で言葉に付与されるものですから、孤立した単語を眺めていても決して浮かびあがってくるものではありません。言葉の持つ意味とは、他の単語との関係の中に捉えられる、ある体系内の価値である、という風に認識できるでしょう。言語とは網のようなもので、意味とはその中の流動的なひとつのマスに過ぎません。これが意味論の根本的なスタンスと言って良いでしょう。
そう考えると、ご質問にある「言葉の意味を考える」ことは、すなわち社会制度としての言語の意味のネットワークを考える、ということに直結するわけですから、文化・社会・歴史全般にわたる広がりを持つという意義もわかるでしょう。裾野が大変に広いわけです。

言葉がご指摘のように曖昧な意味を担っていて、周辺のぼやけというかある幅を有することも事実ですが、先の意味から考えればこれは逆に、意味が他律的に周囲との関係の中で定まるものであるがゆえに、意味の中心が存在せず、せいぜい最大公約数的なものしか認識できない、という風に言えるでしょう。

要するに、明快な意味が定義できないから駄目なのでなく、そこをスタートとして、それなのに曲がりなりにも意味が通じ合うのはどういうことなのか、という風に意味の意義を求めてみてはどうでしょうか。
「言葉はモノの名称リストではなく、我々の世界認識の結果である」というのが、現在の言語観の基本です。

また、意味というものは意外と動的なもので、単純なものではありません。意味論の初歩でデノテーションとコノテーションを学ばれることと思いますが、例えば『ユダヤ人は所詮ユダヤ人さ』というせいりふの意味を考えてみると、最初のユダヤ人は「ユダヤ民族に属する人」という外示的意味(デノテーション)を指すのに対し、あとの方のユダヤ人とは「狡猾でずるいやつ」という共示的意味(コノテーション)を担っています。

これはひとつの些細な例にすぎないのですが、コノテーションを深く知れば、表現を通じて人間の意識というものを知ることにもつながります。言葉の意味は一定しないもので、常に既成の意味体系に限定されていく人間の意識が、言語の表現作用を通じて解放されていく様がコノテーションには見られるからです。
意味というのは世界の分節化であり限定性を本質的にもつものですが、それに抗って新しい意味生産を行うこと、つまり、言語の網の目の改変、という点で言葉の意味をたどることは人間の意識や思考方法そのものを見つめることに直結します。無意識のレベルで言葉の音と意味がどのように関わりひとつの語として紡がれるのか、というプロセスを研究する人達もいます。

さらに、認知意味論というのは特に人間が意味を認識する過程を問題にするわけですから、意味を考えること、ひいてはどうやってその意味が認識されているのか、ということは人工知能や認知哲学など広い分野に活用されるべき知識です。
例えば、海に浮いているメッセージボトルを見たとき、我々はすぐにそこに何らかの意味があることがわかるのですが、これはなかなか容易なことではありません。内部情報(中の紙に書かれている意味)を理解する以前に、外部情報(例えば「この文章が日本語で書かれている」といったこと)、さらにフレーム情報(つまり「このボトルの中には意味のある情報が入っている」ということ)が適確に理解されなければなりません。
「これは意味のあるモノである」という情報それ自体もメタ情報として意味を担っているわけで、実は語やモノの意味を理解することはそれ以前に多くの意味の解釈を必要としているのです。我々にとっては無意識の作業ですが、そういった事柄が我々の頭の中でどのように認識し処理されているのか、大変興味深い研究テーマだと思います。その困難さは、人工知能にこれらの行為を代替させようとした時にどれほどの困難が伴うことかを想像してみればわかることでしょう。

※少しご質問の内容とはずれがあるかもしれませんが、あまり意味論を理解していない回答が多いようなので、敢えて考え方のヒントとして書いてみました。ご参考までに。

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられ...続きを読む

Q哲学に詳しい方に質問です。長文ですがお願いします。

友人に発言の大きな子がいて困ってます。
能力的なことや知識、全てにおいて
すぐに「自分は出来る」という発想に到ってしまいます。
全てをみての「出来る」ではなく、自分の出来る範囲で
「出来る」と発言しています。

例をあげると、
「勉強すれば東大とおる」
「カウンセリングしてあげる」などですが、
カウンセリングしてあげると言うのは
うつ病の別の友人がいて、その子のカウンセリングを
しているつもりなのです。
(友人は心理学の勉強をしたことがありません)

しかし、自分の考えでは
臨床心理士になるにはそのための勉強が必要で
臨床心理士という世界があり、
素人考えでできるものではないと思います。

それを踏まえて、ここからが哲学についての質問なのですが
「勉強したら東大にうかる」という発言の時に
自分のような近しい友人に言うのはいいのですが
実際、根拠や実績があるようにも思えないので
あまり人前では言わない方がいいのではないかと思い、
「哲学の言葉で、人は知れば知るほど何も言えなくなる
っていう言葉があるんだよ」と教えました。

すると、「私逆かも~」という答えが返ってきました。
出来ないと思っていても、意外と出来た。ってことがあるから
というのが理由らしいのですが、
私は、そういうレベルの話ではなく
物事は最初は何でも簡単だけど
奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき落ち込んだり
一つのことを極めるのは大変だから、簡単に「出来る」という
発言はダメだよ。ということが言いたかったのですが
伝わらなかったようです。

私は仕事柄、日々の勉強が必要で
ベテランさんにこの言葉を聞いたのですが
初めて聞いたとき「なるほど!!!スゴイ!!!」
と感心してしました。
私の解釈が間違っているのでしょうか?

この言葉の意味を易しく教えていただけないでしょうか?

友人に発言の大きな子がいて困ってます。
能力的なことや知識、全てにおいて
すぐに「自分は出来る」という発想に到ってしまいます。
全てをみての「出来る」ではなく、自分の出来る範囲で
「出来る」と発言しています。

例をあげると、
「勉強すれば東大とおる」
「カウンセリングしてあげる」などですが、
カウンセリングしてあげると言うのは
うつ病の別の友人がいて、その子のカウンセリングを
しているつもりなのです。
(友人は心理学の勉強をしたことがありません)

しかし、自分の考えで...続きを読む

Aベストアンサー

とりあえず友人のことは別の問題だと思いますので
質問の本題に集中しましょう。

> 簡単に「出来る」という発言はダメだよ
そう思われるなら
> この言葉の意味を易しく教えて
簡単に「分かろう」なんて思っちゃあダメですよ。

> 奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき
そこまで気づいているなら
> 私の解釈が間違っているのでしょうか?
合ってるか/間違っているか?の「答を簡単に出せる」と思っちゃあダメですよ。

人間は「全知全能」ではない筈です。
(それに異論はないですよね?)
つまり、全てを知ることはできない。
だから、知れば知るほど「知りえないこと」があることに気づく。
知りうることの「限界」に気づく。
●語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
これはヴィトゲンシュタインの言葉です。
http://blog-imgs-29.fc2.com/o/r/a/orangekick/P_WITTGEN.html
http://www.geocities.jp/deepbreathinghp/katarienu.htm

特に
正しい/間違っているといったことを判断するときには
私たちの判断に限界があることを自覚したうえで
それでも判断をしないと私たちは進めなくなってしまいます。

とかね。

とりあえず友人のことは別の問題だと思いますので
質問の本題に集中しましょう。

> 簡単に「出来る」という発言はダメだよ
そう思われるなら
> この言葉の意味を易しく教えて
簡単に「分かろう」なんて思っちゃあダメですよ。

> 奥深く進んでいくことで、自分の無知に気づき
そこまで気づいているなら
> 私の解釈が間違っているのでしょうか?
合ってるか/間違っているか?の「答を簡単に出せる」と思っちゃあダメですよ。

人間は「全知全能」ではない筈です。
(それに異論はないですよね?)
...続きを読む

Q悪い意味からいい意味へ、またその逆。

こだわる、という言葉は本来「そんなことにこだわるな」というようにネガティブな意味だったものが「味にこだわる」というようにポジティブな意味でも使われるようになってしまいました。「すごい」や、最近では「やばい」も本来悪い意味がいい意味でも使われるようになったと思います。悪い意味からいい意味、いい意味から悪い意味に変化した言葉を他にあれば教えてください。またこういう変化のことを専門用語では何といいますか。(意味の昇華?意味の降下?)

Aベストアンサー

「素晴しい」(すばらしい)現在ではほとんどの場合いい意味で、「大変優れている」「程度がはなはだしい」時に使いますが、古くは良くないことに対して、「ひどい」「とんでもない」の意味で使いました。辞書には「この女ゆゑにやア素晴しい苦労をして」という例文が載っています。また大正時代の新聞の関東大震災の写真の説明に「素晴しい被害」という表現を見つけて驚きました。

Q仏教に関する基本的な質問です。 お願いします。

仏教に関する基本的な質問なのですが、宗教には全くド素人なので小学生に教えるような感じがお願いします。

1. 仏教は大乗、小乗と分かれたり、また密教とか禅宗とかありますよね? これらは一体何がどう違うのでしょうか?

2. 一部を除いて大体のお坊さんは頭を丸めていますよね? 多分、頭髪を切る事で俗世間とは縁を切るという意味が込められているのかなと思うのですが、この習慣(?)はいつ頃から始まったと考えられるのでしょうか?

写真で拝見したダライラマ14世は日本の僧と同じように頭を丸めていました。 でも、元祖のお釈迦様はどうだったのでしょうか?

また頭を丸めない宗派があるはずですが、俗世間と縁を切るという考えは無いという事になるのでしょうか?

3.日本の仏教界だけでも色々な宗派に分かれているようですが、本来、お釈迦様が唱えた教え(原始仏教?)に最も近いのはどれでしょうか?

専門用語を使われると全くのチンプンカンプンになって質問した意味が無くなると思いますので、それこそ小学生にざっくりと教えてあげるような感じでお願いできれば有難いです。

Aベストアンサー

2.については知らないのですが。

仏教は、実は元々は経典がありません。初代の釈迦も別に布教しようとしていた気配は無く、単純に「自身が悟りの境地に達することが出来ればオッケー」と考えていたフシがあり、特段「ああしなさい」的な言葉を残していません。仏教の経典は、釈迦の死後、その弟子(釈迦自身は弟子を取ったつもりは無かったようですが)が釈迦の言葉や態度をまとめたものにしか過ぎないのです。

ですので、タイやインドなどの仏教は、あくまで「その人が悟ればオッケー」という形でしかありません。日本における仏教とはかなり形が違うんです。

ところが日本では、仏教を政治の道具として時の政権が導入したために(だもんで、蘇我馬子と物部守屋がケンカしたでしょ?)、元々の「悟りが開ければ他人がどうなろうと知ったこっちゃない」系の仏教と、「やっぱ宗教者である以上、衆生を救う事が第一じゃね?」系の仏教に分離しちゃったんです。

で小乗仏教/大乗仏教ですが、この言葉はその「衆生を救う」系の仏教が、「俺ら、度量がでかいんだぜ(大乗)。衆生がどーなってもいいなんて、度量の狭い連中(小乗)とは違うんだぜ」という差別用語なんですね。だもんで小乗仏教ではなく「上座部仏教」というのが正しい用語です。

ちなみにこの上座部系の仏教は、のちに密教という形で鎌倉時代に花開きました。禅宗は基本的にこちらです。寺院で言えば福井の永平寺なんてこっちですね。上座部系は基本的に布教を考えていないので、日本中に広まっている訳じゃないのですが、主に「中世の文化人」でもある武士を中心に信者がいた為に、日本の精神体系に大きな影響を与えているのはご存じのとおりです。

一方自称「大乗」仏教は、空海・親鸞、更には過激派日蓮によって日本中に広まりましたが、元々経典があやふやな上、本来の仏教は「衆生なんてどーでもいい」ので、微妙に経典解釈が違ったんですね。だもんで宗派が山ほど出来たんです。普通ならこういうのは宗教戦争になって(実際、日蓮宗はそれに近いことをやってますけど)、どれかの宗派に収束するのですが、江戸時代に幕府が「檀家」制度を作って全ての宗派を保護してしまった(=全ての住民はどこかのお寺の檀家になることで、住民基本台帳を作った)ので、宗派が統一されなかったんですね。

2.については知らないのですが。

仏教は、実は元々は経典がありません。初代の釈迦も別に布教しようとしていた気配は無く、単純に「自身が悟りの境地に達することが出来ればオッケー」と考えていたフシがあり、特段「ああしなさい」的な言葉を残していません。仏教の経典は、釈迦の死後、その弟子(釈迦自身は弟子を取ったつもりは無かったようですが)が釈迦の言葉や態度をまとめたものにしか過ぎないのです。

ですので、タイやインドなどの仏教は、あくまで「その人が悟ればオッケー」という形でしかありませ...続きを読む

Q「抗原」の2つの意味

「抗原」には、次の意味1、意味2の2つの意味があるように思います。

意味1 抗原性を有する個々の蛋白質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5、N1は、それぞれウイルスの表面にある特定の蛋白質であり、それぞれ抗原であるとお聞きしました。H5、N1などのような「抗原性を有する個々の蛋白質」が意味1です。

意味2 抗原を有する物質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1の2つの「(意味1の意味での)抗原」を用いて他の生物に感染するとお聞きしました。このような「「1つ又は複数の(意味1の意味での)抗原」を有する物質」(例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルス)が意味2です。

質問1
「抗原」には、意味1、意味2の2つの意味があるとする上記の理解は正しいでしょうか。

質問2
上記の理解が正しい場合、「意味1の意味での抗原」と「意味2の意味での抗原」とを区別するために便利な名称があるでしょうか。

「抗原」には、次の意味1、意味2の2つの意味があるように思います。

意味1 抗原性を有する個々の蛋白質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5、N1は、それぞれウイルスの表面にある特定の蛋白質であり、それぞれ抗原であるとお聞きしました。H5、N1などのような「抗原性を有する個々の蛋白質」が意味1です。

意味2 抗原を有する物質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1...続きを読む

Aベストアンサー

 shozi_nkさんには前も忠告したのですが、前の質問へのQ&Aで派生した疑問については、その質問の中で再質問するなどして解決を図るのが筋でしょう。
 質問内容が元の質問からかなり離れてしまうと判断したため別の質問を立てる場合でも、せめて前の質問に対する回答には何らかのレスを付けて締め切るのが回答者に対する礼儀でもあるでしょう。

 それにそもそも、こうやって次々と「勝手な解釈による新しい質問」を立てていって、理解が深まるとも思えません。
http://okwave.jp/qa5346194.html
http://okwave.jp/qa5340779.html
 これらの前の質問に対する回答をきちんと理解すれば、本質問のような解釈は出てこないと思うのですが・・・
 「勝手な解釈」が前の回答に対するレスに書かれていればちゃんとフォローできるのですが、その都度新しい質問を立てられてはそうそうつき合い切れません。
 よって、本回答を最後にします。自分で書いた回答に対する再質問にはいくらでも対応しますが、これ以上の"新質問"にはつき合い切れません。

 「抗原」の意味は、基本的には"意味1"が正しく、それ以上の意味("意味2")はありません。
 otxさんが"間違い"と指摘したのは、

>抗原性を有する個々の蛋白質

 の"蛋白質"が間違っている、ということです。抗原は蛋白質だけでなくある程度以上の大きさを持つ分子であれば、たいていのものは抗原性を有するからです。(でも医学分野で問題にする大半の抗原は蛋白質ですが)

 で、「抗原性を有する」というのは、「抗体のターゲットとなる」と同義です。従って、「抗体のターゲットになるもの」は「抗原性を有するもの」と同じ意味になります。

 ・・・ま、「抗原」という言葉の定義に「抗原性」という"抗原"を含む言葉を使うのは適切ではないですけど。

>最初の質問で言いました次の(a)~(c)のいずれもが「ターゲットとなるもの」であると思えます。
>(a)H5蛋白質
>(b)N1蛋白質
>(c)H5N1鳥インフルエンザウイルス

 この中で(c)は違います。H5N1鳥インフルエンザウイルスに対する抗体、というのは厳密には存在しません。言い換えると、抗H5抗体や抗N1抗体は存在しますが抗H5N1抗体というのはあり得ないのです。
 ですから、ウイルス粒子そのものは厳密には「抗原」ではないのです。

>例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1の2つの「(意味1の意味での)抗原」を用いて他の生物に感染するとお聞きしました。

 ちょっと違います。
 感染の際に重要なのはHA蛋白であり、細胞内で増殖したウイルスが細胞から脱出(出芽)する際に重要な役割を果たすのがNA蛋白です。この2つの蛋白は、細胞への感染~出芽に至るウイルスの増殖サイクルの中で、別のステージでそれぞれ役割を持っています。別にHAとNAの組み合わせがどうこういう話ではありません。
 インフルエンザウイルスの亜型がH5N1というようなHAとNAの2つの血清型による亜型で型別されるのは、この2つの蛋白の組み合わせがウイルスの増殖サイクルや病原性にとって重要だからではなく、この2つの蛋白に多型性があるからです。

 例えばインフルエンザの迅速診断キットは、ほとんどの場合インフルエンザウイルスのNPという核蛋白に対する抗体を使用しています。
 つまり厳密に言えば、これらのキットで陽性となった場合、「患者の鼻腔拭い液等の検体の中に、NP抗原が存在することを証明」しているのです。直接的にインフルエンザウイルスそのものの存在を証明しているわけではないのです。

 しかし、ウイルス粒子が存在しないのにNP蛋白という"パーツ"が単独で存在することなどあり得ませんよね。なので、「NP抗原の存在を証明」=「A型インフルエンザウイルスの存在を証明」でokというわけです。
 この場合、学会や論文レベルでも「A型インフルエンザウイルスの抗原を検出」というような表現がされる場合があり、この場合は"意味2"のような使われ方をされていることになるのですが、あくまで読み手は「=NP抗原」と脳内変換して読んでいるので、ウイルス粒子そのものを「抗原」という認識はありません。(論文だとレフェリーに指摘されて書き直すことになる可能性が大)

 ちなみに迅速診断キットが、なぜHAやNAでなくNPをターゲットにしているか、は、「NP蛋白に多型性がないから」です。

 A型インフルエンザウイルスは、HAやNA、それと今話題になったNPの他に、RNAポリメラーゼ(PA,PB1,PB2の3つの遺伝子によってそれぞれのサブユニットがコードされている)やマトリックス蛋白(M)、非構造蛋白(NS)といった蛋白質を作ります。というよりウイルス遺伝子にこれら蛋白質がコードされています。
 また、MとNSはスプライシングされてM1とM2、NS1とNS2といった蛋白に合成されます。

 これらHA,NA,NP,PA,PB1,PB2,M1,M2,NS1,NS2といった蛋白(あるいはそのサブユニット)は全て「抗原」となり得ます。実際に感染した人はこれら全ての蛋白に対する抗体を作るでしょう。

 shozi_nkさんには前も忠告したのですが、前の質問へのQ&Aで派生した疑問については、その質問の中で再質問するなどして解決を図るのが筋でしょう。
 質問内容が元の質問からかなり離れてしまうと判断したため別の質問を立てる場合でも、せめて前の質問に対する回答には何らかのレスを付けて締め切るのが回答者に対する礼儀でもあるでしょう。

 それにそもそも、こうやって次々と「勝手な解釈による新しい質問」を立てていって、理解が深まるとも思えません。
http://okwave.jp/qa5346194.html
http:/...続きを読む

Q科学における説明と日常的にひとが行う説明について

「科学における説明と日常的にひとが行う説明の相違点を述べよ」という大学のレポート課題について質問しますが、これは客観的な一般命題と、主観的な価値命題による差、ということでよいのでしょうか?

最初にレポートを提出した時は、
科学における説明は数学の定理のように客観的な説明であって説明者によりその内容が異なることは無く、対する日常的な説明は説明する人の背景知識や経験に依存するため説明の内容が異なることがある、と書きました。
結果は不合格で、科学における説明は経験にもとづくことはないのか?また、日常における説明は何でも説明になるわけではありません、といわれました。

以下のように直したいと思います。
 科学における説明 → 一般命題、AはBである、といった定義された公理のもとで体系が展開されるもので、主観を排した客観的法則を重んじ、ポパーのいう反証可能性を認めているため定理が改善されることがある。
 日常生活における説明 → Aはよい、わるい、といった定義の確立されていない価値命題であり、主観的な世界でしかその真偽を判定できないもの。

としました。
アウトラインはこれでよいでしょうか?
ちなみに文系教養科目の哲学ですのでそれほど専門的な内容を求めているわけではなさそうです。
よろしくお願いします。

「科学における説明と日常的にひとが行う説明の相違点を述べよ」という大学のレポート課題について質問しますが、これは客観的な一般命題と、主観的な価値命題による差、ということでよいのでしょうか?

最初にレポートを提出した時は、
科学における説明は数学の定理のように客観的な説明であって説明者によりその内容が異なることは無く、対する日常的な説明は説明する人の背景知識や経験に依存するため説明の内容が異なることがある、と書きました。
結果は不合格で、科学における説明は経験にもとづくこ...続きを読む

Aベストアンサー

「科学における説明」には正しいとされる根拠が必要です。
それゆえに証明をする形になると思います。
「日常的にひとが行う説明」には証明的説明もありますが手順的な説明もあります。
手順的な説明には根拠は必要ありません。

例えばオムレツの作り方は「日常的にひとが行う説明」つまり手順の説明(根拠は不要)は出来ますが
根拠を挙げての「科学における説明」は出来ないでしょう。
出来るとすれば何故この手順でこうしたらオムレツが出来るかのメカニズム的な説明になると思います。それは決して作り方ではありません。

また「どうしていつもブルーベリーを食べているの?」と聞かれたら
「目に良いから」と説明するのは
根拠を言っていますが科学的ではないので「日常的にひとが行う説明」でしょう。
「ブルーベリーに含まれるアントシアニンが目にいいから」と説明しても科学的なメカニズムを説明してないので「日常的にひとが行う説明」ではないでしょうか?
「目の網膜にあるロドプシンは光が当たる事によって脳に送られる伝達物質となり見えている映像を認識する事になります。
しかしこのロドプシンは光が当たると分解されロドプシンとしての働きが出来なくなります。
ブルーベリーに含まれるアントシアニンはこのロドプシンの再合成を助けるため目に良いとされています。」
と説明すれば科学的な説明になりますよね?(でも質問の答えとしてはズレているかも…)

素人なので「相違点はズバリこれ!」と指摘は出来ませんが何か参考になれば幸いです。

「科学における説明」には正しいとされる根拠が必要です。
それゆえに証明をする形になると思います。
「日常的にひとが行う説明」には証明的説明もありますが手順的な説明もあります。
手順的な説明には根拠は必要ありません。

例えばオムレツの作り方は「日常的にひとが行う説明」つまり手順の説明(根拠は不要)は出来ますが
根拠を挙げての「科学における説明」は出来ないでしょう。
出来るとすれば何故この手順でこうしたらオムレツが出来るかのメカニズム的な説明になると思います。それは決して作り...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報