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旧約聖書、新約聖書は神と人との「契約」の書だと聞きましたが、具体的な契約内容は、”要約する”とどういうものですか?例えば、「神を信じれば天国行きを保障する」とか...そういうようなことなのでしょうか?また、旧約聖書の契約内容と新約聖書の契約内容は、どのような関係になっていますか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (6件)

アダムとイヴ


  ・善悪の木から取って食べてはならない。→永遠の命。

ノア
  ・船を作って、指示したものをそこに入れ、共に生き延びなさい→生き延びさせる。

アブラハム
  ・私が示す地に行きなさい→大いなる国民にし、あなたを祝福し
   あなたの名を高める。
   あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。
   地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。
  ・あなたの子孫はイサクによって伝えられる(ユダヤ教の祖?)
   イシュマルも一つの国民の父とする。(イスラム教の祖?)
  ・息子イサクを焼く尽くす捧げ物としなさい。→あなたの子孫を天の星のように、
   海辺の砂のように増やす。

ヤコブ
  ・今横たわるこの土地をあなたとあなたの子孫に与える。
   地上の氏族は全て、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
   あなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。
   あなたに約束したことを果たすまで、決して見捨てない。

モーセ→十戒
   (今までは口約束だったが、ここでは契約の証としてアークが登場する)  このとき、他にもっと具体的な法律が定められた。
    内容は今の法律のようなもので、人間同士のルール。
    ここではそれを守る見返りの明確な代償が提示されていない?
    神からの一方的な命令? それに合意したのがモーセ?

ここらへんが旧約聖書の大きな約束で、だいたい守れば神は祝福するとか神の祝福に入るとなっています。
祝福とは、他者の繁栄を望み、願い、実現させることです。

モーセによって、人間同士の基本となる法律が制定され、それにのっとって日常は行われ、それに違反したものは法律によって裁かれるようになったんじゃないかと。
今まで漠然としていた、やってはいけないことが、掟として明確にされたんじゃないかと。
(刑法の第なんとかに違反する とかなんとか?)
他にも長さや容量重さの単位を定めたり、貨幣・利子とか保険なども、ここらでちゃんと改めて明確にして文章に残したんじゃないかと。
 

新約の方は、、、キリスト教の教本ですが、どう捕らえていいのかよくわからないです。
キリスト教はイエスを崇拝していますが、その内容はイエスの思想とは違うようです。
従って、イエスの思想と思われる視点から新約を読もうとすると、理解が難しいです。

西洋哲学はキリスト教が基盤となっていると思って、よくネットでキリスト教の人と問答しますが、「それおかしくないですか? どう解釈すればいいのでしょうか」と説明を求めると、だいたい「あなたに神の祝福を」と言って逃げられます・・^o^;
「あらー また逃げられた」なんですが、その言葉はその前のやりとりからすると、私に神の祝福があることを願う言葉としては使われていないということはよく理解でき、それって呪い?笑 とか思ったりします。
i wish your happinessじゃなくて、 God may damn youって意味だって。
他力本願がキリスト教。
自力本願がイエス教。

一応、新約は律法を守ることで人は救われる(旧約)のではなく、人が他人を救うことで、その人自身が救われる(神の祝福に入る)と説いたのがイエスだったと思います。
しかしキリスト教(カソリック)はその路線は行かず、新約として、懺悔の時、お金を払えば救われるとして、お金を払った人に対して、教会が「あなたの罪は消えました」としたものだから、それ おかしくないかい? ってなって、プロテスタントができたんだったと思います。

しかしそれでもその方向性に限界があるとわかった人たちは、別の神学を作り出して、分裂していっていて、今は新秩序教がこの世を支配しているように思います。

で、どれが正解? 何を守って生きていけばどうなるの? なんですが、結局は、イエスの思想(キリスト教の思想ではない)が、例え人間に寿命がつき、その前に度重なる不幸に見舞われ、ケチョンケチョンになっても、満足な一生だったと消滅を静かに受け入れられるのではないか と今のところは私は思います。
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この回答へのお礼

契約内容を詳しく具体的に例示していただき、ありがとうございました。旧約は世俗的な感覚からも比較的わかりやすいですが、新約はなかなか難しそうですね。イエスの思想とキリスト教の思想を別のものと捉えておられるようですが、どう違うのか興味があります。また、別の機会によろしくお願いします

お礼日時:2005/07/11 23:19

旧約は神とユダヤ民族との契約です。


内容は神の言葉を守ればユダヤ民族は救われるということです。
その救いは現世的な意味合いが強いと思います。
ユダヤ人は神に選ばれた特別な民族なんです。いわゆる選民思想です。

新約は神と人間との契約です。
内容はイエスをキリストと信じれば救われるということです。
その救いは信じる者が天国にいけるという意味合いが強いと思います。
もちろん終末論もあるので、この世の救いもふくまれてますが・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/07/11 23:25

旧約聖書では律法、神が色々な形で命令を出しています(主なものは十戎)この命令を守り、行うことによって天国にいけるという教え


新約聖書では命令ではなく「愛」という教え

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである(ヨハネ3:16~17)。
聖書の言葉をどこから引用するのか?それによって多少、宗派、信仰を持っている個人において多少違いはありますが、基本はこの言葉がポイントとなっています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/07/11 23:24

NO2です。

訂正とお詫び

新約ですが、ヨハネによる福音書14:12-14に
 わたし(イエス)を信じる者は・・・わたしはそれを(なんでも)かえてあげよう。

新約ですが、ヨハネによる福音書14:12-14に
 わたし(イエス)を信じる者は・・・わたしはそれを(なんでも)かなえてあげよう。

「な」を入れ忘れました。
お詫びいたします。
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この回答へのお礼

訂正いただきありがとうございました。

「な」が抜けていても、無意識に「な」を補って読んでいました....。

お礼日時:2005/07/11 22:59

契約は個人と神様の契約ですね。

教会と個人でもなく、教会と神様の契約でもないんです。
旧約の契約は、出エジプト記20:3-17に書いてあります。いわゆる、『十戎』です。

1.あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない。
2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
3.あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
5.あなたの父と母を敬え。
6.あなたは殺してはならない。
7.あなたは姦淫してはならない。
8.あなたは盗んではならない。
9.あなたは隣人について、偽証してはならない。
10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

以上が『十戎』のあらましです。
それに対して、神様は
 わたし(神様)を憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代におよぼす。
 わたし(神様)を愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

あとは、領土を拡げるとか、約束の地を与えるとか、現世利益的なお約束です。

新約ですが、ヨハネによる福音書14:12-14に
 わたし(イエス)を信じる者は・・・わたしはそれを(なんでも)かえてあげよう。

気前の良い話です。
とくにイエスの強調したいのは、『神の御業』を行えと、言っています。

旧約は 個人-神様 の契約
新約は 個人-イエス≒神様 との契約です。

個人的で独断的な意見ですが。旧約での『天国』行きはないですね。
新約での『天国』行きはあります。なにせ、すべてかなえてくださるのだから。(イエスが神になったら、の条件付きです。さらに、行いを求められます)

詳しい内容は、あなたと神様の間で分かるでしょう。
つまり、個々において異なるとゆう事です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

『十戎』は、信者ならそれほど難しい契約条件ではなさそうだし、新約の「神を信じる」も信者なら当たり前のように思いますが、結局一番難しいのは「信じる」ということなのでしょうか。

お礼日時:2005/07/11 22:57

 こんにちは。



 まず、契約について。
 「私たちの罪のために、救い主なるイエス・キリストがこの地上に来られ、十字架にかかって身代わりとなり罰を受けて死んでくださいました。しかし、死に勝利し3日目によみがえられました。そのことを信じるなら、人は罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受けるのです」と言うことばを信じ受け入れるなら、その信仰によってそのとおりのことが、私たちに起こるということです。
 つまり「」内の事を信じることが契約ですね。

 次に新約聖書と旧約聖書です。
 旧約聖書は39巻あります。天地創造からキリストの降誕する前までのことが書かれてあります。
 新約聖書では、イエス・キリストが降誕され、わたしたちの罪の代わりに十字架で死んでくださったこと、しかし3日目によみがえられたことが書かれており、もしも、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるなら、その罪は赦され、救いの保証として聖霊が与えられ、神の子とされ永遠の命が与えられるということが書かれてあります。
 要する旧約聖書と新約聖書は続きの関係にあるんですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/07/11 22:50

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Q神との契約

神との契約

神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか?
知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか?

Aベストアンサー

 こんにちは。

 そうですね。まづ 《契約》として現代でも捉えるかとなると違って来ますが そのような意味をも込めて 
 ★ 知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか?
 ☆ については そういった差別や区別はないと言えると考えます。

 ★ 神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか?
 ☆ つまりわたしが言いたいことは 《新しい契約》が出来ているということです。そしてそれは すでに《神との〔アブラハムからの旧いものとしての〕契約》は 要らなくなっているという意味です。さらに言いかえると 新しい契約は 契約じたいが 要らないと言っているものです。

 新約聖書の中でヘブル書は 旧約聖書の中からエレミヤ書が《新しい契約》について述べるところを取り上げ これを解説しています。
 ▲ (ヘブル 書8:7-13)~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そもそも アブラハムは――そのとき七十歳を過ぎていたそうですが―― 《行け》と言われて行ったのです。故郷を離れて どこか定まらないところへ行けと言われて それに従ったというそこから 信仰ないし契約が始まっています。
 たしかに アブラハムは その《契約が有効になるための条件》としてのごとく その信じるこころが神によって試されました。想像を絶するかたちで試練を受け これに応じました。その結果 アブラムをアブラハムと改名するといったように 契約が完全に結ばれるに到ったわけです。(ただし 割礼をほどこすというのは この信仰の成立のしるしとしてですから 必要条件ではなかった)。

 そのあと この契約ないし信仰の明文化といったようなことが モーセのときに起きました。ほかに神という言葉で呼ばれるものがあるが おまえたちは浮気はするなかれとか 殺すなかれなどなどです。
 けれども こうであっても そもそも信仰としての契約は 《行けと言われたから行った》という実行とその生きた心にあります。モーセの契約条文は この信仰ないし人間性がその自然本性を外れるときには そのことが罪でありたぶん罰もあるであろうとおしえるものです。信仰成立のための条件ではありません。成立しているかどうかを見る目安にはなるでしょうけれど。
 
 そうして 新しい契約に到っては モーセの戒律を破った人がいたとしても
 ▲ わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。
 ☆ と言うのですから どうなんでしょう?

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~
  彼らはそれぞれ自分の同胞に、
  それぞれ自分の兄弟に、
  『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

  小さな者から大きな者に至るまで
  彼らはすべて、わたしを知るようになり、・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ と言っています。わづかにそういう新しい契約が生まれ出たということを――そのイエス・キリストの磔の死のあと―― 《宣教という愚かな手段によって》宣伝がおこなわれましたが もう要らないと言っています。集団によって教義を保つというような宗教は要らないというものです。
 何もしないでも いいわけです。

 こんにちは。

 そうですね。まづ 《契約》として現代でも捉えるかとなると違って来ますが そのような意味をも込めて 
 ★ 知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか?
 ☆ については そういった差別や区別はないと言えると考えます。

 ★ 神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか?
 ☆ つまりわたしが言いたいことは 《新しい契約》が出来ているということです。そしてそれは すでに《神との〔アブラハムからの旧いものとしての〕...続きを読む

Qキリスト教の唯一神の名は何ですか

ユダヤ三教はいずれも一神教です。

例えば、
1.ユダヤ教の唯一神の名は「エホバ(ヤハウエ)」、
2.イスラム教の唯一神の名は「アッラー」です。

それでは、
3.キリスト教の唯一神の名は何ですか。ご存じの方、教えて下さい。

Aベストアンサー

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源)という呼び名もあったが、
・現代のキリスト教では、単にGod(神)と大文字で表記し、普通名詞としてのgodと区別することが多い。
唯一神なのだから、単に、固有名詞の「神」だと考えればわかりやすい。
・日本の信者間での通称は、「主」(しゅ)が一般的である。
・私が子供の頃は、「天主」という呼び方もあったと記憶している。古い教会で「浦上天主堂」などと呼ばれているのはその名残。多分「天使」と混同するから使われなくなったのだろう。

・尚、カトリックでは、「三位一体」説というのがあり、神には、「父」と「子」と「聖霊」の3つのペルソナ(人間なら「人格」と訳すが、神なので「位格」と訳す。英語のパーソンに相当)があるが、本来は同じ一体の「神」の別の表れ方という解釈がなされている。
→ http://www1.tcat.ne.jp/eden/Hst/dic/trinitas.html
仏教の阿修羅のように、一体なのに、顔が四方についているイメージを思い浮かべば、イメージしやすいかもしれない。

この内、「父」は、「天の父」であり、
「子」は、「神の子」でありながら、人類の救いのため、人間の姿になって地上に降られた「イエス・キリスト」であり(その意味で、「イエス・キリスト」は「救い主」(メシア)と呼ばれる。)
「聖霊」(「精霊」ではない)は、イエスの誕生、洗礼及び復活のとき、イエスの中に満たされるとともに、今日ペンテコステ(聖霊降臨の日)と呼ばれる日に舌の形で弟子たちのもとに下り、一瞬の内に出身国・国語の異なる弟子たちの言葉が通じ合い、喜びに満たされた、という話があり、今後も「聖霊」が人類に与えられることによって救いが完成すると言われています。
→ http://www.pauline.or.jp/spirit/sps3.php

このように、三位一体説は、非常にわかりにくい教義で、3つのペルソナの中で、すぐにイメージしやすいのは「子」であるイエス・キリストのみであり、教会内にキリスト像ないし十字架上のキリスト像があるが、あとの2つは、像もなく、目に見えにくいイメージですね。

神=イエス・キリストという回答も間違いとは言えませんが、正確には、イエス・キリストは神の3つのペルソナの一つであり、「キリスト教の唯一神は固有名詞の「神」Godという呼称で呼ばれています。」という回答の方が、現代では一般的だと思われます。

高校生の時カトリックの洗礼を受けた60代の男性です。
これまでの回答も間違ってはいないのですが、少し混乱されそうだと思いましたので、もういちど整理して回答してみましょう。

・あなたの言われるとおり、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の神(引いてはそれ以外の宗教も、という考えもある)は、同じ唯一神であり、呼び名は色々ある。(呼び名はどうでもよい、という側面もある。)
・キリスト教の場合は、古くからヤーウェ(エホバ)或いは、デウス(「神」のラテン語訳でギリシャ神話のゼウスも同じ語源...続きを読む

Q「黙示録」って何ですか?

カテが分からないのですが、「黙示録」ってどういうものですか?

Aベストアンサー

 黙示はギリシャ語で「覆いを取り去る」「隠されていたものが明らかにされる」つまりは啓示を意味していて、紀元前3世紀頃から紀元後数世紀のいわゆる後期ユダヤ教の内外で起こった文学運動を「黙示文学」といいます。一番有名なのは、新約聖書にある「ヨハネの黙示録」なのですが、旧約聖書の「ダニエル書」も黙示文学として分類されています。

 現代において「○○黙示録」などと使われる場合、終末的な記述や人間の絶望的な状況の記述がある場合に用いられていることがよくあります。それは「ヨハネの黙示録」の影響が少なからずあると思いますが、厳密な意味での黙示文学とはほとんど関係ないと考えていいと思います。

Qユダヤ教とキリスト教の違いって?

パウロはユダヤ教からキリスト教に変わったんですよね?
では、そのユダヤ教とキリスト教の違いってなんでしょうか?
教えて下さい!!お願いします!

Aベストアンサー

一番、大きな違いはイエスを救世主と認めるか認めないか。
もしくは神として認めるか認めないかでしょう。
次は、ユダヤ教の聖典は旧約聖書とトーラー(律法書、厳密には聖典という言葉は合いませんが)で、キリスト教の聖典は旧約新約聖書であるという点ですかね。
勿論、厳密に違いを挙げるとすればここに書ききれないですけど。

追記ですが、ユダヤ教とキリスト教を考える場合に必ず捉えて欲しい点があります。
それは「ユダヤ教からキリスト教が派生した」訳ではなく、「キリスト教からユダヤ教が生まれた」という事が本質的には一番正しいということです。
歴史の流れとしては「ユダヤ教からキリスト教が派生した」様に見ることも間違いではありませんが、キリスト教というのはイエスの時代に変質に変質を重ねたユダヤ教に対し、イエスが真の(源)ユダヤ教の教えや奥義の一部を証したものだからです。
だからこそ、イエスはユダヤ教の権力者達に狙われ木にかけられてしまったのです。

ユダヤ教キリスト教もそれぞれ色々な宗派(教義)がありますから、それまで考えるとキリがなくなりますけど、最初の二つを大きな違いとするのが一番良いと思います。

一番、大きな違いはイエスを救世主と認めるか認めないか。
もしくは神として認めるか認めないかでしょう。
次は、ユダヤ教の聖典は旧約聖書とトーラー(律法書、厳密には聖典という言葉は合いませんが)で、キリスト教の聖典は旧約新約聖書であるという点ですかね。
勿論、厳密に違いを挙げるとすればここに書ききれないですけど。

追記ですが、ユダヤ教とキリスト教を考える場合に必ず捉えて欲しい点があります。
それは「ユダヤ教からキリスト教が派生した」訳ではなく、「キリスト教からユダヤ教が生ま...続きを読む

Qキリスト教はどうして偶像崇拝をするのでしょう?

教会にはキリストの磔像や絵がたくさんあります。
あれに祈っているようですが、どうしてキリスト教は、偶像崇拝をするようになったのでしょうか?
偶像崇拝をしてはいけないと聖書に書いてないのでしょうか?
イスラム教では厳格に禁止されているそうです。
キリスト経の歴史において偶像崇拝を推し進めたのはだれで、いつの時代でしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キリスト教のカルケドンの公会議を認めるグループです。
これには、カトリック、正教会、プロテスタントなど、キリスト教会の80%以上が含まれます。

カルケドン派の教義では、「父なる神と子なるキリスト、そして聖霊は、一体である」とします。
この教義では、「神の像を崇拝する事は禁止されるが、子なるキリストを礼拝する事は、問題ない。」としています。

つまり、神自体の崇拝は禁止するが、子(人間)の形をとった、キリストへの礼拝は、問題ないといっています。

またカトリックでは、神へは崇拝、キリストには礼拝、聖人には崇敬、聖母マリアには、超崇敬を行う事になっています。

私は、キリスト教徒ではありませんので、実際に、崇拝と礼拝、崇敬の祈りの違いは、分かりませんが、キリスト教会の中で、区別されているようです。

当初キリスト教では、キリストの像を拝む事はなかったようです。
ローマ帝国内で国教とされたため、それまでのローマ帝国内の信仰(ギリシャ神話、ローマ神話、マトラ教など)と交わり、信仰の対象としての何かが必要になったため、それができるように解釈を変更する口実として、カルケドン派の三位一体が考え出されたと思います。

イスラム教は、キリスト教が、本来のユダヤ教が持っていた本質から離れた事を批判し、勢力を拡張します。
しかし、その過程で、あまりにキリスト教のキリスト像礼拝を批判しすぎたため、行過ぎた偶像崇拝論が形成されてしまいました。
しかし、信仰の対象としての何かが必要である事には変わりが無いため、必要以上の聖典コーランへの信仰と、メッカのカイバー神殿への崇拝となってしまっています。

質問者は、勘違いをされています。

キリスト教では、偶像崇拝は厳禁です。
現時点で、偶像崇拝をしているキリスト教の宗派はありません。

質問者の方は、キリスト教において、「神」の像を見た事が有りますか?
だれも見た事の無い神の形を、像にすることはできません。

でも、キリストの像を拝む事はありますし、十字架を拝む事もあります。
それが、像であったり、絵画であったりしますが。

もちろん、キリストの像や絵画を拝む事を禁止している宗派もあります。

キリストの像を拝むのは、キ...続きを読む

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Q聖書はいつできたのでしょうか?

聖書が書かれた時期について教えてください。

質問1:旧約聖書は、いつ頃からいつ頃までの間に書かれたのでしょうか?

質問2:新約聖書は、いつ頃からいつ頃までの間に書かれたのでしょうか?

Aベストアンサー

旧約についてはよく知りませんので、
質問2について。
原本は1~2世紀だといわれています。いろんな説があるのですが福音書で最も早いのがマルコ福音書。40年代末~70年までの間なのですが(下限は確実)それ以上確実な証拠は特になく(心情的にはともかく、確定できないので)このあたり、としか言えないようです。
パウロの書簡のうち真作のものが50~60年。これとマルコとどちらが早いかが神学的には重要らしいですが特に証拠はありません。どちらが先でもおかしくないです。(少々別の流れだったような形跡があるので)
他の福音書がマルコより後なのは確かで、大体70~90年あたりか?
その他の文書もいろいろな時期ですが遅くとも2世紀のうちには書かれていたようです。
ただし注意するとこの時期、新約聖書なる文書は存在しません。
別々の人によって書かれた内容的にもばらばらの文書があり、また教会・地域によってはこれらの文書のうちいくつかは認めない、逆にこれら以外の文書を認める、といった状態が続き徐々に整理され、結局27の文書をひとつのものとして、正典ということにしたのは4世紀ごろ、アタナシウスあたりから、ということになります。(文書で確認できる限り)
その後写本の段階でも修正されたりして、印刷の時代まで書かれ続ける、ともいえるのですがとりあえず元の文書は1~2世紀ということです。

旧約についてはよく知りませんので、
質問2について。
原本は1~2世紀だといわれています。いろんな説があるのですが福音書で最も早いのがマルコ福音書。40年代末~70年までの間なのですが(下限は確実)それ以上確実な証拠は特になく(心情的にはともかく、確定できないので)このあたり、としか言えないようです。
パウロの書簡のうち真作のものが50~60年。これとマルコとどちらが早いかが神学的には重要らしいですが特に証拠はありません。どちらが先でもおかしくないです。(少々別の流れだったような形...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

QWould you like~?とWould you~?の違いは

相手に何かをお願いするときに、
Would you like~?
Would you~?
と両方の言い方があると思うのですが、likeをつけるかつけないかはどのように判断するのでしょうか?
また意味はどう変わるのでしょうか?

Aベストアンサー

Would you~?「~していただけませんか?」は丁寧な依頼表現、Would you like~?「~は如何ですか?」は丁寧な勧誘表現です。

依頼表現で使われるwouldやcouldは、「条件節(if節)の内容を言外に含めた婉曲用法」なのです。つまり、「(もし~できるのであれば)~していただけるでしょうか」と丁寧で控え目な調子を出すことができます。Will you~?やCan you~?はただの助動詞の勧誘表現ですから、wouldやcouldのような婉曲用法はないのです。

Would you like~も同じ婉曲用法で、「(もし私が~を勧めたら)~をお気に召すでしょうか?」という丁寧で控え目な調子の出る勧誘表現なのです。I would like to~「~したい」(~することをできればしたい)という表現もこの用法からきているのです。

Would you like~のlikeは「~を好きである」という他動詞でlikeの後に名詞を目的語として持って来ることができます。例:
Would you like another cup of tea?「もう一杯紅茶如何ですか?」
Would you like going on a picnic?「ピクニックに出かけるというのは如何でしょう?」
Would you like to go on a picnic?「同上」(このto不定詞は名詞的用法)

ご参考になりましたでしょうか。

Would you~?「~していただけませんか?」は丁寧な依頼表現、Would you like~?「~は如何ですか?」は丁寧な勧誘表現です。

依頼表現で使われるwouldやcouldは、「条件節(if節)の内容を言外に含めた婉曲用法」なのです。つまり、「(もし~できるのであれば)~していただけるでしょうか」と丁寧で控え目な調子を出すことができます。Will you~?やCan you~?はただの助動詞の勧誘表現ですから、wouldやcouldのような婉曲用法はないのです。

Would you like~も同じ婉曲用法で、「(もし私が~を勧め...続きを読む

Q新約聖書と旧約聖書の違いは何でか。

 新約聖書と旧約聖書の違いは何でか。また、それぞれの聖書は、いつ誰が書いたのですか。宗教改革のときルターは、いわば聖書第一主義のような活動をしますが、そのときの聖書とはどちらでか、教えてください。

Aベストアンサー

>新約聖書と旧約聖書の違いは何でか。

キリスト教ではユダヤ書を古い神との契約としています。
その後神との契約しなおしたのが、新約聖書だとしています。

そしてキリスト教では救世主がイエスで、それによって人類は救済されたということを地球上全ての人に伝える書物が新約聖書だとしています。

新約聖書が神との新しい契約書というわけです。
(随分この契約書は難解で長いですが、もっと整理して人間にもわかるように書けなかったのでしょうか と私的に思います。)


ユダヤ教では神の救済は実現していないとしています。
キリスト教では2000年ほど前に実現し、もっとも深い罪である原罪は全人類から消えたので、今では誰一人原罪を持っていないとしています。
ユダヤ教は原罪うんぬんにこだわっていません。 
神の救済をひたすら今も待望している状態です、



新約聖書のイエスの言葉は、ほとんど旧約聖書からきています。
イエスが言ったとされた言葉も旧約聖書に既に書いてある言葉か、それ以前から口伝やラビ文学などで既に語られていたものです。
イエスの言ったとされたもので一番有名なのが山の上の教訓ですが、それも既に過去の人に言い尽くされていたもの。



旧約聖書が成立したのが、紀元1世紀頃です。

その前から文書はありましたが、沢山の資料・口伝の中から選んで編算したのがユダヤ書。(キリスト教が言う旧約聖書)


ユダヤ書は誰が考え出したのかは、よくわかっていません。
が、創世記の部分はバビロン捕囚でバビロンにつれていかれた祭祀たちが作り出したものだと考えられています。

洪水などの話は、その捕囚先の神話を元にしており、主という意味のエルもその場所で神のことをエルと呼んでいたからのようです。


捕囚先で自分達の民族を考えたとき、選ばれた民で神がいつか奴隷の地位から救ってくれるという信仰が生まれ、それでユダヤ教ができたと思えます。


ユダヤ書は作者不明なのですが、シラの書に関しては、実在の人物のようです。
確かシラの孫が作者だったと思います。
(彼はユダヤ書をギリシャ語コイネーに翻訳した一人)


ユダヤ書において、律法の解釈をめぐって、ヤハウエスト エロイストらの理解から書かれているようですが、どっちが勢力を持ったかで、若干違いが見られる。




新約聖書も誰が書いたのはよくわかっていません。
そもそも、イエスという人物が実在したのかも実のところわかっていません。
4福音書の内容が死海文書の中に痕跡が見られることから、イエスがいたとされるよりずっと前に後に福音書となる文章が書かれていたことになります。
従ってイエスという男が生まれる前から新約聖書はあったことになってしまいます。


イエスの概念が異教の神の概念に似ていることから、それらを習合した結果できた架空の存在の可能性もあります。


また、複数の人の話が一人の人に統合された可能性もあります。

いずれにせよ、ユダヤ書から内容がきている。


ユダヤ教とキリスト教の大きな違いは、ユダヤ教は律法の肯定、キリスト教は律法の否定。
ユダヤ教はイエスを神としていません。

キリスト教は神であるイエスを殺したのはユダヤ教だとしていますが、実在していたとしても、殺したのはローマでありユダヤ教ではない。
ユダヤ教の死刑は石打の刑ですから。
イエスを殺したのはユダヤ教だという考えが起源となり、20世紀のホロコーストは起こった。
福音(グッドニュース9)というより、、、、人類最悪の悲劇の根源の書ということになります。



歴史からするとその当時、支配していたローマのユダヤ地の提督は悪政で、そのためユダヤ人の中にはローマ軍にテロを起こしていたようで、そのレジスタンスの中にイエスというリーダーがいて、その人のローマ軍による処刑と話がごちゃまぜになった架空のストーリのような気がします。


新約聖書の編集はエイレナイオスらがやったそうです。
彼らが新約聖書を作ったわけです。
が、後にその作ることになった理由から、中世を暗黒時代にしてしまった。
異端審問など。
そしてそれがやがて後の魔女狩りの思想に発展していった。


>宗教改革のときルターは、いわば聖書第一主義のような活動をしますが、そのときの聖書とはどちらでか、教えてください。

ルターがユダヤ書の中で否定していたのが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AD%A3%E5%85%B8


新約聖書は既にその概念が書かれていた。
ただし、イエスを神とした途端、人類最悪の悲劇がひき起こってしまった。
誰が既に書かれていた神の愛の概念を捻じ曲げ最悪の事態を引き起こしたのか。
解釈の問題であって、文章が悪いんじゃない。
人間の解釈でよくもなり、最悪の惨劇もひき起こる。


魔女狩りが行われた理由はユダヤ書に「魔女を生かしておいてはならない」と書いてあったかららしいです。
その魔女狩りを推奨したのがルターだった。


ご参考までに。

>新約聖書と旧約聖書の違いは何でか。

キリスト教ではユダヤ書を古い神との契約としています。
その後神との契約しなおしたのが、新約聖書だとしています。

そしてキリスト教では救世主がイエスで、それによって人類は救済されたということを地球上全ての人に伝える書物が新約聖書だとしています。

新約聖書が神との新しい契約書というわけです。
(随分この契約書は難解で長いですが、もっと整理して人間にもわかるように書けなかったのでしょうか と私的に思います。)


ユダヤ教では神の救済...続きを読む


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