【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

みなさんが考える宗教の特性について教えてください。

A 回答 (18件中1~10件)

ちょっと気づいた事を、


宗教の中にも実は唯物思想が入っているものがかなりたくさんあるのですね。唯物論の究極の結論は、死ねばなにもなくなる、という事です。
死ねばなにも無くなるのであれば、罪を犯そうが、人を殺そうが、盗みをしようが、自殺をしようが、結局は全て、消滅してしまうのであるから、
自分が好きに何でもやっていい、という結論がなされますよね。
結局、自分に責任も義務も生じない思想なんですね。共産主義国家が気に入らない自国民を数千万人も粛清できる心境がわかるような気がしますね。
現代に蔓延する唯物信仰、恐るべし!ですね。
一番はやっている宗教が唯物信仰という宗教です。
死んで消滅するはずが生きている状態では、死そのものを理解できない状態になりますね。
唯物主義者は、死後、自分を救えない、ですよね。
死んでも生きてると思っている人は幽霊みたいで怖いですね。
幽霊にはならないでいただきたい、と思います。
死後、自分の人生は自分で責任を取るのだ、という事を
宗教は教えているわけですね。
この世でもあの世でも幸せに生きる事を教えているのが
宗教の特性、といってよいとおもいます。
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今、宗教について感想を求められたら、多数の人はこう思います。


『胡散臭せ~』
では、真の宗教とは?
やはり、救いです。
人にとって、わずかでも、救いがある。
全体的に見て、害より救いのポイントが少し高い。
こう見ます。
現在、世界3大宗教から鰯の頭、はたまたカルトまで、膨大な宗教が存在してます。これらは真の宗教なのか?
私は思います。
みんな真の宗教なのだと。
いや、人間の存在そのものが宗教なのだと。
みんな救われる存在なのです。
ですから、私はこう考えます。
「1人1宗教」である。と。
そう考えると、今の宗教の数は足らないのです。
人間の数=宗教の数が理想です。
みんなが人々の救いを願い、みんなが教祖様なんです。
個人的にも、全体的にも、害より救いのポイントが少し高い宗教で良いのです。
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 宗教の特性は虚無である人間を導いて、幸せにしてあげてるものですよね。

自由に信じてもいいものですよね。信じないとやってけない人は。何か困難なことや、不条理なことがあったときに頭で整理したり、何かを切り捨ててでもうまく生きてゆければ宗教なんてなくてもいいものでしょう。
 私としては不要ですけど、世の中的には必要だと思います、羊の為に。さ迷っちゃうからね。だから宗教の必要性を主張する方は、無いと生きていけないってことなんです。それだけなんです。認識範囲が狭い?宗教オンチ?いやいや、そんな認識範囲はいらないんです私は。
 というのも、人間って何かに依存していかないと生きていけないんです。だって基本的には遺伝子の乗り物で、それ以外は自由だから。自由になると人間不安になっちゃう。自分を信じたり、他者を信頼したり、お金を信仰したり、家とか車とかを大事にしたり、その中に宗教があって信じる人がいてもいいと思います。
 だから何かが素晴らしいとか、どれかが劣ってるなんてないです。それは勝手に誰かが決めてることです。

私はそう思います。
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子として親を想い



親として子を想う.

子を育てていく上で初めて解ることがある.

宗教性は三世代の中にあってそれぞれの立場に想いをはせることから始まる.
 
よく言われることではあるが宗教は各種ある一つの登山道でしかない.それが唯一と後生大事にするものではない.宗教は本来個における宗教性に帰するものだ.
 
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私見でよいとのことですので、そのように書きます。



「疑っちゃいけないものが多い」と、「宗教性が強い」と感じます。なぜかと理由を考えること自体を禁じられている事柄が、宗教には必ず存在します。

「なんでそうなるの?」と質問したときに、「わからない」ではなく「それを問うことは罪である」となった場合、「ああ“宗教”なんだ」と理解します。
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>みなさんが考える宗教の特性について教えてください。



宗教の特性は「幻想」性です。

直接的で手っ取り早いということです。
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おはようございます。


鰯の頭 街頭宣伝車#6です。

朝早くからお騒がせいたします。
宗教の特性ということについてお話いたします。

鰯の頭は、このように考えます。
宗教とは、すべからく魂の救済をめざすものです。
そうすると、魂が迷路をさまよっていない人にとって宗教は
必要ないのかということになりますが、
世の中には、魂というものが感知できない人がいて
霊魂、生霊、死霊、自我をふくめて、なーんにも意識できない人は
お釈迦さんでいうところの餓鬼道のレベルなわけで、まぁ
そういう人生を歩いて幸福観を得られるはずはないわけでありまして
オレは不幸だとか、あいつのせいだとか、ラーメン屋の親父がとなりの
店主を拉致監禁してボコボコにしてみたりします。
全く救われない人生ですね。

人間は、理想を頭に描きます、そこに至る術が自分のてもとにないと
嘆くわけですが、人間というものは、すでに得ているものの価値を忘れ
いまだ得ていないものばかりを過大評価する傾向にあります。
いちばんやっかいなのは、自分の命はどこから来たかということについて
無関心であることですね。
目に見えて、手にとれるものは、在ると信じて疑わないくせに
見えないもの曖昧なもの認知しずらいものは、無いと思い込む。
しかし、時間というものは確実に、次の瞬間まではある。
可能性というものは、果てしなくひろがっています。

人の懊悩の根源は、すべてのものが在るという前提で考えれば
簡単なことを、「自分が信じられるもの以外は存在しない」とかんがえることです。
人間の歴史は、信じられるものを多く生み出してきた歴史です。
でも、この世の中には最初からすべて在るのですね。
在るからこそ、目に見えるかたちで出現するわけです。

ヴィジョンは外国の言葉ですが、一連の光景や小宇宙を脳裏に描くことが
今の意識と、そのものを結びつけるきっかけとなります。
スポーツ選手のイメージトレーニングのようなものをじつは普通のひとは
日常にやっています。
ただし、それを不安に基づいて、不幸な光景をヴィジョンとして脳裏に描く
ことが多いわけです。すべてのものは「在る」わけですから当然
不幸だっていっぱいあります。それゆえ脳裏に描かれた不幸は、ゆっくりと
あなたの目の前に出現するわけです。

意識とというのは、きわめてアナログナ構造を持っています。白黒はっきり
させられない曖昧なものだということです。
彼のこと、きらいじゃないけど、かといって結婚したいってほどじゃない・・
みたいな、だいたいいつでも、白っぽいグレーか、暗いグレーかどっちか
というわけです。
なぜ、そうなっているかというと、それはショックアブソーバみたいな役割で
本当にしょっちゅう白黒がはっきり切り替わって現れてしまうと、日常が
混乱するからだと、鰯の頭では考えます。

好事魔多し というのは鰯の頭の経典でも出てきますが、要するにラッキーな
あとは、つい、この幸せがいつまでも続くはずがない、と考えてネガティブな
ヴィジョンを呼びこんでしまうという傾向を示しています。

ことほど左様に、人間の意識というのは、純白のままでは保ちにくいわけで
不安というものに汚染されやすい。

ここに、救済の必要性があるというのが 鰯の頭の考えるとこです。

人生は不安の固まりだ・・・とは鰯の頭は考えません。人生はすべてのことが
起こりうるものだ。だから、意識を平穏に保てば、きっと現実も平穏だろう。
そう思うわけです。
キリストさんは、愛を説かれ、お釈迦さんは、思惟により悟りにいたる道を
とかれ、マホメッド・アリは、ボクシングをやって目には目の教えでチャンピオンに
なったというわけです。
鰯の頭は世界宗教を目指していません。なぜなら私たちの真理は宇宙宗教だから
です。
ていうか、本当はだれでも知っていて忘れていることを思い出すだけだから、そんな
権威もハクもいらないと思っています。

絶対安心に至る道は
(1)アフラックに入る
(2)カネを貯める
(3)壷を買う
など、いろいろ考えられますが、それより簡単なのは
自分が独りではないということを自覚し、信じることです。

正直な話「親がやらなきゃ子は出来ぬ」というのは真理です。
これは麻雀の最中理牌に夢中なオヤをたしなめる言葉だとおもっていたら
おおきな間違いです。
生命の継続性、遺伝子の連続性のなかに、情報の連動という観念が埋め込まれて
います。時間を超越した深遠な生命の連なりというものを意識することこそ
おおいなる安心に至る道です。

その補助手段として
偶像を崇拝したり
保険に入ったり
預金通帳の残高をながめたり
壷を買ったり
しますけど、鰯の頭では、なにも必要としません。

鰯の頭とは、あくまで比喩なのです。鰯の頭でも必要ならば拝んでいただいて
あなたの本質である、ふかい魂の連動の水脈に意識を通じてくださいと
お願いするわけです。

こら。こら。誰だ、銭を放るやつは。
私は乞食ではないぞ。
だめじゃないか、一万冊を粗末にしてはいかんよ。
小銭はだめだぞ。拾いにくいからな。
そうそう。お札はちゃんと袋にいれてな。
それでないと風に舞う。

何?わしが、すこしも『安心』の境地に至ってないって?
ははは。迷うからこそ現世を生きておるのじゃよ。

で、宗教の特性というのはお解かりかな。

え?もうレポートの提出期限すぎたからいいって?
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小さい頃仏壇があって、毎日祖母がお経を読んでいました。


物心ついた頃から聞いていたので、わたしは何種類かのお経は諳んずることができます。でも、意味はしらない・・・。笑

あまりにも熱心に一心不乱に読んでいた祖母がある日気づくと読まなくなっていた。
大きくなって理由を教えてもらった。
トリップしてしまい、外部から声をかけてもなかなか戻ってこなかったらしい。
自己催眠状態になったんだなぁ・・・って今ならわかりますが、子どもの頃 やりすぎはよくない って思いました。
あのまま帰ってこなければ 生き仏になっていただろうし。


祖母がそこまで宗教にのめりこまざるを得なかった(他に逃げ場がなかった)理由は理解できます。
何も手に技術を持たない女が、愛の無い家庭で生き地獄を生き抜くには宗教に傾倒するしかなかった。
外に出ることすら許されず、毎日暴言を夫に吐かれて人格をけちょんけちょんにけなされ、自分が産んだたった一人の娘からも、けちょんけちょんに人格・生きてきた人生そのものを否定されていましたから。。。。
彼女は不幸なことなのかよくわかりませんが、トリップして別次元かどこかに行った後、戻ってきてしまいました。
(実際どっかに行ったのではなく、体が硬直して呼んでも反応が無い状態になった)



っと、、、宗教の特性ですか?
宗教・宗派によって違うので、一くくりにはできませんが、それぞれの共通点ってやはり
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BD%A1 …
だと思えます。
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私が信じる宗教は、以下のようなものです。



宗教は、普遍的真理でなくてはなりません。
科学的に証明される必要はありませんが、科学的に否定されるものであってはなりません。

万能ではない科学が証明できるとは限らないからですが、その科学に明白に否定されるようなものでも、普遍的真理とは言えないからです。

宗教は、その普遍的真理から、現世における人の生き方の指針となるものです。
宗教は、霊魂の存在を確信しているものです。
人には霊魂が宿り、その霊魂を霊的に向上させることが、人の現世における本来の目的であるとしています。
霊魂は肉体が滅びても存在し続けます。
宗教における神とは、あえて言えば、宇宙における大いなる存在であり、霊魂の帰着すべき霊的集合体の最上位霊です。
従って、宗教は、霊魂全体の向上をめざすものです。
地上にあっては、人間界全体の向上をめざすということです。

宗教は、金を欲しません。金がかかる宗教は、本来、存在しえません。

宗教は、人と人の競争を必要としません。人と人の協調を必要とします。
宗教は、宗教的他者を排斥しません。宗教を信じない者をそのために差別することはありません。まだ、悟らない者と認識するだけです。
宗教は、国籍・人種・性別の差別をしません。
神の前では、人はすべて、同じように、神の子であり、神の兄弟だからです。

宗教は、政治権力に無縁です。

従って、私が思う処、現世の宗教は俗化し、真の宗教からは、はずれていると言わざるをえません。
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宗教オンチ大国日本の代表的意見が乱れ飛んでいますが、


国家神道で手痛い目に遭っているのと、邪教が跋扈している現代ではいたしかたがない、としましょう。
おおかたの宗教に対する意見は、実は邪教しか知らない人の狭い認識範囲での見かたであるんですね。
邪教を宗教だと、大きな勘違いをしているわけです。邪教は宗教ではなく、
邪教なのですが、宗教オンチの日本人は区別がつきませんね。
宝石と河原の石ころの区別がつかないように盲目的な判断をしています。

正教、正しい教えに基づく正統な宗教を信ずる事は、
暗闇のなかに松明を灯して歩むようなものです。
泥沼に一輪の蓮の花を咲かせるようなものです。
心の中の奥にダイヤモンドの原石を発見し、磨きだすようなものです。
弱いものがすがりつき盲信することをもって、信仰とは言わないのです。
自分を知り、自分の使命と目的を知り、大なり小なり、他の幸福の為に
なにかしらのお役に立ちたいと、一身を投げ打って生きる事、純粋なる
愛に生き、光と共に生きる事が信仰であり、自分自身、愛と悟りによって
変革し続ける事が最高の強さを手にする事であり、最大の喜びであり、宗教が公益性を持つ理由でもあります。自分も他人も幸福へと歩む事ができるという事ですね。
教えを信じ、学び、修行し、霊的覚醒、霊的確信を重ねる中で、
本物の信仰になる。お題目をいくら唱えてもダメですね。

この世だけではなく、あの世までも幸福に生きられるという、幸福に生きる
ための法則を世界宗教の教祖は教えてくださったのですね。
数千年に一度、仏陀が下生したり、救世主が降臨したり、預言者が生まれたりするわけです。
宗教文明が激突するようになった現代ですが、末法の世にお釈迦様が再び
東の国に下生するという記述が残ってますね。もしかしたら!?
新しい地球規模の世界宗教が混沌とした地上を浄化する日も近い、のでは
ないでしょうか。
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