初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

江戸時代、四代将軍家綱が亡くなって次の将軍を決める際に後に“犬公方”として有名になる綱吉や御三家などを差し置いて大老・酒井忠清が「宮将軍」を担ごうとした理由はどこにあるのでしょうか?

もしかしたら鎌倉時代の北条氏による“執権政治”さながらに酒井家専横の時代でも創ろうとしたのでしょうか?まあ、そうでなくとも江戸幕府の運営システムが家光の治世以降で既に完成されており、それ故に「将軍が下手に表に出てこられるよりは(将軍の出来不出来に左右されることがないため)合議制でしっかりと運営していこう」との純粋な腹積もりだったのでしょうか?

あと“歴史にIF…”という意味で「禁じ手」になりかねませんが、仮に宮将軍を迎えていたとしても諸大名をしっかりと統制できていたと思いますか?…もしかすると親藩、特に「御三家」などは取り潰しの憂き目にあっていた(…あるいはその逆で反乱の可能性)のではないでしょうか?

A 回答 (2件)

確かに5代将軍に誰をという継嗣問題に諸説ありますが真相は藪の中でしょう。



しかし綱吉と忠清の仲はなにか合わないものがあったと思います。
忠清は折角定着した合議制のなかで権力を維持したかったでしょうし、綱吉は将軍親政を強力に推進する意欲満々でした。
綱吉の体躯が小さく威厳に不安があったのも一因かも?

また綱吉の越後高田藩取りつぶしの採決に、忠清が諌言したといいますから、余程の事がなければ御三家の取りつぶしなどは忠清は行わなかったと思います。

宮将軍を迎えても飾りでいつでも放逐出来ると考えていたでしょう。
当時朝廷はさきの紫衣事件の余波で逼塞状態でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。忠清と綱吉の争いは、近・現代でもよくみられるような、例えば新首相など若い政治指導者と“派閥のドン”とかライバル野党の党首などとの抗争など、別に日本にでなくとも民主主義国家であればどこの国でもみられるような事象と同じようにも捉えることができる訳ですね。

越後高田藩取り潰し問題については忠清はかなり“慎重”で、それに対して綱吉が小泉首相さながらに「サプライズ」をやってのけてたのも、わかるような気がします。高田藩は秀康以来名門の親藩ではありましたが、結局綱吉の就任早々のデモンストレーションに呑み込まれてしまうカタチになってしまったんですね。…なるほど。

いざという時のために家康が定めた「御三家」に対して秀忠が次男の忠長に力を持たせるようにする。しかしその次の家光は忠長をつぶして、家綱の弟たちに一定の所領を持たせる。綱吉からすれば“脈絡と続く(?)”このような「活動」の一環でもあったんでしょうか。…その後もこのような処置が延々と続きますよね(笑)。

お礼日時:2005/07/22 18:45

ひとつには最有力の後継者の綱吉が我が強いので嫌ったという説があります。


将軍独裁より譜代の合議制のほうがよいと思ったのではないでしょうか。
ただ、今となっては本音はわかりませんが。

あと合議制となればやはり現状維持に傾きがちですから強権的なことはできにくいのではないでしょうか。だから御三家をとりつぶすなどといったことはなかったでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。綱吉が掘田らと組み後継者争いを制し政権を握った後、良くも“悪く”もリーダーシップを発揮し過ぎましたから、忠清としてはそれを未然に防ぎたかったという気持ちもわかるような気がします。

仮に忠清が「執権政治」のような制度づくりを目指したり、徳川家に代わって「源氏の長者」&「征夷大将軍」の地位を簒奪しようとするぐらいの『大器』であればそれはそれで(成功するかしないかは別にして)後の歴史はさらに面白くなっていったような気もしますが、おそらくそのような『英雄』は歴史上を見回しても本当にごく数人しかいません。…たぶん彼は違ったのでしょうね。

お礼日時:2005/07/22 16:21

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