ずっと疑問に思ってたのですが、お経って漢文ですよね。昔の人は漢文がわかってたからいいと思いますが、今の日本でお経を唱える意味は昔よりないんじゃないかと思うのですが。みんな呪文だと思ってます。漢文のまま 唱えるのはいいのでしょうか?

もうひとつ疑問、そもそもお経を唱えて意味があるのでしょうか?お釈迦様が今の葬式とかを見たら、これが仏教の延長だとは思えないと思うのですが。もちろん落ち着くとか、先祖に供養の意を表すとかあると思いますが。根本的になんだろうと思います。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

ブッダの入滅後、仏教はいくつかの部派にわかれ、現在は


東南アジアに広がった上座部仏教系(伝統派)と、中央~東アジアに
広がった大乗仏教系(新しい)だけがのこっています。

大乗仏教系の原典はもともとサンスクリットという言語で書かれています。これが中国の漢訳を経由して日本にきました。
有名な『般若心経』(starfloraさんが大意を引用されてます)などは
大乗の「唱えるためのお経」で、日用の呪文でありつつ、
高度な大乗仏教の理論のまとめでもあります。

大乗のこういうお経にはヒンドゥー教的な呪文を仏教化してとりいれた、
という側面もありますが、maggaさんが書かれたように上座部文化圏
にも、お守り代わりに日常生活で唱えられるお経はあります。
上座部のお経は古代の方言であるパーリ語で書かれており、
サンスクリットの経より古いかたちです。
上座部で信徒たちがお守りがわりに唱えるお経は「パリッタ(護呪)」
とよばれ、お経によって効果が違い、蛇よけなどの効果なども(笑)
慈悲の教えの入った「慈経」はなかなか良いものです。
ぜひ検索してみてください。
お守り代わりのお経というのは仏教にとって本質的ではないと思いますが、それで心が安まるのなら、良いのかもしれません。
心が落ち着いていなければ勉強も修行もできません。
お経がわかりにくいのは、昔は教育は口承で行っており、複雑な教えを
簡単に暗記して唱えるため、文言をきわめて簡潔にしていたから、
ということにも原因があると思われます。
    • good
    • 0

経典の大元は「パーリ語」だと思いますよ。


その何百年後に呪文的なものも生まれて(作られて)いますが、元の経典では呪文は禁止だったと記憶しています。仏法自体実践をといたものですから実践しなければ無意味でしょう。

もちろん意味が解って、実践しようとしなければなかなか心の修習にはならないでしょうね。

残念ながら日本にあるほとんどの仏教を名乗るお寺さんは実践をとかない呪文主義のようなものが多いのも事実。葬式仏教になっていますもんね。

スマナサーラ長老の書籍などを見れば元の仏教を垣間見れるかもしれませんよ。「テーラワーダ仏教の実践」もオススメです。

参考URL:http://www.j-theravada.net/
    • good
    • 0

 


  お経は、漢文というよりも、翻訳された当時の中国語ですが、漢文だとも言えます(「漢文」というのは、『論語』のような、一種の暗号的中国語古典文章のことです。暗号的というのは、どう解釈するかを知っていいないと、色々解釈できて、訳が分からない文章だとも言えるからです。漢語仏典は一応、読んで意味が分かるように訳したのですが、それでも後になって、意味が不明になった個所が多数出てきていますから、一種の漢文とも言えるということです)。
 
  お経を呪文だとか言っておられますが、それは、「呪文として扱っている」からだと思います。経典(スートラ)は、幾つかの種類に分かれますが、大体において、仏教の理論や、その教えを、講義調で述べたり、また途中で比喩が入って、段々展開して、物語になったり、教訓話になったりと、色々内容豊富で、普通、地の文章と、ガーターと呼ばれる、サンスクリット語では、韻文または詩であった部分から成ります。教義書でもあれば、思想書でもあり、不思議なことが起こる波瀾万丈の物語であったり、美しい詩でもあったりします。
 
  お経の漢文の意味は、解説書が幾らでもあります。また現代語訳も多数あります。従って、お経に何が書かれているかは、解説書や日本語訳などを読めば、分かります。勿論、漢語を使っていますので、色々難しい漢字や言葉が出てきて、なかなか分かりにくですし、仏教の理論そのものも、かなり難しいので、なかなか理解しにくいですが、それは努力次第で、普通の人なら、お経に何が書かれているか、一年ぐらい勉強すれば、大体分かるようになります。
 
  お経は、意味を知って唱えるとよいのですが、意味を知らないで、呪文のように唱えるのも別に構わないと思います。ただ、意味不明の呪文を唱えて何の意味があるのか、と思われるなら、意味を知ることは上に述べたように、そんなに難しくありませんから、意味を知って唱えられれば、お経は、仏教が、この世界や人間をどのように考えているのか、色々な手法を用いて解き明かし、論じ、説明している文章だということが分かります。
 
  「世のなかの人は、自分というかっことした何かがあると思っているが、それは錯覚である。自分というものは、実は、他の人や色々な事物との関係で、いま、仮に、かっことしてあるように思えるだけで、次の時には、すでに今の自分というのはないのである。……」とこのようなことを、或るお経では述べている訳で、これを意味を知って読むと、これがまさに「仏の教え」であり、その思想的・信仰的な深さや意味に、大いにある人は納得し、教えの崇高さに感激・感動するということになります。無論、そんな内容は納得が行かないという人もいるでしょう。しかし、キリスト教の『聖書』を考えればよいのですが、『聖書』に記されているイエスやパウロの言行を読んで、納得し感動し、心動かされるからこそ、キリスト教に入信する人がいるのだとも言えます。だから、仏教の経典であるお経の内容を知って、魅力や意味を感じない人は、仏教を棄てればよいと言うことになります。
 
  これは、思考での教えとしての仏教の体得のためお経を読むということですが、お経の一々の言葉の意味は知らなくとも、それは、例えば、人は必ず死ぬものであり、しかし、良い行いをした人は、観音菩薩のおられる清浄な世界に生まれ変われるのであり、何も怖れることはないということであるという教えを信じ、そういうことを述べているのが呪文のようなお経であり、このお経を唱えると、その教えに近づくことになり、観音菩薩がますます身近に感じられるようになるのであるということなら、一々の意味を知らなくとも、お経を唱えることには、唱える人なりの意味が見出せるでしょう。
 
  >> もうひとつ疑問、そもそもお経を唱えて意味が
  >> あるのでしょうか?お釈迦様が今の葬式とかを
  >> 見たら、これが仏教の延長だとは思えないと思
  >> うのですが。
 
  これは、お葬式の時に坊さんが唱えるお経のことを言っておられるのだと思いますが、無論、釈迦牟尼の教えからすると、日本の現代の葬式は、仏教とは関係のない、呪術行為だとも言えるでしょう。しかし、仏教も歴史を重ねて、その教えや思想が展開して行ったのであり、また、宗教は、教団組織ができて、教団宗教になると、教えのために教団があるのか、教団の存続のために教えを説いているのか分からないような状態に一般になるようです。世界中の宗教が、歴史的にすべてこういう過程を踏みました。キリスト教では、イエスは、「汝の敵のために祈れ」と教え、また、中世の「清貧論争」ではありませんが、「富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るより難しい」と言い、清貧を確かに説き、実践しました。しかし、キリスト教徒を自認する米国大統領などが、「我々の敵を根絶するのだ」などと絶叫し、大統領も含め、政治家たちが誰も彼も、多く、キリスト教徒でありながら、清貧などとはとても言えないという事実があるのです。またイスラム教にしても、ムハンマドはコーランのなかで、「人はみな、イスラム教徒として平等である」と説いているにも拘わらず、イスラム教国を自認する王国に、世界的大富豪の王や王家の一族などがあり、富に満ちており、その他方、隣の国で、同じイスラム教徒が何十万人も、飢えで苦しんでいるというのもおかしな話です。
 
  しかし、日本の仏教が堕落しているとしても、それは或る一定の社会的役割を果たしているのも事実です。実際、僧侶が来て、葬儀を行い、儀式を執り行うと、取りあえず、葬式などは、社会的行事として完了し、死者が「死んだ」ということの実感を関係者にもたらすでしょう。こういう形の社会的儀式が、形骸化しているというのも事実かも知れませんが、では、人はいかにすれば形骸化していない「教え」に出会うことができるのか。また、何によって自己の心の幸福を得るのか。人生の満足を得るのか。生きる意味を確認できるのか。それは自分が探し求めることでしょう。仏典を読んで理解して、その教えに満足できないのなら、別の教えを求めるのもよいでしょう。また、いまは理解できなくとも、また今は意味を感じられなくとも、お経を唱えていれば、そのうちに見えてくる、あるいは身近になってくる、ある心境があるかも知れないと考えることも重要でしょう。
 
  つまり、社会の状況は色々にあり、宗教の教えと教団や僧侶のありようの矛盾なども色々あるでしょうが、結局、問題は、自分は、どの道を選ぶかということでしょう。仏教にもお経にも意味がないと思われるなら、棄てればよいだけの話です。しかし、棄てられないなら、その部分に、何かの意味があるのでしょう。また、今は棄てても、十年後、二十年後、三十年後には、またものの見方も、世界の見え方も、人生の見え方も、自分自身の見え方も変わるという可能性を考えるべきでしょう。棄てた仏教のお経のなかに、実に、宝石のような素晴らしい言葉、素晴らしい教えが語れていたということが、未来には分かるかも知れません。
 
  お経を唱えるのも唱えないのも、貴方の主体的問題なのです。
 
  追記)お経を長年唱えて来た人は長生きすると言われています。また健康でぼけて来ないとも言われています。無論、統計的に根拠があるかどうか知りませんが、理由としては、お経を長年唱える人は、規則正しい生活を行っていることが多い。お経を唱えていると、心が平静になって来て、あまり興奮することがない。興奮して怒ったりするのは、短命の元だというのは、統計的に確認されていると思います。(怒ると、心臓を含め、全身が緊張状態になり、血圧が上昇し、身体のシステムに不均衡や無理を強いるからです)。また、お経を規則的に唱えるのは、一種の呼吸法をやっているようなもので、内臓や神経系に適度な刺激を与え、リラックスさせることになると言うことも言われています。
 
  

この回答への補足

皆様 丁寧に回答ありがとうございました!
御蔭様で、いろいろ発見もできました!

私がこの質問を書いたのは、教会に行った事がきっかけでした。
私の家は曹洞宗ですが、友人に誘われてとある教会に行きました。

ミサの 神がゆるしてくださる などの言葉や 日本語訳された聖歌 や 教会にくる近所の人々の助け合い など いろいろと感動しました。 私が知っていた仏教にはない 分かりやすい素直な感動と発見がありました。こころが楽になるのを感じました。(この教会は特に初心者に丁寧にミサを行なってくれるところでした。 もちろん活気のあるお寺もあるとおもいます)

誤解を恐れずに言いますと、 率直に感じたのは 「近いなあ 仏教よりこりゃ すくわれやすいんじゃないか?」ということです。教理は色々あると思いますが、こころが落ち着く という部分でのことです。(私の言ってる事、分かりにくいですね、、、)


もうひとつ、私は ひろさちやさんの 般若心教の現代日本語訳した本を読んだ事があります。 とてもおもしろかったし、感動しました。それと同時にもったいないなー と感じました。こんなに内容があるのに、なんでわざわざ意味の通じない漢語で読むんだろうって思いました。(ちなみに法華経の現代語訳はいやになりました。神憑かり過ぎて、、、)

starflora様方がおっしゃる通り、仮にも仏教徒なら お経を学ぼうとスべきだと思うし、いやなら自分にあった他の宗教を選べば良いと思います。でも、もったいないなー と思うんです。

お経を現代日本語で葬式したら、雰囲気でないかもしれませんが、悪くないと思うのですが。
また、私と同じような事を感じて、分かりやすく布教しようとするお坊さんがもうすこしおおくてもいいんじゃないかなと感じます。

私は22さいなのですが、仏教というと お年寄りばかり、、、 ということや 新興宗教に心引かれる若者が少なくない というのは、仏教の変化が時代に追い付いてないからではないから と少し感じます。 
宗教はお釈迦様の時代から変化してきて今に至った、、、 なんか士農工商の時代で変化が滞り気味な気がする。

例えば 座禅とかにいってると ものずきだね、、、 と言われる。座禅って鎌倉時代はもっとモダンでかっこいいもの だったと思う。

というようなことです、、、 
変わらずにあっていて欲しいものっていうのもありますけど、こういう感想を持ってしまいます。

補足日時:2001/10/19 17:50
    • good
    • 0

良し悪しを問うているのなら私にはわかりませんが、ちょっとアドバイスめいたことを書かせてください。


まず、仏教は他の宗教に比べて寛容であったということで、広まっていくにつれて形を変えて行ったということです。日本に伝わるに至って、そして伝わってから更に、初期仏教とは全く別モノになってしまっていることを認識しておく必要があるでしょう。
さて、お経ですが、もとは口述されたものなので、文字としての記録はありません。お釈迦様(仏陀)の頃から数百年たてから記録されたもので、インドで行なわれました。従って、原文は漢文ではありません。中国に伝わってから漢訳されたのです。漢訳に当っては、音を再現させるために漢字を当てた部分と、意味合いから漢字を当てた部分が混在するようです。そして、日本においては、漢訳された経典を日本語訳しています(文語体ですが)。意味が分かりにくいのは、庶民に分からしめる必要性が乏しかった宗教だからでしょう。
次に、唱える意味ですが、これは解釈というか信念というか信仰というか・・・。そもそも仏陀やそれに変わる成仏したモノの言葉を伝えるだけのものですから、その言葉自信に力があるとは思えません。教えであるわけですから、意味を解釈してナンボの世界でしょう。もっと言うと、経典によって矛盾した内容もあるようです。宗派によって崇める経典が異なる理由の一つはここにあります。因みに、本来仏教では僧侶は葬式を扱いません。これは日本独自の制度です。
また、先祖崇拝の思想は、仏教本来の考え方とは関係無かったと思います。何せ、死んだらすぐに生まれ変わる(輪廻転生)のが仏教の考え方ですから。
最後に蛇足ですが、仏教にも経典がありますが、西方各宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)とは決定的に違います。この3宗教は基本的に同じ神に対しての信仰(契約)ですが、仏教は神を定義しません。従って、全知全能のモノは存在せず、法則だけが世界を支配し、その法則を説くのはお経だったかに思います。
    • good
    • 0

確かにお経って何を言っているのか分らないところがありますね。


でも、それは昔も今も同じです。というより昔の方が漢字が読めない人の
割合が高いから、教典を見てなんとなくでも意味が分るのは現代人の方ですね。
宗派によっては「南無阿弥陀仏」だけ唱えていれば救われるというもの
ありますよね。つまり、教典を教科書として理解する必要はもともとない
ということです。教典を熟読し、理解しなければいけないのは僧侶なんですね。

キリスト教徒だって聖書を熟読している人は少数派ですよね。でも、
中身はある程度知っている。それはミサにでかけるからです。ミサにでかければ
そこで神父さんが聖書の一説を引用して説法をします。本来は仏教も同様で
僧侶がお経の中身を噛み砕いて説明してくれます。田舎に行けば檀家の
説法会がありますからね。

今の日本は法治国家であり詳細な法律が定められています。我々の生活だって
法律に縛られているんですが、法律の中身なんて知りませんよね。
スピードは出してはいけないことを知ってても、それが道路交通法の第何条に
違反しているかなんて普通の人は知りません。お経だって同じことです。
殺生はいけないことだと知っていても、それを破ると地獄のどういう場所に
落ちて、どういう苦行をするかなんて具体的なこと知らないですよね。

テレビで弁護士が法律の解説をして「これはいけない」と発言がありますよね。
イメージ的には僧侶と弁護士、教典と法律書ていう感じいいと思いますよ。
教典は道徳の教科書であり法が整備されていない時代では最大の律だったんです。
僧侶や神父は教典を引用して説法をし、民衆に道徳心を訴えていたんですね。
科学的には読経中は精神が集中しやすいトランス状態になるため
リラックスできるなんて効果があるんですね。まあ、信仰心でありがたいと
思う人もいれば、眠たいという人もいるんでしょうけどね。
    • good
    • 0

 同感です。

お経を聞いていると、ついつい眠たくなってしまいます。まあ、最近では「儀式」みたいなもので、意義とか必要性とかを論ずることなく、過去の延長なのでしょうね。

 欧米を見ると、宗教=生活なのです。信じている宗教の教えが、生活に反映されています。これが、本来の宗教であり信者なのだと思います。日本はどうでしょう。宗教は、葬式のためだけの宗教のような気がします。神棚があり、クリスマスを家族で祝い、葬儀には数珠をもって参加する・・・理解できません。

 まあ、宗教とは何かとう点から論じなければ、解決はしないでしょうし、宗教にたずさわる方々も宗教者とはどうあるべきか、互いに根本から見直さなければ、この問題は解決しないでしょう。

 もちろん信仰の自由は保障されての、私のアドバイスでした。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q浄土真宗西本願寺はなんですが、毎日のお経は、何を唱えれば良いでしょうか?

浄土真宗西本願寺はなんですが、毎日のお経は、何を唱えれば良いでしょうか?

Aベストアンサー

南無阿弥陀仏(なみあぶだぶつ)です。
南無とは、帰依←きえ(すべてをお任せします)的な意味です。
つまり、阿弥陀仏(阿弥陀如来)に帰依します、と言うのが南無阿弥陀仏です。
ただし、もともとこれは浄土宗(法然が立ち上げた宗派)であり、浄土宗では、この南無阿弥陀仏を毎日唱えることが大切だと言うことになっています。
しかし、質問者様の場合は浄土真宗と言う事ですので、浄土宗の法然 の弟子である親鸞が開祖した浄土真宗においては、親鸞さんいわく、この「南無阿弥陀仏さえ口に出して唱える必要がない」というのが浄土真宗です。

よって、毎日、南無阿弥陀仏とお経を唱える必要は浄土真宗では必要ありません。
毎日、南無阿弥陀仏と唱えることを推奨しているのは、法然が立ち上げた浄土宗です。
もちろん、質問者様の信仰心によって毎日お経を唱えたいというお気持ちがあることと思います。
その場合は、先ほども申しましたように、南無阿弥陀仏(なみあぶだぶつ)と唱えると良いでしょう。

Q時間が経てば経つほど価値が上がる物って何かあります

時間が経てば経つほど価値が上がる物って何かありますか?

Aベストアンサー

名工が作った弦楽器。

Q浄土真宗大谷派のお経が聞けるサイト

宗派が浄土真宗大谷派なのですが、
先日、父のお通夜、葬儀、初七日のそれぞれにおいて、お経を聞いたのですが、
もう1度聞きたいです。

浄土真宗大谷派の場合で、お通夜、葬儀、初七日のそれぞれにおいて、唱える
お経を聞けるサイトみたいなものがあれば、教えてください。

Aベストアンサー

正信偈ならここにあったのですが・・。
http://www.gobosama.net/syou/

確かに葬儀の際のお経は、普段のお参り等では全文を聞くことが無いかも知れませんね。
http://www.osoushiki-plaza.com/library/shuha/joudosin-s.html

お寺さんに問い合わせるのが一番だと思うのですが、あまりお付き合いが無いようでしたら・・。



東本願寺のオフィシャル本は
http://books.higashihonganji.jp/defaultShop/disp/CSfDispListPage_002.jsp?dispNo=001003002

ポニーキャニオンからは
http://www.ponycanyon.co.jp/pc_okyo/okyo/cntnt02.html

Q尾張藩の西側に、おからねこ、とかいう昔の地名があるそうですが

尾張名古屋の今では中心地である、丸田町交差点西南角に、たぶん江戸時代の石造りの道標が、大切に保存されていますが、石に彫られていて古いため、文字がはっきりしませんが、東「天道、八事」、北「大曽根」、南「熱田」とか、他にも描いてあり解かるのですが、道標にひらがなで彫られている、西「矢場」、そしてひらがなで「おからねこ」とたぶん彫刻されていると推測するのですが、この「おからねこ」とは、旧尾張藩の地名だと推測するのですが、一体現在のどこなんでしょうか。古地図や尾張地方の歴史、紀要に詳しい方、教えてください。

Aベストアンサー

まったく名古屋には詳しくないのですが、「おからねこ」という響きがかわいいので調べてみました。
上前津駅近くの大直禰子神社のことなのだそうです。
狛犬を唐の猫だと思ったからおからねこ…面白いですね。
http://kamimaezu.livedoor.biz/archives/cat_50033032.html
http://dd-extreme.at.webry.info/200601/article_7.html

名古屋市中区の催しにも登場していました。
http://www.city.nagoya.jp/ku/naka/machi/miryoku/horikawa/h_21/nagoya00068856.html

Q浄土真宗 門徒のお経を、ネットで入手できるサイトを教えてください。

事情があり浄土真宗 門徒のお経を、知りたいのです。
ネットで、読み方も、解かると良いです。
いくつかあるのかもしれませんが、代表的なのを書いてるサイト。
又は、お経の文句そのモノを教えてください。

Aベストアンサー

「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」
http://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/seiten/daiue-frame00.htm
「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub27.htm
「阿弥陀経(あみだきょう)」
http://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C

参考URL
浄土真宗で大切にするお経は?
http://1kara.tulip-k.co.jp/1kara/021.html

参考URL:http://1kara.tulip-k.co.jp/1kara/021.html

Q浄土真宗の家のものが、あびらうんけんと唱えてもいい?

以前付き合っていた彼氏の家が熱心な仏教徒で、大阪は生駒山宝山寺へ月参りにいくので、わたしももともと興味があったのでいつも一緒にいっては「あびらうんけんあびらうんけん」とご真言とともに般若心経をとなえていました。

月参りは途中でやめてはいけないしばちがあたるのと聞いたのですがそれは本当ですか・・・?もうだいぶあいてしまっていますが。

よく考えたら私の実家は浄土真宗らしいのです(熱心ではないと思いますが)、あびらうんけんって真言宗ですよね。(般若心経は死んだ祖父も唱えてたような気もするけど。。)浄土真宗の家のうまれの人は「あびらうんけん」唱えるのをやめたほうがいいでしょうか。
もしくは、浄土真宗から勝手な判断で個人で真言宗にくらがえしても大丈夫でしょうか。
般若心経を唱える前に、なにかとなえたいのですが、なにをとなえたらいいでしょうか
仏様をどなたか、おしたいしたいのですが、どなたが私にあっているのかわかりません。
大日如来様は真言宗ですが、熱心でないとしても仮にも浄土真宗の家のものがおしたいしても大丈夫でしょうか。
わかりにくい文章ですみません。

以前付き合っていた彼氏の家が熱心な仏教徒で、大阪は生駒山宝山寺へ月参りにいくので、わたしももともと興味があったのでいつも一緒にいっては「あびらうんけんあびらうんけん」とご真言とともに般若心経をとなえていました。

月参りは途中でやめてはいけないしばちがあたるのと聞いたのですがそれは本当ですか・・・?もうだいぶあいてしまっていますが。

よく考えたら私の実家は浄土真宗らしいのです(熱心ではないと思いますが)、あびらうんけんって真言宗ですよね。(般若心経は死んだ祖父も唱えてた...続きを読む

Aベストアンサー

 私は浄土真宗の人間ですから、浄土真宗の立場については少しお話できるとともいます。
問1、月参りは途中でやめてはいけないしばちがあたるか?
 浄土真宗の立場からすれば、そのようなことはまったくありません。父母が自分の子供を不幸にしてやろうと思うかどうかということです。たとえ墓参りにこなくとも、毎日一生懸命生きている自分の子孫たちを不幸にしようとする御先祖様はいないと私は思います。そして、こちらがわは自分の父母やご先祖様に不幸でいてほしいとは思わないでしょう。お互いにそう思っていれば良いのではないでしょうか?
 浄土真宗でも他の宗派と同じように、墓というものを大切にします。ただ、墓はあくまで遺体の奉安所であり、故人とのつながりを確かめ合い、今をご先祖様方のお陰をもって生かさせていただいていることを、感謝する気持ちをあらわす場所です。「墓に亡くなった故人の魂が宿る」とか「墓参りしないと罰が当たる」などは迷信としてとらわれません。
 墓参りについて言えば、それを仏縁として自分自身が仏様の教えに会うということを大切にします。

問2、浄土真宗の家のうまれの人は「アビラウンケン」唱えるのをやめたほうがいいのか?
 浄土真宗の立場からすれば、望ましくないということは言わなければなりません。基本的には浄土真宗は「南無阿弥陀佛(阿弥陀様に身も心もお任せします)」という趣旨の宗派だからです。もしあなたのおっしゃる「あびらうんけん」が「オンアビラウンケン」ということであるのなら大日如来に身も心もお任せしますという意味ですから、二人の仏さん同時に任せちゃう浮気者になっちゃいますよ(笑)まあ、「大日即弥陀(大日如来=阿弥陀如来)」なんて考え方もあるくらいですから、仏様はそんな堅いことは言わないでしょう。ですが、浄土真宗としてはあくまでメインは阿弥陀様です。

問3、浄土真宗から勝手な判断で個人で真言宗に鞍替えしても良いか?
 宗旨替えということに関して言えば、かまわないと思います。もし宗旨替えをするのであれば、家族にその旨はしっかり伝えたほうがいいでしょう。もし、自分が家の施主(寺にその家族の代表として登録されている人)であるならば、しっかり寺に出向き「離檀(檀家をやめる)」届けをしなくてはいけません。それが、義理かと思います。

問4、般若心経を唱えるまえに何か唱えたい。
 これも質問の意図が、「般若心経をよむ以前に他の経典にも触れておきたい」ということなのか「般若心経をよむ直前に、何か称える真言をおしえてほしい」のかがちょっと曖昧なのでわかりませんが、
 まず前者ならば、仏教全般を学びたいのでしたら般若心経はもってこいのお経だと思います。しかし、浄土真宗の立場で言えば『般若心経』はよみません。分かりやすく解説すると「般若=仏の智慧」ですから、『般若心経』は「仏の智慧の心のお経」となるわけです。そのような尊いお経をわれわれのような凡夫(なかなか煩悩から離れられない人々)が正確に理解できないという立場からよみません。浄土真宗では『正信偈』という偈文から、入るのがわかりやすいと思います。
 そして後者であるならば、そちらの専門の方に聞くのが最も良いでしょう。(こんな答えですみません。)

問5、仏様をどなたかおしたいしたいが、どなたが私にあっているのかわかりません。
 厳しいようですが、あなたがわからないのであれば私にもわかりません。仏教は自覚の宗教などといわれることがあるそうです。自分と見つめ合ってよく考えてみなくてはなりません。
 また多くの宗旨に触れるというのもいいかもしれません。私も今は浄土真宗であるといっていますが、多くのお寺をたずねたり、本を調べたり、仏教系の大学の講義を聴いたり、試行錯誤した時期がありました。そうしたことで、見えなかったことが見えてくることもたくさんありました。目からうろこで楽しいですよ。そして私は、浄土真宗は適していると思ったので、浄土真宗を名乗っています。
 あなたがそうなるかどうかはわかりませんが、しっかり自分の眼で見極めることが大切です。そして、自分が信じるべきものに出会ってください。

問6、大日如来様は真言宗ですが、仮にも浄土真宗の家のものがおしたいしても大丈夫でしょうか?
 これは問2の答えと同じです。そんなケチなことは仏様は言わないと思います。

えー、ながながかきましたが、煎じ詰めて言えば「自分がどの教えをもって生きて生きたいかです」それぞれの宗派にそれぞれ良いところがあるはずです。そういった多くの仏教を学ぶことで自らの仏教観をもってほしいと思います。人から言われたことを鵜呑みにするだけでなく、自ら考える力を養ってください。

駄文を書き連ねてきてしまいました。申し訳ありません。参考にしていただければ幸いです。合掌 南無阿弥陀佛

 私は浄土真宗の人間ですから、浄土真宗の立場については少しお話できるとともいます。
問1、月参りは途中でやめてはいけないしばちがあたるか?
 浄土真宗の立場からすれば、そのようなことはまったくありません。父母が自分の子供を不幸にしてやろうと思うかどうかということです。たとえ墓参りにこなくとも、毎日一生懸命生きている自分の子孫たちを不幸にしようとする御先祖様はいないと私は思います。そして、こちらがわは自分の父母やご先祖様に不幸でいてほしいとは思わないでしょう。お互いにそう思...続きを読む

Qこんにちは私の家の宗派は、浄土真宗西本願寺はなんですが、お経に、毎日のお経に般若心経を唱えてあげても

こんにちは私の家の宗派は、浄土真宗西本願寺はなんですが、お経に、毎日のお経に般若心経を唱えてあげても良いのでしょうか?仏さんが大変喜ぶ有り難いお経だと聞きましたし、般若心経は、宗派問わず唱えて良いと聞いた事があるのですが

Aベストアンサー

般若心経は、お釈迦様の悟りを簡潔に纏めたものと聞いています。世の中には仏様は3千程あるようですが、生き仏はお釈迦様だけです、阿弥陀仏など多くの宗派は偶像を拝んでいるのです。仏教の始祖であるお釈迦様の教えを、どの様に捉えるのかで宗派が分かれているようです。仏様の世界は何でも有りですが、浄土真宗であれば無量寿経などを唱えれば良いと思いますが、難しすぎて普通の人はできません。お経を読むのはお坊さんに任せて南無阿弥陀仏だけでよろしいのではないでしょうか。

Q釈迦と鬱あるいはひきこもり、そして生きる術

釈迦について、私の知る限りでは
-よいところのおぼっちゃんだった
-身体が弱かった
-悲観的だった

これを土台にして、
-生きることは苦(苦の娑婆)
-万物ははかないもの(刹那主義)
という世界観が彼の哲学として確立し、

災いの原因を
-五感に依存しすぎ
-業を育てすぎ
とすることによって、これらを修正すれば
-心の平和
-悟りの境地
にたどり着くものと説いた。

ということで大意はよろしいのでしょうか。

釈迦の時代ですら、権力争いはあり、その歴史は現代に引き継がれ、相互作用をする中で地球規模で限られたものが生き残っています。
理想を求めれば求めるほど、現実とのギャップが大きくなり、落胆を覚え、社会に絶望する結果になります。
それを考えるとき、釈迦は鬱だったのではないだろうか・・・と思うのです。
権力争いは人間に限らず、野生界でも起こります。それは、食糧の確保と種の保存をかけた避けられない現象です。それを生き抜くものがより適応能力をつけた子孫として自然淘汰されていく。
人間も同じ動物であり、種としてより適応能力に長ける子孫を残そうとする場合に、業や欲がなかったら生き残れないのではないかと。
ある意味、釈迦は動物としての戦意を喪失し、欲をあきらめ、理想郷を説いて嘆き、現実社会はもう手に負えないので、死ねるならそれを受け入れる方が楽、よって死ぬのは怖いことでも何でもなく、むしろ早く死んでしまえたらいいのに、
と、思っていたということはあり得ないでしょうか。
心の平和を求めれば求めるほど、社会の中で生きることで生じる煩わしさを否定することになり、なんとなく、ひきこもりの原因になるような気がしてなりません。

現実社会で生きることにおいて、世界観や哲学の探求は本当に役に立つのでしょうか?何も考えず、今日を生き残ることができる人の方が強い気がします。探求、追及をするほどに生き辛くなるのではないかと。

ということで、質問の要点は3つ
*釈迦は欝だったかあるいはひきこもり状態ではなかったか
*業や欲なしで種の保存がなしえるか(精神世界と動物世界のギャップをどうつなげるか)
*世界観・哲学の探求が生きる強さを弱めないか

よろしくお願いします

釈迦について、私の知る限りでは
-よいところのおぼっちゃんだった
-身体が弱かった
-悲観的だった

これを土台にして、
-生きることは苦(苦の娑婆)
-万物ははかないもの(刹那主義)
という世界観が彼の哲学として確立し、

災いの原因を
-五感に依存しすぎ
-業を育てすぎ
とすることによって、これらを修正すれば
-心の平和
-悟りの境地
にたどり着くものと説いた。

ということで大意はよろしいのでしょうか。

釈迦の時代ですら、権力争いはあり、その歴史は現代に引き継がれ、相互作用をする中で...続きを読む

Aベストアンサー

*釈迦は鬱だったのか

 そうかもしれませんし、違うかもしれません。あなたの説を聞くと、そうであった可能性が高いような気がしてしまいます。
 ただ、鬱の特徴の一つとして、感情の起伏がなくなり、ディス・コミュニケーションとなりますから、そういった人が多くの人を弟子として従え、教えを説けたかは疑問です。もしかしたら、鬱状態から奇跡的に自己回復し、その後活躍したのかもしれませんし、別の精神疾患であったのかもしれません。まあ、精神疾患というものはとても判断が難しく、ちょっと言った者勝ちなところもあるので、そういった意味でも難しい質問です。
 考え込む人は、考える議題や方向によってそうなりやすい、というのはその通りです。哲学者の中にも精神疾患者はいましたし、宗教家の中にいもいました。


*種の保存について

 基本的に成し得ません。ただ、種として優秀であった狼やネコ科の中・大型動物等食物連鎖の上位にいた哺乳類が、性交や遺伝的問題、環境等自然問題以外の理由で絶滅させられている点は、議論の余地があります。
 ただ、これも大きな意味で種族間の闘争の結果、自然淘汰といえなくもない。

 基本的に動物は、自分の遺伝子を残すことを優先します。次いで、自分たちの種族を残すことを優先します。
 例えば、チーターのメスは縄張を持っていて、自分の子が大人になると他所へ行くよう追っ払います。新たに縄張を得るのは難しいですし、縄張を持てなければなかなか食料にありつけず餓死してしまいます。しかし、チーターとしては、仮に自分の子(狩りの成功率が低い未熟な若者)が死んでもまた産めばよい(狩りの成功率が高い熟練者が生き残った方が、出生率が高められ、また大人になるまで育てられる可能性も高くなる。すなわち、ここですでに競争が始まっている)、その中で縄張を持ち得る優秀な子孫できれば、自分たちの子孫が残っていく可能性が高いというのです。
 そんなチーターですが、老いると自分の縄張を自分の娘に渡し、どこかへと消えてひっそりと死んでいきます。老いて狩りの成功率や出産率が下がった自分が縄張を持ち続けるよりもその方が子孫が残る可能性が高いからです。

 動物の本能とは、何とも理想的で合理的です。

 あるフクロウは、食糧の過多によって産む子供の数を変えます。ネズミは、人口密度が一定数になると子供を作らなくなります。これらは、主に食糧問題からの共倒れを事前に察知し、対応しているのです。
 動物の本能、野生というものが因業で野蛮で欲そのものであったならば、こういった現象は起こらないでしょう。
 本能というものは、元来種の保存という一点において、理想的で合理的で、それでいながら環境との調和という面でも究極的で、完全をなしています。
 ひるがえって、理知的であるところ人類の所業はどうでしょう。面倒なので(飽きてきたので)省きます。

 読み返してみると、なんだか答えとして要領を得ないものになってきました。
 改めて私の答えは、業や欲なしで種の保存は成し得ないが、業や欲というものは人が一般的に考えているような野蛮で無秩序、野放図なものでは、本来ない、というところでしょうか。


*哲学が生きる力を弱めないか 

 弱めるでしょう。そもそも、何かを深く探求することは生産的活動ではありません。あれこれ考えるより、畑を耕して食べるものを作る方が何倍も偉く、尊い活動です。

 哲学というものは、学問を木に例えると、幹とか根に当たるものです。あらゆる学問が哲学から発生しています。そう考えると、案外弱めるだけではないようにも思えます。
 しかし、科学が進歩した現在、かつて突きつけられた社会的、生物的問題は解決できたでしょうか。一部は解決できましたが、新たな問題が発生したり発覚したりして、結局はさほど変わり映えはしません。
 農耕技術や工業化に生産性の向上・効率化、失業率や経済力の向上による精神疾患や社会問題化、医学の進歩は高齢化社会、金融工学の進歩は不測のリスクを生み出し――

 やはり飽きてきました。なので省きます。

 まあ、もっと単純に言ってしまえば、世の中哲学者、学者ばかりになったら(且生産活動を行わないとしたら)飢えて死ぬが(そもそも学者はなぜ飯が食えるのだろう。研究者ならともかく)、世の中から学者が一人残らず消え去っても、飢えて死ぬということはないし、世の学者が何らかの問題解決策を提示しても、新たな問題が発生するか発覚するか、そもそもそれは解決策ではないことも多く、総じて不毛。
 そうはいっても、別の惑星に移住する移動法とその惑星を地球化できる技術が発見できなければ、太陽か地球の寿命が尽きたら終わりですけどね。

 余談ですが、私は仏教徒ではなく原始老荘家です。あまり参考にはなりませんかね。

*釈迦は鬱だったのか

 そうかもしれませんし、違うかもしれません。あなたの説を聞くと、そうであった可能性が高いような気がしてしまいます。
 ただ、鬱の特徴の一つとして、感情の起伏がなくなり、ディス・コミュニケーションとなりますから、そういった人が多くの人を弟子として従え、教えを説けたかは疑問です。もしかしたら、鬱状態から奇跡的に自己回復し、その後活躍したのかもしれませんし、別の精神疾患であったのかもしれません。まあ、精神疾患というものはとても判断が難しく、ちょっと言った者勝...続きを読む

Q真宗(浄土真宗)のお経

母が亡くなり、仏心とでもいうのでしょうか。
毎日仏壇に線香をお供えする習慣が身に付きました。
でもそれだけでいいのかなと思い、お経についても勉強したいと
思うようになりました。
我が家の菩提寺は真宗(浄土真宗)仏光寺派です。
調べたところ、真宗では13派?あるようですが
巷にある教本は多数派の東西本願寺、そしてまれに高田派用が
あるだけです。ご本尊の阿弥陀さまも後光の形、数が
東西の本願寺でさえ違うようですし・・・。

少数派の私はどれを使ったらいいのでしょうか?
元々、儀式形式へのこだわりを重視しない真宗のことですから、
(うちの菩提寺だけ?)
どれでもいいのでしょうか?
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 真宗の僧侶です。
 佛光寺派と同規模の興正派に属しています。

 真宗のお経は『仏説無量寿経(大経)』『仏説観無量寿経(観経)』『仏説阿弥陀経(小経)』です。最もポピュラーな『正真偈(きみょうむりょうじゅにょらい…)』は厳密にはお経ではありません。

 細かいことはさておき、それらの意味(解釈)が知りたいのであれば、特に宗派にこだわる必要はありません。他の回答にありますように、一般向けの書籍が出ていますので、その中から選べばよいかと思います。

 そうではなくて、お勤めの仕方(音程とか節とか)を習得したいということでしたら、これは寺院(もしくは本山)に尋ねるしかないと思います。興正派でも勤行のCDを製作し、本山でも販売していますが、一般の書店で取り扱っているところはありません(東西本願寺ならばありますが)。佛光寺さんがCDを製作なさっているかどうかは存じませんが、住職さんに尋ねるか、それが難しいのであれば本山に電話で聞いてみれば宜しいかと思います。
 
 

Qどうして反原発を唱えると(左翼)と呼ばれるのか?

チンカス右翼と言ったら、また怒られそうなので(ネット右翼)と言い直す事にするが、どうして彼らのボンクラ脳ミソでは、反原発と左翼思想がつながっているのか。

わたくし的に言えば、反原発も終身刑導入も共産主義的利益分配さえもが、国粋主義者の考え方であると思う。

右翼・左翼といった時代錯誤の分類をし、その右翼側に自分の立ち位置を設けて、何かと言えば日の丸の旗を恥ずかし気もなくはためかせる下品な野郎ども、このアホらが(右翼)といった国粋主義者のニセモノを名乗るのはいかがな物であろう。

どうしてネット右翼たちは、国益に反する行為ばかりを尊ぶのか、アベノミクスに全く乗っかれていないフレッシュな私に、誰か教えてください。
https://www.youtube.com/watch?v=sTJ1XwGDcA4

Aベストアンサー

>どうして反原発を唱えると(左翼)と呼ばれるのか?
いわゆる伝統的左翼が原発反対を主張していることが多い、という単純な理由です。
意見の内容や個々支持者の内実を考えると混乱するので一律にレッテル貼ることで良しとしています。

敵が推進する考えは悪、という明快ですがあまりにアホらしい理屈です。
まあ、バカなんでしょうねえ。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報