●わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。

 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。

 人間のしてることでいいことって 何かありますか?
 思い当たる方、教えてください。

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A 回答 (29件中11~20件)

 いうなれば、高瀬舟の主人公がとった行為のようなもの




(現実にそれがあるならば。あるかどうかはわならないがないともいえない。)

なるべくなんにもしない事は『善』かもしれないが『悪』でもある。
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この回答へのお礼

●高瀬舟の主人公が とった行為をしりませんので
 コメントできませんが
 稀有な行為であるならば あると思って 考えた方が
 合理的だとおもいます。

お礼日時:2001/11/08 00:48

あなたの感性が美しいと語っているものを善と言うなら、人の行いであなたが美しいと思えるものは、オーストラリアのアボリジニや、元々のネイティブアメリカンの生き方が近いかもしれませんね。


せみのやりとりを見ていてそう思いました。
(アボリジニは本から学んだ程度でしか知りませんが、私が生活していたネイティブアメリカンの保護区での生活と似ていると思いました。)
保護区に住む彼らはあなたの言う、どうでもいいことをどうでもいいこととして行います。それ以上はありません。そして彼らは自分が自分の世界の主体ではありません。白人と西欧文化の侵略で、その精神を害されてしまった人たちは多いのですが、もともとの彼らにはこだわりがなく、自然の一部として生きます。興味を持たれたらネイティブアメリカンの本はいくらでも見つかると思いますので、敢えてどれがいいとは言いません。
chihokoさんはそれをどう思うかわかりませんが、私は彼らの生き方を美しいと感じます。これがあなたの回答に近ければいいのだけど、どうなんでしょうね? 私はこれを善とは定義しませんけど。

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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございました。

 いちばん新しいご回答者の方への お礼の欄をご覧ください。

お礼日時:2001/11/09 21:22

chihokoさん、こんにちは。


noribou11さんとのやり取りを読んで少々疑問に思ったので、
もう少し言葉遊びにおつきあいします。

noribou11さんの言いたいことは、おそらく
「人が他の存在(人・動植物・モノ)を見て感じることは、己の主観を
 反映した内容を感じているんだ」
ということだと思いますよ。

この点に関しては、noribou11さんの意見に同意します。

chihokoさんがセミの生態を観察して感動を覚えたのも、chihokoさんの
心の中に、セミの生態を美しいと感じる観念があったから。

また、ねこの里親をさがしてやろうという他人の行為に対して、それをエゴ
だと感じるのも、chihokonさんの心の中にそういう行為をエゴと感じる元が
あるから、その気持ちが外に対して反映されているだけなんです。

自然を見て美や善を感じ、人の行為を見て悪やエゴを感じるのも、chihoko
さんの意識にその原型があるからなんです。結局のところ、外部にあるもの
は自分の心を映し出す鏡なのです。

極論すると、chihokoさんの中にエゴがあり、それが原因で他人の行為が
エゴと感じているのです。
あなたの中にあるエゴは、自然を見て美を感じたところで、決して消えは
しません。消すには、原因である心の方を正していくしかありません。


じゃあ、どうやって心を正していくか・心を清くしていくかですが、科学
や哲学がその答えを出していない以上、これもやはり宗教に頼らざるを
得ないでしょう。


それから、ここからは私の仮説ですが、究極的には宗教と科学がもたらす
結論(真理)は一致してくるのではないかと考えています。今はまったく
別々・バラバラですけれどもね。

それを証明するためには、やはり科学者という存在は必要です。
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この回答へのお礼

●エゴかどうかは いちばんよく自分がわかるはずです。

 思考や行為のベクトルが自分に向いているか外に向いているか
 エゴを定義することも いまあまり重要じゃありませんよね。
 
 おっしゃることも十分わかりますし ほかのエゴにまつわる
 論理展開も おもいあたります。

 この欄でおっしゃっていただいている 考え方は承知した上で
 常にあたらしい論点を提供しているつもりです。
 どうどうめぐりほど つまらない時間つぶしはないからです。

お礼日時:2001/11/08 00:33

わがままばっかしてないひとは悪ではないです。


悪ですら、わがままにふるまうことを控えているように全体を見ると思えます。
悪のもたらす悲しみが見るべきところと思います。その態度が素晴らしい。
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この回答へのお礼

●悲しみに 着眼されたのは 感性の鋭さを感じます。

 善もまた 悲しみを含むものです。

お礼日時:2001/11/08 00:22

再度の登場です。



>あなたは もっと自然から 学ぶ姿勢が必要ですね。

私は自然科学の研究者です。あなたに言われるまでもなく
自然から多くのものを学ぶ志はありますでご容赦ください。
そしてせみに対する「美意識」も持ち合わせております。
しかし「動物の行動に対する美意識」はあなたの主観でしかすぎません。
その主観を用いて他人の主観を批判する。これは生物学者として
看過できません。我々は自然を尊重しております。
したがって、動物の行動はその動物の行動であって人間に
置き換えるべきではない。必然性で言えばセミはセミの必然性があり
人間には人間の必然性があるということでしょうか。

繰り返しますが、動物の行動から何を学ぶかはその人個人の感性です。
私はそのことを批判しているわけではないのです。個人の主観を基に
他人の意見を批判することに疑問を感じているのです。
しかも、生物を利用して。

猫とセミの感性ですが、たしかにちょっと違いますね。
子育てをする動物は本能として子供に対する保護意識を持っています。
もちろん、ライオン等の一部の動物は子殺しを行いますが、
大部分の動物は子供であるが故に保護しようという本能が存在するのです。
子供は自分に有利になるような外見をしているだけです。
現代の日本人は社会通念で動物そのものを見ても食欲が湧かないため
この本能が有利に働くのです。一部の方々を除けば、ほとんどの人が
動物の赤ちゃんを見ると「かわいい」と思うのは本能だからです。
この本能があるからこそ子猫を見たらなんとかしたいという
意識になるのです。もちろん、当の子猫がありがたがるかどうか
は問題ではありません。子供を見たら保護本能が働くのが
人間の必然性だから、しかたがありません。
これはせみが成長ホルモンの刺激を受けて行動することと
まったく同じです。セミにしてみれば人間の感性など関係なく
粛々と自分の本能に従っているだけです。人間も子猫の感性など
関係なく粛々と自分の本能に従っているだけです。

一方、せみの行動に対するあなたの主観はせみの本能に従った行動を
作為的に理解し、それを自分の美意識に定めているのです。
しかも、交尾に成功した、ごく一部のせみだけを見て。
くどいですが、せみの行動そのものを「善か悪」かと述べているわけでは
ありません。一部のせみの行動を崇高なるものとして解釈することが
あなたにとって「善」なのか?と問うているわけです。
私は成長過程で補食されたり、病気で死んだセミを含めセミはセミと
考えていますから、成功者だけを見て「善」だとは思えません。

ここからは生物屋としての意見ですので、興味がなければ無視して
ください。

自然には作為がなく無駄は存在しないとおっしゃいましたが、
自然は作為だらけで無駄が多いものなんです。完璧ではないから
多数の動植物が存在し、偶発的に定められた己の本能に従って
行動するんです。だからこそ、魅力的なのです。

突然変異というとあたかも異なる生物が産まれてくるという
印象がありますが、我々は今、生活している間も遺伝子レベルで
突然変異を繰り返しています。ほとんどが有効なものにならず、
たまに致死遺伝子になってしまうこともあります。

進化というものは常に行われているんです。大きな観念で
考えれば変異は必然性かもしれません。しかし、セミ個体で
考えれば、偶発的な遺伝子の組み合わせで己の行動が決定されて
しまいます。動物の行動は必然ではなく偶然の結果でしかありません。

有効ではない遺伝子はどうなるのかといえば捨てられるわけでは
ありません。結局DNAとして保存されています。生物はこれら
失敗作と成功作の双方を遺伝子として保存し、タンパク質等を生産
する場合は成功部分だけを切り張りして転写しています。
「無駄」の定義にもよるでしょうが、失敗し、使われなくなったものを
無駄と呼ぶならば我々は無駄の方がはるかに多いのです。

あなたは目に見えるものだけを捉えて語っているだけでう。
星の視点でものごとを思慮しようとなさっているのであれば
綺麗なところだけを見ず、全体を見渡した方がよいのではないでしょうか。
あなたは もっと自然から 学ぶ姿勢が必要ですね。
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございました。

 いちばん新しいご回答者の方への お礼の欄をご覧ください。

お礼日時:2001/11/09 21:25

私にとっての善は、私に得になること。

広く、深い意味で。
長い目で見て、結果的に自分の首をしめてしまうようなことは、
その場で善とされているであっても、よいことではないと判断しています。

あなたはもっと大きな世界全体について、普遍的な価値を探して
いらっしゃるのかもしれません。
でもそれは、考えてわかるものなのかなあ…。私は期待していません。
わかったところで、それが自分の感覚や本能と大きく違っていたら
その普遍的な善を死ぬまで守れる自信はありません。
私は自分の感覚と本能にできるだけ親切でいようと思っています。
私はそういうふうにすると幸せを感じるようにできているので。

あなたの善は、誰のためのものなのでしょう。
ごめんなさい、なんだかつらそうにみえます。
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この回答へのお礼

●贅をつくして 満ち足りた生活をおくった先には
 その幸せ 主人といっしょに自然に溶け込むように生きたい。

 その幸せがなるべく長くつづく しかけ をさがしたくなるものです。

 善について かんがえるのも その一端ですよ。

 自分の知るかぎりのすべての人達の 笑顔と 多様性に満ちあふれる地球生命
 そこが みえないと ほんとうの幸福感は 無いものです。

お礼日時:2001/11/07 13:16

 再再度、回答させて戴きます。


 なかなか答えを出せないようですね。
 以前、回答して、重複するので避けていたのですが、最高最善の生き方は、人生の目的、人は何故生きるのかという回答にも通ずるのですが、”正法を行じる”ことであります。
 正しい信仰を通して自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することです。
 人間に生まれた目的は、御題目を唱えることにあるのですが、これを知らない、或は信じられないために、「御題目を唱えるだけでは駄目だ」などと不敬極まりないことを云うわけです。
 しかし、これは仕方のないことで、どんな些細なことでも人は教えられなければ、絶対と云っていいほど、分からないのです。
 教えられなくても解るお方は仏様だけであります。
 ですから”仏”のことを「無師独悟」と尊称するわけです。
 実際、御題目を唱えるのを見て、これこそ真実の仏道修行であり、人生の目的だなどと思えません。
 仏教学者でさえ「蛙鳴蝉聲」(蛙や蝉がうるさく鳴くのと変わらない)だと、馬鹿にするぐらいですから、当然であります。
 しかし、これは、「難信難解」でありますから、日蓮大聖人の仰せを信ずるほかはありません。
 以下、どうせ難解で信じられないでしょうから、省略しますが、”命が本有”だから唱えるのであります。
 どうですか?
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございます。
 グールモンの詩を紹介させてください。

 [落ち葉]

 シモーン
 木の葉の散った森へ向かう
 枯葉は苔と石と小道を覆っている
 シモーン
 お前は好きか 落ち葉ふむ音を
 落ち葉の色はやさしく 姿はさびしい
 落ち葉は儚く捨てられて 土の上にいる
 シモーン
 お前は好きか 落ち葉ふむ音を
 寄り添え 我らもいつかは 哀れな落ち葉であろう
 寄り添え もう夜が来た そうして風が身にしみる
 シモーン
 お前は好きか 落ち葉ふむ音を

●たとえば この落ち葉の在りようが わたしにとっては 善かなあ。
 正法を信じる 行ずる が最高最善ですか。
 その道を信じるほど 素直じゃないし 勉強するほど時間はないです。
 勉強するとその間の時間自然や主人を感じることができなくなりますから。
 いまのままで じゅうぶん歩めていると 感じています。

 

お礼日時:2001/11/07 01:43

沢山のお礼文や補足を読んでみて、私からはもはや言うべきことは何もありませんが1つだけこの質問のツボを告げるとすると、「人間のしてることでいいこと」この部分の「いい」の対象を何にするか、そして人間の行為の結果の主体を何にするかで、あなたの中での真理は如何様にでも変わることでしょう。


そう、樹形図のように。
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この回答へのお礼

●いいこと おもいあたるんなら また教えてください。
 善かどうか 考えてみましょう。

お礼日時:2001/11/07 01:25

絶対の善って、ダレにとって??ナニにとって??


対象によって、善悪なんて、入れ替わっちゃうじゃん。
そもそも、世界って、悪と善、入り混じって出来て
いるんもんだと、おいらは、思うぜ。『善と悪』に、
切り分けようとする方が、広がり無いと思うしさ。

因業高利貸しが、猫にだけは、やさしくっても、
あなたは、悪は悪。っていう考え方の持ち主だし、
それを、悪の中の善と、取る人もいるのが、世界。

人間も自分の中に、世界(宇宙)を抱えていると、
おいらは、実感しているし、それを、あなたが、
否定しても、おいらが、実感しているって事は、
変わらない。あなたが、変わらないように。

『あなたが、あなたのご主人を、生涯を通して、
たいせつに思い続けることが、人間のすることで 
ひとつだけの善』って言う、コノ人間って、あなたが
質問文に書かれている、「やること全て悪」の
「全ての人間」の事か? もし、そうなら、まず、
あなたの思いを、そう信じる人間は多くないだろう。
でも、他人がそう思うって、思うあなたは、
究極の「善」だと思うぜ。
(大バカヤロウで、お人よしでもあるな)
コノ人間が、あなたのことなら、「善悪」って言う前に、
ナルシストやなあと、思うし、あなたの家族など、
あなたがご主人をたいせつにすることで、いい目に
あう人を、意味するのなら、その人は悪じゃないの?
見返りを求めて、「善」を、認めるんだから。
『愛する人を大事にする』こと、あなたは、
別の回答において、当たり前のことと、切って捨てて
いるのに、自分だけは、別口なのかい?

ところで、
> つねに つぎのステージを 夢みる人間なのです
たる、あなたは、すべて悪の自分の次のステージを
どこに、置いているの? セミ?
あなたの美意識って、どこにあるの? 
全て悪の人間の美意識って、どんなものか
興味があるな。(あなたは、全て悪な人間なんだよね?)
 
『人を殺すことは美しい』と、感じている、
殺人鬼も、いるだろうし、『美しい犯罪』を、
心がけている、犯罪者もいるだろうし。
何を持って、「善悪」「美醜」とするかは、
あなたが、決め付けることじゃなさそうだねえ。

あなたが、セミに「善」を、感じても、
あなたが、「善」に換わるわけでもないし。
セミにとっちゃ、土の中の世界が、素晴らしい
世界なのかもしれないし、それを、どうこう
言うのは、人間のエゴだし。
あなたの回答を読んで、エゴイスティックにも、
あなたになったつもりで、考えてみたら、
「なるべくなんにもしない事」って、醜いわ。
「全て悪な人間」の、もっとも、「善」な行為は、
やっぱり、なるべく早く、終演を迎えるべく
努力することなのかもしれないねえ。

生きるっていう事は、みっともなくも、美しい。
善であれ、悪であれ。当たり前の事だもんね。
とりあえず、おいらは、否定のみに、生きるより、
能天気に、怒ったり、笑ったり、泣いたりして、
生きていくわ。信じる人、大好きな人が、たくさん、
いることを感謝しつつ。

何もしないことを善ではないか?と考えるあなたが、
いろいろ質問をすることが、善の現われなのかもね。 
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この回答へのお礼

●とりたてて ご質問にお答えするほどの内容が感じられないので
 てきとうに解釈してください。

 美意識についてすこし話しましょう。
 美とはイメージとして認識できるかたまりの最大限の賛美に値するもの。
 「能天気に、怒ったり、笑ったり、泣いたりして、 生きていくわ。信じる人、
 大好きな人が、たくさん、 いることを感謝しつつ。」
 これは 十代のころの わたしの価値観に近いです。
 いまは セミです。

お礼日時:2001/11/07 01:18

セミの生きざまに善を感じるということですが、


それは、あなたの主観的な「美意識」の問題ですよね。
動物の行動を崇高に解釈してしまうこと自体、
あなたの言う「善」なんでしょうか?

7年間土中で生活することを、さも我慢をしているという印象を
お持ちのようですが、それはヒトの感性であってセミの感性では
ありません。あなたは当たり前のことは善ではないと書いてありましたが
セミが地上へあらわれるのは成長ホルモンの変化からで
それはヒトの成長に絡む行動となんら変わりはありません。
つまり、当たり前のことであり、他者を出し抜いた結果です。
そもそもセミの成虫、幼虫なんて人間が定義したものです。

セミのやることに人間が勝手な解釈をすることなんて意味ない
ことですが、ちょっとお付合いしましょう。
セミが産み落とした受精卵のうちいったいどれだけの個体が
変態できるのでしょうか。ほとーんど、いません。
それもこれも産んだらすぐに死んでしまう親のせいです。
この膨大な受精卵を生産するためのエネルギー摂取がほとんど
無駄になってしまうわけですね。せっかく、他の生き物を
殺してまで手にいれたエネルギーなのにもったいない。

セミに対する美意識とNo.1のコメントにある猫に対する気持ちに
どんな違いがあるというんでしょうか?
人間の感性を動物に当てはめてるだけです。
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この回答へのお礼

●せみには せみなりの必然性が あって土の中に長く生活することと
 なったのだとおもいます。我慢しているという印象よりも
 そのオリジナリティに感銘をうけます。

 ねこに対する気持ちは人間からでているものであってエゴでしょう。
 (里親をさがしてやろう。)
 せみに対する気持ちはせみからでているものです。
 (せみの生き方から学ぼう。)

 ぜんぜん違いますよ。

●自然界には作為が ありません。よって無駄もありません。
 あなたは もっと自然から 学ぶ姿勢が必要ですね。

お礼日時:2001/11/07 00:59

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人々は、善は善である、と考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜である事をしらない。
・これら相い対峙する二つのものは、否定、対立しあいながらも、一つの統一体をなすものである。
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☆悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。
◇ということを前提にして、すこし考えてみます。

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本来、否定されるものではない。

であるとするならば、
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不倫や浮気はどうなるのか。

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お礼ありがとうございます。
批判的な内容も書きましたが、それらは質問者さんを非難するものではありませんから、誤解なきようお願いします。ロジックの目の付け所に感心したというのが回答の動機です。そこで無理に綺麗なパラドックスに仕上げようとされるのは自滅的に思われ、私なりの整復術を試みたくなった次第です。

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