内に目を向けるってどういうことですか?
キリストいう、神の国はあなたの心の中にある。
仏陀は言ったと、己のうちに耳を傾けよ。さすればマーラは去る。
僕はたぶんガンガン外見てたと思うんです。解脱的なことを志向しているのではないですが、内があることも解っていると思います。内に何かあるのも解っています。でも、イマイチというより、いますごく解ってないんです。
教えて!gooではすごくお世話になり、回答者の方々、管理者の方、本当に感謝しています。宜しくお願いします。
内に目を向けるとはどういうことですか?

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A 回答 (20件中11~20件)

●時間が無くって 詳しく説明できませんが じょうずに自分で解釈してください。


 すべての命は DNAのもたらした現象にすぎません。
 現象にその存在の理由を捜すこと自体 ひまつぶしでしかありません。

 ミームとはDNAを介さないで時間を超えて伝達するすべてのものの総称です。

 あなたの感じている愛とは 博愛のようなもので 愛ではありません。
 博愛は 思慮の浅い人間が感じる善のような感覚で
 思慮深く考えれば 光をあてたら 必ず影ができてしまうことが
 わかり したがって真の博愛なんてありえないことに気づきます。
 愛とは 前述のように対象に対する情念でしかないのです。
 ステージは第二です。傍観できます。

 叙情になにを感じるかは ひとそれぞれです。
 なぜ わたしが叙情を言い出したか・・・。
 叙情とは あるがままにこころをよせる行為です。
 景観から風景 時間という概念をふくんで 情景 そいて叙情へと昇華します。
 内に目を向けることで 行き着く先 それが叙情です。
 そこに気づいてほしかったです。

 叙情の大家 たとえば芭蕉です。
 田一枚 植えて立ち去る 柳かな

 あるがまま あるがままなんですよ・・・。
 わっかるっかなあ。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。
>内に目を向けることで行き着く先 それが叙情です。
 そこに気づいてほしかったです。
そうなんですか?気付きませんでした。
>あなたの感じている愛とは 博愛のようなもので 愛ではありません。
 あなたの感じる愛は共鳴でいいですか?仮に、あなたが愛を感じるもの、あなたの愛する者物が、がすべてあるがままに移り行き、あなたを残し去った。あなたの愛は消えますね?あるがままに。そして、そのあるがままに心を寄せ、そして叙情に浸るのですか?
僕が、あるがままのうち、よきと捉えられた現象、それがただいい。それがそれでいい。理由なんてどうでもいい、と感じるものはあります。それが愛とは考えていません。善とも美とももはや言いません。それはそうだとします。それらはあるがままなのですから。
>思慮深く考えれば 光をあてたら 必ず影ができてしまうことが
 わかりしたがって真の博愛なんてありえないことに気づきます。
それを知り、影を見るために光を当てることを僕は否定しません。なぜならば、光がなければあるものもないからです。
>叙情とは あるがままにこころをよせる行為です。
巨大な観点をお持ちなのですか?あなたのいうことは無我の自体です。西瓜割の事態にも、芭蕉の詩世界にも、心を寄せるのですか?それともあなたの心の行くままに寄せるのですか?あるがままにあなたの心があるのですか?あなたには何が見えているんですか?僕に見えずにあなたに見えることを教えてください!それともそうではなく、自我のままに、DNAのままに、あるがままにあるとおっしゃるのでしょうか?
>すべての命は DNAのもたらした現象にすぎません。
 現象ははすべて流れます。DNAは現象ではないのですか?それともミーム的なものの中身を保有しているために伝えられるんですか?
>ミームとはDNAを介さないで時間を超えて伝達するすべてのものの総称です。
 見れば分かる。それは流れていないに違いないと思う。
>互角にはなせる相手が ほしいなあ・・・。
 じゃあ僕を互角なるようにしてください。一月初旬までにぼくはここにいれなくなるので、お時間が許す限りここにきてください。それまでここはしめません。待っております。

 あなたのあるがままが、僕らの言う我がままでないことを望みます。僕らは、あるがままが我がままで、叙情であると言います。あるがままなのだから。
ぼくはあなたとの話で、移り行く命の所在たち、流れ行く場所たち、よりも、真にあるがままのもの、まさに真理をえることを少し期待します。それがあなたの話を理解した時にそうなるのか、してもそうならないのか、別にどちらでもいいです。是非話を続けてください。あなたのお話に知性は必要ないです。このまま去ってしまわないで下さい。宜しくお願いします。

お礼日時:2001/11/25 04:10

 ご無沙汰をしています。

内と外、ですが、これは、近代の大問題だったようです。いわく、「自己の確立、自立」などが、個々人に求められたからです。
 しかし、現在では、そんな確立されるべき「自己」から出発できるのだろうか、という疑問がおき、むしろ、「自己と他者」、「自己と社会、世界」と分ける思考自体を、疑うことから、話が始まるようです。
 「自己」とは、たまたま、意識を意識たらしめるために、一時的に名前を付けたようなもので、意識が最初から、「私は、私である」とは、言いません。また、いつから日常レベルで「私が、私である」ことに疑問を抱かなくなったかも、遡って辿ることは出来ません。出来ないと思います。
 ということは、「自己について考える、あるいは、自己を意識する意識について考える」という行為、つまり、内省と呼ばれるものは、内実は、「意識のへりを堂々巡りをしている」ということではないでしょうか。
 意識にとっては、「私」も「私の肉体」も、常に「外」です。「意識が意識の内に入り込む」ということは出来ません。意識を意識としてしか志向出来ないのだろう、と思われます。
 つまり、意識も「もの」と同じような存在レベルとして考えれば、「意識として在る」とは言えます。しかし、それは、「存在では否い=無」としてある、と仮定しなければいけません。探せば、どこにも在ってどこにも無い、のですから。
 例えば、読書という行為、音符を見て音の流れをイメ-ジさせる、というような
行為を仮定してみてください。「言語」としての文字や音符はある。しかし、それからイメ-ジされる「考え」や「音楽」はどこにあるのでしょうか?脳の中?
 私は、自分の身体を取り囲んでいる「雰囲気」全体だと思うのです。だから、身体が動き、思わず頷いたり、口ずさんだりするのではないでしょうか?
 それでは、そうした「無」の世界に入り込むことは出来るのでしょうか?
 出来ません。否いものは「無い」のです。私たちは、意識=考える、という行為において、存在のふちをぐるぐる歩いているだけなのです。
 
 したがって、内に目を向けるとは、存在の中に入り込みたいという、ノスタルジックな行動であり、もう存在に帰れない孤独な旅であるが故の錯覚でもあるのです。

 意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。

 もう、内の中へ帰ることは出来ません。ただ、「自己」をすら、人は「外」から辿るしかないのです。
 
 
 
  

この回答への補足

sokuraさんは、もう得る者を得ます。
今日はたまたま成人の日(1/14)です。たまたまですが、今日ココを締めようと思います。
>>意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。
 今、あなたがなんて解っているのかが解ります。あなたは、このとき、解っていいる事を解っていなかったのでしょうか?そんなことはないです。
汲めど尽きぬ有限の理由について言います
それは、数えれば数えるだけあるからです。数えた時点でそれは限られるのです。
それを意識した瞬間に、それは限られます。しかし、無為に見た時、すべてが見えます。

SOKURAさんは言われた。
「ないものはない。」
この言葉、今は僕の者です。これは真です。
ないものはないのです。つまり、「あり」です。sokuraさんはすでに得ていた。

補足日時:2002/01/15 05:18
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この回答へのお礼

今回もお世話になります。以前の質問で、「恣意である」というご助言頂きました。ずいぶん考えました。sokuraさんが来てくれたこと大変ありがたく思っています。
>私たちは、意識=考える、という行為において、存在のふちをぐるぐる歩いているだけなのです。
 そうです。まさにそういう感じです。そして、意識の中などというものはありません。あったとしても、それは内省の世界であり、外世界と同じ外の世界です。自己は外宇宙の産物です。すべては内であろうが、外であろうが、両者同じ世界です。
>。「言語」としての文字や音符はある。しかし、それからイメ-ジされる「考え」や「音楽」はどこにあるのでしょうか?脳の中?
 これは、言葉だと考えています。例えば「概念」という言葉。まさにそれはあります。
>それでは、そうした「無」の世界に入り込むことは出来るのでしょうか?
出来ません。否いものは「無い」のです。
 果たして本当にないのでしょうか?僕は、自己を含めた外宇宙は、影であるかもしれないと思っています。内側の影です。たしかに影の中には何もないです。しかし、本当にないところに影は立ちません。
>したがって、内に目を向けるとは、存在の中に入り込みたいという、ノスタルジックな行動であり、もう存在に帰れない孤独な旅であるが故の錯覚でもあるのです。
 すごく分かりやすいです。僕の言う事ががたがたにもかかわらず、これだけの共感となって帰ってくるところがありがたいです。
そうですよね、しかし、僕というからには帰りたいわけではないのです。知っておきたい、ということでしょうか。僕と言わない事はどういうことか?

>意識は有限な無のような物体ですが、この増殖は、言ってみれば、無限のごとく、汲めど尽きぬ有限なのではないでしょうか。
 有限なのに尽きない訳が、あると思います。sokuraさんは、その訳についてもしよろしければご助言いただけないでしょうか?ぐるぐる巡るから尽きないということですか?
>もう、内の中へ帰ることは出来ません。ただ、「自己」をすら、人は「外」から辿るしかないのです。
 そうです。僕が帰ることはできません。ただ、
ここに、脱我のところ、何もないわけがないと思います。
 
 僕の質問をくんでくださって、本当にありがたいです。僕が考えて整理すべき所をsokuraさんが答えてくれる事で僕がわかる。嬉しいにつきます。そして、その回答には新しい展開があります。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/18 23:34

どうも、お返事、遅くなりました。



以前、cabaiieroさんがされた質問で「もう一人自分が」というものがありました。そこでの議論を読み返していたのですが、あそこで私は「自分」とは表れては消える波頭のようなもので、そういう現象でしかないと書きました。では波頭を波頭たらしめるものは、いったい何でしょうか?

水?水にぶつかる空気?おそらく、そうではありません。波頭を波頭たらしめているものは、それを見つめるものの視線です。波頭には、海と空との厳密な境界はありません。波頭は、あの白く見えている「あたり」に現象しているものとしか言い得ないものです。自我というのは、そんな波頭たる自分を外から見つめ、波頭だ(自分だ)と認識する「力」です。つまり、波頭(自分)を波頭(自分)たらしめる「力」を持った視線と言うことができるでしょう。

その「力」は、社会心理学者G.H.ミードの言葉を借りれば「I(主我)」です。このとき、客体化された波頭たる自分は「me(客我)」と表現されます。ここで言葉遊び。主我Iは、主格「私は」です。では、客我meはというと、そうです目的格「私を」です。つまりI see me「私は私を見る」が成立します。

自我が唯一のものだという指摘がありましたが、自我が自分というもやもやとして、実体のよくわからない変なまとまりを、まとまりとして認め、そこに「自分」という同一性(アイデンティティ)を持たせる機能をそのように呼ぶのなら、自我は唯一のものかも知れません。ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。それは自我の機能がなければ、同一性を保てないバラバラの記憶の集合(解離性同一性障害の状態)に陥ってしまうのですから。

従って、内に目を向けるとは自我を持つことに他なりません。caballeroさんが悩まされている、内と外の問題系は、自我と波頭たる自分を混同したために発生したかりそめの問題系であると思います。

この回答への補足

jumeさん、あなたは導いてくれたのですね、。
危ない橋を渡るときに、下から支えてくれたのはあなたです。僕は今、上から来ています。上とは、内を通して得られる真の外側の事です。つまり、あなたは、支えるべきを知っていた。泣きそうです。(幸
>自我が唯一のものだという指摘がありましたが、自我が自分というもやもやとして、実体のよくわからない変なまとまりを、まとまりとして認め、そこに「自分」という同一性(アイデンティティ)を持たせる機能をそのように呼ぶのなら、自我は唯一のものかも知れません。ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。
 そのとおりです。数えれるような者ではありません。「一」と言うのが間違いだったのです。それは、真の外側において認められます。そこに、数はありません。
それはそれなのです。それは、すべてです。数えれないのです。

補足日時:2002/01/15 05:30
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます、
>自我というのは、そんな波頭たる自分を外から見つめ、波頭だ(自分だ)と認識する「力」です。つまり、波頭(自分)を波頭(自分)たらしめる「力」を持った視線と言うことができるでしょう。
 ありましたね。青い電燈の話ですよね。jumeさんのアドバイスはいつもほんとに参考にさせていただいています。
>ただ、波頭としての自分に対して、「唯一」という言葉を使うのは、どうもしっくりこない気がします。
 そうです。波頭に唯一など使えるわけがないと僕も考えています。事実、波頭(自分)は一時として同じ姿をしておらず、外世界の諸々の言語の交わりとして、あります。自分たらしめる力の視線、これが自我です。言葉を言葉として存在させるものです。この自我は唯一というか、個数の問題とかではないと思います。しかし、この自我、何故存在するのか?外世界(波頭としての自分を含めた)があるのは、自我の視線があるからです。自我も、一言語としてあるのなら、見られておかねば存在できず、その場合、自我(客我ではない)すらも外宇宙の一言語で、流れるものです。死ねばはかなく消え去ります。私が私である所以はそれでも説明がつきます。私が客我としてのjumeさんになることは想像がつきます。jumeさんもcaballeroになることは想像つきます。しかし、入れ替わったからといって、何も変わりません。絶対的な個性の無さ、そのような機能として存在するということで、無二性を保つ場所となっているのです。そして、外宇宙はその自我という場所の領域です。自我という強大な、外宇宙をエーテル的に満たしている一言語に埋もれるようにして、流れる、移り行く波頭としての、客我としての私があるため、自我を有することになるのです。やはり、波頭はいくつもの言語の一時の交わりとして波頭たるのであって、エーテル的な自我が、やはりそこにあるために、自分というものが波頭に生まれるのです。つまり、もはやエーテル的な自我というのは、言うまでもない「場所」の事で、場所すらない場所のことです。ある一瞬の波頭がある、それだけで、無二性をもち、一瞬であるが故に唯一的であり、すべからくはかない。この外宇宙では、言語(諸々の諸事象)が存在するとき、それはすでにはかないのです。なぜなら唯一という存在だからです。
>従って、内に目を向けるとは自我を持つことに他なりません。caballeroさんが悩まされている、内と外の問題系は、自我と波頭たる自分を混同したために発生したかりそめの問題系であると思います。
 ぼくの言う内とは、言語の中身?のことであり、自我の内のことです。存在するということの内のことで、移り行くカギ括弧の「」自体の内のことです。
 客我は当然、流れる外世界のものです。それを見つめる自我もまた流れる外宇宙の産物なのです。急に俗な話になったと思わず聞いて欲しいです。自分が、タンポポの綿毛の一つの種子についている一本の毛と考えるとどうか?意識はないが、それはそうである。ある原子の、原子核の一部としても、それはそうです。トートロジーの内を見たいのです。見るとかの問題ではないので、内に向くとしました。むしろ我々が自我を持っているという認識、それこそがかりそめの認識と気付きました。また、ご意見いただけるとありがたいです。ウィトゲンや、等の、言語世界の話は、言うなればすべて右側の話だったといえます。右側の中だけで、客我や自我、内側外側、何から何までを語っていたように思います。

お礼日時:2001/11/14 10:37

●それでは すこし噛み砕いてお話したいと思います。



 前述の内容は すべて自分を見つめて確かに違いないと感じた
 部分を綴ったものです。さて 何故か? と考える訳です。
 そこで思いついたのが 自然淘汰で生き残るための仕掛けがきっとあるに
 違いないということです。なるほどそのようにして考えを進めると
 つじつまが合うのです。
 生き残るためには選択しなければなりません。
 例えば 愛 愛とは対象のために自らの死をもいとわないという感覚系の
 情念です。愛のある人間集団と愛のない人間集団では 愛があるほうが
 勝つのです。そのようにして愛は選択されその結果として私達は愛を
 内包している訳です。
 生きるということは いかに行動の選択を生きる方向に持っていけるか
 にかかっています。選択をまちがえると生存競争にまけてしまいます。
 よって 生きること(DNA継承)につながる選択を確かにできる仕組みが
 あることがより確かにDNAを継承できるということです。
 ひらたく言うと いいこととわるいことを見分ける基準(能力)です。
 それが 真・善・美・恋 と考えております。

●ところが人間はいまやDNAの示唆する生き方を越えてミームにどっぷりと
 つかってしまっています。
 個人的には わたしはリリシズム(叙情)に命のやすらぎを感じています。
 
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この回答へのお礼

果たしてDNAは生きるため、生き残るためにあるのでしょうか。
相手のために死ねることが愛なのでしょうか。愛があれば生き残るのでしょうか。何故生き残らなければならないのでしょうか。
生存競争、それは競争しているのではなく、協力しているのではないかと思います。
愛は対象を選ばないと考えます。対象を選ぶには自我が必要です。愛は超我的なように思います。
>●ところが人間はいまやDNAの示唆する生き方を越えてミームにどっぷりと
 つかってしまっています。
ミームとはなんでしょうか?もしお時間よろしければお願いしてよろしいですか? DNAの示唆する生き方を生きるのは何ですか?
>個人的には わたしはリリシズム(叙情)に命のやすらぎを感じています。
 僕は叙情に命のはかなさを感じます。ネガティブかなぁ。
何度もご登場をお願いして申し訳ないです。そして、chihokoさんの対応にとても感謝しています。ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/14 21:49

●それでは共鳴に関して すこしお話いたしましょう。



 自我と言う物が感情を傍観できるということで 仮に自我の下のステージに
 感情系があるとします。このような考え方で全てを表現すると。
 いちばん下のステージには知覚系(五感)
 次の第二ステージには感情系(悲しいとか・・・)
           感覚系(すがすがしいとか・・・。)
           六感系(なんか悪い予感とか・・・。)
 そして一番上のステージが自我
 この三つのステージを合わせたものが個人のパーソネリティ(個性)と考えます。
 さて ここでは自我の共鳴についてお話します。
 自我の部分には何があるでしょう はっきり分るのは言葉を使った論理処理
 部分(必ず1つ 二つあると二重人格です。)そしてご注目!
 真・善・美 です。この三つは傍観できません。
 そして実はもう1つ傍観できないもの 恋があります。
 この真善美恋は DNAが存続するために意識のなかで最も優先させるべき
 価値基準です。(経験とともに変化もする。)そして本質は同じものと考えます。
 在りように照らせば真となり行いに照らせば善となりイメージに照らせば美となり
 異性に照らせば恋となります。
 このDNA価値基準を進化させるものが芸術であると考えております。
 共鳴とはこの価値基準と同質のものを対象に見出すことと考えます。
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この回答へのお礼

お考えのことを聞くことができありがたいです。かなり、新鮮な印象をうけます。僕の考えとは大きく違うものの、もっと知りたいと思います。もう少しお付き合いお願いしてよろしいでしょうか?
真、善、美、注目しましたよ~。ギリギリ分かる気がします。文系的な感じがします。傍観できないとは無知であることととりました。僕は先に美という実在、物質と同じ実在だと、もしくは美という形相、諸々の物質もまた諸々の形相だといいました。形相というとあたかも実感が感じにくいかのように思うので、両方実在(言語)としました。chihokoさんのお考えでは、美はなにか特別の位置におかれていますね。美は、諸々の諸言語(諸物質、諸法則、その交流に派生する事物)とはちがうのか?美に個性(その他の諸物のような)はないのかという疑問が出ました。なぜなら、傍観できない、無知であるからです。いよいよぼくの言っていることはぐちゃぐちゃで、このような文を読んでいただき申し訳なく思っておりますが、今はなにせお話を聞きたいと思います。お許しください。
 恋、これは異質にかんじます。何故、真、善、美とDNAが関わるのか?レズ、ホモの恋愛はDNAか?友愛は何処にいくのか?この一言で様々に疑問が浮上してきました。恋は傍観できない。確かにそうかもしれません。恋愛映画で恋はできません。しかし、快楽殺人犯はどうでしょう。突然ですが、間違いなく傍観できていないと思います。死体写真で、こういうものがありました。人間の首が、顔面を上に向けて木の大皿に置かれている。それを(10)型に切断していく連続写真ですが、出来上がるパーツは何故か5つです。額の部分、右目右耳の部分、左目左耳、そして口びるで繋がってはいるが、上あごと鼻、そして下あごと首に分かれます。
 皿にフルーツのように盛られている、もちろん何か一目では解らない、それもコレも西瓜切りのせいです。この切実な状態、どう受け取ればいいものか。出会いたくないものです。こんなことまで起こるってことです。これは、快楽殺人でなく、マフィア等の裏社会のことだとは思いますが、驚異を感じるいう意味では、夕焼けなどと同等と感じます。
 快楽主義に埋もれ、蒙昧になること(傍観できない、無知であること)と、恋愛は分けられているのでしょうか?chihokoさんのいう恋は快楽志向的なものでないと察しています。
今回お尋ねしたいのは、DNAの関わりと、真、善、美、恋は経験と共に変化するが、本質的には同じもの、これは本質的には変わらないということでしょうか?
ここら辺について、また、その他この質問や僕のお礼に関してでも、お時間、お気の向く時にでもお話しいただけるとありがたいです。宜しくお願いします。

お礼日時:2001/11/13 08:03

突き詰めるととても難しいですね。

それもそれを言葉で表現しようとすると、難しさもひときわで、ともすると言葉遊びに終始してしまうことにもなりかねないような気がします。でも、なんとか私なりに考えてみます。
あなたは自我(意識する自己)をお持ちです。jumeさんがおっしゃるように、それを内省(reflect)することが内に目を向けるということではないでしょうか。意識する自己について熟慮・熟考する、自我に向けて投げ込んだ石の反響を聞く、自我に向けて照らした明かりの反射を見る。そのようなことだと思います。

これに類似する作業は、実際には普段から頻繁に行われているのではないでしょうか? 「今夜は何を食べようか」、「明日の休みには何処へ行こうか」、「向かいの座席の女性が酔っ払いにからまれている、自分は何もしなくて良いのか」、「地球のすべての人を飢えから救い、全人類が平和で幸福な暮らしをするためにはどうしたら良いのか」etc.。それに係る題材は、様々でしょう。特にあなたの場合は普通の人よりはるかに多くこの作業をされているかもしれませんよ。「内に目を向けるとは何ぞや」という自己への問いかけ、その行為そのものこそ内省以外のなにものでもないでしょう。

「内省するためには、外に視点が必要では・・・」というお話でしたが、外から見たと仮定する視点で充分ではないでしょうか。時にはそれすら必要ではないケースも少なくないように思います。

それにより答えがでるものと、いくら努力しても納得のいく答えがでないものがあるでしょう。でもそれはそれで良いのだと思います。

私にとって、自分として一番理解しやすい「内に目を向ける」を別な言葉で表現したものは「自問自答」です。

哲学的な専門知識はまったくありませんので、あなたのお求めになっているものとはほど遠いかもしれませんが、それはご勘弁を・・・。
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この回答へのお礼

アドバイスありがたく思います。
> 「内省するためには、外に視点が必要では・・・」というお話でしたが、外から見たと仮定する視点で充分ではないでしょうか。時にはそれすら必要ではないケースも少なくないように思います。
 
 仮定の視点、そこに唯一の自我があり、だから自我の客観というものは不可能と考えます。二つあってはダメと考えます。数の問題ではなく、自我とはいかな場所なのか、脱我?とはどういうことか、思考を思考することか?僕は、思考の世界と
外の世界は同じ世界のものと考えています。
>私にとって、自分として一番理解しやすい「内に目を向ける」を別な言葉で表現したものは「自問自答」です。
 自問自答ですか、思惟の中で思索するということですよね。内省の世界。つまり、目をつぶって考えるみたいな。はたしてそれは内側なのか、外の世界はほんとに外なのか?僕の結論は、両方同じ世界のものという事です。内も外もない。
いまある言葉の中には何がつまってるのか?諸事物の内側は何か?
yamatonさんからご助言いただいた事で、少し整理がついたように思います。
>哲学的な専門知識はまったくありませんので、あなたのお求めになっているものとはほど遠いかもしれませんが、それはご勘弁を・・・。
 全然そんなことないです。専門知識も日常感覚も、考えている所は同じです。アドバイス大変参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2001/11/13 08:28

●あ すみません またわたしです。



>意識があるのは脳の処理に由来し、自我が働くのはその意識のあるところが、あるということに由来すると考えています。
●前回のわたしの回答に対するお礼の分↑で、自我の認識が わたしは違います。

●自我とは情報の処理部分そのものであって それは必ず単数であること。
 淋しい悲しい嬉しい 怒り 悔しい 苦しい などの感情は自我ではないと
 感じています。

すみません。書き漏らしましたので 追加いたしました。

この回答への補足

>自我とは情報の処理部分そのものであって それは必ず単数であること。
ちがいます。それは、数えれるような者では無いのです。それは、すべてであるからです。すべてはすべてです。ここに、無我の自体が成立します。
この補足、きょうは1/14です。

補足日時:2002/01/15 06:00
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この回答へのお礼

>自我とは情報の処理部分そのものであって それは必ず単数であること。淋しい悲しい嬉しい 怒り 悔しい 苦しい などの感情は自我ではないと感じています。
 すいません、まわりくどい表記をしましたが、たぶん僕も同じ認識かと思います。
一つ言えることは、単数とか数の問題ではないという事ですよね。 場所の問題と考えています。chihokoさんの言われたことは理解していると思います。脳の処理そのものということでしょうか。諸感情は僕も自我ではないと思います。諸感情は実在と考えています。物質と同族だと考えております。物質も言語の一族と考えています。

お礼日時:2001/11/12 18:01

●脳の処理そのものに目を向けるとは、例えば、


 友達が泣いている時 わたしもかなしくなった 何故だろう?と考えること。
 ある論理展開に 矛盾を感じた。何故だろう?と考えること。
 夕陽が美しくて 涙がでた 何故だろう?とかんがえること。などです。
 外にも内にも 数え切れない対象があると思います。

 六感も脳の処理の結果なのかもしれませんが わたしの感覚では
 外の世界との共鳴のようなものがあるかもしれない脳の特殊フィールド
 のような気がします。どのような処理をしているのか ちょっとわかんないゾッ
 というもろもろを 六感として認識しています。
 そこから派生する事象とは デパートであのひとの後姿が見えたような気がして
 あたりを探してみる するとあのひとの好きだった映画の続編予告が
 掲示スクリーンに映し出された。それを見てわたしはポロポロ涙を流した。です。

●では失礼いたします。わたしの時間の許す限りでお答えさせていただきますので
 なんなりとお尋ねください。
 

この回答への補足

>外にも内にも 数え切れない対象があると思います。
数えるから限られます。しかし、この方が第六感とおっしゃるのは、数えれるような者ではありません。一般にいう六感とは、「意識」です。
この方の感じている、共鳴、それによる涙は、数えれるような者ではありません。
涙を幾つの粒こぼしたのか?それは、涙を問うときには無用の心配です。
涙を心配する時は、その涙を心配すればいいです。

補足日時:2002/01/15 06:04
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。
>友達が泣いている時 わたしもかなしくなった 何故だろう?と考えること。
 僕は、そこに悲しみという実在があったと考えます。
>夕陽が美しくて 涙がでた 何故だろう?とかんがえること。などです。
 何故でしょう?ね、。美しい存在があったというより、美しいという存在と夕日という存在があった。涙が出るのはなんともいえません。なぜでしょうね。
>あたりを探してみる するとあのひとの好きだった映画の続編予告が
 掲示スクリーンに映し出された。それを見てわたしはポロポロ涙を流した。です。
 あの人の破片が実在としてあり、あなたはそれに出会ったのだと考えます。
>六感も脳の処理の結果なのかもしれませんが わたしの感覚では外の世界との共鳴のようなものがあるかもしれない脳の特殊フィールドのような気がします。どのような処理をしているのかちょっとわかんないゾッというもろもろを、六感として認識しています。
 僕は、少なくとも今存在しているのは共鳴していると考えます。分類(認識)されているものも、残りのすべてのものもです。そのことにとてつもなく哀しさを感じる時があります。その不完全性にです。なんて情け深く美しいのかということにです。その装いに、無限の形容を感じます。僕の認識とはどれほどに小さいものかなぁ。
 chihokoさんの共鳴に関して、どのような印象をお持ちでしょうか?もう少しお話をおねがいしてよろしいでしょうか?
お尋ねできる事、感謝しています。

お礼日時:2001/11/12 17:45

●意識が脳の処理に由来していると仮定すると。


 外に向けるとは 五感が感知するものとそれによる脳の派生事象に
 意識をむけることでしょう。
 内に向けるとは 脳の処理そのものや六感やそこから派生する事象に
 意識をむけることでしょう。
 
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
意識があるのは脳の処理に由来し、自我が働くのはその意識のあるところが、あるということに由来すると考えています。
>内に向けるとは 脳の処理そのものや六感やそこから派生する事象に
 意識をむけることでしょう。
 脳の処理そのものに目を向けるとは、例えば、内に世界を構築しているのを、見るという事ですか?
六感とは何処に広げられているのでしょうか?
ナンセンスな折り返し質問ばかりになりますが、そこから派生する事象とはいかな事象なのですか?
 chihokoさんのご助言、ゆっくり考えたいです。今一度、ご登場をお願いしてよろしいでしょうか?ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/11 15:47

caballeroさん、お久しぶりです!以前の「我々は同じ世界に住んでいるか?」という問いかけ、凄くスリリングでした。



さて、内に目を向けるというのは、「内省する」ということでしょうか??だとしたらcaballeroさんは、既に実践してませんか??神の国とか解脱とか、そういうことを考え始めたら、もうそれは内省をはじめていることだと思うんですが…。ついでに言えば、内に何があるのかわかったら、それは解脱したのと同じことだし、神の国を見ちゃったことだと、思うんですよ。

ところで「外を見る」ってどういうことでしょう?他者と関わるとか、そういうことですか?補足、お待ちしています。

この回答への補足

jumeさん、来てくれてありがとうございます!以前の質問では、支離滅裂で、わけのわからないことばかりぶつけてしまったのにもかかわらず、見放すことなくお付き合いしていただき申し訳なく思っています。しかも、中途にしたままで、、。
 
神の国を見るのと解脱が同種かどうかわからないですが、「内省する」には、外ばかり見てきた僕は外に立たねばならず、当然外にたって中が見えるわけないし、外に立つなんてできるわけもない。それは、言語ゲームの外に立つというようなことと似ていると感じます。ですから、視覚で見る的に見てもだめなんです。目は外に向いてついてるので。目を内に向ける、意識を内に対峙さす?こうなるといよいよ解らないんです。内へ省みる。これは向きの問題だと思うんです。外に広がって内の一転に収束点があるとは思いません。外に宇宙があるように、内に無限の宇宙があるはずです。そう感じます(またも根拠説明できず、いいかげんな事を言いすみません)そして、宗教的なことを言っているように聞こえるかもしれないですがそういうつもりはないことをわかってください。
その内の宇宙が解らないんです。解っている自覚は解ってない事です。ということは、神の国ないし内の宇宙でも何でもいいですが、見えていないんです。そこに僕の言語は存在していません。
>内に何があるのかわかったら、それは解脱したのと同じことだし、神の国を見ちゃったことだと、思うんですよ。
 僕は内があると解った。何かあるとわかった。解脱は何「が」あるか解った。だから僕は何も見えてないと思うのです。
>ところで「外を見る」ってどういうことでしょう?
おおよそ計り知れない、無数の限られた言語達が閃く外宇宙です。自我の根拠を説明できる宇宙です。僕らがそれらの言語の交錯として、一時の閃光として世界に生きることです。
「我々は同じ世界に住んでいるか」という問題で、住んでいるともいえるし住んでないともいえるというのがjumeさんから頂いたお言葉ですが、その根拠は自我の存在でした。あ~やばいですね、また解らなくなってきてしまいましたよ、わからないのに何でそんなことが言えるんだって話なんですが、、。
ウィトゲン的には外は無く内しかない。しかし内的宇宙?があることがわかると、ウィトゲン的な内なる世界は、僕が生きてる外宇宙、少しは解る外宇宙です。内省の世界です。自我の世界です。
、、もはや体力の限界が、、。
自我の所在は、内的宇宙と外的宇宙の境界のようなところだと言いたいです。外的宇宙がウィトゲンの言う内省の世界でも、内的宇宙はなくなりません。内省の世界の言語(思考)も、外宇宙と呼ばれる世界の言語(諸現象)も同族と考えています。

いつも乱文で本当にすみません。どうか今回も許容していただけるとありがたいです。最後の3行は大きく誤っているかもしれないので、すが、ご助言いただけるとありがたいです。再どの登場お待ちしています。この質問は締め切るのは当分しないつもりです。宜しくお願いします。

補足日時:2001/11/11 13:21
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この回答へのお礼

ありがとうございます。またお会いできたこと、うれしいです。
補足の最後の3行のなかの「内省の世界の言語(思考)」を「内省の世界の言語(今の思考)」としたいです。宜しくお願いします。

お礼日時:2001/11/11 15:18

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生物は輪廻転生を繰り返すが、お釈迦様は悟りをひらくことで、その輪廻の輪から解脱したのだというよなことが、ものの本に書かれていますが、一方で、お釈迦様は呪術や神秘的なものごとを一切禁じ、形而上的な質問には答えなかったとも言われます。
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Aベストアンサー

釈尊が成道において何を悟ったかについて、『阿含経』には種々なる説明がありますが、その中で四禅三明により悟ったことが今日においては優勢であることを、インド仏教史の大家である平川彰先生が指摘されています(『インド仏教史』上巻49頁以下 春秋社)。四禅はダイナミカルな精神集中であり、そこに生み出された智慧は、神秘的な直感でなくして、自由にして理性的な如実知見であるとしています。禅から生み出された悟りの智慧は「法を見る」智慧であり、初禅から四禅に深まりゆく「心集中」の形式は、釈尊の長い修行の間に、その生まれつきの瞑想的な素質が、アーラーラやウッダカの指導や、あるいは苦行における正念の習得などを助けとして、自然に発揮されたものと見てよいと述べられています。三明とは、最初は、過去世をさかのぼって自分の生まれを計り知れない先まで見通しています。これが一つの明智です。に、未来を見通して多くの人々がその行為によってそれぞれの境涯をうるさまを知ります。これが二つめの明智です。最後に、煩悩を滅ぼす智を得ます。これが三つめの明智です。この四禅三明の悟りについては、今日、上座部仏教も固く保持している教えです。

阿含部経典においては、仏教学者の見解はさまざまですが、おおむね釈尊の前生譚以外の経文については、一部に禅定の修行の成果の反映等による変更はあるにしても釈尊の直説として信じてよいのではないかと思います。但し、増谷文雄先生が指摘されているように釈尊は対機説法で深遠な宗教的真理は智慧第一と言われたシャーリプトラに説いたのですが、シャーリプトラに説いた深遠な宗教的真理は、今日、阿含部経典にはほとんど残っていなくて、実際には阿含部経典よりも相当多かったに違いないという見解もあります。シャーリプトラは釈尊の入滅前にお亡くなりになっていますので、第一回経典結集の時にはいようはずもなく、おそらく釈尊もシャーリプトラにしか理解できないとした上での説法と思いますので、シャーリプトラ自身も他の修行僧に釈尊の教えを説いたかといいますと疑問の残るところだと思います。いずれにしましても、釈尊が説いた法とは何かを見る上では、まず阿含部経典を見ていかなくてはならないと思います。

釈尊の無記の形而上学的な問題に対する無記の態度は、弟子の修行の妨げになるので、そのような問題に関わることなく「最初の清浄行」という禅定の修行に弟子達を導くためのゆえであったことが、『マッジマ・ニカーヤ』第63経で明確に釈尊は述べられています。
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html
釈尊はくどいくらいに形而上学的な問題に関わることが清浄行の妨げになることを語るのは、修行の浅い弟子であるマールンクヤプッタ尊者にこのことを自覚させるためです。修行の進んだ弟子についていえば何も語らなくとも釈尊の真意がわかるのです。また、これらの形而上学的な問題について釈尊は、その内容について自ら了解していることを『アングラッタラ・ニカーヤ』3.67.3で語っています。(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』)

釈尊が涅槃の解脱の境地を得たことは、『マッジマ・ニカーヤ』の『聖求経』において説かれています。
「不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見が生じた、-「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない」と。」とあります。ここでは解脱の自覚と、不生・不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の涅槃を得ることが、一つのこととして説かれています。また、原始経典の最古層である『スッタニパータ』にも「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたりに体得されるこの理法を、私はそなたに説き明かすであろう。」と述べ、釈尊は古来の言い伝えではなく、「いま、眼のあたりに体得された法を語ろうとします。それは、同じくスッタニパータ』に、「心を統一されたサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、-その理法と等しいものは何も存在しない。」と説かれ、不死の境地を獲得したことが述べられています。この不死の境地の体得は、他にも『スッタニパータ』635、514、500にも説かれています。

釈尊が説かれた輪廻転生の教えは、阿含部経典の大縁経に説かれ、この釈尊の輪廻転生の教えは龍樹により引き継がれています。釈尊は最古層に位置する『スッタニパータ』によるところによると、弟子達を導く修行にはニ段階あり、最初の清浄行の段階では、言葉による識別作用は残し、すべての煩悩を滅尽させる段階、次に、私たちがりんごと皿をみて、言葉の働きにより、それらを実体あるものとして執着するという、この言葉の働きを止滅させる無所有処という空の境地に導く階梯があったことを石飛道子先生が『ブッダと龍樹の論理学』で明かしています。この原始経典の最古層にある記述は、『マッジマ・ニカーヤ』第121経にある空の悟りの段階とも符号するものであり、釈尊の悟りの境地の深さは私たちの思議の及ばないものであることがわかります。釈尊の悟りの境地とは、言葉の識別作用が止滅した無所有処定の禅定の境地をはるかに超えた非想非非想処定、無相心三昧定の境地を超えるものと言えるかと思います。これらは自らの境地を説いたものではなく、弟子達の禅定の修行のマニュアルであるからです。このことは四禅三明の悟りを根拠づける経でもあると思います。

大乗経典について平川彰先生は『法華学報・第四号』において、次のように述べられています。
「私は大乗経典に殆ど例外なく附されている「如是我聞」(聞如是)の語に注目したい。これは第一結集のとき阿難が釈尊から聞いたことを述べたときの言葉とされる。故にこの場合の経典の作者は阿難であるが、その内容は釈尊の説法を主としているから、経の説者は釈尊と観ることができる。大乗経典が経の劈頭に「如是我聞」の語を置いたのは、無批判に阿含経を真似たというのではなく、彼等自身がその経の内容を仏陀から聞いたと信じていたからと考えるのである。それは大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。大乗経典が三昧の体験に基づいて説かれたものであることは多くの学者が認めているところである。そして三昧における「見仏」の体験が種々の経典に説かれている。例えば華厳経の「十地品」では、不動菩薩地の菩薩が三昧において、無辺の諸仏を見、これらの仏から教授を受けることが知られる。」

大乗仏教においては、その大乗の基本となる法理を説き明かした経典については、大乗の修行者の覚体験を信じるか否かにかかっていると思います。また阿含部経典においては、古代インド人の想像を超える記憶力等も鑑みると、直説と捉えてよいと思います。したがって、そこに説かれた輪廻転生の教えも釈尊の直説と捉えてよいと思います。もっとも大縁経にこだわらなくても原始経典に説かれた釈尊の涅槃の境地、禅定体験の信じられないほどの深さ等を考えれば、四禅三明の悟りが真実であることが導きだされると思います。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation.html,http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html

釈尊が成道において何を悟ったかについて、『阿含経』には種々なる説明がありますが、その中で四禅三明により悟ったことが今日においては優勢であることを、インド仏教史の大家である平川彰先生が指摘されています(『インド仏教史』上巻49頁以下 春秋社)。四禅はダイナミカルな精神集中であり、そこに生み出された智慧は、神秘的な直感でなくして、自由にして理性的な如実知見であるとしています。禅から生み出された悟りの智慧は「法を見る」智慧であり、初禅から四禅に深まりゆく「心集中」の形式は、釈尊...続きを読む

Qむしろ解脱したところから

こんにちは。
解脱とは一般に、苦しみからの解脱、世間からの出離などと言われますが、むしろ、解脱した所から世間に入る、世間にある、と言った形が正しいのではないかと思いました。
十牛図の最終段階にもそのような表現がありましたが、そんな感じです。ただ、誰かを救おうなんて気を起こすのではなしに。
わかりにくい表現で申し訳ないですが、別の言い方をすれば、地上から天へ昇るのではなく、天にあって地上に降るという形、其れが無為なのではないかと。
色々のご感想などお待ちしています。どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

方便として解脱では様々に言われていますけど、解脱というのは苦しみではなく全ての迷い、執着から解き放たれる事です。苦しみというのは執着、迷いから発する感覚で、根源ではありません。
つまり執着がなくなるのですから衆生救済などという業もなくなります。

コレに対し狭義の解脱があります。これは人間界以下の存在の世界を巡る輪廻から解き放たれるという意味です。転生とも言います。この輪廻を解脱して仏界に生まれる事をこの場合、往生等とも言います。
しかし仏界も天部から菩薩界、如来界と行くそうにも分かれているという考え方があり、この考え方によって仏界では衆生救済、菩薩行、観音行などを行なっていくとする考え方です。

これは全ての仏教に共通した考えではありませんが、時に宗派を超えて説かれる事もあります。
仏界でも寿命は存在しますが人間世界から見れば、何百年、何千年、或いは何万年という長さです。
この仏界の輪廻を経て、漸く悟りを得るとしています。

ちなみに十牛図は悟りを得る、それが内にあることを表していますが、涅槃或いは入滅は悟りに入ることを言います。
悟りを得て、悟りに入るのです。

方便として解脱では様々に言われていますけど、解脱というのは苦しみではなく全ての迷い、執着から解き放たれる事です。苦しみというのは執着、迷いから発する感覚で、根源ではありません。
つまり執着がなくなるのですから衆生救済などという業もなくなります。

コレに対し狭義の解脱があります。これは人間界以下の存在の世界を巡る輪廻から解き放たれるという意味です。転生とも言います。この輪廻を解脱して仏界に生まれる事をこの場合、往生等とも言います。
しかし仏界も天部から菩薩界、如来界と行くそう...続きを読む

Q僕は解脱してますか?

解脱してる?

Aベストアンサー

聞いてくる時点で解脱していません。

Q天国へいく方法はありますか 解脱の方法は?

宗教に関わらず、天国にいける方法はありますか。解脱する方法はどのような方法ですか?

Aベストアンサー

天国という言葉は、マタイ福音だけにある言葉で、王国という意味です。「天」という字があるだけに、空にある国と間違く使われています。神様を信じて救われた人々が行く所は、三番目の空「楽園」と呼びます「コリント後12:1~4」。                                 解脱という意味は、世の中にある煩悩の束縛から解かされ、自由の身になることを意味します。解脱するためには、一生懸命に精進して、悟らなければなりません。肉食をしても駄目だし、女を見て淫らな考えを浮かべても駄目だし、とりあえず一切の悪いこと、悪い考えを捨てなければなりません。精進してこのような全ての束縛から解かれることを解脱と言います。即ち、仏陀になったと言う意味です。寺に大きな仏陀の側に、小さい仏陀が多くあるのは、そういう意味です。貴方も一生懸命に精進すると、解脱して仏陀「神」になれるよといういみです。                                キリスト人は、このような悪い行為と考えから、自分一人の努力で脱することが出来ないので、神様に助けを求めて、救われた人です。罪を犯した人は、それがいかに小さな罪だとしても、必ず地獄に行きます。血には、肉体の命があります。罪を犯した人は、血を流して、死を持って犯した罪を報わなければなりません。この罪の故に、イエスキリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架に掛けられ、死なれ、三日後に復活されたのです。イエスキリストが、自分の罪の身代わりになったから、自分は罪が許され、地獄に行かなくなったと信じる人は、救われた人であり、三番目の空に行ける人です。世の中に真理を語った人々が、多く居たけれども、自分の命をもって、人々を救って下さった方は、イエスキリストのみです。

天国という言葉は、マタイ福音だけにある言葉で、王国という意味です。「天」という字があるだけに、空にある国と間違く使われています。神様を信じて救われた人々が行く所は、三番目の空「楽園」と呼びます「コリント後12:1~4」。                                 解脱という意味は、世の中にある煩悩の束縛から解かされ、自由の身になることを意味します。解脱するためには、一生懸命に精進して、悟らなければなりません。肉食をしても駄目だし、女を見て淫らな考えを...続きを読む


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