「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

「武田騎馬隊」は有名です。
武田騎馬隊というと、私は黒沢明の映画「影武者」のラストシーンで登場する武田騎馬隊を想像します。

しかし、最近、武田騎馬隊は存在しなかったという説をよく聞きます。
武田騎馬隊どころか、戦国時代には純粋な騎馬隊は存在しなかったと言われています。

調べてみたところ

1、武田軍は騎馬隊の内訳は山県昌景300騎、馬場信春500騎など、主だった武将の騎兵数を合わせても約4000騎、出来うる限り多く見積もっても約6000騎であり、武田軍1万3千人のうち半分ないし2/3は歩兵であると思われる。
従って、中国において元を建国したモンゴル軍や、一の谷の鵯越や屋島の疾駆奇襲でしられる源義経のように、騎兵のみで部隊を構成したという事実はない。
また、武田軍には騎兵の最大の特徴である「機動力」を生かした作戦が見受けられない。
つまり、武田騎馬隊は実質的には騎兵・歩兵混成部隊であると言える。

2、イエズズ会のルイス=フロイスがヨーロッパに書いた『日本覚書』によると、
「われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。 われらの馬は非常に美しい。日本のはそれよりずっと劣っている。」 とあります。

3、『甲陽軍鑑』によると
「武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、 残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14)」 とあります。

やはり武田騎馬隊は存在しなかったのでしょうか???

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A 回答 (5件)

いつの時代でも馬を常備するのはかなり大変な負担です。


それにモンゴルや近代騎兵部隊のイメージから想像しがちですが、そのような騎馬隊は戦国時代存在しなかったと見るのが妥当だとおもいます。
馬は高価で相当な身分でないと常備できないし、部隊編成上その数も限られていました。

ただ武田家では乗馬歩兵として機動力を利用するシステムは存在していたのではないかと思います。
上杉氏との戦いで敵の侵攻を狼煙により伝達し動員令を待たずに直ちに北に向かい集結するシステムなどは当時の軍編成に時間がかかった事を思えば画期的だったと思います。

モンゴル兵の場合は、各人数頭の乗り換え馬を従え、馬糧の豊富な草原を移動するし、生まれたときから乗馬に鍛錬していたのと、馬上戦が得意でしたから高速で移動し攻撃できましたが都市や城塞を攻撃する場合は歩兵として戦いました。  また征服した土地の住民を歩兵として使用したのです。

騎兵の主任務は敵の側背を急襲、包囲するか敵陣を乱すものでそれにより勝利を誘引する事で、主戦力は歩兵にあります。
日本の戦国時代このような用兵は見あたりません。

日本馬は体格も貧弱で積載重量も少ないので機動戦には不向きでした。
騎兵突撃の衝撃力を期待出来ず、馬の防具も考えていませんでしたから、敵が長槍で防御陣を作れば乗馬突撃は自殺行為でした。
有名な伊達の騎馬鉄砲隊も敵前で停止、銃撃すると後退するもので突撃はしなかったのです。
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他の回答者の回答に付け加える形になります。



武田氏の着到状を見ると、全体の兵力に占める騎馬の割合は、むしろ上杉や北条よりも低いらしいです。その他の資料なども合わせて見るとやはり武田氏の主力は他の大名と同じ長柄足軽です。
ただ他との違いは兜と手甲の装備が指定された言わば重装歩兵で、また鉄砲も重視していたようです。鉄砲隊の火力援護の元に重装の長柄足軽が突撃するというのが武田勢の真の姿だったのかもしれません。
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我々が想像する「騎馬隊」とは、18世紀から19世紀中頃まで欧米の軍隊で必須の戦力と位置づけられていた「重騎兵」のことです。

騎馬兵と馬が鎧を着け、槍を抱えて、密集した横隊の形で敵に突撃するものです。

これは、
1) 後込めの銃が実用化される前で、歩兵の発射速度が遅い。
2) ライフル銃が実用化される前で、小銃の射程が短い。
段階では、今の戦車のような働きをしました。ナポレオン戦争の頃は、重騎兵の突撃を歩兵で撃退することは容易でありませんでした。クリミア戦争では、砲兵の陣地が敵騎兵の突撃で蹂躙されるような戦例もあったはずです。

重騎兵による突撃は、アメリカの南北戦争の頃を境に、歩兵の射撃に対抗できなくなりました。後込め・ライフル銃の普及によるものです。

よって、19世紀後半に発足した日本陸軍の場合、重騎兵はそもそも存在せず、偵察や奇襲を任務とした軽騎兵のみが整備されました。昭和10年ごろには、騎兵部隊は戦車部隊・自動車部隊に移行しました。

実は、戦国時代を扱った、江戸時代前期までくらいに書かれたエンターテインメントとしての戦記物、例えば竹だけのことを書いた「甲陽軍艦」には「武田軍は騎馬軍団であった」なんてことは書いてありません。

武田軍が、19世紀の西洋の騎兵のような騎馬軍団であったとか、戦国時代の合戦が
* 両軍の接触、鉄砲と弓による戦闘
* 長い槍を持った足軽同士による戦闘
* 刀や槍を持った騎馬隊による戦闘
と推移する、といったことは、明治時代以降に言われるようになったことのようです。

その出典は、明治時代以降に陸軍の参謀本部が戦史を各種編纂した際に、上記のようなことが「歴史常識」として定着したようです。

例えば、戦国時代から大阪の陣までの合戦を描いた屏風がたくさん残っています。いずれも、「指揮官が馬に乗り、他の者は徒歩で戦う」様子が描かれています。

多数の騎馬武者が密集して敵に突撃する、なんていう合戦屏風は見たことがないですし、軍記ものの記述でも見たことがありません。
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簡単にいうと、武田家にも騎馬隊は存在しますが


多くの人が想像していた”騎馬隊”のイメージが間違っていたということです。

モンゴル軍だって全員が騎乗兵というわけではなく
その時々で比率に違いはありますが
だいたいどこのどの時代の軍隊でも徒歩の兵隊のほうが
人数は多いのです。一般には1:4以上はあるべきとされます。

馬はデリケートな生き物で、繁殖もそれほど簡単ではありませんし
日々の世話も労力的にも金銭的にも大変ですから
全軍の兵士に馬を与えるなんていう財力はとうていありません。
数千でもきついところですが、万を越えるとほとんど不可能に近いです。
世界の古今の戦史をみても、(片方に)二万以上の騎馬が参加した
戦いはひじょーに少ない。
何しろそれを実現するには飼い葉が物凄い量必要で
しかも軍の移動とともにそれを運搬しなければなりませんし
世話をする非戦闘員も何千名も同行させねばならないわけですから。
それだけで戦闘よりも大事業です。

これは戦史を研究する立場の人にすれば常識だったのですが
騎馬隊という言葉のイメージが先行した結果
騎乗兵だけの部隊という誤解が生じたわけです。

中世の軍隊はどこの国でもたいていそうですが
領地と領民の支配体制と軍事編成は密接な関連があります。
だから騎馬兵が上級武士なわけですから
下級の農民足軽が徒歩になるのは当然です。
それを変えるには常備軍化が必要で
近代的な軍隊でないと、いわゆる騎兵は登場しないわけです。

ただし戦場では馬と人間では戦うスペースが違うので
ごちゃまぜだと戦いづらいので
中世の軍隊も動員された時と、戦場での編成は違います。
軽格の武将の小さい部隊ばかりだと統制もとりにくいので
幾つか有力武将を頭とする士隊と足軽隊にわけます。
そのピースが組み合わせて陣立てをするわけですが
陣形や地形、方針などによって、
ある程度の兵力をもった歩騎混合の隊とするか
それぞれのパーツを直接総大将が動かすかにわかれます。
武田信玄の場合は三方ヶ原の戦いとか見ていると後者のようなので
騎乗兵だけの小部隊もあるということです。

もちろんここでも武田軍が騎馬軍団だというわけではなくて
歩兵と騎兵の混合の武田軍の中の騎兵隊(士隊)ということです。

下馬戦闘については、当然、長槍に正面から
騎馬で突進できるわけがないので、
そういう状況下では下馬するでしょうが
常に下馬していたわけではないでしょう。
川中島にしろ姉川にしろ、騎兵の機動力を用いたと思われる戦いが
いくつもありますし、機動力を活かせる状況下で
下馬する必要性がありません。
アレクサンダー大王の時代から敵の歩兵の
背側面を突くのが騎兵の役割ですから。
日本馬は背丈が低いですが、気が荒く闘争心が強く戦闘向きで
一般的に胴長短足の馬はスピードはないが持久力はあるとされます。

騎馬兵の存在をことさら軽視するのは、
勝手なイメージに騙された反動としても
やや行き過ぎです。
日本の騎乗文化は西洋馬術の普及で断たれてしまいましたが
しっかりしたものがあったのですから。
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武田の騎馬隊というイメージで創造されるのはモンゴル兵や近代の騎兵ですが、これに相当するようなものは武田に限らず戦国には存在しませんでした。


騎馬隊であれば、兵士まで含めた一隊全部が馬に乗っているべきですが、武田軍の中で馬に乗っているのはせいぜい1/10~1/5の幹部クラスだけで、あとはみな徒歩でした。
これでは到底騎馬隊といいうるものではありません。
また、馬に乗っているものたちも戦闘時には馬から下りて戦いました
だいたい、載っているのが日本馬ですから、馬体も小さく体力もないので長くは駆けられませんでした。
これもモンゴル兵や近代の騎兵と違います。
こういうことから言いますと、武田軍に騎馬隊は存在しなかったし、騎馬隊としての戦闘もなかったというのが最近の有力説になっています。
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Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む

Q伊達の騎馬鉄砲隊

伊達の騎馬鉄砲隊というのは馬で敵陣に突撃しながら鉄砲を撃つそうですが、当時の鉄砲は1発撃ったら終わりのはず。
その後どうやって戦ったんでしょうか?

Aベストアンサー

当時の野戦では徒歩の槍隊が密集体形で前進する槍合わせが先鋒主力でこれに前後して弓組や鉄砲でこの陣形を攪乱するのが普通で、乱戦状態になると弓組も太刀で戦うのですが、鉄砲は狙撃専門で、騎馬武者(大抵指揮者)を主な目標にしたのです。

関ヶ原戦で石田方の島左近や、東軍の井伊直政、松平定吉などが死傷させられたのはいずれも鉄砲狙撃によるものでした。
大阪の陣でも後藤又兵衛が戦死したのも鉄砲狙撃でした。

このような戦法に騎馬隊が活躍する機会はなく、大規模の騎馬戦闘隊を編成する必要はなかったし、またそれを可能にする下地もありませんでした。

これに対し、伊達政宗は馬産地が領土でしたから騎馬隊を編成出来、その高速性を活かして戦う戦法を工夫したのです。
また金の産出もあり鉄砲の装備率も高かったので、鉄砲を騎馬隊にも持たせたのが鉄砲騎馬隊です。

突撃しながら発砲するのではなく敵前射程距離に達したら停止、銃撃して退却、後続する騎馬隊が敵陣の乱れに乗じ突撃する戦法でした。
多分に意外性をねらった攪乱戦法でしたから実戦での効果は疑問視されたようです。

当時の野戦では徒歩の槍隊が密集体形で前進する槍合わせが先鋒主力でこれに前後して弓組や鉄砲でこの陣形を攪乱するのが普通で、乱戦状態になると弓組も太刀で戦うのですが、鉄砲は狙撃専門で、騎馬武者(大抵指揮者)を主な目標にしたのです。

関ヶ原戦で石田方の島左近や、東軍の井伊直政、松平定吉などが死傷させられたのはいずれも鉄砲狙撃によるものでした。
大阪の陣でも後藤又兵衛が戦死したのも鉄砲狙撃でした。

このような戦法に騎馬隊が活躍する機会はなく、大規模の騎馬戦闘隊を編成する必要は...続きを読む

Qなぜ越後兵は戦国最強だった?

以前、戦国時代に書かれた書物を本で読んだことがあります(現代訳で)。
それによると戦国時代、一番強い兵隊は越後の上杉兵だそうです。
ちなみに2番目が甲斐の武田兵、3番目が相模の北条兵と三河の徳川兵らしいです。
武田兵は騎馬隊があるのであるので強いのは分かりますが、なんで越後兵はそれより強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ、津島の海運により商業が発達して豊かなため、命を惜しむからといわれてきました。
それに対して隣国の三河は今川に富を吸い上げられ、貧しいので命がけで戦うため強いとか。
越後も雪国ですから、人間的には我慢強い気質の方が多いため、「強兵」といわれると思いますが、それと本当に強いかどうかはまた別と思います。
幾ら個々の資質が高くても越後の兵はアマチュアですから、尾張のプロの兵士に勝てるかどうか。
柴田勝家が手取川の合戦で散々敗れますが、あれも主君の信長が、越後兵はこれ以上南下しないと読みきっての戦略で、上杉にとっては余り実のある勝利とは思えません。
兵の強弱は江戸期に甲斐の軍略家がまとめますから(武田家滅亡後、徳川に多くが仕えた)、どうしても武田家を持ち上げる傾向があり、武田信玄が梃子摺った越後兵は強いとなったと考えます。

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ...続きを読む

Q武田軍はどうして鉄砲を増備しなかったのか?

少し前のNHKの歴史の選択(その時歴史が動いたのスペシャル版)の川中島合戦でやっていましたが
武田信玄軍は鉄砲を少数ながらも配備していたとやっていました
息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね
槍騎馬隊だけでなく鉄砲騎馬隊にすれば対等ぐらいには戦えたのではないですか?
小田軍の足軽で鉄砲三段撃ちも良いかもしれませんが、武田軍の騎馬で鉄砲三段撃ちのほうが強いのでは?

Aベストアンサー

失礼ながら、質問者様の歴史認識はさまざまな点で間違っています。

「息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね」
現在「織田軍の鉄砲三段撃ちに、武田騎馬隊が粉砕された」ことは否定されています。

理由1) 現地に行ってみると分かるが、戦場は両軍で3万以上の兵が入ったら身動きもできないような狭くて起伏のある地形。
こんな所で、騎馬隊が突撃できるわけがない。

理由2) 織田軍の鉄砲が3千丁あったとする根拠は、信憑性が乏しいとされる史料。おまけに、最初は「千丁」とあったのを、後に「三千丁」と直した形跡がある。織田軍の規模からして、千丁の鉄砲を持っていたというのはおかしな話ではない。

理由3) 現地の狭隘な地形で、伝えられるように織田軍が野戦築城して三段撃ちで武田軍を迎撃したとする。火縄銃は周囲に一定の間隔がないと使えないが、その一定の間隔を確保できないので、鉄砲足軽同士が接触し、ある兵の銃の火縄が他の兵の火薬に触れて暴発するなどして迎撃するどころではない。よって、そのような戦法はありえない。

理由4) 「織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田軍を撃退した」という話そのものが、合戦後かなり年数を経て出た「軍記もの」を出典とするもの。明治時代になって、日本陸軍の参謀本部が「長篠の合戦は織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田騎馬隊を撃破した」と「認定」したため、つい最近まで定説になっていたもの。

他にもいろいろ根拠がありますが省きます。要するに「織田軍が鉄砲の三段撃ちで武田軍を撃退した」と言う話は「軍記ものにそう書いてあり、日本陸軍参謀本部が事実と認定した(史料を詳細に検討した形跡なし)」だけの話です。具体的な証拠は何もなく、探せば否定する根拠ばかりが出てきます。

鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31127305

が手軽に読める本で分かりやすく書いてありますから推薦します。

火縄銃は、重い上に次発装填に時間を要し、野戦で攻撃に使うには不適です。さらに、火縄銃自体も火薬も弾丸も高価なものです。

それでも、長篠の合戦の前に武田軍が長篠城を落城寸前まで追い詰めた際は、No1さんが言われるように「それでも長篠城攻撃で武田鉄砲衆は活躍し、合戦後に家康が検分した際の記録では、壁土が落とされて穴だらけ、散々に撃ち抜かれた戸板は障子のようだったとか」と、「城攻めの武器」としては十分な数を揃えて活用していたようです。

ただし、鉄砲の産地である国友や堺を支配し、かつ硝石(火薬材料)や鉛(弾丸材料)を自ら南蛮貿易で有利に輸入できる織田軍の方が、武田軍よりずっと鉄砲装備に有利だったのは確かでしょう。

火縄銃は、
「野戦の際に、敵が接近するのを防ぐ、あるいは敵の先鋒を撃ち殺して勢いを殺ぐ」
「城や陣地の中に鉄砲足軽を配置し、攻めて来る敵兵を狙い打つ。高い所に陣地を築き、坂を登って来る、あるいは堀に阻まれた敵兵を狙い撃つとさらに効果的。大坂冬の陣は、『城にこもった大坂方が、攻めて来る徳川方を鉄砲で撃つ』戦いで、徳川方は何もできない状況でした。」
「武田軍がやったように、集中射撃で城壁を崩し、突破口を作る。当時の日本には大砲がなかったので、大砲の代用」
「敵の側面に鉄砲隊を潜ませ(または進出させ)、合戦の最中に横の近距離から銃撃する。伏兵としての使用。関ヶ原の合戦で黒田長政隊が石田三成隊にこれをやっている」
というように使うものでした。

失礼ながら、質問者様の歴史認識はさまざまな点で間違っています。

「息子の勝頼は長篠合戦で織田信長の鉄砲隊に騎馬隊をやられていますよね」
現在「織田軍の鉄砲三段撃ちに、武田騎馬隊が粉砕された」ことは否定されています。

理由1) 現地に行ってみると分かるが、戦場は両軍で3万以上の兵が入ったら身動きもできないような狭くて起伏のある地形。
こんな所で、騎馬隊が突撃できるわけがない。

理由2) 織田軍の鉄砲が3千丁あったとする根拠は、信憑性が乏しいとされる史料。おまけに、最初は「...続きを読む

Q偽書で名高い『甲陽軍艦』はどこまで信用できるのか?

「『甲陽軍艦』は、信玄に仕えた山本勘助の子で、京都妙心寺の僧が、遺老の話を収録したというが、その多くは信用できない」
「信玄の家臣高坂昌信に仮託して、江戸時代の軍学者小幡勘兵衛景憲が著したもの」
とされ、史料としての信憑性は低いと言われてきた。
「偽書」とまで酷評されたこともある。

ところが、国語学者の酒井憲二氏が、1994年から1998年にかけて『甲陽軍艦大全』全7巻を刊行するにおよび、状況は大きく変わってきた。
それまでにも、高坂昌信が後述し、それを猿楽師の大蔵彦十郎と、高坂の甥春日惣次郎が筆録したといわれたこともあったが、その事がほぼ確定した。

つまり「甲陽軍艦は偽書」といったこれまでのレッテルが徐々にはがされ、史料として使える部分もあるというように変化してきているのである。
(歴史読本より転載)


長年、架空の人物とされていた山本勘助も『市河文書』などに見えており、偽書で名高い『甲陽軍艦』はどれくらいの信憑性がある書物なのでしょうか?

Aベストアンサー

質問者様の前提
「偽書で名高い『甲陽軍艦』はどこまで信用できるのか?」
がおかしいですね。この書物は、「太平記」や「平家物語」などと同じような「軍記もの」であり、戦国時代の武田氏の内部事情を知る者が同時代から少し後に書いたことは確実で、決して「偽書」ではありません。

「偽書」というのは、後世(例えば20世紀)になってから、過去の時代(例えば17世紀)に書かれたように意図的に捏造して世に出された書物を指します。例えば「武功夜話」は、20世紀になってから「偶然発見された17世紀初頭の書物」として世に出ましたが、確信的に後世に作られた「偽書」である可能性が高いとされております。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%8A%9F%E5%A4%9C%E8%A9%B1

さて、「太平記」や「平家物語」に書いてあることが全て史実とは誰も考えていませんが、基本的には史実に沿っていると考えられています。甲陽軍鑑もそれと同程度の価値はあると考えられ、戦国時代について歴史家が書いた本に
「甲陽軍鑑にはこのような記述がある」
「それを裏付ける同時代の史料としてはこんなものが、否定する史料としてはこんなものがある」
といった形で引用されます。これは、「甲陽軍鑑にある程度の信憑性がある」というのが定説であるからです。

歴史の流れを同時代の史料(手紙、日記など)で完全に構築するのは不可能です。ですから、「日本書紀」や「平家物語」や「太平記」や「甲陽軍鑑」のような「史実に沿っていると認められた編纂物」で、歴史の大枠を把握するのです。

日本の古代史の根本史料である「日本書紀」にしても、いろいろな作為や矛盾した記述が混じっています。ですが、日本書紀を無視しては日本の古代史は何も分かりません。甲陽軍鑑もそれと同じことです。

質問者様の前提
「偽書で名高い『甲陽軍艦』はどこまで信用できるのか?」
がおかしいですね。この書物は、「太平記」や「平家物語」などと同じような「軍記もの」であり、戦国時代の武田氏の内部事情を知る者が同時代から少し後に書いたことは確実で、決して「偽書」ではありません。

「偽書」というのは、後世(例えば20世紀)になってから、過去の時代(例えば17世紀)に書かれたように意図的に捏造して世に出された書物を指します。例えば「武功夜話」は、20世紀になってから「偶然発見された17世紀初頭の書...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Q現役のアメリカ合衆国の空母は何隻?

本日迄の報道では、アメリカは空母「キティホ-ク」をアラビア海に、「セオドア・ルーズベルト」を地中海に派遣したそうです。現在アラビア海に展開している「カール・ヴィンソン」「エンタープライズ」を合わせると、何と4隻もの空母を今回のテロ報復に関連して展開することになります。又「ジョ-ジ・ワシントン」がニュ-ヨ-ク沖で警備に当っているそうです。

さて、その話はさておき、ふと気になったのがアメリカは現在何隻現役空母を保有しているかと言うことです。
私の手持ちの資料(笑)では、
「ニミッツ」「ドワイド・D・アイゼンハワ-」「カール・ヴィンソン」「セオドア・ルーズベルト」「エイブラハム・リンカーン」「ジョ-ジ・ワシントン」「ジョン・C・ステニム」(ニミッツ級7隻)。
「エンタープライズ」(エンタープライズ級1隻)。
「キティ-ホーク」「コンステレ-ション」「アメリカ」「ジョン・F・ケネディ」(キティホ-ク級4隻、※ジョン・F・ケネディはジョン・F・ケネディ級とも)
の合計12隻なのですが、現在では「増減」ありますか?
何処かで7隻と聞いたあやふやな記憶も有り、一寸気になっています。

U.S.NAVYのホームページの「AIR CARRIERS」で確か確認できると思ったのですが、今回の件が絡んでいるのか、私のインターネット環境が悪いのかで見ることができません。
宜しくご回答の程お願い申し上げます。

本日迄の報道では、アメリカは空母「キティホ-ク」をアラビア海に、「セオドア・ルーズベルト」を地中海に派遣したそうです。現在アラビア海に展開している「カール・ヴィンソン」「エンタープライズ」を合わせると、何と4隻もの空母を今回のテロ報復に関連して展開することになります。又「ジョ-ジ・ワシントン」がニュ-ヨ-ク沖で警備に当っているそうです。

さて、その話はさておき、ふと気になったのがアメリカは現在何隻現役空母を保有しているかと言うことです。
私の手持ちの資料(笑)では、
「ニ...続きを読む

Aベストアンサー

beavas さん、こんばんは~☆

> 現役のアメリカ合衆国の空母は何隻?

現役となると、下記の「11隻」なのでは。。。

【ニミッツ級 計8隻】

#「ニミッツ」 Nimitz CVN-68
ニミッツ級の1番艦として、75年5月に就役。満載排水量91,487トン

#「ドワイライトD.アイゼンハワー」 Dwight D.Eisenhower CVN-69
ニミッツ級の2番艦として、77年10月に就役。満載排水量91,487トン

#「カール・ビンソン」 Carl Vinson CVN-70
ニミッツ級の3番艦として、82年3月に就役。満載排水量91,487トン

#「セオドア・ルーズヴェルト」 Theodore Roosevelt CVN-71
ニミッツ級の4番艦として、86年10月に就役。満載排水量96,386トン

#「エイブラハム・リンカーン」 Abraham Lincoln CVN-72
ニミッツ級の5番艦として、89年11月に就役。
軍艦で初めて10万トンを突破。満載排水量102,000トン

#「ジョージ・ワシントン」 George Washington CVN-73
ニミッツ級の6番艦として、92年7月に就役。満載排水量102,000トン

#「ジョンC・ステニス」 John C.Stennis CVN-74
ニミッツ級の7番艦として、95年12月に就役。満載排水量102,000トン

#「ハリーS・トルーマン」Harry S.Truman CVN-75  
  ニミッツ級の8番艦として、98年7月に就役。


【エンタープライズ級 計1隻】

#「エンタープライズ」 Enterprise CVN-65
世界初の原子力空母として、61年11月に就役。
「空母無用論」による予算の関係で同型艦は無し。満載排水量93,970トン


【キティーホーク級 計2隻】

#「キティ・ホーク」 kitty hawk CV-63
キティーホーク級の1番艦として、61年4月に就役。
現役空母としては一番古い。満載排水量81,123トン

#「コンステレーション」 Constellation CV-64
キティーホーク級の2番艦として、61年10月に就役。

「 追 記 」

# キティーホーク級の3番艦の「アメリカ」
 America CV-66は、1996/08/09 退役。

#キティーホーク級の4番艦の「ジョンF.ケネディ」
 John F.Kennedy CV-67は、現在、「練習空母」として運用なのでは。


ではでは☆~☆~☆

beavas さん、こんばんは~☆

> 現役のアメリカ合衆国の空母は何隻?

現役となると、下記の「11隻」なのでは。。。

【ニミッツ級 計8隻】

#「ニミッツ」 Nimitz CVN-68
ニミッツ級の1番艦として、75年5月に就役。満載排水量91,487トン

#「ドワイライトD.アイゼンハワー」 Dwight D.Eisenhower CVN-69
ニミッツ級の2番艦として、77年10月に就役。満載排水量91,487トン

#「カール・ビンソン」 Carl Vinson CVN-70
ニミッツ級の3番艦として、82年3月に就役...続きを読む

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む


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