「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

感情の存在は、机があるのと同じくらい確かなものでしょうか?
というのがもともとの疑問なんですが。

いえもともとは愛の存在を考えたんですが。

感情が存在することは常識的に自明なことと思いますが、学問的にはどうでしょうか?

科学的にその存在は確かでしょうか?

あるいは哲学的な確かさのレベルでしょうか?

あるいは幻想の類に入るでしょうか?

脳科学の成果を考えてもいろいろあると思うんですが。

自分で書いてなんですが、感情が存在することは常識的に自明というのの、この場合の「常識」、とは、学問的にどう取り扱われているものなのでしょうか??


学問のカテゴリーでいくとどのレベルにどこに入るのかわからなくて知りたかったのですが、この哲学のカテがいいんじゃないかと思ったのですが、もともとどこのカテゴリーに入るのかという疑問なので。


特に感情の中でも大事な「愛」の、存在の確かさをどの程度規定できるのか、現在規定されているのか、コップが目の前にあるのと同レベルくらいには「在る」と考えられてるのかどうか知りたいです。


哲学の範疇かどうかもわからないんですが、このことで知識のあるかた、詳しい方おられたら教えていただけませんか?お願いいたします。

A 回答 (13件中11~13件)

# 感情の存在は、机があるのと同じくらい確かなものでしょうか?



机だって私たちが机であると定義することによって初めて机であることができます。
机と椅子と床と天井と窓と壁を概念区分しているのは私たち自身です。机自身が「私は机である」と主張しているわけではありません。


# 感情が存在することは常識的に自明なことと思いますが、学問的にはどうでしょうか?

すみません、学問的にどうかということはわかりません。
感情が存在することが常識的であり自明であると考えられるのは、感情というものが存在するという認識を多くの人たちと共有することができるからに他なりません。多くの人たちがそうだと思えば裸の王様だって服を着ていることになります。


# 科学的にその存在は確かでしょうか?
# あるいは哲学的な確かさのレベルでしょうか?
# あるいは幻想の類に入るでしょうか?
# 脳科学の成果を考えてもいろいろあると思うんですが。

科学とか哲学とか脳学とかいったものが生まれる以前から感情というものはありました。それは主観的には悲しいとか嬉しいとか悔しいといった気持ちです。犬や猫でも表情は作れないにしても喜びの感情を持っていて表現します。奴らがそれらを「感情」という抽象観念として認識することは無いかもしれませんが。
科学が感情を充分に定義できているのかどうか知りませんが、少なくとも感情の存在が科学的に否定されたということは無いようです。
精神分析学では「全ては幻想である」という唯幻論なんてのもありますね。共同幻想論とか。


# この場合の「常識」、とは、学問的にどう取り扱われているものなのでしょうか??

ご質問に回答できずすみません、学問的にというのはわかりません。
常識とは或る社会の中で広く共有されている考え方といった解釈でいいと思います。感情というものは存在すると世界中の多くの人達に広く信じられているのです。
科学的常識だってどんどん新しい発見に覆されてゆきます。ちょっと前までは健康のために日光浴をすべきだ言われてましたが今では皮膚癌になるから紫外線など浴びるべきではないと言われています。まるでアフリカ人がみんな皮膚癌で死んでるような言い草です。
もしかすると10年後には感情なんてものは無いというのが常識になってるかもしれませんが、10年後の世界の人々が笑ったり悲しんだり怒ったりすることが無くなっているということは無さそうな気がします。


# もともとどこのカテゴリーに入るのかという疑問なので。

なるほどですね。
たぶん回答の欲しいカテゴリーで聞けばいいんじゃないでしょうか。
ライフでもメンタルヘルスでも心理学でもいいと思いますし、物理学や化学のカテに「感情とは物理学的に定義されていますか」と質問すると数式や化学記号で説明してくれる人が出てくるかもしれません。
ここで聞くとぼくみたいなクドい回答が出てきます。


# コップが目の前にあるのと同レベルくらいには「在る」と考えられてるのか

存在自体については、それぐらいのレベルで信じられているのではないでしょうか。神様以上に一般的な観念だと思います。
ただ愛という観念に対する日本における意味付けは平安時代と今とでは変わっていると思います。愛という観念に対するイメージは、たとえば時代の中で流行している歌だとか映画だとか、クリムトの絵画であるとか、そういったもので形作られていると思います。映画や歌での使われ方を見る限り現代において世界的にはウォーアイニーもイッヒリーベディッヒもアイラブユーも同じような意味で使われていると思います。

何かお役に立てたでしょうか。
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この回答へのお礼

とても面白い回答をいただいて、内容的に自分に近いものがありますので、とてもよくわかります。どの内容も非常に腑に落ちるもので、いちいち納得していました。とても参考になります。

下でも書いたのですが、感情の存在、という言葉はそれ自身ある種の矛盾でして、感情は主観的なものの代表なのに、存在とは客観そのもので、2つの相容れないものをつないだおかしな問いかけともなりえます。
言い方を変えると、主観と客観はどういうつながりを持っているのか、というややこしい問いをしてしまったみたいで、恐縮です。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/18 01:50

このあたりに詳しいわけではないのですが面白そうなので反応します。

間違いなど多々あると思いますので質問者の方でなくとも遠慮な御指摘ください。(これって違反?)

○ 感情の存在は、机があるのと同じくらい確かなものでしょうか?
○ あるいは幻想の類に入るでしょうか?

まず、心理学的(すみません哲学は分かりません。)には感情というものは複雑すぎて捕らえ切れていないと思います。
http://www.brain.riken.go.jp/bsi-news/bsinews3/n …
http://homepage1.nifty.com/~watawata/psycho/b8.htm

これらの「情動」に関して質問をあてはまると。。。
上の2つはどちらもあたってない気がします。情動は見ることも聞くことも触ることも、運ぶこともできませんから机の存在とは違うでしょう。多くの人間にとって共通の「情動」の身体的・脳活動的な反応機構が見つかってきているようなので幻想でもないでしょう。

○ 科学的にその存在は確かでしょうか?

「情動」全体に関しては多分Yesでいいと思います。まずは上記のWebサイトを御参照ください。
情動と感情がごっちゃになっていますが下のサイトもうまくまとまっていると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/感情

次に「愛」に関して。これはその定義によると思います。

wikiのページにもあるように「愛」は基本的な情動分類の中に入っています、これがsheep67さんの言われる「愛」と同じでしたら科学的に規定されている「情動」だとして差し支えないのではないでしょうか。
(英語になってしまいますが)母性愛とロマンティックラブで共通する脳の部分が活動するなんていうのも見つかります。
www.vislab.ucl.ac.uk/pdf/motherlove.pdf
活動部位がホルモンの受容体が多いところだなんて読むと愛なんて高尚なものはなくて、本当は単なる動物的な反応でしかないのか!なんて考えもよぎりますよね。

上記の味気ない結果はあまりに「愛」を単純化したために大切な何かを見落しているだけということも十分考えられますね。

一方、「愛」という概念は人工的に作られたという記述も見つかります。
www.chikushi-u.ac.jp/~tokunaga/04/notes/family.pdf
日本で「love」に当たる「愛」が発明されたのはその翻訳が必要になった明治時代だったと読んだことがあります。
とすると、高尚な概念としての「愛」は元来存在しなかった感情かもしれません。
かといって、発明だから本来存在しないのか、発明だとしても(テレビや電子レンジみたいに)必要不可欠になってしまっているのかは分かっていないというのが私の感想です。

今後、「愛」の定義、検証、再定義、検証というのを繰り返して何か分かってくるのではないでしょうか。

○ この場合の「常識」、とは、学問的にどう取り扱われているものなのでしょうか??

常識と学問的の一般的関係でしたら。常識は学問的に証明されたものであるか、証明されうるされるものであるか、あるいは打ち破られるものかだと思います。
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この回答へのお礼

とても多くの内容を書いていただいたので、上のリンクから。
情動の文については正直わからないです。よく読んだのですが。ただ人格に関しては、多重人格という病気があるように、人格とは人の存在の根源である自分自身が作り上げているものであることは間違いないと思います。感情より、よりいっそう基本的な心の性質要素が人格だ、とは言い切れると思います。
ウィキペディアで愛を引いたのですが、この愛に関する文章はすごくいい文章で驚いています。現在人が愛について言える最大限のことが書いてあるんじゃないでしょうか?
明治以前については、深い自分や他人に対する需要間に相当する言葉はなかったと思いますが、といって明治以前の人の心にそれがないともいえないかと思います。ロンドンの霧のように。
話は変わるんですが、存在は主観と客観を結ぶものではないでしょうか?
自分自身について、主観的に存在しているし、客観視してもやはり存在しています。この辺りにリンクがあるのじゃないかと思うのですが。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/18 01:43

「我思う、故に我あり」ルネ=デカルト


少なくともあなたの疑問の大部分はこれで解決できませんか?
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この回答へのお礼

そう思っている自分の存在だけは確かなものだということですね。
ある意味、徹底的に主観一直線で突き詰めた回答という感じがします。
そういう意味では感情は確かに存在すると思います。
でも、それだけでは他人に見せてあげるわけには行きません。
コップならばこれ、と人に見せられますが、われ思うゆえにわれあり、では、人に見せるわけには行きません。
ご回答で問題ないとも思うのですが、他人という存在を考えた時に、コップの存在のようなっ客観性の要素が、どうしても必要かな~と思います。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/11/18 01:13

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