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何の力によって繋がっているのでしょうか。





A 回答 (13件中1~10件)

Ano.11の hir_o_miです。

こんにちは。

何か具体的な対象となる方が居て、恋愛ではないけれど、心と心のふれあい、つながり感を深めていきたいんだけど、どうしていいか分からない。ということでしょうか。

う~ん、どうしたらいいんでしょう?
まず
>私という人間にどのような印象をもちましたか?またアドバイスがあればお願いします。
というところにお答えするところから。

純粋で心のやわらかい方なんだろうなーという感じです。
気持ちが細やかで思いの深い方なんだろうなーという感じです。
高校生のように素直な印象もあるし、社会人としていろいろ経験をつまれてる感じもします。
回答者の方々へのお礼が的を得ていて、賢い方なんだなと感じます。
文章にほとんど具体性がないので、内面、心的印象を大事にされる方なんだなと思います。
その分具体的なアクションプランを立てるのが苦手なのでしょうか。
多分、ユーミンより中島みゆきの方がしっくりくるのではないでしょうか。
勘のいい方なんだろうけど、人間関係では、直感的というよりも受身なんじゃないかな。
優しいひとは往々にして、人を喜ばせることよりも、困らせないこと、傷つけないことを優先してしまいがちですよね。
相手の感情に波風が立つのを避けようとする。
そうすると、愛情や思いやりは、少し離れて見守るようなものとして表現されやすい。
そして押したり引っ張るよりも待ってしまう。
過去を悔いて自分を責め、また臆病になったりする。

相手の「感情」を考えるあまり、自分の「思い」を後回しにしてしまう。
でも、本当に伝わるべきなのは、あなたの「思い」のはず。
「このひとと仲良くなりたい」
ぎこちないかもしれない、意識してギクシャクしちゃうかもしれない、
まごつかせたり、困らせちゃうかもしれない、
もしかしたら実際迷惑かもしれない。
でも、「自分は、仲良くなっていきたい」という思い。
そう思うことは誰に恥じることも遠慮することもない、純粋なことだと思います。
あなたがしっかりしていれば、思いは必ず、伝わる!
そして伝われば、相手も嬉しく感じるのではないでしょうか。
「思い」だけを見て、ちゃんと思いを胸に感じ続けて、
相手の反応次第で消してしまったりしないで、
「自分はこの人が好きで仲良くなりたい」という思いに素直であり続けることが、一番最初に大事なことなんじゃないかなと思います。

そしてプラスの未来を想像する。
結局、信頼も疑いも、未来への予想に過ぎないから。
何があっても、なくても、
自分の思いをしっかり持って、プラスの結果、プラスの可能性をいっぱいいっぱい想像する。
心の位置、向きをそういうところに置いて、決してぶれないように努力する。
心が不安になったり、つながりの喪失感を感じたら、必ずここ(胸の中の思い、そしてプラスの未来)に戻ってくるようにする。
簡単なことではないけれど、努力する。

自分からアプローチして友達をつくっていくタイプの人は、
成功体験と経験に基づく様々な知恵を持っているので、上に挙げたようなことは改めていう必要がないけれど、
人間関係でそういう能動性を積極的に発揮するタイプでない人は、
うまくいく自信をもてなくて自分でだめにしちゃう場合が多いと思うのです。
致命的なのは、うまくやろう、スマートにやろうとして、止まってしまうこと。
大事なのは、ひたむきさ。思いをしっかり持って、愚直に前進する。

ああ、書きたいことの半分も書けないうちに、時間が来てしまいました。
今月来月は忙しくて、なかなか時間が取れません。
でも、また是非、戻って来たいと思いますので、よろしかったら待っていていただけますか。
私自身、もeezouさんと同じような課題を抱えているとおもうし、
この文章も自分に言い聞かせている面もあります。
うまくいくといいですね。
最後バタバタですみません(取り急ぎ、とか書いちゃいそう)。
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この回答へのお礼

お忙しい中、再度回答いただき有難うございました。
嬉しいです。

勿論待たせていただきます。

宜しくお願いします。

お礼日時:2005/12/30 23:16

 世界への働きかけによって繋がっていると私は思います。

まず私の考える「世界」について少し説明したいと思います。
 私たちが自分以外の存在を認識するのは主に視覚によると思われます。けれど目に映った風景それ自体は単一の経験に過ぎず、その中に存在を複数見出すことは出来ません。私たちは色の差異を通して、単一の経験から推定される存在するものの地図を受け取ります。でも目だけではそこに何かが存在していることの根拠としては足りない。それ以外の聴覚や触覚などもそれぞれの地図をそれぞれの単一の経験から作り、そしてそのいくつもの地図を重なり合わせたとき、差異の重複が多ければ多いほど(その重複が経験的に可能であれば)、その存在の可能性をより高く信じます。他者の存在は証明できないのだから、最終的には信仰か祈りによると思います。このときの重なり合わされた地図が、それぞれの主体にとっての世界だと思います。
 そして他者の存在を信じることで、他者もそれぞれの観点に立った世界を同様に持っていると信じる。そしてそこに自分がいる。歩く。声を発する。その一つ一つは他者の認識する世界にほんの少し働きかけ、変更します。その逆も同じ。
 上のようなし祈りと世界への働きを、私は人と人の根本的な繋がりだと考えます。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

自分の感性と似ている部分に共感し、そこからその人物の存在と自分との間に何かが生まれるということですね。主に信仰か祈りか。

私という人間はやはり感情ばかりが先走り、自分という存在の中に確固たる信念や自信をもってこうと言えるものを持っていない。増してや興味のあることやのめりこんでいることもない。まずはそこからだと思いました。

有難いことに肉親や友人など、私を好いてくれる人はいます。有難い存在ですね。でも、それは相手の人間性が優れている、もしかしたら私のいいところを見てくれている、引き出してくれている。

でも、そんな人ばかりではありません。

人生を考えながら生きようと思いました。

お礼がおそくなってすみませんでした・・・

お礼日時:2005/12/29 21:26

人と人は「分かち合いたい」という気持ちによって、


繋がっているのではないでしょうか。
なかんずく、喜びを分かち合いたいという気持ちによって。

月の綺麗な夜、雨上りの清清しく晴れた朝、花についた朝露、虹、息を呑むような深い紅葉とか、
そういうのを目の当たりにしたときに、つい誰かと話したくなりませんか。
メールしたくなったり。
ただ佇んで、綺麗だねーとか言い合えれば、何倍も幸せだったりしませんか。
それが見ず知らずの通りすがりの人であっても。
そして、周りの人みんな友達のように思っていた子供の頃の気持ちを思い出したりする。

笑ったり、綺麗な町並みや自然の中を散策したり、おいしいものを食べたり、美しい音楽を聴いたり、
それらは一人でも気分のよい事ですが、
どうしてでしょう、人と一緒だとそこに違うニュアンスの喜びが掛け合わされて、質、量ともに何倍にも膨れ上がる。

ひとは誰でも人と喜びを分かち合いたいのではないでしょうか。
でも、自分が嬉しいと思うことに対して、同意してほしいように同意してもらえるとは限らないので、
受け入れてもらえないで傷つくのが怖くて、自己表現をためらってしまう。
ちょっと怖くても、照れくさくても、日常で自分のささやかな幸福感や愛情を素直に表現することができれば、
誰かと一緒に幸せなひと時をすごせるチャンスが増えると思います。
そしてそういうことの積み重ねによって、そのひととのつながり感も深くなっていくと思います。

人と人との関係が深まっていく経緯というのはいつも不思議なもので、
出会うタイミングや時間の積み重ねや、きっかけや、いろんなものが作用する。やはりめぐり合わせだし、縁だなと思います。
でも一方で、特定の誰かと絆を深めていきたいと思ったとき、流されるままで何もできないわけじゃない。
そのためには、相手の本当に好きなこと、大切にしていることを知って、本当に興味を持てることが大事かなと思います。
結局、思いやりというのは、
その人の幸せを願うことや、
その人の悩みや苦しみに心を痛め、それを取り除きたいと願うことや、
その人の願いが叶うことを願うことや、
その人の成長を願うことから、
おのずと生まれてくると思うからです。

また逆に、
あなたの幸せを願い、一緒に喜んだり心を痛めてくれる関係を築きたければ、
あなたの幸せ、願い、痛み、などなどについて、あるていどオープンにすることが近道かなと思います。
といっても、一方的にボールを投げるような自己表現ではなくて、
二人が存在する空間の中で、分かち合う形で共有するというか・・・。

私は、人と心と心が触れ合うとき、自分のハートと相手のハートとの間に、ほんとうに通い合う柔らかなものを感じることがあります。
また二人を包む、ジーンとした暖かな空間の広がりを感じることがあります。
それはやはり、相手の思いに心が打たれたとき、
また自分の真心みたいなものが、通じたなと感じたときです。


なんだか、そういうつもりで書き始めたわけではなかったのですが、
結局、愛情に行き着いてしまいました。
嬉しい気持ちで挨拶し、微笑み、お喋りし、一緒にいろいろやって仲良くなるのではないでしょうか。

話を戻すと、
自分と、
相手と、
プラスα(物であっても出来事であっても、言葉とか思いとかであっても)。

それが「やりとり」、「関係」という気がします。

そのプラスαの部分に、互いに分かち合える、幸せな、心のこもった、素敵なものを置けばおくだけ、
深い幸福感を伴うつながりを育んでいきやすいじゃないかな、
というのが、私の提案です。
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この回答へのお礼

hir_o_miさん、はじめまして。

会うだけでニコニコしてしまうような、嬉しい気持ちになってしまうような人がいて、幸せな事に何かを「分かち合える」人がいます。それは結果的に出来ていた関係で特別にこちらからそうなりたいと願っていたわけではありません。私は不器用なほうなので何かできる事はないかな?というヒントが欲しくてここで意見を聞いてみました。

hir_o_miさんの仰る通り、「分かち合いたい」人です。更に認めてほしい、必要とされたい、受け入れてほしいとも思います。既に私は相手を必要としているのでしょうね。

実は相手からきっかけを作っていただいたのに、私が変に意識をしてしまって潰してしまっています(もう半年も)。こんな自分が嫌でたまりません。

>ちょっと怖くても、照れくさくても、日常で自分のささやかな幸福感や愛情を素直に表現することができれば、

肝に銘じます。

>私は、人と心と心が触れ合うとき、自分のハートと相手のハートとの間に、ほんとうに通い合う柔らかなものを感じることがあります。

私もそう感じます。それに気付ける私はあながち人の気持ちに鈍感ではないのでしょうか?

まずは相手の本当に好きな事や大切にしているものを知る、と言うことですが、結構私は‘読む‘ことが苦手なんです。結構直感で動いてしまうタイプなんです。

hir_o_miさんはかなりの‘読み上手‘ですね。どのような修行(?)をしてこのような技術(?)を身につけたのですか?
また、私という人間にどのような印象をもちましたか?またアドバイスがあればお願いします。

お礼日時:2005/12/15 10:08

 こんにちは。



 私の回答を、真摯に読んでいただけたようで、とてもうれしいです。

 あなたがそういう風に理解し、それによって、肩の力が抜け、前向きになれたのなら、もうそれはあなたのものです。
 私は、あなたに「影響」したんです。それで充分、というか、それこそ人間関係でしょう。

 私はあなたを私とイコールにしたいために回答したのではないし、そんなことはできません。できると思ってる人を、私は警戒します。

 ただ、一言だけ付け加えるなら、あなたも他者に影響を与えつづけています。
 たとえば、あなたのお礼を読んで、私は、自分の回答が少しでも役に立ったことを知り、自分に自信がつきました。
 これはうれしいことです。こちらからお礼を言いたいくらい。
 これは意識の上での影響ですが、もっと無意識的に影響をしあってます。あなたも影響を与えることができるんです。
 だから「謙虚」になることは、私も日頃心がけていることですが、過剰になる必要はないかな、と思います。

 蛇足ながら。ご参考になれば。
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この回答へのお礼

再びありがとうございます。

私も質問者様のお役に立てて嬉しいです。

お礼日時:2005/12/14 20:27

 こんばんは。



 人と人は何の力でつながっているか、というご質問には、まず単体の「人」があって、それが他の「人」とつながってゆく、という観念が前提となっているように思えましたが、間違いないでしょうか。

 で、いきなりちゃぶ台をひっくり返すようなんですが、私は、「人」は、単体では存在し得ない、と思っているんです。「人間関係」によって、はじめて、「人」になる。

 あなたという「人」を構成している因子を考えてみてください。
 まず、「遺伝子」で、「先祖」との関係があります。
 生れ落ちてからは、ご両親や、近い肉親の影響を受けて人格を形成します。これも人間関係。
 そのうち、学校という社会のシステムの中で、教師や友人、また、政府がやる「教育制度」に影響されます。これらもみんな、「他者」との関係です。
 恋愛も、強烈な人間関係。本や音楽も、作ってるのは人間ですから、これも人間関係。
 さらに、お住まいの地域社会、時代、などと関係を保ちながら、あなたという人格が形成されていきます。

 いろいろな因子(=他者)が、組み合わさってできたのが、あなたなんですね。
 もっといえば、その組み合わさり方も、他者からの影響があります。
 で、今こうしてこの文章を読んでいるこの一時にも、私という他者の書いた文章から、まあ、なんらかの影響を受けてる。

 いい忘れました。この影響は、ほとんどが無意識に起ります。あなたが影響を受けたという感じがなくても作用します。

 で、あなたも「他者」に影響を与えてる。知らずにね。

 だから、「人」と「人」がつながる、というより、不断の「関係」、「相互の影響」によって、「人」が形成される、で、死ぬまで変化しつづける。

 「人」は、他者とはっきり区別されていない、かなり交流しあってる。

 どんな手段で? それは、上記のように、あらゆる手段です。遺伝で、環境で、触れ合うことで、ことばで、etc.

 でも、いちばん大きいのは、「ことば」でしょうか。
 詳しくいうなら、人は、「ことば」を作りだしているあるシステムを共有しています。いや、その、大きなシステムの上に、個々人が乗っかっているといってもいい。

 変なたとえだけど、海の上にくらげが漂うように、「システム」に「自意識」が浮かんでる。
 それくらい「他者」との共有部分が大きいんですね。

 これは、フランスのジャック・ラカンという人の理論を、私なりに理解したものです。ラカン派の精神分析を受ける機会がありまして、ひどく納得して、生きやすくなりました。
 実はまだ、うまく説明できない、いろいろなニュアンスがあります。
 また、あなたがこれを読まれて、「?」という部分もあるでしょう。もし再度質問していただければ、できる限り補足します。

 ご参考になれば。
 
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

単体の「人」があって、それが他の「人」とつながってゆく、という観念でいいと思います。

ちゃぶ台をひっくり返す話の件ですが・・・皆さんの回答を読んでいて私も人間関係の中の自分という考えが分かるようになってきました。

私が以前言いたかったのはあくまで個対個でした。自分の存在を誰の影響も受けずにきたとでも思っていたのかもしれません。

人間関係の中の自分、と言うように考えると人に対して前向きに考えられるようになりました。肩の力が抜けて楽になった気がします。

1、いろいろな人からの影響や出来事、経験から今の自分がある。
2、その上でさらに人間関係から影響を受け続けている
3、しかし集団の中にいるからこそ自分の感性を磨き信念をもち、人を思いやる

というような解釈をしました。
(どうでしょうか?)

人に対して謙虚な気持ちになりました。

お礼日時:2005/12/10 00:33

人と人は「自然の法則」によって繋がっていると思います。


「自然の法則」とはこの宇宙全体を創り出し、動かし、生かしめているエネルギーのことです。
この「自然の法則」の最も分かり易い表現が「原因と結果の法則」です。
全ての事象には全て原因があり、偶然、例外は存在しないと考えています。
そうでなければ、この地球や宇宙に不平等が存在することになります。

全てに共通の法則が働いていなければ、神の恩寵(法則)が偏在することになり、神のえこひいきが存在することになり、宇宙全体が大混乱に陥ってしまいます。

やはり、「自然の法則」は一つの例外も無く、とりこぼしも無く、極小から極大のあらゆる事象に対して厳正に一分の狂いも無く働いてもらわなくてはなりません。

その働きによって宇宙全体も、太陽も、月も、地球も、地球の四季も、海も、生き物も、人間もその中で間違いなく営みを繰り返していけるのだと思います。

人と人との繋がりも、当然、、その法則の中で作られ、生かされて行っていると思います。
その法則とは勿論「原因と結果の法則」です。

「因」が有れば「縁」が生じ、それにより、「結果」が生じる。そしてその「結果」が又「因」となり、「縁」が生じ、次の「結果」が生じる。そして又その「結果」が「因」となり、・・・・・・・

最初の「因」が問題になります。
人にとって最初の「因」は全て自分で選び、決定した「行動」、又は自分で何かに対して反応し作り出した感情です。
これらの「行動」又は「感情」が他者に対してどんな影響を与えたかが「因」になります。
「行動」も「感情」も結局、ともに心の中で自分で作り出したエネルギーが人にどう働きかけるかの問題になります。

善意から出たものであれば、プラスの影響を与え、悪意から出たものであれば、マイナスの影響を与えます。

「自然の法則、又は原因と結果の法則」によって、人に与えたプラスの影響は、「良い因」となって、「人との良い縁」を引き寄せ、「良い人との良いつながり」という結果をもたらします。
又一方、人に与えたマイナスの影響は、「悪い因」となって、「人との悪い縁」を引き寄せ、「人との悪いつながり」という結果をもたらします。

勿論、二元論ではなく、あらゆる段階があります。

人はこの法則から逃れることは出来ず、「愛」や「慈しみ」によって他者と繋がっている人もいれば、「憎しみ」や「嫉妬」「闘争」によって繋がっている人もいます。「腐れ縁」という言葉もあります。離れたいけど離れられないのです。まるで磁石か何かの力で引き寄せられている様に。

人には無限の繋がり方があると思います。
なぜならば、人が無限の「因」を常に作り出しているからです。

自分と周りの人とのつながりを観察すれば、自分自身がよく見えて来ると思います。
自分の足りないところ、欠点、弱点だけではなく、長所、伸ばすべき点も自ずと分かってくると思います。

人は結局、「自然の法則」の中で、自ら選んで決定した人間関係のつながりを日々、作り出していっているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

皆さんの熱い回答を読んでいてまず、信じていいんだと言う気になってきました。

そして、自分自身で選び、自分自身で考え行動し、反応して引き寄せると言うこと自覚しました。

また、相手にとってプラスの影響を与える努力をしようと思いました。

しっかり自分で考え、必要と思う人を思いやる。その気持ちを私は忘れていました。
それでも駄目だったら振り返ります。そうしたら諦め(因縁はなかったと)思えるのでしょうね。

今は、今ある縁(繋がり)を改めて大切にしようと思えました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/12/07 20:17

自己で繋がっているんじゃないかな。

透明な手が出ているんだと思います。あなたと私はその透明な手で互いに繋がっている、そのつながりが、あなたと私の自己であるのでしょう。
透明な手は、皆とも繋がっているので、響き、干渉し、伝わるのを、感じるのでしょう。世のことも、我がこととして。

自分が自分だけで在ると思えば、透明な手は見えなくなって、自己を失い、繋がりを失い、自分存在をゆるせなくって、意味を失い、あかんたれになるんじゃないかな。
 
 具体性を求めるならば、遡ればいい。あかんなぁと思うのは、誰だろう、なんだろう。自分で自分をあかんと思うなら、その思っていることが他でもない具体性、現実です。実際に感じているからです。
 あかんと思うから意味を求める。意味を求めるから、自分をゆるしたい、ゆるされたいと思う。自分をゆるしたい、ゆるされたいと思うから繋がりを求める。繋がりを求めるから自己を得る。自己(透明な手)を得るから、皆と繋がる。繋がるから、世のことも我がことのように感じる。だから、あかんなぁと響くところに、透明な手は差し伸べられているものです。
 繋がりを求めるものは、それを得る状態にあるんじゃないかな。
 その繋がりを求めることが、自己表現となるのでしょう。
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この回答へのお礼

確かにどんな人とでも繋がっているのですね。

繋がりを求めていたのに見えていませんでした。ほんのわずかでも、どんな人とでも繋がりがあります。

欲しい、欲しい、と思ってばかりでした。

自分が自分だけであると思い、しかし自己は失っていたのだと思います。

少し落ち着き、物事を冷静にみれるようになった気がします。

(言葉にするのは大変難しいです。)

思いは通じました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/06 21:57

人間という言葉からも分かる通り、人は人の間に在ってはじめて『人間』なのだと思います。


言い換えれば人間らしく生きられると思います。

また『会話』も会って話すから会話ですよね。
もともと一人では成立し得ない存在だと思います。

そして人と人が天文学的確立で同じ時代に出会い、
繋がる事ができるのは絶対に自分の実力ではない、
それは神の力と恵みであると私は信じています。
私はクリスチャンです。
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この回答へのお礼

有難うございます。

確かに出会えた人というのは天文学的確立から選ばれたひとです。しかも、そのまま繋がり続けている人もいるわけです。

お互いに必要としあう同士が、離れないでいるのでしょうね。

お礼日時:2005/12/05 21:51

一言でいうなら『愛の力』



愛が在れば幸せです。愛されることはどんな貢物より薬より知識よりも人を朗らかに健康に幸せにします。

愛があれば正比例して本能的な欲求も満たされやすいです。不自然な欲望は反比例して制御されやすくもなるでしょう。

「幸せ」は「仕合せ」仕え合わせるとも書きます。誰かの為に動いている、働かしてもいるということでしょうか?直接に助け合ってはいなくても。

幸せの対義語は「孤独」ではないかと思います。
孤独とは愛されていない想いで辛くなること、同時に誰の幸せも望んでいなく、愛してあげられないこと。

「愛せないくらいなら、生きていたくない/ヘンリー・ドラモンド(探検家)」

仮に愛される資格が自分になくても、愛することだけで満足出来る。生き甲斐を得ることもある。子供の自立を支援する親とか。後援会、応援団、ファンの心理もそうだと思います。

人以外でお金でも思想だけでも愛する対象に出来ますが、核心は存在の価値ではなく、願いや夢、感謝感動した記憶。愛の記憶の繋がりだと思います。それにしっかり応えて人を愛するものは、やはり自然で生々しい人によって実現するからです。

愛は設定ではなくある命令です。動詞でもあります。よって主張の変動はしますが、自分と他者の品格を高める目的に変わりはないと思う。

愛の対義語は依存ですね。依存は自分も他者の品格をも下げる目的があるからです。

以上!愛を語るのが私の(悪)趣味で、一応「愛の専門家」にしときました(笑)。恋愛の悩みは実践経験が少ないのであまり回答していないのですが。

相対的に愛の実践能力は極薄~いものだったりしますけれど(暗)。愛に飢えているから?愛に飢えなければ「愛なんていちいち考えないものだしょうね(暗×2)

質問内容とズレまくったことをお許し下さい;。お詫びのしようがないのですが、私はすっきりしました(自分だけ何が)。ありがとうございます?

「大切なものは目に見えないんだよ」星の王子様に出て来たキツネのセリフ。
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この回答へのお礼

「愛」、いいですねぇ。

愛も難しい所で親心、友情、夫婦愛、異性としての愛、そして人類愛などあります。様々ですね。
私がここで言っているのは人類愛の部類だと思います。

私にとって愛はにじみでるもの。理屈も損得もないものだと思います。逆の場合(受ける場合)もあります。
確かに繋がりの結果として愛はありますが、愛があるから繋がっていられる、というものでは残念ながらありません、自然の摂理的に。

多分私はそこを考えているのだと思います。

でも、愛を忘れていたので気付かせていただきました。
こちらこそありがとうございました。

お礼日時:2005/12/05 21:40

人は所詮さびしがり屋なのでは.1人では多分生きていけないのではと思います.



以前人と言う字はお互いよりかかって人になっていると聞いた事が忘れられません.
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

所詮・・・寂しがりやです。でも、自分の足で歩いていかなくてはいけません。

寄りかかってしまっていいんでしょうか?
私は人に寄りかかる事ができないんです。

きっと寄りかかられたことがないからでしょうか。

ちょっと考えてみます。

お礼日時:2005/12/03 22:43

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