アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

何の力によって繋がっているのでしょうか。





A 回答 (13件中1~10件)

こんばんは。

哲学的な質問ですね…ちょっと気になりました。

まず記憶と、その次に情~礼儀でしょうか。

解りにくくてすみません(*_ _)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

かなり哲学です(笑)

回答有難うございます。

お礼日時:2005/12/03 22:18

大きいのは、血縁関係に基づくもの。

親、兄弟、祖父母、叔父叔母いとこ甥姪……。さらに、それぞれの配偶者の縁者。
次に住んでいるところの地縁に基づくもの。隣近所、町内会。
所属する場の人間関係。学校、職場で一緒になっている人たち。
自分以外に家族の友人や同僚といったものもあります。
この辺りまでは「しがらみ」というものに入るでしょう。

それから、自分自身の興味による縁が生じた人たち。趣味のサークルや、犬の散歩仲間とか。私には「猫好き仲間」がいます。

こうしていろんな縁で繋がった人たちの中でも気の合う人とそうでない人がいます。
気の合う合わないは、価値観の相違や、表現のできない「魂の呼び合った人」という場合もあります。もちろん、じっくり分析すれば、必ず理由は分かると思うのですが……。
いかがでしょう?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。

そうですね。まずはしがらみです。
その先の「表現のできない魂の呼び合い」の実態を知りたいです。

引き続き、分析をお願いします。

お礼日時:2005/12/03 22:23

僕は誤解と理解のさじ加減だと思ってます。


分かり合いたいところを分かり合った時にそれが愛となるのです。
そしてその誤解と理解を作るのは、その人の世界観と言葉に注ぐエネルギーによって決まるのです。
具体例を言いたいのですが、いいのが思いつきません。何か今日は本当に思いつかない。
ご勘弁。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。

ヒントがあるように思えます。
理解から「共感」あるいは「共感」から理解が生まれる。そこから愛が生まれる。


できれば具体例をお願いします。

お礼日時:2005/12/03 22:34

人は所詮さびしがり屋なのでは.1人では多分生きていけないのではと思います.



以前人と言う字はお互いよりかかって人になっていると聞いた事が忘れられません.
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

所詮・・・寂しがりやです。でも、自分の足で歩いていかなくてはいけません。

寄りかかってしまっていいんでしょうか?
私は人に寄りかかる事ができないんです。

きっと寄りかかられたことがないからでしょうか。

ちょっと考えてみます。

お礼日時:2005/12/03 22:43

一言でいうなら『愛の力』



愛が在れば幸せです。愛されることはどんな貢物より薬より知識よりも人を朗らかに健康に幸せにします。

愛があれば正比例して本能的な欲求も満たされやすいです。不自然な欲望は反比例して制御されやすくもなるでしょう。

「幸せ」は「仕合せ」仕え合わせるとも書きます。誰かの為に動いている、働かしてもいるということでしょうか?直接に助け合ってはいなくても。

幸せの対義語は「孤独」ではないかと思います。
孤独とは愛されていない想いで辛くなること、同時に誰の幸せも望んでいなく、愛してあげられないこと。

「愛せないくらいなら、生きていたくない/ヘンリー・ドラモンド(探検家)」

仮に愛される資格が自分になくても、愛することだけで満足出来る。生き甲斐を得ることもある。子供の自立を支援する親とか。後援会、応援団、ファンの心理もそうだと思います。

人以外でお金でも思想だけでも愛する対象に出来ますが、核心は存在の価値ではなく、願いや夢、感謝感動した記憶。愛の記憶の繋がりだと思います。それにしっかり応えて人を愛するものは、やはり自然で生々しい人によって実現するからです。

愛は設定ではなくある命令です。動詞でもあります。よって主張の変動はしますが、自分と他者の品格を高める目的に変わりはないと思う。

愛の対義語は依存ですね。依存は自分も他者の品格をも下げる目的があるからです。

以上!愛を語るのが私の(悪)趣味で、一応「愛の専門家」にしときました(笑)。恋愛の悩みは実践経験が少ないのであまり回答していないのですが。

相対的に愛の実践能力は極薄~いものだったりしますけれど(暗)。愛に飢えているから?愛に飢えなければ「愛なんていちいち考えないものだしょうね(暗×2)

質問内容とズレまくったことをお許し下さい;。お詫びのしようがないのですが、私はすっきりしました(自分だけ何が)。ありがとうございます?

「大切なものは目に見えないんだよ」星の王子様に出て来たキツネのセリフ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「愛」、いいですねぇ。

愛も難しい所で親心、友情、夫婦愛、異性としての愛、そして人類愛などあります。様々ですね。
私がここで言っているのは人類愛の部類だと思います。

私にとって愛はにじみでるもの。理屈も損得もないものだと思います。逆の場合(受ける場合)もあります。
確かに繋がりの結果として愛はありますが、愛があるから繋がっていられる、というものでは残念ながらありません、自然の摂理的に。

多分私はそこを考えているのだと思います。

でも、愛を忘れていたので気付かせていただきました。
こちらこそありがとうございました。

お礼日時:2005/12/05 21:40

人間という言葉からも分かる通り、人は人の間に在ってはじめて『人間』なのだと思います。


言い換えれば人間らしく生きられると思います。

また『会話』も会って話すから会話ですよね。
もともと一人では成立し得ない存在だと思います。

そして人と人が天文学的確立で同じ時代に出会い、
繋がる事ができるのは絶対に自分の実力ではない、
それは神の力と恵みであると私は信じています。
私はクリスチャンです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

有難うございます。

確かに出会えた人というのは天文学的確立から選ばれたひとです。しかも、そのまま繋がり続けている人もいるわけです。

お互いに必要としあう同士が、離れないでいるのでしょうね。

お礼日時:2005/12/05 21:51

自己で繋がっているんじゃないかな。

透明な手が出ているんだと思います。あなたと私はその透明な手で互いに繋がっている、そのつながりが、あなたと私の自己であるのでしょう。
透明な手は、皆とも繋がっているので、響き、干渉し、伝わるのを、感じるのでしょう。世のことも、我がこととして。

自分が自分だけで在ると思えば、透明な手は見えなくなって、自己を失い、繋がりを失い、自分存在をゆるせなくって、意味を失い、あかんたれになるんじゃないかな。
 
 具体性を求めるならば、遡ればいい。あかんなぁと思うのは、誰だろう、なんだろう。自分で自分をあかんと思うなら、その思っていることが他でもない具体性、現実です。実際に感じているからです。
 あかんと思うから意味を求める。意味を求めるから、自分をゆるしたい、ゆるされたいと思う。自分をゆるしたい、ゆるされたいと思うから繋がりを求める。繋がりを求めるから自己を得る。自己(透明な手)を得るから、皆と繋がる。繋がるから、世のことも我がことのように感じる。だから、あかんなぁと響くところに、透明な手は差し伸べられているものです。
 繋がりを求めるものは、それを得る状態にあるんじゃないかな。
 その繋がりを求めることが、自己表現となるのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

確かにどんな人とでも繋がっているのですね。

繋がりを求めていたのに見えていませんでした。ほんのわずかでも、どんな人とでも繋がりがあります。

欲しい、欲しい、と思ってばかりでした。

自分が自分だけであると思い、しかし自己は失っていたのだと思います。

少し落ち着き、物事を冷静にみれるようになった気がします。

(言葉にするのは大変難しいです。)

思いは通じました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/06 21:57

人と人は「自然の法則」によって繋がっていると思います。


「自然の法則」とはこの宇宙全体を創り出し、動かし、生かしめているエネルギーのことです。
この「自然の法則」の最も分かり易い表現が「原因と結果の法則」です。
全ての事象には全て原因があり、偶然、例外は存在しないと考えています。
そうでなければ、この地球や宇宙に不平等が存在することになります。

全てに共通の法則が働いていなければ、神の恩寵(法則)が偏在することになり、神のえこひいきが存在することになり、宇宙全体が大混乱に陥ってしまいます。

やはり、「自然の法則」は一つの例外も無く、とりこぼしも無く、極小から極大のあらゆる事象に対して厳正に一分の狂いも無く働いてもらわなくてはなりません。

その働きによって宇宙全体も、太陽も、月も、地球も、地球の四季も、海も、生き物も、人間もその中で間違いなく営みを繰り返していけるのだと思います。

人と人との繋がりも、当然、、その法則の中で作られ、生かされて行っていると思います。
その法則とは勿論「原因と結果の法則」です。

「因」が有れば「縁」が生じ、それにより、「結果」が生じる。そしてその「結果」が又「因」となり、「縁」が生じ、次の「結果」が生じる。そして又その「結果」が「因」となり、・・・・・・・

最初の「因」が問題になります。
人にとって最初の「因」は全て自分で選び、決定した「行動」、又は自分で何かに対して反応し作り出した感情です。
これらの「行動」又は「感情」が他者に対してどんな影響を与えたかが「因」になります。
「行動」も「感情」も結局、ともに心の中で自分で作り出したエネルギーが人にどう働きかけるかの問題になります。

善意から出たものであれば、プラスの影響を与え、悪意から出たものであれば、マイナスの影響を与えます。

「自然の法則、又は原因と結果の法則」によって、人に与えたプラスの影響は、「良い因」となって、「人との良い縁」を引き寄せ、「良い人との良いつながり」という結果をもたらします。
又一方、人に与えたマイナスの影響は、「悪い因」となって、「人との悪い縁」を引き寄せ、「人との悪いつながり」という結果をもたらします。

勿論、二元論ではなく、あらゆる段階があります。

人はこの法則から逃れることは出来ず、「愛」や「慈しみ」によって他者と繋がっている人もいれば、「憎しみ」や「嫉妬」「闘争」によって繋がっている人もいます。「腐れ縁」という言葉もあります。離れたいけど離れられないのです。まるで磁石か何かの力で引き寄せられている様に。

人には無限の繋がり方があると思います。
なぜならば、人が無限の「因」を常に作り出しているからです。

自分と周りの人とのつながりを観察すれば、自分自身がよく見えて来ると思います。
自分の足りないところ、欠点、弱点だけではなく、長所、伸ばすべき点も自ずと分かってくると思います。

人は結局、「自然の法則」の中で、自ら選んで決定した人間関係のつながりを日々、作り出していっているのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

皆さんの熱い回答を読んでいてまず、信じていいんだと言う気になってきました。

そして、自分自身で選び、自分自身で考え行動し、反応して引き寄せると言うこと自覚しました。

また、相手にとってプラスの影響を与える努力をしようと思いました。

しっかり自分で考え、必要と思う人を思いやる。その気持ちを私は忘れていました。
それでも駄目だったら振り返ります。そうしたら諦め(因縁はなかったと)思えるのでしょうね。

今は、今ある縁(繋がり)を改めて大切にしようと思えました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/12/07 20:17

 こんばんは。



 人と人は何の力でつながっているか、というご質問には、まず単体の「人」があって、それが他の「人」とつながってゆく、という観念が前提となっているように思えましたが、間違いないでしょうか。

 で、いきなりちゃぶ台をひっくり返すようなんですが、私は、「人」は、単体では存在し得ない、と思っているんです。「人間関係」によって、はじめて、「人」になる。

 あなたという「人」を構成している因子を考えてみてください。
 まず、「遺伝子」で、「先祖」との関係があります。
 生れ落ちてからは、ご両親や、近い肉親の影響を受けて人格を形成します。これも人間関係。
 そのうち、学校という社会のシステムの中で、教師や友人、また、政府がやる「教育制度」に影響されます。これらもみんな、「他者」との関係です。
 恋愛も、強烈な人間関係。本や音楽も、作ってるのは人間ですから、これも人間関係。
 さらに、お住まいの地域社会、時代、などと関係を保ちながら、あなたという人格が形成されていきます。

 いろいろな因子(=他者)が、組み合わさってできたのが、あなたなんですね。
 もっといえば、その組み合わさり方も、他者からの影響があります。
 で、今こうしてこの文章を読んでいるこの一時にも、私という他者の書いた文章から、まあ、なんらかの影響を受けてる。

 いい忘れました。この影響は、ほとんどが無意識に起ります。あなたが影響を受けたという感じがなくても作用します。

 で、あなたも「他者」に影響を与えてる。知らずにね。

 だから、「人」と「人」がつながる、というより、不断の「関係」、「相互の影響」によって、「人」が形成される、で、死ぬまで変化しつづける。

 「人」は、他者とはっきり区別されていない、かなり交流しあってる。

 どんな手段で? それは、上記のように、あらゆる手段です。遺伝で、環境で、触れ合うことで、ことばで、etc.

 でも、いちばん大きいのは、「ことば」でしょうか。
 詳しくいうなら、人は、「ことば」を作りだしているあるシステムを共有しています。いや、その、大きなシステムの上に、個々人が乗っかっているといってもいい。

 変なたとえだけど、海の上にくらげが漂うように、「システム」に「自意識」が浮かんでる。
 それくらい「他者」との共有部分が大きいんですね。

 これは、フランスのジャック・ラカンという人の理論を、私なりに理解したものです。ラカン派の精神分析を受ける機会がありまして、ひどく納得して、生きやすくなりました。
 実はまだ、うまく説明できない、いろいろなニュアンスがあります。
 また、あなたがこれを読まれて、「?」という部分もあるでしょう。もし再度質問していただければ、できる限り補足します。

 ご参考になれば。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。

単体の「人」があって、それが他の「人」とつながってゆく、という観念でいいと思います。

ちゃぶ台をひっくり返す話の件ですが・・・皆さんの回答を読んでいて私も人間関係の中の自分という考えが分かるようになってきました。

私が以前言いたかったのはあくまで個対個でした。自分の存在を誰の影響も受けずにきたとでも思っていたのかもしれません。

人間関係の中の自分、と言うように考えると人に対して前向きに考えられるようになりました。肩の力が抜けて楽になった気がします。

1、いろいろな人からの影響や出来事、経験から今の自分がある。
2、その上でさらに人間関係から影響を受け続けている
3、しかし集団の中にいるからこそ自分の感性を磨き信念をもち、人を思いやる

というような解釈をしました。
(どうでしょうか?)

人に対して謙虚な気持ちになりました。

お礼日時:2005/12/10 00:33

 こんにちは。



 私の回答を、真摯に読んでいただけたようで、とてもうれしいです。

 あなたがそういう風に理解し、それによって、肩の力が抜け、前向きになれたのなら、もうそれはあなたのものです。
 私は、あなたに「影響」したんです。それで充分、というか、それこそ人間関係でしょう。

 私はあなたを私とイコールにしたいために回答したのではないし、そんなことはできません。できると思ってる人を、私は警戒します。

 ただ、一言だけ付け加えるなら、あなたも他者に影響を与えつづけています。
 たとえば、あなたのお礼を読んで、私は、自分の回答が少しでも役に立ったことを知り、自分に自信がつきました。
 これはうれしいことです。こちらからお礼を言いたいくらい。
 これは意識の上での影響ですが、もっと無意識的に影響をしあってます。あなたも影響を与えることができるんです。
 だから「謙虚」になることは、私も日頃心がけていることですが、過剰になる必要はないかな、と思います。

 蛇足ながら。ご参考になれば。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再びありがとうございます。

私も質問者様のお役に立てて嬉しいです。

お礼日時:2005/12/14 20:27

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す