こんにちは
過去に女性の天皇が何人かおったそうなのですが
この方は女性天皇なのでしょうか?
教えてください
よろしくお願いします

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A 回答 (6件)

 


  持統というのは、無論女帝なのですから女性です。
  すでに色々な人が説明していますので、少し別の視点から、私見というか、考えていることを述べてみます。
 
  以下のURLは、万葉集に関連する時代の歴代天皇の名が載っていますが、欽明天皇から、順に歴代天皇を一覧で記すと次のようになります:
 
   欽明
   用明  (聖徳太子父)
   崇峻  (蘇我馬子に暗殺される)
女  推古  欽明皇后 摂政=聖徳太子
   舒明 
女  皇極  舒明皇后
   孝徳
女) 斉明  皇極重祚(皇極女帝と同一人) 
   天智  (中大兄皇子、斉明の皇子)
   弘文  (天智の庶子、大友皇子、天武に滅ぼされる)
   天武  (大海人皇子、斉明の皇子) 
女  持統  天武皇后 686 鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ) 天智の皇女 草壁の母
   文武  (草壁皇太子の皇子) 妃=藤原宮子
女  元明  (文武の母、草壁皇太子の妃) 
女  元正  (文武の姉、草壁皇太子の娘)
   聖武  (文武の皇子) 皇后=藤原光明子
女  孝謙  (聖武の皇女)
   淳仁  孝謙により廃、暗殺される
女) 称徳  孝謙重祚(孝謙と同一人) 非皇族弓削道鏡を天皇にしようとして失敗
 
  以上のリストで、天皇が19人いますが、この裡二人は、重祚で、先の天皇が、もう一度天皇位に昇ったので、同一人物です。19人の裡7人(15人のうち5人)が女帝で、15人の男性天皇のなかで、聖徳太子の父用明は在位が短く、崇峻、孝徳、弘文、淳仁は、天皇としての実権を持っていませんでした。それに対し、5人の女帝(推古、皇極=斉明、持統、元明、元正、孝謙=称徳)は、それぞれ実権を持ち、持統や称徳になると独裁女帝だとも言えます。これら5人のなかで、天皇の皇女で、女東宮(女性皇太子)から、天皇位についたのは、孝謙=称徳だけです。推古、皇極、持統は、皇后であったのが、夫の天皇が崩御した後、天皇位についたのです。また元明は皇太子妃で、元正は、草壁皇太子の娘で、天武の姉です。
 
  歴史上の女帝は、あと江戸時代に一人いたのと、もう一人いたのではないかと思いますが、極端に例外的です。以上の天皇表は、6世紀末から8世紀半ばまでですが、何故か、この時代に女帝がたくさんいたのです(と言っても、名称上7人、実質は5人ですが)。
 
  何故、女帝が多くいたのかは、律令制の確立と天皇制の確立の問題と密接な関係があるのですが、それ以外にも理由が考えられます。
 
  これらの天皇名は、贈り名として、天皇の死後、名付けられたものですが、聖武天皇以前の天皇については、贈り名の天皇名は、最初なかったはずです。これらは、一括して、多分、聖武の時か、その娘の称徳女帝の時に名付けたのだと考えられています。
 
  そこから、個人的な考えなのですが、これらの贈り名の天皇名には、意味があるはずなのです。天皇名を名付けた人にとっては、おそらく、出発点は、天智と天武の兄弟の天皇にあるはずなのです。天にも似た智慧と謀略の天皇が天智で、天にも似た智慧と武勇の天皇が天武です。そして天武以降の男性の天皇は、傀儡の淳仁を除くと、文武・聖武で、また、天武から聖武までの女帝は、持統・元明・元正です。天武・文武・聖武とは、どう考えても意図的にこういう名前にしたとしか思えませんし、持統・元明・元正は、確かに何かの意図があります。
 
  天智と天武の母は、皇極=斉明ですが、これは、「皇の極まり」「斉(ととのえ)明(あきらかに)」という意味があるように思えます。また元明は「元を明らかに」、元正は「元を正しく」の意味のようです。最後に持統は、「統を持する」の意味だと思えます。持統、元明、元正が何故こういう名なのか、持統の場合は、天智の系統を排除し、大津を排除し(大津皇子の謀反事件は、捏造だという説が有力です)、草壁の子(文武)に天皇位を渡すためであったのは明らかです。
 
  聖武の視点から見ると、持統がいたので、草壁の系統、つまり文武が天皇になれたのであり、元明・元正がいたので、文武の子の自分が天皇になれたのだということになります。自己の皇位継承性の保証として、元明・元正がいたとも言え、更に、その大本は、天武の皇后であった持統にあるとも言えます。
 
  聖武の娘の孝謙=称徳の後、天智系の天皇が即位します。持統から称徳までが、天武系統の天皇で、称徳の後、天智系に戻り、以降、天武系天皇は現れなくなります。従って、天武系天皇の皇統は、持統によって、維持され、開始されたとも言えます。これが、讃良皇女が持統天皇の名になった理由ではないかとも思えるのです。(なお、元明・元正の天皇位継承は、考えてみると奇妙なことです)。
 
  追記)持統には関係ありませんが、持統の孫の元正は、古代・中世では、美人の代表とされていました。平安中期の小野小町が、後に美人の代表になりますが、彼女の時代でも、絶世の美女というと、元正女帝と決まっていたということがあります。聖武の皇后で、皇族でもないのに初めて皇后となった光明皇后は、名前からして美人のように思えますが、元正の方が圧倒的に美女さとされていました。彼女は、独身を維持した皇女で、独身を維持した女帝であったので、余計に美女の名声高かったのかも知れません。
 

参考URL:http://www1.odn.ne.jp/~cbg28720/manyou/nenpyou.htm
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この回答へのお礼

大変興味在るお話有難うございます
歴史が大好きなのでとても参考になりました
何故その時代に女帝が多くいたのかという説明もとても興味ある
話題でとても興味深く読ませていただきました
追記の美人の代表という部分もとても興味あるので今度ゆっくり調べてみようと
思います
また教えてください

お礼日時:2001/12/13 05:42

こんにちは。


持統天皇は女性です。
夫天武天皇との子供である草壁皇子を生んでいます。
詳しくは
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/jitou.htmlをどうぞ。

また、有名な歌は万葉集に載っていますが、
百人一首にもなっています。
カルタの絵は女性ですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2hymst/yamatouta/s …

過去の女帝は
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=178065
に載ってます。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=178065
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この回答へのお礼

有難うございます
カルタの絵にもなってはるんですね
それと過去にも疑問に思ってた人がいたんですね
よく解りました
また教えてください

お礼日時:2001/12/13 05:33

先に書いてる方々の言う通り 「女性」です   父親は「中大兄皇子」  母親は「曽我倉山田石川麻呂」の娘の「遠智娘」で  夫は「大海

人皇子」  祖父や祖母や叔父さんも天皇になっているし   孫も天皇になっている天皇家のサラブレットです   私も「里中満智子」先生の「天井の虹」は大好きで  よく見ています   「額田王」「藤原鎌足・史」の親子などなどのの魅力的な人もでてきますよ   他にも小説やマンガがたくさん出ていますが  面白いものが多いですよ   
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この回答へのお礼

有難うございます
マンガ大好きなので早速買って来て読んでみます
歴史マンガはええですよね
また教えてください

お礼日時:2001/12/13 05:22

詳しいことは下のお二人が書いておられるので


少しだけ補足を。

諡号(死後につけられる名)に「姫」がつくのは
女性だけのはずです。
男性は「彦」などがつきます。
(必ず付くわけではないですが)
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この回答へのお礼

有難うございます
姫と付きますよね
男性は一般的に彦なわけですね
解りやすくて助かりました
また教えてください

お礼日時:2001/12/13 05:12

里中満智子さんという漫画家のかたが持統天皇物語という漫画をかかれてます。

最近はやりの小さいサイズの漫画で5巻まででてました。読んでみましたが、すごい人生送ってるなーって感じです。

お暇なら一読されてみてはいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

有難うございます
里中満智子先生ですね
すぐ探して見ます
マンガやと読みやすいですよねー

また教えてください

お礼日時:2001/12/13 05:08

そうですよっ!


天智天皇の第2皇女です。
詳しくは、参考URLを見てください。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/jitou.html
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この回答へのお礼

有難うございます
万葉の歌なども作ってはるんですね
名前だけやと男みたいですよね
参考になりました
また教えてください

お礼日時:2001/12/12 07:12

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百人一首に「春すぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」という持統天皇の歌がありますが、私は昔この歌を「春すぎて夏来たるらし白妙のころも干すてふ天の香具山」と習ったような気がします。
今はどこを見ても「来にけらし」と表記されてるんですが、「来たるらし」と聞いた覚えがあるんです。

ただの思い違いでしょうか?

Aベストアンサー

まず決して思い違いではありません。
「なつきにけらし」(旧訓)
「なつぞきぬらし」(古写本)とあったのを、契沖が、
「なつきたるらし」と詠んだものです。
第4句の
「ころもほすてふ」も
「ころもさらせり」(旧訓)
「ころもほしたり」「ころもほしたる」
などがあるようです。

Q過去に女性天皇がいても万世一系なの?

「万世一系」の意味を教えてください。

高校日本史の授業では、推古帝など女性が天皇に就いた例や、本来の皇位継承者をさしおいて別の人間が即位した例もあった、と習いました。ぱっと見た感じ、「万世一系」とは違う気がします。どうなんでしょうか?

Aベストアンサー

現在問題になっているのは「女系天皇」であって、女性天皇ではないことをまずご理解ください。
愛子さまが即位された場合、父親は現皇太子さまですから「男系の女帝」になり、これは過去に数人みえます。
しかしながら父親が皇族ではない天皇は前例が無く、愛子さまが皇族の血を引かない一般庶民と結婚され、その子供が次代の天皇になられた場合、男女に関わらず史上初の「女系天皇」となり、遺伝子学者や伝統を重んじる方々から反対を受けています。
系図上は初代の神武天皇以来男系の子孫が皇位を継承してきましたが、全てが直系という訳ではありません。
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この場合も継体天皇自身は応神天皇の血を受けてますから男系になります。
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現在問題になっているのは「女系天皇」であって、女性天皇ではないことをまずご理解ください。
愛子さまが即位された場合、父親は現皇太子さまですから「男系の女帝」になり、これは過去に数人みえます。
しかしながら父親が皇族ではない天皇は前例が無く、愛子さまが皇族の血を引かない一般庶民と結婚され、その子供が次代の天皇になられた場合、男女に関わらず史上初の「女系天皇」となり、遺伝子学者や伝統を重んじる方々から反対を受けています。
系図上は初代の神武天皇以来男系の子孫が皇位を継承してき...続きを読む

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>なぜ持統天皇が、藤原京に遷都したのかが理解できません。

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天武天皇は、天智天皇と対立関係にありましたよね。
天智天皇晩年に、子である大友皇子即位を願っていました。
宿敵である大海人皇子(天武天皇)を「謀反」として殺害しようとした事は有名です。

天智天皇=藤原一族、天武天皇=蘇我一族の図式が成り立ちます。
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Q継体ヲホド天皇は 雄略天皇の子ではないか

歴史の事実の比定を目指しているのではなく 歴史の真実を捉えられないかという目的のもとにあります。
いわば古事記のように そして古事記を基礎として読むと 物語としての歴史にとっては 継体ヲホド天皇に 関心の一つがあります。

河内ワケ政権にとっては その祖・応神ホムダワケからの悲願である全国制覇を実現するためには 三輪イリ政権を倒す(もしくは手なづける)必要がありました。

ホムダワケからおよそ百年 雄略オホハツセワカタケの頃にもなると 市辺のオシハを謀殺するといった攻勢に出て来ます。

けっきょく 雄略オホハツセや武烈ヲハツセらの世代のアマテラス一族には 跡を継ぐ子がないという状態になりました。(というよりも この状態も 雄略ワカタケが仕組んだのではないかと疑われますが 省略します)。

わづかに雄略ワカタケと后妃ワカクサカベノミコ(かのじょも その兄を殺されていますね)との間の――《子はなかりき》と書いてあるのですが―― 子を ひそかに 越前で育て 頃合いを見て 応神ホムダワケの五世の孫として 押し立てた。ワカタケは 押し立てるように大作戦を構想しておいた。

といったお話しです。
これについて 自由なお考えを 是非 おしえてくださいますか。

この虚構のみそは 継体ヲホド天皇(また 天皇ではなかったかも)以後は 市民社会が 二階建ての国家となると見るところにあります。天津神(アマテラス圏)と国津神(スサノヲ圏=市民社会)とです。

歴史の事実の比定を目指しているのではなく 歴史の真実を捉えられないかという目的のもとにあります。
いわば古事記のように そして古事記を基礎として読むと 物語としての歴史にとっては 継体ヲホド天皇に 関心の一つがあります。

河内ワケ政権にとっては その祖・応神ホムダワケからの悲願である全国制覇を実現するためには 三輪イリ政権を倒す(もしくは手なづける)必要がありました。

ホムダワケからおよそ百年 雄略オホハツセワカタケの頃にもなると 市辺のオシハを謀殺するといった攻勢に...続きを読む

Aベストアンサー

ご参考

参考URL:http://personal.okwave.jp/qa3134362.html

Q持統天皇が火葬されたのはなぜですか?

持統天皇ははじめて火葬された天皇ですが
なぜ火葬されたのでしょうか。
また火葬された背景などご存知でしたら教えて下さい。
神だと考えられていた天皇の遺体を焼くなんて
とんでもないことのようにも思えるのですが。

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>薄葬令の影響もあるのかもしれませんね。

持統天皇が自らを火葬にと遺詔したのは、すでにお読みになっているかもしれませんが新谷尚紀著『「お葬式」の日本史』によると、持統天皇は中継ぎとして即位したことと、儒教思想の徳治主義による華美を排する薄葬思想によるのであり、仏教にのっとったものではないとしています。

>持統天皇以降、火葬が一般的になったとしたら

持統天皇から四代続いて火葬でしたが、次の聖武天皇は敬虔な仏教徒であるにも拘らず火葬に付されていません。
ふたたび火葬が行われたのは、やはり徳治主義の時代である淳和上皇の時まで下ります。

>なぜ仏教では火葬することをよしとしたんでしょうか。

仏教が火葬をするのは釈迦が火葬されたのとガンジス川に遺灰を流しやすいからですが、釈迦が火葬になったのは「全ては“空”であるから自分の死後は火葬にせよ」とする釈迦の遺志に従ったからではなかったでしょうか。

Q明治天皇の時代、神聖性天皇のイメージを確立を助長するような書物があったかどうか。

明治天皇の時代、神聖性天皇のイメージを確立しようとしていましたが、このイメージ形成を助長するような、天皇崇拝賛成的な書物はこの時代にあったかどうか、どなたかわかりますか?

Aベストアンサー

明治期における天皇神格化の思想的土台は、江戸時代の国学と水戸学です。尊皇思想の源流といってよいでしょう。
国学では古事記・日本書紀が重視されます。
記紀神話を元に天皇を神格化した水戸学では会沢正志斎の「新論」がありました。
また、明治政府が重宝したのが北畠親房の「神皇正統記」で、学校でも南朝が正統と教えるほどでしたが、明治天皇が北朝系である事実は、うやむやにされたようです。
書物を読む習慣が国民に広まっていなかったので、明治期に創作された天皇崇拝的な書物としては、「国定教科書」が、もっとも影響力が強かったでしょう。書物を読む習慣のあるインテリ層の間では、日本書紀の誤りを指摘する動きの方が強いくらいでしたから。

Q逆説の日本史(井沢元彦)の天武天皇・持統天皇のあたりについて

逆説の日本史を2巻古代怨霊編までよみました。
なかなかおもしろい説だと思うのですが、聖徳太子のあたりは引っ張った割りに説明不足で消化不良気味です。

それ以上に、どうしてもおかしいと気になるのが、天武天皇が本当は皇位を継げる身分ではなかったので、持統天皇が自分の子孫が皇位を継ぐことに固執した、という点です。

その説でいくのなら、大田皇女の大津皇子を草壁皇子のために陥れて、草壁も急死してしまっても、持統天皇と同じく天智天皇の娘である新田部皇女に舎人皇子と大江皇女に長皇子と弓削皇子がいるので、皇統を守るなら彼らでも良かったのではないでしょうか?
(ということは、持統天皇が自分の子孫に継がせたかっただけ?)

天智の娘が4人嫁いだという割りに、舎人皇子、長皇子、弓削皇子が無視されていて、天武の父が新羅人だったと言う説を信憑付けるためにあえて無視しているのだろうか?とも思ってしまいます。

この辺について、井沢氏のほかの本などで触れられているのでしょうか?
あるいは、大田皇女・持統天皇と新田部皇女・大江皇女の身分は明らかに違うなど、井沢氏が全く触れないにも自明のわけがなにかあるのでしょうか?

小説だと割り切ればいいのでしょうが、他の部分はけっこう詳しく検討しているに、この点が流されているのがとても気になります。

逆説の日本史を2巻古代怨霊編までよみました。
なかなかおもしろい説だと思うのですが、聖徳太子のあたりは引っ張った割りに説明不足で消化不良気味です。

それ以上に、どうしてもおかしいと気になるのが、天武天皇が本当は皇位を継げる身分ではなかったので、持統天皇が自分の子孫が皇位を継ぐことに固執した、という点です。

その説でいくのなら、大田皇女の大津皇子を草壁皇子のために陥れて、草壁も急死してしまっても、持統天皇と同じく天智天皇の娘である新田部皇女に舎人皇子と大江皇女に長皇子と弓...続きを読む

Aベストアンサー

補足ありがとうございました。

井沢氏の「天武が天智の異父兄で父は新羅人だった(皇極が舒明と結婚する前の子)」とする説は、『日本書紀』において、天武の生年が不明であることを一つの切り口にしているのだと思います。そして後世の記録である『一代要記』『本朝皇胤招運録』にしたがえば、天智より天武が年上とされているところから、異父兄としているのではないでしょうか?しかし『一代要記』などは、中世に成立したものなので、信憑性は非常に怪しいです。

また皇統意識という点では、すでに他の方から回答があったように、推測しがたい点です。あまり過大な評価はしたくはないのですが、ご指摘のように「持統天皇が自分の子孫に継がせたかっただけ」と考えるほうが案外自然なのかもしれません。皇統の維持というなら、確かに他の妃の所生の皇子でも何らの問題がないということになりますよね。
おそらく井沢氏は、大津皇子の排除などを行ってまでも、持統の子である草壁及びその子孫に皇位を継がせていることに注目して、立論された結果、他の諸皇子との関連などを視野に置かなかったのではないでしょうか。つまり天武と天智の子である持統天皇という狭い血統の話でしか考えなかったのではないかと。
日本古代史の学界では・・・こんな話は聞きませんね・・・正直(苦笑)

補足ありがとうございました。

井沢氏の「天武が天智の異父兄で父は新羅人だった(皇極が舒明と結婚する前の子)」とする説は、『日本書紀』において、天武の生年が不明であることを一つの切り口にしているのだと思います。そして後世の記録である『一代要記』『本朝皇胤招運録』にしたがえば、天智より天武が年上とされているところから、異父兄としているのではないでしょうか?しかし『一代要記』などは、中世に成立したものなので、信憑性は非常に怪しいです。

また皇統意識という点では、すでに他の方...続きを読む

Q天皇が神なら女性がなるはずでは?

天皇ってずっと男で通してきましたよね。
何年か前に女性を天皇にしようとしてましたけど、結局はなくなりました。

昔は天皇は神として考えられていましたし、今も神道を信仰しています。
ふと疑問に思ったのですが、神道の最高神というか盟主的な神は天照大神で女神ですよね?
この神道を元に考えるなら女性が天皇になるのが自然な流れだと思うんですけど、なぜ男性オンリーになったんでしょうか?

Aベストアンサー

 質問者が「女性天皇」と「女系天皇」を混同して理解されているようですので、簡単に整理してから話をしてみます。
 「女性天皇」は文字どおり「生物的に女性である天皇」であり、「女系天皇」は端的に言えば「母親のみが皇族の出自である天皇」つまり「天皇家に婿入りした父親を持つ天皇」ということです。
 天皇の出自が神であるかどうかの問題は幾つかの議論があるのでさておくとして、歴史上では「持統天皇」や「孝謙天皇」など女性の天皇がいたことも史料からは明らかです。
 尚「天皇」ではありませんが、「准后」として「大皇太后」「皇太后」「皇后」に準ずる地位がありますが、これも「必ずしも女性ではない」ことも史実として明らかです。
 この「准后」は臣下でありながら宣下を受ける形で皇族と同等の地位を得た公家の頂点に位置する人物、具体的には公卿・将軍家・高僧を指します。中世室町時代の「満済准日記」という史料は黒衣の宰相として有名な醍醐寺座主の満済という人物によって記された史料です。
 天地の元祖=アマテラス=女性という前提を一度クリアして、天地の元祖=アマテラス≠女性かもしれないと設計図を組み替えて読んでは如何ですか?。神道には「八百万」の神がいる、されているのでしたら尚更のことで、別に罰当たりにはなりませんよ。最も私自身は神道を疑いの眼差しで見ている人間の1人ではありますが。

 質問者が「女性天皇」と「女系天皇」を混同して理解されているようですので、簡単に整理してから話をしてみます。
 「女性天皇」は文字どおり「生物的に女性である天皇」であり、「女系天皇」は端的に言えば「母親のみが皇族の出自である天皇」つまり「天皇家に婿入りした父親を持つ天皇」ということです。
 天皇の出自が神であるかどうかの問題は幾つかの議論があるのでさておくとして、歴史上では「持統天皇」や「孝謙天皇」など女性の天皇がいたことも史料からは明らかです。
 尚「天皇」ではありませんが...続きを読む

Q持統天皇とは?

下記の分は何か間違っていますか?
天智天皇と天武天皇が兄弟だとすると、娘と弟が結婚したことになってしまいますよね?
よろしくお願致します。

●壬申の乱
天智天皇が死去し、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が皇位をめぐって争った内乱。大海人皇子が勝利し、天武天皇となった。
●持統天皇
天智天皇の娘で、天武天皇の妻。天武天皇の死後、即位した。
日本で最初の本格的な都・藤原京をつくった。

Aベストアンサー

間違っていません。

>娘と弟が結婚したことになってしまいますよね?

そのとおりです。
「現代の法律で過去を律することはナンセンスである」ということですね。

Q源平合戦で平家が滅んだそうですが、何人くらいが亡くなったのでしょうか?

源平合戦で平家が滅んだとされています。
しかし実際に死亡した人は少ないと思います。
10万人いたとして戦死者は1万人もいないのではないでしょうか?
戦記などではどうなっていますか?

また土地を奪われてしまったら、滅びたとされてしまうのでしょうか?
生き残った人たちのその後を教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

源平の時代に一万人も死者がでたら大虐殺です。
まず第一に十万人もいませんが、
10パーセントもの大量の戦死者がでるようなこともありません。

基本的に戦争の仕方が違います。

集団戦闘の時代ではないので、合戦参加者がすべて
殺しあうわけではありませんし、
一般に平家物語などの記述に登場する人数は
非戦闘員を多数含んでいます。

源平の時代は1人の武士に最低4人以上の従者がついていますが
彼ら郎党は個人的にその武士のためにだけ働き
その武士が死んだら遺体かその一部をもって国に帰ります。
中世においては、軍も国の統治もすべて階層制になっています。
総大将も陪臣に対して直接命令することはできません。
(もちろん状況に応じては何らかの要請をすることはできる)

要するに、戦闘は個人戦であって、
従者たちは直接の主君が武勇を上げるのをサポートする存在で
その主君が死ねば、彼らに戦う義務はなくなります。
だからそんなに大量の死傷者がでることはありません。

家が滅んだら、(血縁関係にない)従者たちは別の就職先を探すわけで
死ぬ必要はありません。
また平家と血縁関係にある場合でも、
その後、戦国時代まで存続した家系はごまんとあり、
実際問題としては、平家滅亡といっても、
伊勢平家の嫡流と主な庶流の家系が絶えただけです。

九州には鎌倉時代になって源平合戦の功労者たちが
下り衆として派遣され、地頭などになりましたが
現地で平家系の豪族と争ったり、婚姻して同化したりしてます。

つまり守護職クラスの平家は滅びましたが、
地頭や荘園領主クラスの平家系豪族はそのままずーと存続していたわけです。
ほとんどの場合、土地も奪われてません。
というのは鎌倉時代の初期には、全国にまだかなりの荒地があって
開墾して新荘園にする余地があったからです。
その後、鎌倉末期から南北朝騒乱期に、
利権争いが激化していきますが、それはまだずっと先の話です。

源平の時代に一万人も死者がでたら大虐殺です。
まず第一に十万人もいませんが、
10パーセントもの大量の戦死者がでるようなこともありません。

基本的に戦争の仕方が違います。

集団戦闘の時代ではないので、合戦参加者がすべて
殺しあうわけではありませんし、
一般に平家物語などの記述に登場する人数は
非戦闘員を多数含んでいます。

源平の時代は1人の武士に最低4人以上の従者がついていますが
彼ら郎党は個人的にその武士のためにだけ働き
その武士が死んだら遺体かその一部をもって国...続きを読む


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