なぜ、年越しにおそばを食べるのでしょうか?
素朴な疑問です。

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ICC とは」に関するQ&A: ICCプロファイルとは?

A 回答 (5件)

そばを食べると、1ヶ月間の毒物を体外に排泄するといわれていたそうで


年の最後に食するのは溜まりにたまった毒物、罪などを排泄、お清めのためだとか


http://www.nekonet.ne.jp/togakusi/toshikoshi.html

ALOHA HUI HOU !    byクアアイナでした♪

参考URL:http://www.nekonet.ne.jp/togakusi/toshikoshi.html
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この回答へのお礼

なるほどいろいろな言われがあるようですね。
ありがとうございました勉強になりました。

お礼日時:2002/01/18 01:03

私が聞いたのは、昔は年末になると集金などの作業が忙しくなり、なんとか年内に集金を終えたいということから、早く、立ったまま食べられる蕎麦が好んで食べられたということです。

昔は仕事納めの晦日に食べていたようですが、それが何故か大晦日に食べられるようになり、蕎麦は長いので長生きできるとか迷信が後から作られて年越し蕎麦になったとのことです。
ちなみに、そこから立ち食い蕎麦屋が出来たと聞いています。ホントかな?
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この回答へのお礼

なるほどいろいろな言われがあるようですね。
ありがとうございました勉強になりました。

お礼日時:2002/01/18 01:05

昔本でよんだ昔話ですが・・・


金を使って仕事をする人が大晦日に仕事をおえて床を見ると金粉がいっぱいちらばっておりました。もったいないと思ってそば粉を丸め、それを焼いて金だけをとりだしました。そば粉で金粉を拾ったので縁起がいいので大晦日にたべるようになったのがひろまった・・・とか かいつまんではなすとこんなとこです
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この回答へのお礼

なるほどいろいろな言われがあるようですね。
ありがとうございました勉強になりました。

お礼日時:2002/01/18 01:04

そばは、細くて長いので、長生きできますようにと縁起を担いで食べるのだと親はいっていました。

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この回答へのお礼

なるほどいろいろな言われがあるようですね。
ありがとうございました勉強になりました。

お礼日時:2002/01/18 01:04

幾つかの由来があるようです。



年越し蕎麦は何故食べる 年越そばの話
  ↓
http://www.seaple.icc.ne.jp/~tnetk/tosikosi.html

参考URL:http://www.seaple.icc.ne.jp/~tnetk/tosikosi.html
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この回答へのお礼

なるほどいろいろな言われがあるようですね。
ありがとうございました勉強になりました。

お礼日時:2002/01/18 01:03

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Q年越しそばを始めたといわれている増淵民部とは何者でしょうか

 もうすぐ節分です。節分と言えば、もともと年越しそばは節分に食べるものだったそうですが、その年越しそばを始めたといわれている人物、増淵民部についての質問です。

 『蕎麦事典』(新島繁著)に、数ある年越しそば起源の1つとして、室町時代の関東三長者増淵民部という人が、大晦日に無事息災を祝って「世の中にめでたいものは蕎麦の種花咲みのりみかどおさまる」と詠んでそばがきを食べたとあります。しかしこの増淵民部とは何者だったのか、さっぱりわかりません。

質問1、この増淵民部は室町時代の関東三長者だったといいますが、関東三長者というのはどういうものだったのでしょうか?

質問2、そもそも増淵民部は、どこに住んで何の仕事をしていた人なのでしょか?

質問3、「世の中にめでたいものは蕎麦の種花咲みのりみかどおさまる」という歌は、何かの歌集に載ったものなのでしょうか?

部分的にでもおわかりでしたら、なにとぞよろしくお願いしいたします。

Aベストアンサー

質問1
室町時代の関東三長者とは朝廷より関東の支配を委託された人で
「小金」「増淵」「東金」で江戸時代には商人になって「増淵家」は
 年越し蕎麦を従業員にふるまったようです
質問2
関東のどこかにすみ役人かなにかだったようです
鎌倉時代は実朝は「長者」に任じられたことが吾妻鏡にでているので
単なる「金持ち」とは違うようですが、詳しくは不明
質問3
この歌は短歌の形式で「増渕」が「歌人」とともに詠んだとありますが
歌集には載っていないようです

申し訳ありませんがこの程度しか解りません、とくに増渕民部の実像はまったく不明です
民部がこの時代の歌人と蕎麦の歌を歌い蕎麦がきを食べた事実が
有名ですが、本人の実像はまったくわかりません
(参考サイト)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/sugisan/sin122.html/dir61index.html

http://www3.ocn.ne.jp/~sobacha/mamejiten7.htm

http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/aduma18a-09.htm

質問1
室町時代の関東三長者とは朝廷より関東の支配を委託された人で
「小金」「増淵」「東金」で江戸時代には商人になって「増淵家」は
 年越し蕎麦を従業員にふるまったようです
質問2
関東のどこかにすみ役人かなにかだったようです
鎌倉時代は実朝は「長者」に任じられたことが吾妻鏡にでているので
単なる「金持ち」とは違うようですが、詳しくは不明
質問3
この歌は短歌の形式で「増渕」が「歌人」とともに詠んだとありますが
歌集には載っていないようです

申し訳ありませんがこの程度し...続きを読む

Q平安時代の素朴な疑問

1、あんなに長い髪の毛(女性)では抜けた毛が室内に
いっぱいあったのかな?

2、絵から見るとサラサライメージが強いけど、滅多に洗わなかった
のでもっとベッタリしていたのかな?

3、あの着物で外で遊ぶ様子をあさきゆめみしでみたのですが
重いし裾が汚れてしまうのでは?常に引きずってるのでかなり
汚れると思いますが....。


と、疑問はつきないのですが....。
私の髪はロングですが結構抜けた毛が掃除すると出てきます。
長さがあるので多く見えてしまうのかもしれませんが、あの長さで
あれだけ一部屋に集まっている様子を見ると、掃除大変だろうな.....と
勝手に想像してしまいました^^;

1年に数回沐浴するぐらいだと、(洗髪だけする事もあったみたいですが)
頭皮のアブラがかなり出てあんなサラサラじゃないですよね....。

それとあの着物では裾が汚れてしまって仕方ないと思うのですが
当時は気にしていなかったのでしょうか?

かなりくだらない質問ですが(汗)ご存知の方、詳しいサイトなどが
あったら教えてください。日常生活の抜け毛は探しても見当たらなかったです....。
(カツラがあったのは知っています。)

あの固いタタミベットみたいので冬も寝たのか.....など
ほんと疑問はつきませんね。

1、あんなに長い髪の毛(女性)では抜けた毛が室内に
いっぱいあったのかな?

2、絵から見るとサラサライメージが強いけど、滅多に洗わなかった
のでもっとベッタリしていたのかな?

3、あの着物で外で遊ぶ様子をあさきゆめみしでみたのですが
重いし裾が汚れてしまうのでは?常に引きずってるのでかなり
汚れると思いますが....。


と、疑問はつきないのですが....。
私の髪はロングですが結構抜けた毛が掃除すると出てきます。
長さがあるので多く見えてしまうのかもしれませんが、あの長さで
...続きを読む

Aベストアンサー

すみません、根拠になるサイト、書籍を知っているわけでは
ありません(人に聞いた話や個人の記憶が主です)。
あくまで参考程度になさってください。

1.あくまで推測ですが、あの時代の女性、ひきずるほど長い髪を
伸ばしている女性は圧倒的に運動量が少なかったと思います。
私自身は抜けた髪が部屋中に・・となる時は、たいがい部屋の
なかで運動量が多いとき(そこそこ動いているとき)という
ふうに記憶しています。ですので、長い抜け毛が部屋中に・・
というふうにならないのではないでしょうかね・・。
仕えてる女房も髪が長いことを考えても、
やはり現代人のようには運動しません。なにしろ歩くことが
なく、やむをえず移動するときは膝を使った・・ということ
ですから・・。
少なくとも宮中では
毎日のように掃除も行われていたようですし
部屋が抜け毛でいっぱい・・とはならなかったのではないでしょうか?

2.はい、べったりしていました(笑)
江戸時代頃までは髪油を使っていましたから・・。
江戸時代の人が髪油を使うのは結髪のためが大きかったようですが
平安時代や中世の人は髪のケアと汚れ取りのために使ってました。
中世の人が椿油を使っていたのはたしからしいのですが
(屋敷跡に椿の木を植えた痕跡がある・・自家製椿油を作るため・・
椿油を髪に梳きこむと髪が汚れにくくなり、傷みにくくなったとか)
平安時代は謎です・・。しかし、髪油を使って櫛で髪をすき、
汚れをとることを日常的におこなってました。
そしてよい日を選んで洗髪しました。
(個人的には入浴も結構してたんじゃないかと思っていますが・・
今のところ証拠が見つかりません。お香が匂い消しなんていいますが
麝香のような強い香りを貴族は使ってませんし、想像するほど臭くは
なかったのではないでしょうか・・・)
現代のようなさらっさらの髪でなかったことはたしかです。

3.>あの着物で外で遊ぶ様子をあさきゆめみしでみたのですが
重いし裾が汚れてしまうのでは?常に引きずってるのでかなり
汚れると思いますが....。

それは子供ですか?大人ですか?

子供(童女)であれば「あこめ」という身丈くらいの
長さの衣だと思いますのでほとんど裾はつかないと思います。
大人の女性なら裾をはしょるでしょう。もしあさきゆめみし・・
でそうなってなかったならそれは漫画上での演出だということに
なると思います。
平安の装束に限らず、日本のきものは「対丈」(身長ぎりぎりの長さ)か
「裾引き」で着られる時代が長く、おはしょりをして着るのが
一般的になったのは明治から大正にかけての時代ですので
家のなかで動いて裾が汚れたりすり切れることには皆頓着しなかったと思います。
そういうものだ、という感じで。今でも裾引きで着る着物も
ありますよね(芸妓さんの正装、舞踊衣装、花嫁衣装など)。
ヨーロッパでもドレスは引きずるほど長かった。足を出すのが
はしたない、裾を短くして活動しなくていいくらいに裕福で
身分が高い境遇だ、そういうことを表したいんでしょうね。

すみません、根拠になるサイト、書籍を知っているわけでは
ありません(人に聞いた話や個人の記憶が主です)。
あくまで参考程度になさってください。

1.あくまで推測ですが、あの時代の女性、ひきずるほど長い髪を
伸ばしている女性は圧倒的に運動量が少なかったと思います。
私自身は抜けた髪が部屋中に・・となる時は、たいがい部屋の
なかで運動量が多いとき(そこそこ動いているとき)という
ふうに記憶しています。ですので、長い抜け毛が部屋中に・・
というふうにならないのではないでしょうか...続きを読む

Q慰安婦問題、素朴な疑問

表記の問題につきまして以前から引きずっている素朴な疑問があります。お答えいただけるなら幸いです。
1.慰安婦問題の原型
これはひょっとしたらインドネシアのいわゆる白馬事件を原型としたお話が、特に、アメリカで韓国系を中心とする一部の人々によって吹聴されているのではないでしょうか。白馬事件の記述がウィキペディアの通りだとすると、数十人の強制売春に従事させられたオランダ人がいたようで、それが、あたかも性奴隷20万人とかのとてつもないことが朝鮮半島で起こったように喧伝されているのではないか、と思うのですがどうでしょう。(ひどい目に遭った韓国朝鮮人が全くいなかったとは思えませんが。日本人でもいろんな意味でひどい目に遭った人は山ほどいるので。しかしあの慰安婦を自称する人たちがそうなのかまでは知りませんが。)

ウィキによるとスマランにあった慰安所は当時の日本軍によって閉鎖こそされたようですが、責任者の処罰は戦後連合軍が彼の地にはいった後からのことで、なぜ当時の日本軍はとんでもない犯罪行為をきちんと処罰できなかったのでしょうか。白馬事件を刑事事件として扱い、関係者を日本人の手で厳しく処罰し、歴史からきちんと分離しておけば今のとてつもない非難はなかったのではないか。もちろん当時の日本人は圧倒的に高潔な人が多かったのでしょうが、犯罪者が全くいないとは常識的にとうてい言えないと思いますし、占領地や併合した地域の円滑な管理や治安維持に支障を来すことにもつながるため、高潔かどうかは別として目的から逸脱する行為や犯罪は自ら律する必要が強く存在したはずと思うのです。

当時の軍隊に招集された日本人は血気盛んな若者で、性的欲求のはけ口を組織として保証しないと、軍の派遣地域で日本の軍人による性犯罪が増え、占領地の平穏な管理に支障を来す、のなら、どうして米軍のように若い兵士を数ヶ月やそこらで家族や恋人の元に返すような体制がとれなかったのでしょうか。戦争とはロジスティックの能力で決まる、と日清日露戦争の時に学んだはずですが。日本人はことによるとひどく戦争がへたくそなのではないか、勝てない戦はしない、同胞が数百万殺されることを合理的に予想したら、耐えがたきを耐え忍びがたきをしのび戦争をしない方策をなぜ聡明な日本人がとれなかったのか不思議でなりません。アジアの他国の独立などどうでもいいことですし。これもひょっとしたらですが、アングロサクソンの残虐性や近隣諸国の歴史的な悪意や憎悪をなめていたのでしょうか。合理性を廃して戦争など絶対にできないと知っていたはずです。

2.日韓基本条約
これはひょっとしたら当時の冷戦構造における必然から結ばれたもので、特に戦時賠償の意味合いは日本側からは特になかったのではないでしょうか。現在の韓国人から見れば自国民を大規模に虐殺するような軍事独裁政権を財政面から支え、分断と圧政の政治を長引かせた、との認識に過ぎないのではないか、だから今になってもなお、隣国の大統領は未来千年の恨みを宣言しているのではないか。だとすれば慰安婦問題も含め解決するはずもないので対応せずに放置するしかないような気もします。いずれ半島の不安定化は激しくなり民族国家を維持できないことになるでしょうから。その前に必ず対日政策を転換せざるをえないか、三田渡碑に見られるような中国の完全な属国に戻るかどちらかしかないと思います。

3.アメリカの対応
先の大戦中都市空爆や原爆で非戦闘員を含む数百万の日本人を虐殺したアメリカにとって、いわゆる慰安婦問題は自らに向けられた道徳的非難を心理的に中和できる恰好のテーマであり、20万人の性奴隷などどどう考えてもあり得ない状況を否定しない理由がそこにある気がするのでしょうが、どうなんでしょうか。

表記の問題につきまして以前から引きずっている素朴な疑問があります。お答えいただけるなら幸いです。
1.慰安婦問題の原型
これはひょっとしたらインドネシアのいわゆる白馬事件を原型としたお話が、特に、アメリカで韓国系を中心とする一部の人々によって吹聴されているのではないでしょうか。白馬事件の記述がウィキペディアの通りだとすると、数十人の強制売春に従事させられたオランダ人がいたようで、それが、あたかも性奴隷20万人とかのとてつもないことが朝鮮半島で起こったように喧伝されているのでは...続きを読む

Aベストアンサー

 No.2です。

 お礼欄の記入事項で少し気になったことがあったので、コメントします。
 回答ではないので、無視していただいても結構ですが、参考にして頂けたら幸いです。

<南京大虐殺や20万人の慰安婦問題のような突拍子もない言いがかりをどうやって解消していくか、日本人の知力と忍耐力と狡猾さが試されているのかもしれません。>


-その1-
 私は、『日本人の知力と忍耐力と誠実さが試されている。』と思っています。
 戦後70年近く、平和を体現してきた日本人は、国際社会の中で、胸を張って毅然とした態度を取れると考えます。
 毅然とした態度を取るには、「自らの非は認め、誠実に対処する」ことが必要ではないでしょうか。
 「狡猾」では、毅然とした態度にはならないでしょう。

 「南京事件」・「慰安婦問題」において、どこまで責任があるか明確にすべきでしょう。


-その2-
“慰安婦問題について”
・朝鮮半島出身の慰安婦が20万人と言うのは、荒唐無稽。部隊が兵站拠点に戻ってきた時、数人の慰安婦で一晩100人以上を相手にした様な記述を見ると、多くとも延べ1万人程度ではないか推測しています。
・朝鮮半島出身の慰安婦よりも日本本土からの慰安婦の方が多かったようです。
・基本的に強制連行はありえない。
 尊卑意識や差別が現在よりもはるかに強かった戦前の感覚からすれば、行政・社会常識が機能している日本本土や朝鮮半島で「栄えある皇軍」が直接「卑しい慰安婦」を扱うこと自体、『天皇陛下を辱める行為』として、社会から糾弾される。
 また、当時、事実上の強権を持っていた軍にとって、慰安所経営者に口頭で「軍の希望」を述べるだけで慰安婦を集めることが出来た。
 ⇒ 慰安所経営者は、軍の希望する慰安婦の数がそろわない時は、あらゆる手を使ったと思われる。

 当時の状況を示す事例
・和歌山県で慰安所経営者が、「軍の希望」によるとして慰安婦を募集したところ、警察が「慰安婦の募集に軍の名を騙っているとして詐欺容疑・軍の名誉を汚す。」として逮捕。その後、軍から口頭で、事実であるとの確認が行われ、釈放された。
・日本の炭鉱で働く朝鮮半島出身者のために「朝鮮料理を作る賄い婦」を朝鮮半島で口入れ業者が女性を募集。応募した女性は九州で賄い婦として働き、戦後朝鮮半島に戻ったところ、「慰安婦」であったとして故郷の人からひどい差別を受けた。

 慰安婦問題の本質
・アメリカなど先進国の捉え方
 日本政府は、慰安所の運営・移動について、日本軍の関与を認めている。(強制連行は認めていない。)
 従って、人権侵害に対する補償を行うべきである。(=日本人慰安婦に対しても補償を行うべき。)
 
 

-その3-
“南京事件について”
 日中歴史共同研究が既に行われています。
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html

 日中戦争については、日中共同で結論を出すことができなかったため、日本・中国それぞれの側が自国で分析を行って、それぞれ単独で結果を発表しました。

・抜粋
『中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。』


※当時の中国では・・・
・日中戦争までにも、中国では軍閥間の内戦が行われており、国土が荒廃していました。そのため、生活できなくなった農民や労働者は、相当数が食べることのできる兵士になりました。
 しかし、戦いに負けた時、負けた側の兵士は軍服を脱ぎ棄てて、元の農民や都市労働者に戻ってしまうことが普通でした。
・軍閥戦争を制した蒋介石(日本に軍事留学し、日本軍の将校として勤務経験がある。)は、日本軍と対等にう能力を持った精鋭部隊を持っていたが、その兵力は日本軍に比べると相当少なかった。
 そこで、精鋭部隊を温存し、決して負けない大陸国家特有の戦略を取った。

 1、農民・労働者を募集し、短期訓練で急造部隊で兵力を水増し。
 2、自軍が有利な状況でのみ戦を始め、戦況が不利になれば、より内陸に撤退する。日本軍の補給がより難しくなる。
 3、共産党軍が、便衣兵として、日本軍の補給部隊を襲撃。

 この戦略の結果・・・
a.戦場となった地域の中国農民の受ける印象は
 ・蒋介石軍は戦わずに撤退し、我々は日本軍の占領地に取り残された。
 ・共産党軍は少数でも戦ってくれる。
  ⇒ 戦後、中華人民共和国に政権が移る原因に

b.訓練された精鋭部隊は素早く撤退氏兵力を温存できたが、短期の戦闘訓練しか受けていない急造部隊は日本軍の捕虜になることが多かった。
  ⇒ 日本軍の兵力を超える、膨大な数の捕虜の発生=日本軍の補給が追いつかない・作戦に従った素早い部隊の移動が出来ない。

 このような軍事的背景がありました。


※南京事件の死者の実数について
 中国政府が日本軍の占領中に写真撮影や戸籍調査することは不可能です。戦争前の戸籍などもありません。
 従って、事件の死者の実数把握は、占領して軍政を引いていた日本側の資料を使うのが、正確な数字に近いでしょう。一次資料である部隊指揮官の手記は正確であり、ねつ造・隠ぺいなどの形跡は見られません。
(陸軍士官学校では、戦場で毎日手記をきちんと正確につける教育が徹底されていました。軍司令部などに提出する報告書作成の際の基本資料とするためです。)
 従って、この部隊指揮官クラスの手記を使った日本側の分析は、ほぼ実態を示すと言ってよいと思われます。
 10万人規模の占領軍には、3000人程度の連隊なら数十から、1000人程度の大隊なら100程度あるわけで、副官クラスも考えれば数百の手記があったわけですから、ある程度の数の一次資料が残っています。

 このような資料の分析をきちんと行って、最も早い時期に公表したのが、秦郁彦氏です。 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6

○私の個人的南京事件の実態理解
・3000人の連隊が警備を行って、挙動不審者を1日に3~4人捕まえたとすると、占領軍全体では100人以上、半年間で二万人という数になります。(占領当日だけの数字ではないことに注意。)
・食いはぐれた農民・労働者が短期の訓練で兵士として参戦、軍服を脱ぎ捨て元の農民・労働者に戻った場合、警備・尋問で「不審な反応」を示すのは当たり前。
・取り調べる日本兵も、本来は一般市民で、捜査・尋問については全くの素人。便衣兵が居ないか疑心暗鬼になっている。
・首都南京が陥落したので、戦争が終わって日本に帰れると思っていたのに、終わらない。いつまで戦場にいなければならないのかという日本兵全員の不平の蓄積。
・食糧補給の不足
 
 上記のようなことが背景になって、秦郁夫氏のまとめた数字の事件が発生。

 
※30万人と言う数字について
 30万という数字は、戦争後に住民に聞き取り調査をして、戦争前に居たが、戦争後に行方の分からない人の人数と、私は解釈しています。
 清朝の滅亡と軍閥戦争が終わったばかりの土地が戦場となり、一家の大黒柱を失った母親や子供が、日本軍でさえ食糧確保が簡単ではない状況の中で、疫病・飢餓に直面したことを考えると、戦争終了後に人口調査をやれば、成人男子の数倍の人命が行方不明となるのは当然で、中国政府のいう30万人という数字になるのも不思議ではないだろうと考えています。(女性・子供を簡単に殺すような精神構造を人間は持てません。ゲリラかもしれないと思うから、成人男子は殺せたのです。)

 日中歴史共同研究を行った中国側の学者の一人は、30万人と言う数字について、「30万人が殺されたという数字が大切なのではなく、無抵抗の一般民間人が何万人も殺されたことが問題である。」という微妙な発言をしています。

 日本側の精査した資料・数字に対して、中国側は30万人・またはそれ以上という数字の根拠を示す資料を示していない様です。
 また、日本側が示した資料は、中国国内では一般に公開されていない様です。
 

<付記>
 私が子供の頃、お祭りなどに行くと、必ず「傷痍軍人」の方々が、アコ―ディオンを奏して、喜捨を求めており、中国に戦争に行った父は、必ず喜捨をしていました。
(傷痍軍人会は、会員の減少・高齢化で運営が困難になり、今年解散になったそうです。)
 砲弾による手足の負傷(傷口が複雑な形状になる。)は、医薬品の不足・多数の手当てや敗血症・破傷風の可能性を下げるため、不詳の影響のない位置で切り落とすことが普通でした。

 No.2です。

 お礼欄の記入事項で少し気になったことがあったので、コメントします。
 回答ではないので、無視していただいても結構ですが、参考にして頂けたら幸いです。

<南京大虐殺や20万人の慰安婦問題のような突拍子もない言いがかりをどうやって解消していくか、日本人の知力と忍耐力と狡猾さが試されているのかもしれません。>


-その1-
 私は、『日本人の知力と忍耐力と誠実さが試されている。』と思っています。
 戦後70年近く、平和を体現してきた日本人は、国際社会の中で、胸を張...続きを読む

Q素朴な疑問韓国ドラマの不思議

ヤフーやgyaolにて韓国ドラマを放送しているが時代劇(宮廷物)を良く見ます。然し不思議に思うのは宮廷物が多いようですが何故でしょうか?衣装も艶やかですが日本で言う一般物(町人物・浪人物)が無いですね!何故輸入しないのでしょうか?韓国でも一般町人を扱った時代物ドラマが有ると思いますが・・。又明成皇后を見ていますが私の知る内容と異なります。(歴史改ざん?反日的)

どなたか詳しい方教えて下さい。

Aベストアンサー

それは李氏朝鮮の時代には大衆文化が全く起こらなかったからなのです。もちろん、それ以前にも大衆文化はありませんでしたが。李朝実録といった宮廷が編纂した正史しかないのです。漢字だけです。挿絵も何もありません。漢字は特権階級が独占して庶民には教えられませんでした。韓国で大衆文化が起こったのは日本統治時代にハングルを普及した後のことなのです。そしてハングルを覚えても、李朝実録は読めないのです。結局、現代のドラマ制作者は話のネタに使える史料がほとんど何もないところから始めているわけです。誰も李朝実録を読めないので適当に話を捻じ曲げたところで誰もそれに気づきません。
それに対して、日本では狂言、浄瑠璃、歌舞伎、浮世草子、落語、川柳、滑稽本、浮絵など多様な形式の大衆文化が起こりました。だから日本ではドラマ作りのネタが有り余っているわけです。

Q時代劇をみて素朴な疑問

テレビ・映画の合戦のシーンを見ていつも不思議に思っていることがあります。それは馬上の武将を鉄砲や弓矢で攻撃するときになぜ馬を狙わないのか?ということです。馬のほうが標的になりやすいのに馬を狙っていることはほとんどありません。その理由は馬は貴重な戦利品となるからでしょうか?それとも演出上馬への攻撃の表現が映画等では難しいからでしょうか?
それとも馬を狙うのは卑怯なのでそういうことはしなかったのでしょうか?どなたかお詳しい方お教えください

Aベストアンサー

 
日本には、騎馬軍団がいたのかいなかったのかということでは、わたしは飛鳥や奈良時代にすでに、五百人や千人規模の騎馬軍団はいたと思いますし、その後、平安時代は全国的に平和になるので、軍団というような規模はいなくなっても、武士の擡頭と共に、再び、騎馬軍団が生まれたと考えています。鎌倉、室町、戦国の時代には、規模は様々でも、騎馬軍団は当然いたことになります。

また、日本で考えなくとも、中国や西アジア、西欧などで考えれば、騎馬軍団がいたのは自明のことです。特に中国は、騎馬軍団で侵攻してくる遊牧民族と、農民を基本とする農業帝国のあいだでの絶え間ない戦いの歴史だったとも言えます。

その場合、弓や鉄砲があれば、馬上の人を狙ったか、馬を狙ったかという問題は、「どういう戦闘」状況での話なのかで、全然事情が違ってきます。

>その理由は馬は貴重な戦利品となるからでしょうか?

これは、標的を馬上の人か、馬か、どちらかを「選べる状況」では、馬は殺さないで戦利品として欲しいので、馬上の人に狙いを付けたと言えます。他方、狙って撃つなどという戦闘状況でない場合は、仮に、馬と人が射程に入れば、馬の方が大きいですから、馬に矢が当たり、馬が倒れ、人は落馬というようなことが多かったでしょう。

>それとも演出上馬への攻撃の表現が映画等では難しいからでしょうか?

馬か人か、狙いを付けて撃つ状況でない場合の戦闘シーンで、馬が撃たれて倒れないのは、単純に、本当の戦闘ではないので、馬が倒れたりすれば、俳優やエキストラや馬も、傷を負い、命にもかかわってきて危険なので、そういうシーンは出せないということです。

しかし、最初に述べているように、そう簡単に、貴重な軍馬を弓の標的として狙い撃ちにされるような戦闘は、騎馬軍団の場合、「実際には行わない」というのが大きな理由です。敵が、何百人も、弓を構えて、今にも撃とうと用意している前に向かって、刀や槍を振り回しながら、騎馬でなくとも、武士や兵士が突貫して行くなどは、自殺行為であって、そんな「戦術」はないのです。

相手が、弓部隊を並べて、攻撃を待ち受けている場合は、攻めて行く側も、大型の楯を持って身を守りながら、楯の後ろから、弓矢を撃ちつつ、押し寄せて行きます。防御する側も、楯だとか、柵、土累などの陰で身を守りながら、弓を撃つのですし、攻撃側が至近距離に来れば、長槍というもので、攻めて来る敵を突き殺す戦術を取ります。これは、歩兵と歩兵の戦いです。

つまり、騎馬軍団というのは、待ち受けている弓兵部隊の一斉射撃の前に、身を晒すような戦闘はしないのです。弓兵部隊を無力化してからか、または有効に弓兵部隊が力を発揮できないような場面で、疾風のように騎馬で襲いかかって、敵陣の防御を破壊して、また疾風のように引き上げるのです。

こういう風に攻めて来る騎馬軍団に対しては、組織的な弓兵隊ではなく、何かに身を隠した弓兵とか、土に穴を掘って、そこに隠れて、走って来る軍馬に鉄砲などで狙いを付けるというような戦い方しかないとも言えます。そして、こういう場合、撃ち手には、機会が一回とか二回ほどしかないので、人を狙って撃つのだと言えます。

騎馬部隊が、疾駆して進む頭上に、何千もの矢が、雨霰のように一斉に降って来るというのは、騎馬部隊としては、戦術に失敗しているのです。こういう場合、人馬もろとも、矢の餌食ですし、倒れた馬にぶつかって別の馬も倒れるので、騎馬軍団としては、こういう戦闘になっただけで、すでに敗北なのです。

しかし、映画などだと、騎馬と人の部隊が攻め寄せて来るのに向かい、同じく、騎馬と人が迎え撃ち、弓矢を射かけるというのが、いかにも「戦闘スペクタクル!」という感じなので、こういうシーンを出すのでしょう。実際は、こんな戦闘方法は、どちらかが敗北しているような場合で、ごく短時間しか続きません。
 

 
日本には、騎馬軍団がいたのかいなかったのかということでは、わたしは飛鳥や奈良時代にすでに、五百人や千人規模の騎馬軍団はいたと思いますし、その後、平安時代は全国的に平和になるので、軍団というような規模はいなくなっても、武士の擡頭と共に、再び、騎馬軍団が生まれたと考えています。鎌倉、室町、戦国の時代には、規模は様々でも、騎馬軍団は当然いたことになります。

また、日本で考えなくとも、中国や西アジア、西欧などで考えれば、騎馬軍団がいたのは自明のことです。特に中国は、騎馬軍団...続きを読む


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