誕生日にもらった意外なもの

使徒15章29節に「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。」とあったんですが、輸血をしない宗教団体があるってよく非難されますが、逆に聖書には輸血はいけないって書いてあるってことでしょうか??
なんかWeb上には色々とご説明があって「これは輸血にはあてはまらない」とかあるのですが、どう文脈を読み返しても、血を体内に入れてもOKとは書いてないように感じられるのですが・・・どういうことなのでしょうか??

A 回答 (17件中11~17件)

これはエホバの証人の独特の考え方です


もし聖書の書いてある禁止事項を守っていくことは
まず無理でしょう。

神は私たちをともに愛するようにと、もし死んでしまったら愛することができませんね

まあ、昔なら動物を生のままで食べることによって
色々な病気かかる可能性があり、衛生上よくない
ために書いてあると思います

(この申命記の時期に輸血というものが存在していたのかな?)申命記は紀元前の時代に書かれた本と言われています。また輸血は1660年代に行われた
と言われていますね。この時代差はどう考えるのか?
と考えていくなら輸血ではなく書いてあるとおり
NO2の回答が正解のように思われます

あまり信じている人に聞くのはやめてね。
争いの元、後から何か起こっても知りませんよ
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この回答へのお礼

なるほど、やはりそれが正しいんですかね~。
当時は銃はなかった、よって斧を使った殺人は禁、でも銃を使った殺人ならば。。。の類になる気もしなくもないですが、まー 人間は自分の命がなくなります、輸血すれば肝炎になるかもしれないけど生き延びれます、となれば、それが禁じられているように見えても大多数は輸血を正当化するってことなんですかね。

感情的な議論は後味最悪ですから勿論避けます。有難うございます。

お礼日時:2006/03/06 14:12

聖書では 血=生命 なので、血を食べることは殺人を意味するらしいです、



ここで問題になるのが血を食べることがどこまで適用されるのかってことです、ユダヤ教の場合は完全に血抜きをしますけど、キリストはしませんよね、
確かに輸血をしない宗教団体を拡大解釈だと非難するひとがいますが、必ずしも人が聖書を正確に解釈するのはむりであり自分が正しいと思い込むほうが危険かなと思います。
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この回答へのお礼

>人が聖書を正確に解釈するのはむりであり

人間、そう考えるんでしょうね。大多数は。
有難うございます。

お礼日時:2006/03/06 14:20

#3です。


ご質問部分のバルバロ訳聖書の注釈をそのまま記します。
「今のところ、信者間の和合のために、最初の三つが必要であり、
最後の一つは自然法の規定である。」
ということですが、この当時も現在もキリストの教えと十戒は守るべきものですので、
偶像崇拝も淫行もするべきものではありません。

さて、質問者さんは聖書を読む時に注解書を御使用でしょうか?
聖書は2000年以上前、文化も風習も異なる外国で書かれた書物ですので、
解説も注釈も無い状態で正しく理解するのは無理というものです。
カトリックの聖書は上記のバルバロ訳もフランシスコ会訳も聖書自体に解説、注解付きです。
プロテスタント訳の場合は、解説、注解が無いのが普通ですが、
キリスト教書店などで、注解書を売っておりますので使用されることを勧めます。

この回答への補足

注解書ですね、有難うございます。すみません、「最初の三つ」というのは何ですか?そして最後の一つとは?自分で調べればいいんですが、教えてください。

補足日時:2006/03/06 10:22
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お礼拝見しました。


血を「食べる」のは動物のも人間のもNGですよね(吸血鬼じゃないんだから)

食べる、という行為には人間の意思選択が関わっています。人は何かを食べる/食べないという事を、自分の意思で選択できます。だから多くの宗教で断食という苦行は良い行為とされているのです。食物が無く結果として断食した(絶食)のと、食物はあるのに自分の意思で断食するのとでは区別されるべきですよね。(胃袋に何も入らなかったのは同じですけど)

もし、あの教団の教義(血を入れてはいけない)という事が輸血も禁じる事であるならば、胎児が母親からへその緒を通してもらう栄養はどうなるのでしょうか?(昔はへその緒を経由するのは血液そのものだと考えられていました)赤い部分だけが血液ではありません。
それとも赤血球だけが血でしょうか?だったら成分献血/輸血は問題無い事になりますね。
もし、赤い部分以外も血であるならば胎児は体に血を入れている事になります。誰一人例外はありません。

>「(略)生命は神のものである。よって血を流したり,食ったりすること,すなわち殺生は神を汚すものであり,これを犯す者を神は罰する」
一読するとなるほど~、です。が、「生命は神のものである、よって救える生命を人為的に見殺しにする、すなわち輸血拒否は神の名の下に行われる殺人である」とも言えませんか?
大体ね、簡単に「神を汚す」事ができるという発想がスゴイですよね。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と聖書に書いてありますが人間に簡単に汚される神様って人間を救えるんですか?神さまって人間が無菌室のような場所に入れてお守りしないといけないの?それは偶像と言いませんか?

>「医師がアルコールを避けろと命じた場合(略)静脈に注入することはOKとは誰も思わない」
そう、思いません。だって誰もしないからです。酒(アルコール)は口から飲まないと美味しくも楽しくも無いからですよ。酒を飲む人は血中アルコール濃度を上げるのが目的ではなく「酒を飲みたいから飲む」のです。
この一点だけでも彼らの人間性に対する洞察が浅いと分かります。

>血を体内に入れてもOKとは書いてない
まぁ、質問者さんが聖書に従って生きる人生を選択したなら反対はしませんが、一節一節にこだわっていると大きなテーマを見落とすのは確実ですよ。「一番大切なもの」を見失いませんように、と祈るだけです。

この回答への補足

彼らをムキになって弁護する訳ではないのですが、
「(アルコールの静脈注入は)誰もしないからです、酒を飲みたいから飲むのです」というのは彼らの言いたい事とはズレているようなので彼らに代わって補足させて頂きます。
これは、したくないから誰もしない、という結論を導く例えではなくて、
「アルコールの静脈注入という行為」:それはOKか×か、という事で、勿論誰だって×だとなります。
であれば、輸血がダメとは書いていないからしても良いとすぐに結論するのは、
「アルコールを飲むのは×だけど、静脈注入はOKと言っていることと同じことになってしまいませんか?」ということが言いたいのだと思います。
No.7さんへの「お礼」の時にも似た例えを思ったのですが、今日には当てはまらないという根拠にはならないのでは・・・と考えてしまうのは私だけでしょうか。
当時はその技術はなかった、というのは私も何度も考えたのですが、この例えを聞くと、反論ができないのです・・・。

私は「1節1節にこだわりすぎている」のでしょうか・・・「大切なこととは命を救うこと」というテーマを無視しているように見えるからそうおっしゃると思うのですが、(私もそれがずっと疑問だったのですが)「命を全くないがしろにして」いて子供を死なせようとしているなら彼らは病院に行かないと思うんですよね。(どっかの怪しい団体で自分の家で癒しをしようとしていたのがいましたが)でも、彼らは、その医療行為だけを道義的に避けるのであってそれに代わる医療行為は全て受け入れて患者を助けようとする、と述べていました。

補足日時:2006/03/08 19:43
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この回答へのお礼

ご丁寧に有難うございます。時々週末にやってくるあの人達にこれらを聞いてみよう・・・議論になりそうだったら止めますけどね。

お礼日時:2006/03/03 12:58

このエルサレム教会会議の部分は全体を読むとわかりますが、


ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒に衝突が起きているので、
その妥協のために設けられたものです。問題の部分は異邦人キリスト教徒が
ユダヤ教的な価値観を引きずっているユダヤ人キリスト教徒と一緒にいる時、
ユダヤ人キリスト教徒が眉をひそめる事柄を行わないようにという注意事項で、
ユダヤ人キリスト教徒と一緒にいるという事態が無い現在においては、
全く無効となっているものです。

この回答への補足

理解能力のない人間だったらすみません、でもそうなると、偶像崇拝と淫行(不倫とかも含?)の禁止も無効になった・・・なんてことには・・なっちゃいませんか? ?

補足日時:2006/03/03 09:00
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旧約聖書の申命記12章15~16に「(略)肉を食べることができる。

(略)ただし、その血は食べてはならず(略)」と動物を食べる時に一緒に血を飲むな、と規定している箇所があります。血を食べる・・・って日本人には生々しい表現ですけど、字句通りに解釈すれば血抜きしてから食えと書いてあるのです。血は腐りやすいので病気を防ぐための知恵だったのでしょう。

>どう文脈を読み返しても
動物の血について書いてありますよね。

>血を体内に入れてもOKとは書いてないように感じられる
逆に聖書のどこにも輸血してはならない、とは書いてありません(当然予防接種もインターネットもしてはならない、とは書いてありません)だってその時代に無かった技術なんですから、いくら神さまでも禁止しようが無いですよ。
古代に輸血技術があった訳ではありませんから、ある団体の輸血拒否は聖書の拡大解釈の結果だと思われます。
「禁じられていない事はしても良い」のと「許されている事以外はしてはならない」のではどちらが人間を活かすのでしょうね?

私の友人のキリスト教徒は、年に何回も献血してます(その行為は尊敬に値すると思います・・・私は血を見るのが嫌なので献血はNGだから余計エライと思うのですが)聖書に「年に何回献血しろ」とは書いてませんけどね。
輸血を禁じて人を間接的に殺す宗教団体と、見返りを求めず他人に血を献げる人では、後者の行為に賛同しますね。
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この回答へのお礼

>動物の血について書いてありますよね。
動物の血はダメだけど人間の血はOK・・・さらに頭が混乱。以前輸血拒否の団体の方が「肉の生命は血である。血にこそ生命が宿る。生命は神のものである。よって血を流したり,食ったりすること,すなわち殺生は神を汚すものであり,これを犯す者を神は罰する」といった類の事を述べていました。
という事は彼らは単にそう書いてあるから或いはないからというのではなくて、生命そのものだからというのが根底にあるような気がしました。

あとは例えで「医師がアルコールを避けろと命じた場合,患者がそれを飲むことはしないが,静脈に注入することはOKとは誰も思わない」といったことも説明していました。
う~ん・・・

お礼日時:2006/03/02 18:48

聖書に書いてあること信じるか信じないかは


個人の自由です。
輸血は絶対に拒否するという一派がありますが、
それはそれでいいのではないですか?
輸血しなくては死んでしまうような状況でも
輸血を拒否して死ぬ。他からつべこべ言う
必要はありません。自己責任です。
確かに、輸血は他人の血を自分の血に混ぜるの
ですから、考えてみると大変なことですね。
輸血でC型肝炎になった人は、沢山居ますね。
私もそうですが、あの時輸血しなかったら
死んでいたと思うと、仕方がなかったでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど~ 有難うございます。

お礼日時:2006/03/02 12:03

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