No.2ベストアンサー
- 回答日時:
将軍に決定権はあります。
しかし,リーダーシップがなければ,家臣にやらせるだけです。
家臣は,優秀ですので,それなりにこなします。今で言う官僚みたいなものです。
将軍は,大奥にいることが多いです。
よって,強力なリーダーシップと,卓越した見識がないと,本当の政治はできません。
優秀なのは,源頼朝,武田信玄,上杉謙信,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,伊達正宗などは,自分で判断し,強力なリーダーシップで,農民,他国などを従えさせます。
それには,優れた知識と度胸と,アイディアがあります。
徳川の半ばの時代(100年過ぎ)では,将軍といえども,勉強はしますが,国家に対して,危機感がありません。家臣がほとんど,政治を行います。
松平定信は,養子に出されなければ,本当は,将軍になった人です。弟のしっかりしない将軍を見て,悔しかったと思います。
松平定信は,「幕府」の為に,懸命に政治を立て直し,倹約に努めます。
しかし,松平定信は,倹約すればするほど,みんなからの嫌われ者です。
同じように徳川綱吉は,「生類憐れみの令」をだして,嫌われました。
つまり,世の中に変わったことをしても,成功しても,強力にリーダーシップをとった人が,名前に残るのです。
よって,決定権は将軍にあっても,リーダーシップがしっかりないと,政治に名前は残りません。
(1)世の中に大きな影響力を与えること。
(2)リーダーシップが,良きにつけ,悪しきにつけあること。
(3)根気強さとやりきろうとする意志があること。
No.1
- 回答日時:
八代将軍・徳川吉宗の孫に当たる人物で、寛政の改革で有名。
下記URLに人物像の詳細が掲載されています。寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代に松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革の事である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。
【改革の内容】
浅間山噴火から東北地方を中心とした天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、前任者の田沼意次は失脚する。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫にあたり(父は吉宗の次男・田安宗武、第9代将軍徳川家重の弟)白河藩主から幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となる。
定信は白河藩主時代に飢饉対策に成功した経験もあり、吉宗の享保の改革を理想とした緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。
一連の改革は田沼が推進した重商主義(商業重視)政策を否定しており、保守勢力のクーデター的性格を持ち、蘭学の否定や身分制度の徹底も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
改革は6年余りに及ぶが、定信の「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」疑り深く細かい気性が人望を欠いたため、定信の政権下では改革が思ったほどの成果をあげる事は無かった。しかし、松平定信が失脚した後は松平信明が引継ぎ、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれる事になった。
★主な経済政策
○囲米:諸藩の大名に飢饉に備える為の穀物の備蓄を命じた。
○旧里帰農令:江戸へ流入した農民達を帰農させ、農村人口の増加を狙った。
○棄捐令:棄捐令を出し、旗本・御家人などの救済のため、六年以上前の債務破棄、および借金の利子を引き下げた。
○猿屋町会所:棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済して、今後の札差事業や旗本・御家人への貸付に支障がないように取り計らった。
○人足寄場:無宿人、浮浪人を江戸石川島(東京都中央区)に設置した寄場で職業指導、治安対策も兼ねた。
○商人対策:田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止し、特権商人を抑制した。
○七分積金:七分積金は、町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府からの一万両を加えて基金にした。町入用の経費は、地主が負担し、木戸番銭・手桶・水桶・梯子費用、上水樋・枡の修繕費、道繕・橋掛け替え修繕・下水浚い・付け替えなどに使われた。
○その他:米価抑制のため、米を大量に使う造酒業に制約(酒株統制)を加えて、生産量を1/3に削減するように命じた(但し、これは田沼意次が決定したものの田沼の失脚で定信が実施したとする説もある)。
田沼意次が推進した南鐐二朱銀を丁銀に改鋳しなおして物価の抑制を図ったが、幕府財政は却って悪化したため、再度南鐐二朱銀を復活させた。定信失脚後、定信の路線を継承した松平信明によって、相対済令が出された。
★学問・思想
○寛政異学の禁:柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府承認の学問と定め、聖堂学問所を昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。
○処士横断の禁:幕府に対する政治批判を禁止し、蘭学を公的機関から徹底廃止し、蘭学者を公職から追放した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
○学問吟味:江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で、寛政4年(1792)から慶応4年(1868)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に学問奨励の気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。
★その他
○日本人漂流民の大黒屋光太夫を返還する際に通商を求めてきたロシアの使節アダム・ラクスマンに対し、定信は鎖国の理由に即時の通商開始を拒絶している。
朝廷権威の幕政利用、大政委任論、尊号一件。
定信は寛政の改革に着手する前に、幕府の重臣に金品を送りつけ、田沼意次の失脚を図った。さらに、田沼の重商主義政策が、大店による独占市場を生み出し、農業及び工業の生産基盤を否定かつ破壊する政策である事を幕府にアピールした。
このように、贈収賄は江戸時代全体を通じた社会問題であり、当の定信自身も手を染めていた事であった(もっとも、贈収賄が田沼時代以降、社会問題として世間の関心を集めるようになったのは、歴史の皮肉ではある。)
そして、寛政の改革以降も独占市場の解消は遅々として進まなかった。その一方で、農民層が江戸幕府の封建的絶対君主制を脅かす存在へと拡大していったのも、寛政の改革による弊害と言わざるをえないであろう。
■老中は将軍に直属して国政を統轄する常置の職であり定名ではなかった。大名時代の徳川家の年寄に由来し、寛永ごろに老中の名称が定着したのです。
老中は、大目付・町奉行・遠国奉行などを指揮監督し、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄、知行割りについてなどを統轄したのです。
【定員は4〜5人で、普段の業務は月番制で毎月1人が担当し、重大な事柄については合議した。実際には担当ではない者も月番の者と同じように、重要な事柄を合議・処理をしたりしていました】
→このように老中の合議で炊いたいの案件は決定され実施に移されていたようです。
1680年(延宝8)には1人を勝手掛老中とし、財政を専任させることになります。1867年(慶応3)に幕末の幕政改革で月番制を廃止し、国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の5人の総裁がそれぞれ専任する体制となりました。
老中になるためには、通常5万石以上の譜代大名という規定がありました。しかし、例外もあり3万石以下の大名でも、老中格から老中になるものもいました。また、実際役職に就くのは不可能である外様大名でも、「願い譜代」(外様から譜代にしてもらうこと)をしてなるものもいたようで、だいたいは側用人、京都所司代、大坂城代など将軍直属の役職からなるものが多かったようです。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3% …
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