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日本史を学習していて疑問に思ったことです。
日米修好通商条約が不勅許調印なのは有名ですが、日米和親条約は勅許を得ているんでしょうか?
いろいろ調べたのですが分かりません。
知っている方、よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

No5です。

肝心の質問の答えに成ってなかっようですね(^_^;)
http://www.gameou.com/~rendaico/bakumatuseihenco …の黄色の部分の上「朝廷は、幕府の判断を事後承認」
↓のURL五 安部正弘の決断の中断当り「孝明天皇も後の通商条約の時とは異なり、和親条約に「御安心」した(「孝明天皇紀」)」と有りますので勅許は得ていないのは間違いないと思います。気持ち的には(得ようともしていない、得る必要性すら感じねぇ~)だったかもしれませんが 私は安部正弘さんに会った事も無いし話をした事も無いので 本当のところは解りません。

 勝手に私の考えで言わせて貰うとしたら「べらんめ~!幕府が決めた鎖国を幕府が開くそれのどこがいけねぇて言うんでぇ朝廷なってぇもんは只のお飾り!いちいち化粧面の公卿どもの顔色を伺ったとあっちゃ恐れ多くも東照大権現様に申し訳がたたねぇ!おいらに腹切れって言うのかぇ」って言ったとか言わないとか 言ったと思う・・・たぶん言ったんじゃないかな?・・・・いや、言った方がかっこいいかなぁ~・・・

 あくまで 勝手な創造です。ちょち調子に乗りすぎました すいません(^_^;) 

参考URL:http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/ …
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この回答へのお礼

詳しい説明、ありがとうございました。よく分かりました。

お礼日時:2006/06/06 19:49

No1の補足に関して


この時期はすでに尊皇攘夷派等によって天皇が担ぎ出された後で 幕府としても無視できない状況だったと思います。
幕府にしてみれば 天皇も認めたと言うことで不穏分子の反乱の言いがかりを付けられる要素を少しでも減らす狙いが有ったと思います。(所詮天皇など形式的なもので幕府の決めたことに判を押すだけ判さえ貰っておけば グチャグチャ言う奴は押さえつけりゃ良いじゃん!位に思ってたんじゃないかな?)
 結果的には裏目に出たわけですが当時の状況を考えると間違った選択では無いと私は思います。

とにかく明治維新の前は時代の進行が急速で 色々な策略が うごめき昨日の友は今日の敵 誰が味方で誰が敵やら・・・・幕府首脳陣の事を無能者扱いしている物が多いですが 物凄く大変だったと思います。

昔、白虎隊のドラマに使われたベーやんの歌の題(副題?)が「もう少し時がゆるやかだったなら」と有りましたがまさに其の通り もし自分だったらと考えるとこの時代は頭が痛く成ります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。「この時期」というのは日米修好通商条約の時期ということですよね。幕末から明治維新にかけては色々な策略がうごめいていたことは学んでよく分かりました。ところで、日米和親条約は皆さんがおっしゃるように勅許は得ていない(得ようともしていない)ということですね?

お礼日時:2006/05/27 19:53

日米和親条約に限らす、修好通商条約以前には、どんな重要な政策を実行する場合でも、幕府が天皇の許しを得ることはありませんでした。


また、たしかハリスの日記にも出て来たかと思いますが、当時の幕府は勅許は簡単に得られる、形式的な手続きと考えていたようです。
(往復にかかる日数+&程度で調印できる、などの内容の記述が出て来ます)
勅許が得られなかったのは、孝明天皇が強固な攘夷思想の持ち主であったことに加え、将軍継嗣問題をめぐって一橋派の一部が、自派を主張を通りやすくするように妨害したこともあったようです。
天皇が、幕府の思う通りに行動しない、などということは、江戸時代の天皇の状況を考えれば予想外の出来事ではあるのですが。

ちなみに、日米修好通商条約は不平等条約でしたが、それは外交の経験がなく、不平等な点に気づかなかったからで、例えば、「アメリカ人が犯罪を犯したら、アメリカの領事が裁判をしてくれる」と言われれば「それではよろしくお願いします」といった程度の認識だったのでしょう。
それから、通貨レートは「同種同量」という規定ですから、金同士、銀同士の交換なら別に不平等ではありません。ただ、日本国内と国際的なレベルでの金銀の交換比率が大きく違っていたのです。
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この回答へのお礼

よく分かる説明、ありがとうございました。ちなみに「禁中並公家諸法度」はこのことに何か関係ありますか?

お礼日時:2006/05/27 19:45

日米和親条約は、朝廷の怒りに触れる内容ではありませんでした。



難破船を救助したり、水、食料の補給をしたりです。
もちろん、アメリカ船籍の船の入港は認めてはいません。

人に聞かなければいけないレベルではなかったようです。
(政府として、国と国としての当たり前の約束)

これに対し、
日米修好通商条約は、
治外法権、
不当な通貨レート。
1ドル銀貨と一分銀の重さで比較。1ドルがほぼ1朱(現在の1ドル130円が、1ドルが1両の1/4)

こう言う、とんでもない条件であった訳です。

更に孝明天皇が外国人を忌み嫌っていて
「攘夷」外国人を追い払う思想でしたので、

相談しに行った。
そしたら、
「ならぬ、ならぬ!神国日本を異国人に汚させてはならぬ。」
日米修好通商条約の勅許など問題外の怒りようであったそうです。

何故相談しに行ったのか?
幕府の責任逃れ。

治外法権
1ドル(130円)が1両の1/4。

許しを得て責任を逃れようとした。
問題が起きたら勅許を盾にすれば済む。

この時点で、幕府は政府としては終わりです。
(無責任政府)

テレビで良く国会中継されてますね。
でも、ここまで酷い政治家は見た事はありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「怒りに触れなかった」ということは、勅許を出した、ということですか?それとも天皇に相談はなかったが、特に問題はなく問題にならなかった、ということですか?

お礼日時:2006/05/27 19:43

「堀田正睦が日米修好通商条約の許可を孝明天皇に(必要がないのに)求めてしまったことが、朝廷や尊皇派の発言権を増すことにつながり、歴史に大きな影響を与えてしまった、という理解でいいのでしょうか?」



はい、そのように理解しております。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/05/27 19:39

勅許は得ていません。

そもそも、勅許を得なければならないという考え方がありませんでした。

アメリカの側からしますと、ジャパンの元首はタイクン(将軍)です。タイクン以外にミカド(天皇)というローマ教皇の如き存在がいるとは知られていたでしょうが、ミカドはジャパンの元首とは看做されていませんでした。
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございました。
と、いうことは、堀田正睦が日米修好通商条約の許可を孝明天皇に(必要がないのに)求めてしまったことが、朝廷や尊皇派の発言権を増すことにつながり、歴史に大きな影響を与えてしまった、という理解でいいのでしょうか?

お礼日時:2006/05/26 20:49

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