
A 回答 (9件)
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No.9
- 回答日時:
何か勘違いをされている方がいますね、北条氏康なんて明らかに信玄や謙信と同格どころか格下ですよ、五分の力を持ちながら小田原へ攻められれば篭城することしか出来ない=軍略が無い=野戦が下手。
信玄の駿河攻略における一連の行動を見ても分かりますが、実力は信玄の方が上手。
それに氏康には、信玄が行ってきた数多くの事業(治水 貨幣製造 など)や「甲州流軍学」のように後世の人々に語り継がれるようなものはありません、だから家康の傘下になったからといって北条の軍略や統治の仕方が後世の手本になるとは思えませんね。
No.8
- 回答日時:
よく「三方原の合戦」で大敗したから、徳川幕府は信玄を持ち上げざるを得ずに「甲州流軍学」を幕府容認とした、というような声を聞きますがこれ大間違いですよ^^
そもそも武田VS徳川の戦いというのは、1572年~1582年まで10年に渡って繰り広げられてきました。
その間家康が信玄や勝頼に勝てたのはほとんどありません、特に長篠の戦い以前はね。
いかに武田の軍略がすぐれており、それを肌で実感じてきたのが若き日の家康及び徳川の家臣団なのです。
そしてその武田と唯一互角に渡ったのが上杉謙信は、信玄同様ほとんど負け知らずな大名な為、双方が戦った川中島は有名になりました。
群雄割拠の時代から、版図を広げていった大名同士の戦い(大名自ら出陣)はこの両雄のみです。
No.7
- 回答日時:
影響は、信玄が謙信並みのすごさがあったことになってることでしょうか。
信玄は確かに北条氏康なみのすごさはありましたが、上洛を2回して、実力を頼られて関東管領になった謙信とは格が違います。
川中島は、日本がドイツに引き分けて有名になったようなものです。
信玄は治世や文学に理解がありましたから、信玄の伝記が作られました。そして、家臣の多くが早めに勝頼から家康に乗り換えていましたから、作った文献が徳川幕府という権力者の後ろ盾で広まりました。
謙信は関東管領として、東国の悪者を懲らしめに行っただけなので、信長の反対勢力の抹殺や、領地拡大のための戦いと違い、悪者が反省してしばらくの間、鳴りを潜める程度の影響しかありません。
川中島は5回ですが、北条とは10回以上戦っています(関東管領なので関東に居る悪者がメインは自然)ので、北条が早くから家康の配下に入っていれば(家格が上の北条家としてはありえなかったけど)、そして北条家に伝記を作る文化があれば、北条氏康のほうが有名になっていたはずです。
No.6
- 回答日時:
(1) 双方に多数の死傷者を出し、特に武田方は辛勝とは云いながら、信玄の弟をはじめ重臣を失い、相打ち同様の激戦でした。
しかも関白近衛前嗣の謙信あての書状に「自身太刀打ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」とあるように、また、信玄が太刀を浴びたとうわさされたほど、両軍の大将が前線で戦った、古今にない激戦だったからです。 京都ではさぞ噂になった事でしょう。 日本中に広まり、江戸時代「甲陽軍鑑」が書かれました。(2) この当時、武田、今川、北条三国同盟があり、信玄は南と東への進出ができず、西北の飛騨、北の越後、東北の上野へ進出をはかっています。 これを知った謙信が越後を守るため、元信濃の村上氏を助ける事もかねて、本格的川中島の決戦を挑みました。 その結果信玄は北への進出をあきらめ、上野に向かいます。 上野の小豪族たちと住民が戦火を浴びる事になりました。
No.5
- 回答日時:
>なぜ歴史的に有名になったのか?
武田家は孫子の兵法に則り正当派的な戦法に土地柄や日本的な工夫を施し、保守的ではありましたが優れた戦術や戦略をうみだして、後に武田甲州流軍学と呼ばれる学問の基礎を確立しました。
軍の動員法や直線的軍道の建設、情報の連絡法、軍制の確立、戦略的行動などのシステム化は当時として先進的でした。
これに対抗する軍事学が発達しなかった(一部楠木流などの流派はありましたが)
上杉は戦争好きで、実戦で無性に強く、武田に対抗して戦った唯一のけんか相手でありしかも互角に近い力を示したので両者の戦いは有名になったのです。
>川中島の合戦の地元や近隣への影響
この合戦は数次の長期戦でしたから地元の農民は大変な迷惑だったと思います。
しかし結果としては双方の痛み分けで以後戦争はなくなりました。
近隣の諸国はその間直接の侵略を受ける事がなく、また両家の戦力が削がれましたから、息がつけました。
もし両家の戦いがなく協力関係であったなら武田家は東海道方面を席巻し、信玄の生きている間に織田家との決戦が起こった事でしょう。
上杉は関東に進出し北条家と長期戦を演じて後、北陸道に向かい織田家との決戦と成ったとおもいます。
恐らく歴史は大幅にへんかしたに違いありません。
No.4
- 回答日時:
「上杉氏の最終目的は関東に進出して北条氏を討って、鎌倉幕府のようなものを作ることが望みで、それならば信濃などに介入せずにさっさと関東に行くべきと思われます。
」上杉家の本拠である春日山城は、信濃との国境から遠くありません。もともと、長尾家は信濃北部、川中島あたりの武士とはいろいろ関係を持っていました。
武田が信濃を完全支配すれば、上杉は脇腹に刃を突きつけられたことになります。いつ何時、武田軍が越後に乱入して上杉の本拠地で略奪暴行を働くか分かりません。
上杉家が「利益を度外視して」信濃に何回も出兵して武田と戦ったのは、信玄が信濃北部に進出して来てからです。信玄が小諸の諸氏や中信濃の小笠原と戦っている時は、長尾=上杉は何もしていませんでした。信越国境が脅かされなかったからです。
「川中島の合戦の後、武田が飯山城を攻略して越後へ乱入しなかった理由」についてはっきりした経緯は分かりませんが、犠牲の大きかった川中島の合戦の後で武田と上杉の間で妥協が成立したのかもしれません。
「上杉は飯山城より南へは出兵しない」
「武田は飯山城を攻撃しない」
ということであれば、武田・上杉の両方の利益になりますから。

No.3
- 回答日時:
徳川家康は旧武田家家臣を多く召抱え、旗本の中には何となく武田信玄を名将とする空気がありました。
そして太平の時代になりますと、戦を知らない武士たちに行軍のやり方や陣立てを教える軍学という学問を教える者が出てきて、諸流派の内でも、甲州流軍学が江戸の旗本たちに流行りました。
甲州流軍学は武田家の家臣小幡景憲が始めた学問で、高坂昌信の書いたものをベースにしていますから、どうしても川中島の合戦が出てきます。
内容に関しては今一ですが、実際には戦がある訳では無いので、武士の素養として浸透したわけです。
武田家としては、南下すれば今川の勢力とぶつかり、関東へ進出すれば北条とぶつかりますから、影響の少ない信濃に進出して起こったのが川中島の合戦ですが、上杉氏にとっては、信濃の村上氏などに頼まれての出兵で余り益が無く、国内を疲弊させるだけですし、武田氏も結果論としては、美濃の織田氏と境を接することになりましたから、馬鹿馬鹿しい戦と思われます。
上杉氏の最終目的は関東に進出して北条氏を討って、鎌倉幕府のようなものを作ることが望みで、それならば信濃などに介入せずにさっさと関東に行くべきと思われます。
影響としては、信濃の武士が武田氏の影響下に入り、その生き残りが真田氏などになります。
また、美濃にも手を伸ばしたので、一時木曽の豪族たちが武田氏に従いましたが、やがて織田氏に後押しされた彼らにより、武田氏は滅亡しました。
No.2
- 回答日時:
(1)の答
戦国時代では稀な、軍団と軍団同士の正面からの激突であり、死傷者が多かった。正確な数字を掴むのは困難ですが。
(2)の答
武田側では、信玄の弟の信繁が討ち死にしました。武田側が総崩れにならないのに、大名の弟が討たれるというのは極めて稀なことです。
この戦いの結果、現在の長野市付近を武田が支配することが確定し、上杉側の前線は飯山城付近に後退しました。上杉は、越後への玄関口である飯山城を死守するのみと言う形です。
武田側も、信濃のほとんどを支配下に置いたことで満足し、飯山城の攻略、越後への侵攻は特に試みませんでした。川中島の合戦で、武田の信濃征服が完了したと言えます。その意味で、歴史的に重要な合戦でした。
No.1
- 回答日時:
川中島の合戦が有名になったのは江戸時代に戦乱もおさまったあとに流行した軍学が甲州流(武田信玄周辺の武将に仮託)や越後流(上杉謙信周辺の武将に仮託)が主流となり、そこで大々的に取り上げられたからです。
地元や近隣の影響としては、あの周辺の国人はもともと上杉を頼っていたのが武田の力が浸透したために国を追われて亡命せざるを得なかったという影響はありましたが、大勢にはそれほど影響はありません。
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