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賽の河原に積んである石積み(ケルン?)は
どういう意味があるのでしょうか?
崩したら呪われるのでしょうか?

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A 回答 (3件)

おはようございます。



先ず、「ケルン」は登山用語で、先に登った登山者が後進の登山者の為に、頂上や登山路を示す為に積み上げた石山のことです。こっちは壊すと、道標が無くなって困っちゃいますね。まあ、登頂記念に作っていくパーティーなんかもいたりします。

そして賽の河原の石積みですが、説法の一つに逆縁で親より早く夭逝した子供たちは、親不孝をしたと言う罪により、賽の河原で石積みをせねばならないとされており、親を思いながら一つずつ積んでも、その罪により積んだ端から地獄の鬼に壊されなければならず、いつまでも賽の河原で石積みをし続ける・・・と言うものがあります。
その子達を憐れに思う人、子供が夭逝してしまった親などが、その子の負担を軽くしようとして、実際の河原などで石を積んだりしているんですよ。

崩したら呪われるどうのと言う事ではなく、その積んだ人の心を思えば、崩すことは出来ないものだと言う事ですね。
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積み石はあれは「卒塔婆(塔)」です。


卒塔婆は、仏教では“釈尊の遺骨を納めた塚”。そこから転じて、“不偏なる大宇宙の真理”を象徴するものです。
詳しくは、以下の回答No.5を参照してください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2251693

五重塔や五輪塔・宝篋印塔・卵塔など、塔にはさまざまな形がありますが、いずれにせよ塔を築くことは真理を具現化する行為として、その功徳が説かれました。
そこで、自分自身のために、または他者に成り代わり塔を建てることが行われます。
特に死者を追善(故人に成り代わり善行を行うこと)ために塔を建てることが行われ、石塔を墓石に用いたり、板状の卒塔婆を建てる事が広まります。ですから仏教徒の墓石は単なる記念碑の類ではありません。

さて「賽の河原」ですが、「賽」とは境界線を意味し、三途の川の「川」は、ここでは聖俗、生死を区切る結界を意味します。
もともと賽の河原や三途の川はインド思想や仏教には無い死生観で、日本で発展した考えです。古くから日本では、川から向こうは神霊・祖先が集う他界(死の世界)と考えられ、川を渡るのはその流れで罪や穢れを清める必要があります。川を挟んで寺社が建立されるのは、川の向こうを神聖視する考えからです。
そこで、子供は人間になる手前の存在と考えられ、そこから賽(境界線)に子供が集うと考えられたのでしょう。

死んだ子供はそこで生きているうちに行えなかった善行を積むために、石で塔を築く。そこで子供を失った肉親が子供に成り代わり石塔を築くという民間信仰が生まれました。
なお、地蔵菩薩が子供の守り本尊とされるのも、日本で地蔵尊が境界を守る仏として信仰されたから、中間的存在である子供を守るとされたのでしょう。
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「賽の河原」という(幻)の場所の石積みであれば、それは地蔵和讃で歌われているものだと思います。


積むのは幼くしてなくなった子供たちで、壊すのは地獄の鬼です。

登山者のケルンとは意味が違うと思います。そちらの意味はわかりません。一般的に河原で普通に積んであるとしてもそれを間違って崩したこと=呪われるなどではないと思います。よほどの怨念が籠もったものじゃなければ。

↓地蔵和讃

参考URL:http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jizouwasan.htm
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Q石が積んであると怖い??

よく洞窟や神社などに石が積んであるのを
目にするのですが、

それを見つけると「怖い」というイメージがあるのですが、
どういった経緯で石が積まれるようになったんでしょうか??

最初は意味がある行いだったと思うのですが、
最近では意味も知らずに石を積み上げたりする人もいると思うので、

ちゃんとした理由が知りたいです。
何か参考になるようなことはありますでしょうか??

Aベストアンサー

>どういった経緯で石が積まれるようになったんでしょうか??

元は墓標のようなものです。
賽ノ河原やケルンなどもそうです。

三途の川というと、有名なセリフが
「一つ積んでは父のため・・・」というのがあります。
http://fleshwords.at.infoseek.co.jp/dt/dt048.htm

Qストウーパーって?

ストウーパーって何ですか?

Aベストアンサー

塔のことです。
サンスクリット語では「stu<長音>pa(ストゥーパ)」、これを漢字に音写して率堵波。さらに転訛して卒塔婆と表記します。
塔婆・塔はプラークリット語の「thu<長音>va(トゥーヴァ)」の音写です。

本来は仏教以前からある墳墓のことで、“胎中に遺骨を含む構造”を意味していました。特に釈尊の遺骨である仏舎利や、生存中の頭髪や爪などを納めた塚を指すようになります。またこの塔を中心として釈尊を信仰する在家集団が後の大乗仏教へとつながります。

初期は土饅頭型でその上部に傘状の柱が立っていますが、仏教が各地に広まるにつれて塔の形もさまざまに変化しますが、塔頂や中心を貫く柱は重視され、日本でも塔の頂上に相輪を置き、心柱は舎利を納める場所とされます。

インドでは肉体は消滅しても骨は残るところから、聖者の骨は“不滅なる真理”を象徴するとして神聖視されていました。このような骨をsarira(舎利)といいます。ですから釈尊の遺骨である仏舎利は“絶対なる真理の象徴”とされ、そこから塔そのものも真理の象徴とされました。ですから経典などによって、さまざまな形態の塔が説かれます。


日本で墓石に塔が用いられ、また板卒塔婆が立てられるのも、塔を建立することが真理を具現化する行為として功徳があるとされ、それがひいては死者の追善になるとされたからです。その意味では仏教徒の墓石は単なる祈念碑ではありません。

なお、英語のtowerも語源を同じとします。インド・ヨーロッパ語族ですね。

『仏教辞典』(岩波書店)
『密教大辞典』(法蔵館)

塔のことです。
サンスクリット語では「stu<長音>pa(ストゥーパ)」、これを漢字に音写して率堵波。さらに転訛して卒塔婆と表記します。
塔婆・塔はプラークリット語の「thu<長音>va(トゥーヴァ)」の音写です。

本来は仏教以前からある墳墓のことで、“胎中に遺骨を含む構造”を意味していました。特に釈尊の遺骨である仏舎利や、生存中の頭髪や爪などを納めた塚を指すようになります。またこの塔を中心として釈尊を信仰する在家集団が後の大乗仏教へとつながります。

初期は土饅頭型でその上部に傘状の...続きを読む

Q登山道沿いに積み上げられた石の山

登山道沿いに積み上げられた石の山をよく見かけます。
神様でもまつってあるかな?と思い私も見つけると小さな石を乗せて安全祈願してますが
本来の名前や存在理由わかる人いませんか?

Aベストアンサー

私の父は山岳部でした。私の友人にも山好きが多いです。
日本ではしっかりしたケルンを建てますが、勝手には建てていません。
建てられた場所によってはケルンが崩れてそれが落石の引き金にもなりかねないのです。
そうでない登山道にも見ることがありますね。

私たちの間では、これは賽の河原と同じ原理だと考えています。つまり弔いのための石積みです。登山道でなくても河原や海岸などで小石があると何気なく石を積み始める。そんなDNAが日本人の中にあるのでしょうね。
ケルンにも同じような意味がありますが、日本の石積みとは別物です。
犠牲者が出た場所に後続の仲間が積み上げることはあっても、数が増えることはありません。

しかし最近はこの石積みが増えているそうです。
それは俄かクライマーが急増して、興味本位で積み上げ、それを見た人が更に積み上げると言う繰り返しが原因です。
この石積みにはなんの意味もありません。

Q川原で石を拾ってきてはいけない?

甥(小学生)から、夏休みの自由作品として「小石に絵を描きたい」と相談されたので、近くの河原にでも行って拾ってこようとしたところ、、祖母から「河原から石をむやみに拾ってきてはいけないというジンクスがテレビでやっていたから、やめたほうがいいのでは?」と言われました。
川(川原)からむやみにものを拾ってきてはいけない、という説もあるようですが、これって本当なのでしょうか?ご存知の方、教えていただければ幸いです。

Aベストアンサー

こんにちは。

私は子供の頃、古くさい山と川に囲まれた田舎に住んでいましたので、昔、その話は聞いたことがありますが、私の知っている話は、そのようなことではありません。

どこにでもある小石のような類ではありません。多くの小石は、上流から、転がり、角が取れ、丸くなってたどり着いたのですから、そのような自然淘汰されたものには、何の問題ありません。また、その石で面白い形を売り買いしている人たちもいました。

庭屋さんが、素性の明らかではない、どこかにある石を持ってきてから問題が発生するようになったという話があります。

本当に自然の中にあったものは、良いのですし、びっくりされるかもしれませんが、古い墓石に使われていた自然石でも何も発生しません。(石と言っても、せいぜい、長さ10センチ幅8センチぐらいの自然石です。普通、それが墓石だなんて分かりません。そんなものが土の中から出てくるような土地もあります。おそらくは江戸時代前は、庶民は、お墓の石に普通の石を置いたのだと思います。)

他には、あるお寺(曹洞宗系)は、子供たちに、自分の家から1個の小さな石をお寺に持ってくるとご利益がある、というところがあります。

また、静岡県の大洞院というお寺の石松の墓の石は、多くの人たちが、博打の運が強くなると言って、削って持って行ってしまいました。それで、儲けた人が立て直したという話もあるぐらいです。墓石を壊して持っていく人間の浅ましさに関わらず、何も起こらないはおろか、運に恵まれるというわけです。

ところが、そうでないものがあるのです。私のみた中では、場所は言いませんが、都内の小さな神社の鳥居の前にある石は、どうみてもいわく付きのものがありました。なんとなく、その存在の不自然さが目立つのです。

そのような石は、大人でも運ぶのは大変ですし、よほど鈍感か、欲に目がくらんで意図的にしなければ、そのような石が、そこに置いてあるという不自然さだけで、なぜかヘンだなって気がつきます。

それを、科学的に言えば、また、別の側面があるのかもしれませんが。

こんにちは。

私は子供の頃、古くさい山と川に囲まれた田舎に住んでいましたので、昔、その話は聞いたことがありますが、私の知っている話は、そのようなことではありません。

どこにでもある小石のような類ではありません。多くの小石は、上流から、転がり、角が取れ、丸くなってたどり着いたのですから、そのような自然淘汰されたものには、何の問題ありません。また、その石で面白い形を売り買いしている人たちもいました。

庭屋さんが、素性の明らかではない、どこかにある石を持ってきてから問題が...続きを読む

Q三途の川 渡し賃(六文銭)について

三途の川のほとりに木があり、奪衣婆と懸衣翁がいて、婆のほうは渡し賃(六文銭)を持たない人が来れば、その衣服を奪い取ると言われていますよね?

初歩的な質問で大変恥ずかしいのですが、渡し賃(六文銭)を持たない人とはどうゆう人なのでしょうか?棺に入れる際に、何かを入れ、あの世で十六銭に変わるということなのでしょうか?

どのように生きたかは関係なく、すべての亡者がこの婆と翁に出会うということですか?十六銭持っていても剥ぎ取られるのですか?

また、この奪いと合った衣服を木の枝に掛けて、その垂れ方によって生前での罪の重さが分かるらしいのですが、どのような垂れ方をした際は「重い罪」なのですか?普通に考えると、枝が折れそうなくらい、服が重いなどの考え方でよろしいのでしょうか?

ここで、裁かれ、三通り(橋、深い水、浅い水)のうちのどれかの方法で宋帝王の元へ向かうということでいいのでしょうか?また、途中、この三途の川で諦めてしまうということもあるのでしょうか?

哲学の世界ですので、一概には「これだ!」という回答がないかと思いますが、よろしくお願いします。
質問ばかりで大変かと思いますが、よろしくお願いします。

三途の川のほとりに木があり、奪衣婆と懸衣翁がいて、婆のほうは渡し賃(六文銭)を持たない人が来れば、その衣服を奪い取ると言われていますよね?

初歩的な質問で大変恥ずかしいのですが、渡し賃(六文銭)を持たない人とはどうゆう人なのでしょうか?棺に入れる際に、何かを入れ、あの世で十六銭に変わるということなのでしょうか?

どのように生きたかは関係なく、すべての亡者がこの婆と翁に出会うということですか?十六銭持っていても剥ぎ取られるのですか?

また、この奪いと合った衣服を木の枝...続きを読む

Aベストアンサー

これは、哲学っていうより仏教というか宗教の世界ですね。ですので、いろいろな話があると思いますので参考程度にしてください。

>>どのように生きたかは関係なく、すべての亡者がこの婆と翁に出会うということですか?

まず、国によって差がありますね。川を見たこと無いような国の人は、三途の川を見ないようですよ。
そして、川を渡るといっても、生前の生き方によって差があるようです。溺れながら苦しんで渡るとか、渡し船で渡る、水面を歩く、橋があってそれを歩いて渡る、空を飛んで渡るなど・・。もちろん橋を渡ったり・空を飛んで渡る人は濡れてないので、川を泳ぎきって濡れた衣服を取られてその婆と翁に重さを計られることもないです。

そして、すでに、お金も地位も関係ない世界なので、お金(六文銭)は無意味です。

泳いで渡ることになった人には、川底に自分の執着したもの(お金・ブランド品等、私の場合はセル画?)が見えるそうです。それを取ろうとすると、衣類はさらに重くなっちゃうでしょうね。

やっぱり、空を飛んで三途の川を渡りたいですね。

P.S.
友人Aのネコちゃんが死んだときは、三途の川の代わりに崖を登りました。川を見たことないネコだったのでそうなりました。あと、お迎えのネコちゃんたちが来たそうですが、頑張って崖を登るとき、マラソン選手の体に触ってはいけないルールと同様に、お迎えのネコたちが「頑張れ!」と応援はできても、手助けは全くできないそうです。どうも手助けしたくとも、まだ成仏していない段階なので、霊が人間に触れないのと同様に手助けできないそうです。これは、友人Aの友人Bの守護霊さんからのレポートでした。

これは、哲学っていうより仏教というか宗教の世界ですね。ですので、いろいろな話があると思いますので参考程度にしてください。

>>どのように生きたかは関係なく、すべての亡者がこの婆と翁に出会うということですか?

まず、国によって差がありますね。川を見たこと無いような国の人は、三途の川を見ないようですよ。
そして、川を渡るといっても、生前の生き方によって差があるようです。溺れながら苦しんで渡るとか、渡し船で渡る、水面を歩く、橋があってそれを歩いて渡る、空を飛んで渡るなど・・。...続きを読む

Q日蓮宗と創価学会の関係

先日初めて日蓮宗の葬儀に参列しました。
日蓮宗にあまり馴染みがなかったので、「教えて!goo」で日蓮宗を
検索したところ、「創価学会」とつながりがあることがわかりました。
具体的にどういう関係なのか教えてください。

あと、日蓮宗って仏教ですよね(違っていたらごめんなさい)
なぜ、仏壇の中に仏様がいらっしゃらないのでしょうか?

Aベストアンサー

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会なんですが、最初は創価教育学会といいまして、
宗教団体ではありませんでした。それが、道徳教育には宗教が必要だという考えもあって
日蓮正宗へ参加します。でもって袂を分かつんですが、日蓮正宗方の言い分は
邪流に走ったから破門なんですが、創価学会方の思いは「散々、貢がせておいて
いらなくなったらポイっかい」というものです。
なので、創価学会は寺院も坊さんもおらず、葬式も友人葬として学会員で行います。
日蓮正宗が学会を池田教といえば創価学会は正宗を日顕宗と呼んだりしています。
悪く言えば、しいたげられても尽くしてきたのに、必要がなくなったら
あっさりとフラれたときの逆恨みとでもいいましょうか、
聖教新聞なんかを見るとあからさまな攻撃記事がありますね。
共通点と言えば、双方とも何か言えば必ず反論してくるところです。

仏壇に仏像がない理由ですが
現在の仏像というのは仏教を広めるために他の宗教の神様が仏に帰依したという
考えのもとできあがったもので、本来、釈迦が説いたものには偶像という概念が
ありませんでした。日蓮大聖人もまた釈迦が説いた仏法への回帰を目指していたため
正統な日蓮系には偶像崇拝はないんですね。

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会な...続きを読む

Q「めくら」は差別用語?

先日、盲導犬の番組を見ていたら母が「この人はめくらだから・・」と
言いました。そこで私が「めくらは差別用語だから言ってはいけない」と
言ったところ父が「盲と書いてめくらなんだから差別じゃないじゃん」と
言いました。
めくらは差別用語では無いのでしょうか?

Aベストアンサー

no.9さんと同意見です。参考までに(1)ある週刊誌の新聞広告で「群盲像を撫でる」が「(この部分空白)像を撫でる」になったことがありまして、その新聞記事をコレクションしテいます。なお、「ぐんもうぞうをなでる」ではimeパッドは一発変換しませんでした。松島奈々子はしたくせに。(2)映画「座頭市物語」(1962)では「このどめくらが」「確かにオレはめくらだが目明きのお前さんにこんなことができるかい」と言ってローソクを切る場面がありますが(実に慎重に斬ります)、テレビ放映時は音声が消されてました(現在のDVDでは最後か最初の「おことわり」付きで復活していたと思います。(3)10数年前のNHKラジオで地方の聴取者への電話インタビューをしている際にあるおじさんが「わたしは病気でめくらになりまして云々」と発言し、アナウンサーがうろたえつつ話をそらそうとしたにもかかわらず「めくら」発言を繰り返し、インタビューが終わった後、「お詫び」をいってました。(4)奈良県生駒市に多い姓に「聾田(つんぼだ)」がある。人名である。図書館へ行って全国の電話帳を見るかネットで「珍名」検索をすれば同様のものに多数ヒットします。「浪人」「売り子」もダメらしいですし。

no.9さんと同意見です。参考までに(1)ある週刊誌の新聞広告で「群盲像を撫でる」が「(この部分空白)像を撫でる」になったことがありまして、その新聞記事をコレクションしテいます。なお、「ぐんもうぞうをなでる」ではimeパッドは一発変換しませんでした。松島奈々子はしたくせに。(2)映画「座頭市物語」(1962)では「このどめくらが」「確かにオレはめくらだが目明きのお前さんにこんなことができるかい」と言ってローソクを切る場面がありますが(実に慎重に斬ります)、テレビ放映時は音声が消されてま...続きを読む

Q賽の河原で地蔵菩薩に救済されるか否かは太古の昔から決まっていて・・・

賽の河原で地蔵菩薩に救済されるか否かは太古の昔から決まっていて・・・

救済されるか否か、地蔵菩薩が来るかこないかわからないので餓鬼(?)達は自分は地蔵菩薩に救済されるという確証をえるために賽の河原で石を積み続ける・・・

仏教を予定説チックに解釈するとこうなりますね。
もともと親鸞聖人の悪人正機の考え方にはプロテスタントの影響が見られるようですが・・・。

上記の解釈でなにか不都合なことが生じるでしょうか。

御回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 お地蔵さんの信仰は日本において大きく発達したものと考えてよいと思いますよ。
>>賽の河原で地蔵菩薩に救済されるか否かは太古の昔から決まっていて・・・
 賽の河原の物語は「地蔵和讃」「賽の河原地蔵和讃」と呼ばれるものに描かれています。この和讃の中心となる人物は親に先立って死んだという罪であの世とこの世の狭間で石積みをさせられている子供達です。彼らは鬼の責め苦にあえぎながらも、最後には地蔵に救われていく。
 ここでは、明らかにお地蔵様は子供の守護者として描かれていますが、中国仏教の中の地蔵菩薩は特別子供を大切にするという信仰はありません。日本に伝わっている経典を見ても描かれていない。つまり、教典的な論拠以外のものが働いているわけです。
 その一つが、塞の神の信仰です。この塞の神は、ムラのはずれに置かれていた石の像で、ミラノ外部から災いを塞き止めるものとして置かれていました。それが道祖神と呼ばれるようになり、また仏教伝来と共にお地蔵様という形になっていきました。この、「塞の神」の性格としては「道祖神」と呼ばれたりもしますが「道祖」とは先祖と同じく「同祖」という意味も内在しており、先祖神の一面を持っています。そうなりますと、日本において自然発生的に生まれた宗教ここでは「自然宗教(自然を崇拝するという意味ではありません)」と呼ばせていただきますが、この自然宗教では先祖神は子孫を繁栄させる守護神の性格を持っています。その「塞の神」「道祖神」の後身という形で日本に定着した地蔵菩薩は、先祖神の性格を強く受け継ぎ子供を特別大切にするという性格を引き継いだものと思われます。
 また、七歳以下の幼児の埋葬法も、大人と同じ墓地に埋葬せずに、「塞の神」のそばに葬られるということがなされていたようです。なぜ、大人と同じ墓地に埋葬しないかといえば、七歳までの子供はまだ人間とも神ともつかない未分化な存在であり、その死にあっても早くこの世への再生が願われました。
 現代日本でも地方に言うとよく分かりますが、お墓は生活の空間から少しはなれたところにおかれています。なぜかといえば、ムラという日常の空間をこの世と呼び、ムラの外という非日常の空間をあの世と呼び、日本の自然宗教において死者は定期的に供養され(この期間は三十三年~五十年の開きがある)「先祖」と呼ばれるようになるまでは生きる者に災いをもたらすと考えられていたので、ムラというこの世の外であるあの世に墓というものを置いたと考えられています。
 それに対して、子供の埋葬の場合は塞の神の近くに葬ることで、この世への早い再生が願われていたようです。
 いずれにしてもこのような要因が絡み合って、日本の地蔵信仰が作られていきます。


>>救済されるか否か、地蔵菩薩が来るかこないかわからないので餓鬼(?)達は自分は地蔵菩薩に救済されるという確証をえるために賽の河原で石を積み続ける・・・
 この地蔵和讃に関しては、賽の河原の子供達の救いと共に、子供たちに先立たれた両親の救いという面も存在します。
 この和讃で注目すべきは「鬼」です。とこれは日本のフランス文学者・評論家の京都大学名誉教授多田道太郎氏は指摘しています。冥土の幼児たちが積み上げた石を「鬼」が破壊する。この一見むごい仕打ちによって、「地蔵和讃」というものをつむいできたものたちは亡き子を思う親の気持ちが、逆に子供達の救済を妨げていることを知らせます。地蔵和讃にはいくつかのバージョンがありますが、
「父の涙は火の雨となりて その身に降りかかり 母の涙は氷となりて その身を閉ずる嘆きこそ 子故の闇の呵責なり かかる罪科がある故に 賽の河原に迷い来て 長き苦患を受くるなり」
これとはまた別バージョンを見ましても、
「酷やかわいや不憫やと 親の嘆きは汝らの 責め苦を受くる種となる」
とあらわされています。
 このように子供を思うばっかりに子供を苦しめる結果になっているという指摘は人情味がないと思われるかもしれませんが、これが仏教のスタンスをよくあらわしています。仏教は「苦」からの解放を教える宗教といってもよいと思いますが、そのためには自分自身の苦しみの原因から目をそむせてはいけません。多くの場合苦しみの原因は自分の外にあると考えがちですが、仏教では苦しみの原因は自分と内にあると考えます。まずは自分を振り返ることから始める、つまり「内省」といえば分かりやすいでしょうかね。わが身を棚上げした議論は苦しみの解決にはならず、苦しみの原因をあいまいにし余計な争いを生み苦しむ結果をもたらします。そこで、地蔵和讃に描かれる鬼をもって親達にこの「内省」をすすめるのです。
 このように「地蔵和讃」は悲しみにくれている親達に悲しみ苦しみの原因を鬼という姿を現すことで内省をすすめます。そして、次に真打の地蔵菩薩の登場となり、鬼の責め苦に疲れ果てた子供のもとに現われて、父母恋しさに涙する幼児たちを抱き上げて、これからは「娑婆の父母を忘れることはできぬだろうが、私を冥土の親と思いなさい(いつまで親をしたうとも 娑婆の親には会えぬぞよ 今日より後は我こそ 冥土の親と思うべし)」と諭し、慈悲の涙を彼らに注ぐのです。
 ここで注目すべきは「私を冥土の親と思いなさい」これは、子供達の娑婆で悲しむ親との執着を切り離すことで、娑婆にいる悲しみにくれる親達に子供への執着を切り離し、内省とともに幼児を亡くすという悲しみを超えていく道を知ることができるようになっているわけです。


>>仏教を予定説チックに解釈するとこうなりますね。 
 確かに「予定説」としてみようと思えば見れるのかもしれませんが、上記のような解釈に基づきますとちょっと違うように思います。


>>もともと親鸞聖人の悪人正機の考え方にはプロテスタントの影響が見られるようですが・・・。
 これに関しても、まず悪人正機説の「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」という言葉は、現在親鸞聖人のオリジナルではなく法然上人の言葉を伝えたものといわれています。私はこの言葉にキリスト教系の救済思想よりも、「まず自分自身を見直しなさい」という仏教の思想、先ほどの「地蔵和讃」の説明で言えば「内省」のほうを強く感じます。
 なぜならば、この悪人正機説の説く悪人とは誰のことかといえば、親鸞聖人は、「正機」ということについて、このようにも述べています。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(阿弥陀仏が五劫考え通した本願は親鸞一人のためであった)」と、自身こそが阿弥陀仏の目的であることを宣言しています。阿弥陀仏が親鸞聖人を救わんがために本願を立てたのだとするならば、親鸞聖人はまさに「正機」に当たります。ということは、正機である悪人とは親鸞聖人のことであり、親鸞=悪人ということ成り立ちます。親鸞聖人にとっても阿弥陀仏の救いの目的(正機)である悪人というは自分の事にほかならないことがいえます。この「悪人」とはどのような意味を持つかというと、親鸞聖人自身が悪人であるという自覚を述べていることからも、ただ単に現代において使用される悪人と言う意味ではなく、自分自身が悪人である事を自覚するからこそ、阿弥陀仏の正機たりえる悪人となるのです。ですから、悪人とは他者を判断する材料ではなく、深い自己反省に基づく自覚ものといえるでしょう。
 また、親鸞聖人は「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」と、「念仏によって救われるかなんて自分は知らない」と述べています。予定説のような「全能の神が人間を救わない訳が無い。」という確信を背景にもつものとは一線を画するのではないでしょうかね?
 念仏によって救われるかなんて自分は知らないけれども、それによらざるを得ない愚かな自分という自覚を説く「悪人正機説」が、プロテスタントの影響を受けているというのもどうなんでしょう?悪人正機説は非常に仏教的だと思いますよ。


>>上記の解釈でなにか不都合なことが生じるでしょうか。
 結局の所、私は今キリスト教系の思想はまだまだ勉強中なので不都合が生じるかは結局の所分かりません。けれども、仏教を勉強しているものとして参考程度に意見を述べさせていただきました、参考にしていただければ幸いです。
 急ごしらえな文章ですので、誤字脱字や乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

 お地蔵さんの信仰は日本において大きく発達したものと考えてよいと思いますよ。
>>賽の河原で地蔵菩薩に救済されるか否かは太古の昔から決まっていて・・・
 賽の河原の物語は「地蔵和讃」「賽の河原地蔵和讃」と呼ばれるものに描かれています。この和讃の中心となる人物は親に先立って死んだという罪であの世とこの世の狭間で石積みをさせられている子供達です。彼らは鬼の責め苦にあえぎながらも、最後には地蔵に救われていく。
 ここでは、明らかにお地蔵様は子供の守護者として描かれていますが、中...続きを読む

Q男性が気持ち悪い。男性不信

単刀直入に言いますが男性って気持ち悪い人が多くないですか?(もちろん素敵な男性もたくさんいます。)

最近男性不信気味です。

私は中高大と女子中、女子高、女子大に通っています

しかし男性の友達もいるしお付き合いの経験もそれなりにあるし今も彼氏がいます

私はコンビニでバイトをしてるのですが、気持ち悪い酔っ払いや、みんな並んでるのに待てずに「おせぇよ!」と暴れてる人や

財布から小銭をほうり投げて「取れ!」と言ったり、何日お風呂入ってないんだろうってくらい臭い人がいたり・・・

バイト中嫌な思いをするとたいてい相手は男性です。女性で変な人もたまにいますが本当にたまにです。たいてい変な人は男性(おっさん)ばかりです。

あと私はひどいハウスダストなのでいつもマスクをしています。すると男子高校生の集団に

「あの人いつもマスクだよね。なんでだろ?」

「素顔がとんでもないブスなんじゃね?」と言われました^^;失礼ですよね。

他にも男子高校生の集団はいつもワーワーうるさかったり店の中で誰が奢るかじゃんけんをしたりしてます・・・

こんな感じで私がバイト中嫌な思いをするのはたいてい男性が相手だし、

ニュースとかでも無差別殺人事件とかレイプ殺人とか監禁とかとんでもない事件の犯人はたいていが男性です。

他にもAKBの握手会に精子をつけていく男性がいたとニュースになっていました。

ジャニーズファンにも非常識な女性はたくさんいますが(しつこい追っかけなど)さすがに自分のオシッコをつけてジャニーズタレントと握手をしようと考える女性はいないと思います

男性の方が常識外れで気持ち悪い方が多いように感じます。
これはなぜなのでしょうか?

社長など偉い人に男性が多いのも事実ですが男性の底辺レベルはあまりにひど過ぎます。

素敵な男性もたくさんいます。私も素晴らしい男性の存在を知っています。
一部の男性について今回質問させて頂きました。

単刀直入に言いますが男性って気持ち悪い人が多くないですか?(もちろん素敵な男性もたくさんいます。)

最近男性不信気味です。

私は中高大と女子中、女子高、女子大に通っています

しかし男性の友達もいるしお付き合いの経験もそれなりにあるし今も彼氏がいます

私はコンビニでバイトをしてるのですが、気持ち悪い酔っ払いや、みんな並んでるのに待てずに「おせぇよ!」と暴れてる人や

財布から小銭をほうり投げて「取れ!」と言ったり、何日お風呂入ってないんだろうってくらい臭い人がいたり・...続きを読む

Aベストアンサー

他の人の回答にもありますが、男は優劣の振れ幅が大きいのです。女性のノーベル賞受賞者というのはとても少なく、よく2ちゃんねるあたりで男性優性主義を主張する人なんかはよくそれを指摘しますが、学校の補講に呼び出されるのは圧倒的に男子生徒が多いですよね。一方、女子生徒はとんでもないバカは少なくて、大抵の子は頭が悪くても補講には呼ばれない程度に帳尻を合わせるのが上手です。

なぜかというと、要はオスって当たりがひとりいればいいんです。その優秀なオスがあっちこっちのメスに種付けすれば全体の種は保たれますし、優秀な種は残ります。
一方、メスはそれほど飛び抜けた才能は必要としません。オスが自分の子孫を残せる数とメスが残せる数ではメスのほうが少ないからです。むしろ、平均的な能力を持ってきちんと子供を育てられることのほうが大切です。

まあ、頭の良さもバカさも男の方がスケールが違うってことですね・笑。
ちなみに、ホームレスも圧倒的に男性が多いのですが、なぜ女性のホームレスが少ないのかというと、中高年の女性にもホームレスになってしまいそうな状況に置かれてしまう人はいるのですが、彼女らの多くは、独身男性の身の回りの世話をする代わりに住むところを確保するので、屋根を失うようなことにならないそうです。
そういえば、昔ちょっとお付き合いがあったある女の子は身寄りもなくお金もない子だったのですが、男のところを転々としながら生きていました。ある意味、たくましいですよね。

他の人の回答にもありますが、男は優劣の振れ幅が大きいのです。女性のノーベル賞受賞者というのはとても少なく、よく2ちゃんねるあたりで男性優性主義を主張する人なんかはよくそれを指摘しますが、学校の補講に呼び出されるのは圧倒的に男子生徒が多いですよね。一方、女子生徒はとんでもないバカは少なくて、大抵の子は頭が悪くても補講には呼ばれない程度に帳尻を合わせるのが上手です。

なぜかというと、要はオスって当たりがひとりいればいいんです。その優秀なオスがあっちこっちのメスに種付けすれば全体...続きを読む

Qパチンコ店で財布を盗まれ被害届を出しましたが…

全財産を失い、呆然として無気力状態がその日以降続いています。。。

件名の通り被害届を提出しましたが、警察は捜査し逮捕まで行ってくれるのでしょうか?
状況は以下です。簡単ですが入力致します。どうかご意見賜りたいです。
宜しくお願いします。

25日に某パチスロ店にて現金93万円が入った財布を遊技中に椅子の下に落としてしまっていたらしく、その15分後に財布を確認すると既にありませんでした。
現金1万円を遊技台にお金を入れ、財布は胸ポケットに入れたのが最後でしたが、その後席を立たずして財布が無い事に気付きましたので、その場に落としてしまった可能性が高いです。
その後店内を探しましたが本当にパニック状態で店員さんと探す事しか考えれず、その場ですぐ警察を呼ぶ事は出来ませんでした。1時間程汗だくになり探しましたが、見つからず、カード類を電話で止めつつ警察に行きました。状況を説明し、その日は紛失届けとして提出しました。
しかし、防犯カメラを確認し捜査してもらうために次の日に警察に被害届として提出し、お店の協力を頂き、警察の方に確認して頂きました。
確かに怪しい行動を取っている人は確認出来たそうですが、盗んだ瞬間を正確に確認出来る、というレベルには至っていないとの見解でしたが、被害届としては出せる内容だとの見解をもらい、派出所に戻り、改めて被害届を記載し、刑事課にて対応、という事でした。

 ●相談の内容ですが、
  年に何万件もある窃盗を、今回被害届として派出所に提出しましたが、
  刑事課にその書面が着いてから早速捜査してくださるモノなのでしょうか?
  放置されてしまうのではないかと、やはり不安です。。。
  犯人らしき人物はカメラで顔や容姿がある程度確認は出来るそうなのですが、、、
  再度確認し、特定することは警察官の範囲では無く、
  刑事課となるとのことでいつになるのか、捜査してくださるのか不安で仕方ありません…

  時間が経つ程、不安と怒りでもう何も手につきません。。。
  (もちろん自分を一番責めていますが・・・)
  犯人が捕まる為に、私は捜査協力と祈る事しか出来ませんが、
  他にも被害に遭われる方が出ませんよう、早期逮捕を願うばかりです。。。

  どうかご回答の程、宜しくお願い致します。。。

全財産を失い、呆然として無気力状態がその日以降続いています。。。

件名の通り被害届を提出しましたが、警察は捜査し逮捕まで行ってくれるのでしょうか?
状況は以下です。簡単ですが入力致します。どうかご意見賜りたいです。
宜しくお願いします。

25日に某パチスロ店にて現金93万円が入った財布を遊技中に椅子の下に落としてしまっていたらしく、その15分後に財布を確認すると既にありませんでした。
現金1万円を遊技台にお金を入れ、財布は胸ポケットに入れたのが最後でしたが、その後席を立たずして財布...続きを読む

Aベストアンサー

警察は捜査はしませんよ。
パチンコ屋に「そいつが来たら連絡くれ」というだけ。
パチンコ屋の店員がそいつが来たことに気付いて連絡してくれるかどうかですね。

一日に何十人下手したら百人単位で出入りしているので、いちいちチェックはしないでしょうね。

犯人もバカじゃないから、しばらくそのパチンコ屋にはこないでしょう。


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