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母を亡くしてはやもうじき四十九日です。
ほんの2、3日の入院のつもりが、退院する前の晩に急変し、昏睡状態になり、その後、10日ほど昏睡状態のまま亡くなりました。
68才でした。いまだに母の死を自分自身受け入れられずにいます。そのせいか、毎晩3時ごろから4時くらいにかけて目が覚めたり熟睡できません。
母は今どうしているのか。寂しい思いしていないのか。何か言いたいことがあるのではないか。
死後の世界とは一体どうなっているのでしょうか。人は死ぬとどうなるのでしょうか。すごく知りたいです。

A 回答 (9件)

私は最近そのことを授業で勉強しました。

何でも人が無意識に夢を見るのは通常ものを考えたりする次のステップなんだそうです。死後の世界はさらにその次のステップ、つまり肉体というひとつの壁を乗り越えて精紳だけが残るとか。でも私はアメリカの宗教熱心な学校に通っているのでなんともいえませんが。友達の話では、生命と言うものが誕生すること事態、神という存在なしにはありえないだろうと言うのです。最後に「お前は信じないのか?」と聞かれたので「信じない」と答えたら、「それじゃあどうして正気でいられるんだ?俺が仮にもし死んで終わりと信じていたら気が狂ってしまうよ」といわれました。正直言って本当の事は誰もわからないと思います。だからこそ人は限られた時間を有効に使って精一杯いきるべきなのではないのでしょうか?私個人としてはアフターライフは信じません。脳の活動が終ってしまったらそこで終わりだと思います。ただ、そうだという証拠はまったくありません。要は人の考えようですね。
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私が読んだ本の主人公の話によると、


人は死んだら、生まれる前に居た場所へ帰っていくそうです。
そこには痛みも苦しみなくて、
そこに居ると、とても幸せな気持ちになるそうです。
そして、逢いたい人に、いつでもすぐ逢えるそうですよ。
だから、お母様はきっと寂しい思いはしていないのではないでしょうか?
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 仏法では、世の中のあらゆる存在を、「有情」と「非情」とに分けています。


 「有情」とは、人間や動物のように、自分の感情、精神作用、思考能力を持っている存在の事で、「非情」とは、これらの働きを持たない存在のことです。
 有情である人間の生命が死んだら、有情でなくなれば非情になる、つまり、有情から非情へと切り替わることを「死」というのであります。
 とはいえ、この「有情から非情に切り替わる」という意味は、死によって、我々の肉体が、生命活動をなくした非情の遺体・遺骨になり、そこに死後の生命がとどまっているということではなく、死によって、有情としての命を終え、非情に切り替わる、その祭に、生前、どのような生き方をして、どのような業因を作ったか、それによって、どのような果報を得るかが、異なってくるのであります。
 そして、非情に切り替わってしまえば、その生命がどこにあるかは、分からないものです。
 あるのだけど、明確に「どこそこにある」と断定することはできないし、掴みようがない、こうした状態を、仏法では「空」と呼んでいます。
 つまり、「有」でもなければ「無」でもない、それでいて、「有」でもあり「無」でもある状態、これを「空」というのです。
 私共が、「生命は死後にまで継続する。そして、もし謗法を犯せば、死後は無間地獄に堕する」と主張していることには、動かしがたい、決定的な証拠があるのです。それは、いわゆる「臨終の相」であります。
 仏法においては、「臨終は、生と死の境、死後への第一歩であるから、臨終の姿は、その人の死後の状態を如実に顕わしている。しかして、謗法を重ね、死後、無間地獄に堕ちた人は、必ず、その臨終および遺体に悪相を現ずるのである」として、次のような状態を「堕地獄の相」として挙げています。
 「集まった自分の身内に対しても、険しく猛々しい目つきで睨む。
手で空をつかんで、もがき苦しむ。
筋道の通った正しい思考を失う。
恐怖のあまり、涙を流して泣き叫ぶ。
大小便が垂れ流しとなる。
苦しみのあまり、眼を固く閉じてしまう。
苦しみのあまり、手で顔面を覆って悶絶する。
異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
身体や口から腐敗臭が漂い出る。
恐怖のあまり、手足を震わせて、怖れおののく。
鼻筋が曲がって、凄まじい形相となる。
白眼を剥きだしてしまう。
眼が血走って真っ赤に変色する。
顔面を伏せて、苦しみ、うめく。
苦しみのあまり、身体を屈めて悶絶する。」(守護国界主陀羅尼経)
 「破れた皮膚から膿が流れ出したり、全身に熱い汗をかいて苦しむ。」
 「狂乱して絶命する。」
 「眼、あるいは耳、鼻、口、毛孔などから、血を吹き出す。」(法華伝)
 「死後、遺体の色がどす黒く変色し、皮膚が収縮して骨がはっきり顕われる。」
 「遺体が固く硬直し、ずっしりと重く感じる。」
 こうした、仏法で説く堕地獄の相を、現実に引きあててみると、まさしくそのとおりで、謗法の心の強い人ほど、その臨終と遺体の上に悪相を現じております。
 これに対し、正しい仏法を信仰した者においては、悪相どころか、かえって、目を疑うほどの善相を示していますが、このような死相の違いこそ、生命が死後にまで継続していることを証明するものではありませんか?
 すなわち、死後の生命が存するからこそ、そして謗法者が死後に無間地獄に堕ちているからこそ、謗法者の臨終に堕地獄の相が顕われるのであり、これ、死後の恐るべき大苦悩が、その死相に厳然と顕われたものに他ならぬのであります。
 死んだ人の成仏を願うのなら、正しい仏法にて追善回向すべきでしょう。それが、唯一、死者(非情)に対して出来る事です。如何でしょうか?
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 このたびは御愁傷さまです。

お力落としのございませんように。
 亡くなったかたを仏さまとして拝んでいきます。このことは亡くなった人のことについては、何も心配することはないということです。
 死後の世界とか人間は死ぬとどうなるのか、というようなことは考えるな、とお釈迦様はおっしゃってます。それは何か悪いことが起こっているということではない、ということです。だから何も心配することはありません。No.2 の ottoxxx さんとよく似た考え方です。
 むしろ心配しなけれならないのは、お母さまを亡くされて寂しがっているあなた自身のことです。この際、色々の種類の宗教書をお読みになったらどうかと思います。
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お母さんは肉体が亡くなっただけで、中身の精神はちゃんといきていますよ。

インドネシアのバリ島では肉体をきてこの世に生まれるということは魂のつらい修行の場なので、はれて肉体から身軽な精神だけになった時にはお祝いをするんですよ(お葬式です)
あなたをそだてあげ、前世よりもずっとりっぱになられたお母さんは、あなたを最後までみまもった後、小さいあかちゃんの肉体きて生まれ変わり、さらにりっぱな魂になるために生きるとおもいます。さらにりっぱな魂になるということが生きている意味の大事なひとつなんですから。
お母さんにはお花やお水をあげて語りかけてください、生きている人となにもかわらない接し方で。。。
あなたとお母さんの想いが強かったらまた来世でひたしい
仲になりますよ。
PHP社から出版されている、魂の伴侶 という本を読んで下さい、精神科の医者が書いた本で、読みやすくすばらしいほんです かなりすくわれると思います 
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この回答へのお礼

回答いただきましてありがとうございます。
魂の伴侶という本、読んでみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/16 01:43

四十九日とはなんでしょう。


浄土系の場合「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていれば、誰でも、西方にある
極楽浄土へ行けるそうです。そうではない場合、生前に悟りを開くことのできなかった
(ほとんど全ての)人の魂は、死後49日間にわたって「中陰(生と死の中間)」の状態に
置かれるといいます。この間に、死者が生への執着を捨てられるか
もしくは、遺された家族が死者のために十分な供養を行えば、より良い六道輪廻
(天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)の世界に転生することができるそうです。
49日目に新しい身体に生前の記憶を消し去られた上で生まれ変わるため、
この「中陰」の状態が明けたという意味で、四十九日の満中陰法要が行われるんです。

この時間が言わば、故人と遺族がお互いに死を受け入れる準備期間になるわけです。
この時間を表す言葉と言えるのが

人は大地に生じ、死して何処に帰す。
身は土、心は虚空。されど志は人に帰す。

故人の心(魂)は「空」にあります。このことはodd-artさんがおっしゃっていますね。
これは胎児に似ています。つまり、母体内の胎児は、まだ、一人の人間ではないが、
母親の組織の一部でもないということです。生まれ変わるまで暖かく見守るのが
周囲の人間のなすべきことと思います。

故人の志は残された人にあります。まさに、
「母は今どうしているのか。寂しい思いしていないのか。
 何か言いたいことがあるのではないか」
と考えてしまうことです。そして、その想いを基にsallyyehさんが、
今後、なにをなすべきか、を考えていくことが大切です。

ここで、yallyyehさんが故人の志ではなく、その心に執着するならば
故人の残した人生の軌跡(志)を軽視することになってしまいます。
なにも、熱心に宗教を求める必要はありませんし、坊さんへ多額の布施を
施す必要もありません。今、yallyyehさんが持っている
信心をもって、故人の心に執念するのではなく、yallyyehさんの心に
宿った故人の志を見つめなおし、故人のより良い転生を祈ることが
故人にとっての供養になると思います。
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こんにちは


sallyyehさんの深い悲しみは、わたしも今戦っている悲しみと同質のものなので、お気持ちがとてもよくわかります。
わたしは大切な人を亡くしてから、もうすぐ1年になりますが、いまだにsallyyehさんと同じような状態です。90歳を越したお母様を亡くしたわたしの75歳の恩師でさえ、もう2年も鬱の状態なのですから、まだ四十九日すら迎えていらっしゃらないsallyyehさんの熟睡できないなどの状態は、ごくごく自然な事だと思えます。
こういった状態が癒されず、鬱の状態が長く続くと「対象喪失鬱」と言われるそうです。対象となる人が亡くなって半年目ぐらいが、残された人の精神的なひとつの区切りとなる目安だそうです。

霊能力者の存在や、臨死体験者の存在もありますが、死んで何日もしてから生き返った人=死後の世界を見てきた人はいないのですから、例えばどんな高僧がそれを説こうが、素晴らしい書物にそれが著されようが、結局は「推測」にしか、過ぎません。
(あ、他の方のご意見やお薦めの書物などを否定するつもりは全くありません!実際にわたしもそういう存在にずいぶんと救われています。例えばNo.5のmimicolorさんがお薦めになった「魂の伴侶」はわたしも読んでみたいと思います。申し上げたいのは、「推測」にしか過ぎないという「現実」です)

もしかしたら、人はその「推測」という範囲の中で納得しながら生きて行かざるを得ないからこそ、信仰をもつのかもしれませんね。

わたしの友人のお父様が病で倒れ、数ヶ月間病院の集中治療室で意識不明だった時、川を渡る夢をみたそうです。川の向うはきれいなお花畑で、そちらへ行こうと渡り始めたそうですが、川の途中で自分の居た側の岸を振り返ると、やっぱりきれいなお花畑だったので、何もわざわざ渡る必要はないなと思い、また元に引き返したそうです。
意識を回復した後、そういう夢を見たと、教えて下さったそうです。

sallyyehさん、死後の世界がどんななのかはわかりませんが、わたしは死後の世界はあると思います。そして、少なくとも、例えば仏教のお彼岸やお盆といった特別な時には、亡くなった人の魂はこちらの世界に帰って来ていると思うんです。他の宗教でも同様です。

わたしなりに納得している考えを当てはめさせていただければ、お母様は今、極楽浄土で良い仏様になる修行中で、寂しい思いはしていらっしゃらないと思います。極楽浄土はそれはそれは良い所で、修行に一生懸命なので、寂しさを感じていらっしゃる暇はないし、お母様からはいつでもsallyyehさんの様子が伺えるので、寂しくないのだと思います。何か言いたい事はあるかもしれませんが、それをsallyyehさんに言葉で伝えずとも、時間はかかっても不思議に自然と伝わってくるものなのではないかと思えます。
泣くだけ泣き、悲しむだけ悲しみ、気の向いた方法で納得の行く情報を得、そうやって頑張ってsallyyehさんの人生を日々生きてくしかないと思えます。

言葉使いや表現方法は異なりますが、わたしが以前このサイトでさせて頂いた質問を下記にご紹介致します。
もしかしたら、sallyyehさんの思っていらっしゃる事と共通する部分があるかもしれませんので・・・。

以上、悲しみの経験が少しだけ先輩の者からのアドバイスでした。


http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=76885
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この回答へのお礼

回答いただいてありがとうございました。
私もきっと死後の世界はあると思います。
糖尿をわずらってから、あまり調子がよくなかったせいか、よく母は言っていました。
「もし私が死んだら、お前達を守ってあげるからね。
私は母のところにいけると思う」って。
母の母、私の祖母ですが。。。そういえばここ何年かは
自分の親の墓のことが気になるらしく、お盆には帰郷していました。
早いもので、この日曜が母の四十九日です。
まだまだ悲しみは消えないし辛くてたまりませんが、できるだけ供養していくことが、
私に残された道なのでは、と思います。

お礼日時:2002/03/16 01:38

sallyyehさん、こんにちは。


心の準備もなくあまりにも突然に亡くなられた、お母様の死に対するお気持ち、お察しするにあまります。
お悔やみ申し上げます。

死後の世界、一体どうなってるんでしょうね。
きっと、誰にも分からないし、本当にあるのかどうかも、やっぱり誰にも分からないことでしょうね。

人は死ぬとどうなるか。
私はこのように考えています。
人の生命は、宇宙の生命と一体であるから、
人は死後、宇宙の生命の中に溶け込んでいくのではないかと。

お母様は、sallyyehさんのすぐそばにいてくれていますよ。そしてsallyyehさんの心の中に、生き続けてくれます。

あまり、気落ちなさらないで下さい。
お母様はあなたの心の中にいるんですから。
きっと、お母様を想うsallyyehさんの気持ちを、とっても喜んで下さっていると思います。

あなたがお元気でないと、反対にお母様が心配されます。
前だけを向いて、お母様と共に生きるつもりで、ゆっくりと一歩ずつ、前進されることを願っています。
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この回答へのお礼

暖かいお言葉いただいてありがとうございます。

もうすぐ四十九日でいつまで悲しんでいてどうするのって友人に言われました。
でも、今は母のことを思っているのが供養だと思っています。
今朝、あるTV番組で、アメリカのテロ事件で犠牲になられた消防士さんたちのご家族のことを放映していました。
突然逝ってしまわれたご主人の死をいまだに奥様は受け入れられなくてふっきれてないとの事でした。
身内の死に局面して悲しんでいるのは自分だけじゃないって思ったら、少し楽になりました。
できれば天国はあるって思っていたいです、そうじゃないとやりきれないです。死んだらおしまいって思いたくないです。

お礼日時:2002/03/13 01:12

お寂しいでしょうね。

心からお悔やみ申し上げます。

「死後の世界とは」「人は死ぬとどうなる」というご質問に対して私は答えることはできません。私も知りませんから。
ただ、「sallyyehさんのお母さまは今どうしていらっしゃるのか」という問いには「あなたのすぐそばにいらっしゃいます」、「寂しい思いをしていないのか」には、「寂しい思いをしていらっしゃるのは、お母さまではなくsallyyehさんご自身です」とお答えしたいと思います。

偉そうな口調でスミマセン。これは二ヶ月前に父を亡くした私の実感です。
「寂しい」「悲しい」「辛い」などは生きているからこそ感じるのではと思います。家族がどんな思いをしていようが、亡くなった本人はぴくりとも動きませんし、何もしゃべりません。ましてもう肉体は「お骨」という物質と化しているのです。

それゆえ私は、これからは、父は私が思い出すときいつもそこにいる存在になったのだ、と思うようになりました。ただそれは、テレビとかでやっている心霊物の感覚ではなく、あくまで主体は「私の思い」です。

sallyyehさんと私とでは故人に対する感情も違っているでしょうし、状況も違うと思いますが、お母さまの死を受け入れられないと苦しむより(受け入れられないのは当たり前なんです!)、目が覚めてしまったら、そのまま気の済むまでお母さまと心の中でお話しするのも良いのではないでしょうか。(ただし、あなた自身がお体をこわさないようにしてくださいね。周りの方たちに心配をかけるのが、一番よくないです)
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございました。
母がもうこの世にいない、その悲しみは徐々にいやされて辛さも次第ににうすれていくのだと
思います。幼少のころからあまり幸せではなかった、結婚してからも父の愛人の存在に30年以上も
苦しんで、頼りだったのは子供たち(私と弟)だった。
そういう母をみてきていたので、不憫でたまらないのです。
でも、いよいよこの日曜が四十九日。
これからはできるだけ供養していきたいと思います。

お礼日時:2002/03/16 01:26

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