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一応過去ログをチェックして自分なりにまとめたところ、殺人罪が適用されるには
1、殺意があったという事実(AさんがBさんを殺そうとして)
2、殺そうとする働きかけがあったという事実(AさんがBさんに拳銃を向けて発砲したら)
3、殺意を向けていた相手が死んだという事実(Bさんに弾が命中して死亡した)
が確認される必要があり、
2と3の間に因果関係が認められない場合は殺人罪は適用されない(丑の刻参りで呪い殺す等)ということですよね?
ではその因果関係というのはどの程度までを言うのですか?

例えばですが
ケース1:
AさんがBさんをを殺そうと近寄った所、Bさんはそれを察知し逃げたら、Bさんは階段から滑り落ちて死亡

ケース2:
AさんがBさんをを殺そうと近寄った所、Bさんはそれを察知し逃げたら、Bさんは野生の熊に襲われ死亡

ケース3:
AさんがBさんをを殺そうと近寄った所、Bさんはそれを察知し逃げたら、Bさんは空から降ってきた隕石が衝突して死亡

いずれのケースも程度の差はあるものの全く因果関係がないとは言えないのでAさんに殺人罪が適用されるのでしょうか?
それとも直接の因果関係があるとは言えないのでAさんに殺人罪は適用されないのでしょうか?
(Aさんが殺そうとしなければ隕石に当たって死亡することもなかったので殺人罪が適用されるのか、
必ず階段から滑り落ちて死亡するとは言い切れないから殺人罪は適用されないのか?)

法律に詳しい方、回答よろしくお願いします。
また、実際にこの程度の因果関係で殺人罪が適用されたという判例をご存知の方は回答よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

三つとも、殺人罪にはならないですが、ご質問は、


法学部の講義でかなりの時間を割いてするような内容
で、ここで説明できる程度の知識をつけられても
更なる疑問をお感じになるだけだと思います。

殺人罪
構成要件
因果関係
相当因果関係説

などのキーワードで、google検索してみてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/12 14:23

まず誤解を解消しておきましょう。



>2と3の間に因果関係が認められない場合は殺人罪は適用されない(丑の刻参りで呪い殺す等)ということですよね?

それ以前に、丑の刻参りは、殺人の結果を実現する具体的危険性がないので殺人行為と言えないから殺人罪にならない、です。仮に、「丑の刻参り」をされていることを知った人が気に病んでノイローゼになって死んだとしても因果関係が無いとは必ずしも言えない(この辺の詳細はひとまず略)ですが、殺人行為が無い以上、殺人罪は成立しません。因果関係を欠くだけならば殺人未遂罪が成立するはずですが、殺人行為ですらない丑の刻参りでは殺人未遂罪も成立しません。

そして、事例1~3はいずれも「殺人行為が無い」以上殺人罪にはなりません。単に近寄ることは「殺人行為」とは言えません。

殺人罪が成立するためには、
1.殺人行為(業界用語では殺人罪の「実行行為」)
2.人の死亡(業界用語では人の死亡という「結果」)
3.行為と結果の因果関係
4.殺意(1~3についての行為者の認識と認容、つまり殺人の「故意」)
が必要です。
2または3を欠くと殺人未遂罪になります。

実行行為とは、簡単に言えば「結果発生の具体的危険のある行為」のことで、殺人ならば、例えば銃で人を撃つ、刃物で切りつけるなど「それは人が死んでもおかしくはない」という行為を言います。単に近寄っただけでは「人が死んでもおかしくはない」という行為ではないので実行行為と言えません。
これが、刃物を持って襲い掛かったとかなれば、話は違います。1は殺人罪になります。それでも2、3は殺人未遂罪にしかなりませんが、これこそ「因果関係」の話になります。

で、因果関係なのですがこれは非常に面倒臭いです。まず因果関係を論じる前提として、条件関係が存在する必要があるというのが一応の理論的通説(と言いますか、まともな理論なら異説はありません)です。「その行為がなければその結果は生じなかった」のであれば条件関係があります(実はここにも細かい議論はあります)。
この条件関係の存在を前提に、どこまで行為者に結果の責任を取らせるのが妥当なのか、ということを理論化したのが因果関係論です。
判例は、条件関係があればほとんど因果関係ありとしてしまうと言われているのですが、それとて実際には限度というものがあります。

で、ここからは確認ですが、「因果関係論の議論の概要、すなわちメジャーな学説の概要を知りたい」のか「判例がどうなのかだけを知りたい」のかどちらですか?後者なら前者の説明は無意味ですから無駄を省きたいので。

この回答への補足

質問者です。

>丑の刻参りは、殺人の結果を実現する具体的危険性がないので殺人行為と言えないから殺人罪にならない

分かりました、訂正していただきありがとうございます。

>単に近寄っただけでは「人が死んでもおかしくはない」という行為ではないので実行行為と言えません。

なるほど、Bさんの首を絞めようと近寄ってもAさんがBさんの首に手を回すまでは実行行為とは言えないのですね。
では刃物の場合はどこからが実行行為となるのでしょうか?
相手に刃物を向けて襲い掛かるまでには「刃物を手に持つ→Bさんに刃先を向ける→刃物を振り上げる→刃物を振り下ろす」という一連の過程があるはずだと思うのですが、
Aさんが刃物を手にしていた時点で「人が死んでもおかしくない」とみなされるのでしょうか?、つまり「刃物を手にしている(過程の)」Aさんに気付いてBさんが逃げてケース1のような結果になると殺人罪は適用されるのですか?

>条件関係があればほとんど因果関係ありとしてしまうと言われているのですが、それとて実際には限度というものがあります。

条件関係があっても因果関係がないとするケースがあるということですよね?、それはどういうケースですか?
現実に起こった事象はさまざまな要因が複雑に絡み合って生じた結果であり、ならばBさんが隕石に衝突したこととAさんの行為にも条件関係がある(「その行為がなければその結果は生じなかった」)と思うのですが…。

>「因果関係論の議論の概要、すなわちメジャーな学説の概要を知りたい」のか「判例がどうなのかだけを知りたい」のかどちらですか?

補足で生じた上記の質問に加えて「判例がどうなのか」について回答していただきたく思います。
その過程でメジャーな学説の概要に触れる必要が生じた場合はその説明もしていただきたいですが、お手数でしたら結構です。

補足日時:2006/09/12 14:31
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/12 14:57

因果関係論において、


・条件説(同等説/等価説とも)
・原因説
・相当因果関係説

があり、「相当因果関係説」は更に、
・主観説
・客観説
・折衷説
とがあります。

それぞれ、詳細な解説がありますが、ここでは省き、

結論として
相当因果関係説の折衷説が相当ではないかと考えます。
折衷説は、「行為者が認識していた事象ならびに相当注意力のある人が認識しえたであろう事象を基礎とする」としています。

これに倣えば、ケース1:自社仏閣にあるような、急な石の階段の上から転落させた場合(死亡の可能性)、ケース2:既に何名か襲っていて、人に対して攻撃的な熊だと認識していた場合(危険性の認識)には、殺人罪が成立する可能性があるのではないでしょうか。

ケース3の場合は、偶発的な事故ですので、隕石の落下地点を知っていないかぎりは、殺人罪には問えないと思います。

ちなみに、殺人罪の構成要件を箇条書きにすると
・生きている人に対し(→不能犯と区別)
・意思(→過失と区別)
・行為;犯行の着手(→未遂、中止犯と区別)
・対象者が死亡
・死亡と行為とに因果関係がある
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どうも法律の世界で使われている「因果関係」は普段日常的に使用する際の因果関係とは違うと捉えるべきなのですね、参考になりました。

お礼日時:2006/09/12 15:13

申し訳ないのですが時間的な都合で回答を分けます。



>では刃物の場合はどこからが実行行為となるのでしょうか?
相手に刃物を向けて襲い掛かるまでには「刃物を手に持つ→Bさんに刃先を向ける→刃物を振り上げる→刃物を振り下ろす」という一連の過程があるはずだと思うのですが、

揚げ足取りっぽくて恐縮ですが、刃物を振り上げた段階では大概は「襲い掛かるまで」ではなくて既に「襲い掛かっている」でしょう。

「常にここから」と言い切るのは困難ですが、相手に刃物を向けて刺そうあるいは切り付けようとした段階、くらいに考えておけばいいです。ですから刃物を手に持っただけでは一般論としてあえて言うならまだ実行行為はないと考えるべきです。もっとも、例えば卓上のナイフを手に取って切りつける場合など一連の動作で手に取った次の瞬間には切りつけているので手に取った時点で既に実行の着手ありと考えるべきです。ですから、単純にここからとは言い切れず結局は「事実を法律的にどう評価するか」という話になります(広い意味での事実認定の問題です)。

そういうわけで、

>を手にしている(過程の)」Aさんに気付いてBさんが逃げてケース1のような結果になると殺人罪は適用されるのですか?

ということも状況によってはないこともないわけです。

>Bさんが隕石に衝突したこととAさんの行為にも条件関係がある(「その行為がなければその結果は生じなかった」)と思うのですが…。

その通りです。条件関係はあります。ですから、それはいくらなんでもあんまりだ、という話になって因果関係論が出てくるのです。刑法学における因果関係論とは、「結果について行為者に責任を取らせるのが妥当かどうかを決めるための基準についての議論」と言ってもいいです。要するに「それは責任問うのはどうかね?」という場合の区別基準を決めるための議論であるということです。

まさに、

>どうも法律の世界で使われている「因果関係」は普段日常的に使用する際の因果関係とは違うと捉えるべきなのですね

ということなのです。ちなみに刑法と民法でも違います。

で、最初にも言いましたが、条件関係があっても因果関係を否定する話、特に判例の話はまた後日に。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
続きの回答も楽しみにしています、よろしくお願いします。

お礼日時:2006/09/14 15:23

お待たせしました。

お待たせした割りに大したことがないのはご勘弁を(異常に長いですけど)。

最初に一つ指摘しておくと、前田先生(今は首都大学東京の刑法学の教授だと思います)がその著書でも触れている通り、実際の事例では「自然力の介入はほとんど問題にならない」ということがあります。
つまり、例のような「熊が」「隕石が」というのは、教科書事例では(大概は地震か雷なのですが)出てくるのですが、実際の事件では問題にならないということです。というのは、実際に自然力が介在して死亡するという事件がまず現実的には起こらないこと、仮にあっても単なる事故死で片付いてしまう可能性が非常に高いこと、などがあります。これは何を意味するかと言うと、「判例が無い」ということを意味します。ですから、自然力の介入の場合に判例がどのような判断をするかは、実際には推測の域を出ないということを理解しておいてください。
そういうわけで、以後の判例は「行為者、被害者あるいは第三者の行為が介入した」事例になっています。

さて、条件説というのが論理的に「あれなくばこれなし」の関係にある場合のあれとこれの間に存在する論理的自然的因果関係(条件関係)をもって因果関係があるとする考え方であることは前回述べました。そして、現在の刑法学理論も、「少なくとも条件関係がなければ因果関係は無い」という限度で条件関係を因果関係の存否の判断の前提としていることも述べました。

因果関係の理論というのが問題になる事例は大きく分けると次のようになります。
1.行為時に存在した異常な事実により通常は発生しない結果が生じた。
2.行為後に異常な事態が生じて通常なら発生しない結果が生じた。
 2-1.行為後に第三者の行為が介在した。
 2-2.行為後に行為者の行為が介在した。
 2-3.行為後に被害者の行為が介在した。
 2-4.行為後に天変地異などの予想外の自然現象が介在した。
2-4は現実には問題にならないので判例はありません。

因果関係理論の各説の差がもっとも顕著に現れるのが1の場合です。そして1の場合においては、判例はほとんど確実に因果関係を肯定します。
路上で突き飛ばしたところ、被害者に心臓疾患があり心筋梗塞を起こして死亡した場合に因果関係を認め傷害致死(殺意が無かったので殺人にはなりません)とした最決昭和36年11月21日。
暴行を加えたところ、被害者に重篤な心臓疾患があり、暴行とあいまって死亡したと認められるので因果関係があるとした最判昭和46年6月17日。
暴行被害者が入院して治療を受けたところ、たまたま未知の結核病巣があり心不全を起こして死亡した事例に傷害致死罪の成立を認めた最決昭和49年7月5日。
これら多くの判例が、判例が条件説と言われた最大の理由ですが、相当因果関係説の客観説という説によっても同じ結論になるので本当に条件説であると言い切ることは実はできません(最初の回答ではあまり詳しく言及しないので敢えて簡単に判例は条件説と言っていますが、実際にはそれすら怪しいのです)。

次に2-1の例なのですが、これは細かくは、
2-1-1.第三者の故意行為が介在した。
2-2-2.第三者の過失行為が介在した。
という二つに分けることができます。
前者の例として、判例が相当因果関係説に転換したとの評価を受けた最判昭和42年10月24日があります。
これは、自動車運転中に歩行者を跳ね、自動車の屋根に乗せた状態で4kmほど走行した後なお走行中に「同乗者が」被害者を屋根から引きずりおろしてその結果被害者が死亡したという事例です。
この事案で最高裁は、「同乗者が進行中の自動車の屋根の上から被害者を逆さまに引きずり降ろし、アスファルト舗装道路上に転落させるというがごときは、経験上、普通、予想しうることではなく……死の結果の発生することが、われわれの経験則上当然予想しえられるところであるとは到底いえない」として因果関係を否定し、業務上過失致死罪の成立を否定しました。
この言い方は条件説でないのは明らかで、相当因果関係説を採用したとの評価があります。ただ、その言い回しが相当因果関係説としては明確ではなく、客観説、折衷説のいずれを採用したかは明らかではありません。
さらに、最決平成2年11月20日は、被害者の頭部を洗面器などで多数回殴打し意識を失わせ港の資材置場に放置したところ、何者かが被害者の頭部を角材で殴打し翌日未明被害者が死亡したという事案で、「犯人の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された場合には、仮にその後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、犯人の暴行と被害者の死亡との間に因果関係は肯定することができ」るとしました(大阪南港事件)。
これは、確かに第三者の暴行が無くても既に死に至るだけの傷害を受けていて、第三者の暴行は死期を早めたに過ぎないものなのですが、相当因果関係説の考え方に沿えば、「現に生じたその結果」というのが問題で、現に生じたその結果はあくまでも早まった死であって、早まった死について相当因果関係説からは因果関係を否定すべきとなるはずで、むしろ条件説寄りです。
これによれば単純に相当因果関係説を採用したとも言い切れないことになります。

2-1-2の事例として、被害者に傷害を負わせたところ、医師の診療上の過失により死亡した事案で因果関係を肯定した大判大正12年5月26日があります。これも条件説からは容易に因果関係を肯定できますが、相当因果関係説だと微妙になります。

2-2についても2-2-1.故意行為と2-2-2.過失行為を分けることができます。
2-2-1.の事例として、ライフルで熊と間違って人を誤射し、その苦しむ様を見て止めを刺したという事例で、最決昭和53年3月22日は、最初の誤射と死亡との因果関係を否定しました。
これなどは、まさに「その死」というのは誤射によるものではないので相当因果関係説からは因果関係を否定するに問題はなく、逆に条件説では、因果関係を否定しないはずなので判例は相当因果関係説とも言えそうです。しかし、ここで因果関係を否定しておきながら、なぜ、前出の大阪南港事件では因果関係を否定しないのか説明が困難です。

2-2-2.の事例として、紐で首を絞めて被害者が動かなくなったため死亡したと思い込み、そのまま砂浜へ運んで放置したところ、被害者は砂を吸い込み、頸部絞扼と砂末吸引のため死亡したというものがあります。この事案では、首を絞めた行為と死亡との因果関係を肯定しています(大判大正12年4月30日)。

2-3も同様に2-3-1.故意行為が介在、2-3-2.過失行為が介在という分類ができます。
2-3-1の例としては、強姦未遂の被害者が自殺したというものがあります。この事案では強姦致死罪となっていないので因果関係は否定した(最決昭和38年4月18日は、明示はしていません)と考えるべきでしょう。
これは条件説ではなく相当因果関係説寄りになります。
2-3-2の事例としては、夜間潜水訓練中に受講生の動向に注意することなく不用意に移動し、同人らを見失うに至った指導者の行為について、被害者に不適切な行動があったことは否定できないにしても、因果関係は肯定できるとしたものがあります(最決平成4年12月17日)。
これは相当因果関係説だと微妙な判断になってきます。

で、2-4は事例がありません。

こうして見てくると、判例は処罰範囲をなるべく限定しないでかなり広範な処罰を認めつつ、あまりにも問題のあるものだけを否定するという発想をしているようです。それが条件説寄りという評価の根本にあるのでしょうし、逆に純粋な条件説でもない理由なのでしょう。
悪く言えば、ご都合主義、場当たり的な判断をしているという気がします。
よく言えば、事例ごとにきめ細かい判断をしている(もっともその基準が不明確なことが問題で、それがご都合主義となるのですが)。
個人的には、従来の因果関係論の議論で判例を説明すること自体が不可能であると考えるべきだと思いますし、実際に刑法学会では従来の相当因果関係説に留まらない新たな基準を提唱する学者もいるところで、判例を単純に従来の議論の枠組みで捉え、その枠に押し込めるのは間違いであると言うべきだと思います。

そして、判例の基本発想は、「誰も責任を取らないでは困る」ではないかと思います。
少なくとも故意行為により結果発生の危険を生ぜしめた事実がある以上、他の誰かに帰責すべき事情がある場合を除き、行為者に結果の責任を取らせるべきである、という発想が根底にあるのではないかと。
そう考えると、
1の行為時に異常な事実が存在してもその責任を押し付ける誰かが存在しない以上、行為者の責任にする。
2-*-2の過失行為が介在する場合は、過失行為に責任を押し付けるのは妥当でないと考えて、行為者の責任にする
(過失行為が生じることは予想ができることが多いので、予想可能な程度の行為の介在は行為者の想定しうる行為として行為者に帰責できるというような説明もあります)。
2-*-1の故意行為が介在する場合は、「基本的には」介在者に責任を負わせるべきで、であれば、「基本的には」因果関係を否定してよい。
という風になり、一応の説明が付きます。
ただ、上記大阪南港事件のように、「第三者が介在しても介在しなくても結果にほとんど差が生じない」ような場合には、因果関係を肯定してよいと考えているという評価もあります。ただ、この事件では「第二の暴行を行った者(介在者)が誰か不明」という特殊性があります。実際には介入者が責任を負わないのです。なのでその分の責任を行為者に押し付けただけかもしれません。
そうでないとすれば、故意行為が介在した場合、その介在行為の結果への寄与の程度の大小にかかわらず介在者は責任を負うというのは、あまり異論の無いところで、ならば、結果の責任を共犯でない独立した複数の者に多重に帰責することになってしまいます。
もっとも、介在者の責任を当然とした上で、介在者が出た原因は最初の行為者にあるのであり、しかもその行為の結果が介在行為によって大きく変貌したわけでもないのであれば、行為者の責任自体が相当重いもので、表面上は二重に帰責することになっても結論として妥当であると考えれば、別に問題ないとも言えます(理論的には問題大有りなのですが、結論だけしか評価しないのが世間であり、裁判所は実務機関なので、学会よりも世間の顔色を気にします。ですから、世間に迎合すなわち曲学阿世ということがあっても不思議ではありません)。

さて、判例をこのように考えてみれば、2-4について予測をすれば、「自然現象に責任を負わせることはできないから行為者にできるだけ責任を負わせるようにする」ということを基本にしつつ、「行為者の行為が無くても自然現象だけでも死亡した可能性が高い場合や行為者の行為が被害者に与えた影響度が責任を負わせるほどでない場合などには責任を負わせない」というような判断をしてくるのではないかと思います。
すると、例えばナイフで襲い掛かって切りつけて怪我を負わせたため体の自由が利かずに自然現象により死亡した、執拗に追い回して疲労した被害者がそのために適切な行動がとれずに自然現象により死亡した、毒蛇が出ることが十分予想できるようなところで蛇に気をつけることができないような状態で襲った結果、実際毒蛇にかまれて死亡したなんて場合には、因果関係を肯定する可能性が十分あるのではないかと思います。熊の事例も、熊が出ることが予想できるような状況で被害者が疲労或いは外傷により熊を回避する十分な行動が取れない状態になっていたために熊に襲われて死亡したなんて場合は、もしかすると因果関係を肯定するかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
じっくり読ませていただきました、分かり易く分類して下さりありがとうございます。
知りたかったことだったので興味深かったです。

お礼日時:2006/09/18 03:35

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