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大名家と同じ名前だけど大名家とは関係ない上杉さん、武田さん、前田さんなどは沢山いらっしゃいますが、家康から続く徳川家とは何の関係も無い「徳川さん」っていらっしゃるのでしょうか?
また、豊臣家は滅亡したのでいらっしゃらないと思いますが、織田さんはいらっしゃるのでしょうか?
いらっしゃらないのであれば、理由は何でしょう? 庶民にまで氏名が与えられたのは明治に入ってからですよね? 「時の最大権力者に遠慮した」というわけではないと思うのですが。
徳川さん、織田さん、いらっしゃるようでしたら、申し訳ございません。

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A 回答 (12件中1~10件)

 No.3さんのおっしゃる某業界とは、金融関係じゃないかな。

その方であれば私も知ってます。たしか水戸ですね。あの会社には大田道灌の末裔もいました。
 徳川と名乗られている方は本当に少ないです。No.2さんがおっしゃるとおりですね。徳川氏の出自が本当に源氏かどうか怪しいと歴史家の方がいわれていますが、徳川家はとにかく祖先にあたると思われる新田源氏の末裔を大事に保護していたことは事実のようです。
 No.3さんの>わざわざ徳川家の関係者に連絡して申し訳ないと伝えたとか・・・という人は「徳川夢声」じゃないかと思います。活弁士上がりの声優というか、いまでいう大物タレントですね。徳川というのは芸名です。この人が地方の旅館へ泊まったとき、旅館の関係者が徳川様ということで、へへーっと地面にはいつくばって出迎えたことがあるといってました。本物の徳川さんに謝ったということであれば、夢声であるような気がします。本物の徳川さんは、笑って「どうぞどうぞ」と答えたんでしょうな。
 維新後庶民も苗字をつけることになりましたが、江戸時代でも庶民は結構「隠れ苗字」を持っていました。今はこんなに落ちぶれているけど、先祖は○○という侍だったという言い伝えを持っていた庶民は、維新後その隠れ苗字を表に出しました。また在所の地名を名乗ったり、遠い縁を頼ってその人の苗字を貰ったり、また全くの思いつきで苗字を作った人もいるでしょう。
 しかし豊臣とか徳川を新たに名乗る人はほとんどいなかったようですね。仮に、はねっかえりのバカが徳川にすると役所に届け出たとしても、明治初期の役人は受け付けなかったんではないでしょうか。
 豊臣というのは秀吉が朝廷から貰った新たな姓、そして完全に滅亡、徳川氏も家康が創り御三家、御三卿しか名乗れなかったということで、今の日本にはこの姓の人はほとんどいないということになります。
 上杉、武田、前田、織田さんはいっぱいいます。
 うちは前田だが加賀百万石のお殿様とは全く関係がないと思っている人でも、隠れ苗字の関係でつながりがあるかも知れません。お殿様の御子孫の前田さんのDNAと、庶民の前田さんのDNAを調べ、ルーツをたどれば、前田利家の200年前の先祖でルーツが一緒だったといことがあるかも。
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この回答へのお礼

>しかし豊臣とか徳川を新たに名乗る人はほとんどいなかったようですね。
豊臣については滅亡したのだから「お家の繁栄・存続」を考えると、名付けるには抵抗があるのでは?と思います。
徳川は・・・確かにお役人が拒否したかもしれませんね。

>うちは前田だが・・(以下、略)
確かに明治以前から隠れ苗字として「前田」を名乗っている人であれば、利家以降の前田家とは関係なくても前田利家の更に遡った先祖とは繋がっている可能性は考えられますね。しかしそこまで遡ろうとしても難しいし、そこまで行くと・・・って話しですね。

お礼日時:2006/10/18 22:04

http://orokamononet.blog65.fc2.com/blog-entry-57 …
信憑性はわかりませんが、このブログをみると『徳川さん』は1900人いるそうです。。。。。
ちなみに徳川の子孫たちて作る徳川松平一門の会の会員が600人だそうです。だとすると1900-600=1300人が無関係の徳川さんになるんじゃないでしょうか????

ちなみに豊臣さんの子孫が木下さんで残っていると昔聞いた事があったので軽く調べてみたんですが、あるサイトに
『立石木下家は11代俊清の時に明治を迎えますが、12代俊明(俊朗)が大正五年に没し、彼の代で同家は断絶したと同書には書いてあります。
 しかし、『旅とルーツ』第78号によると御子孫がいるという話で、現在は豊臣姓を名乗っておられると書いてありました』
と記されていました。ちなみに立石木下家は、秀吉の奥さん(ねね)の兄さんの家系です。
ちなみにこのサイトからの転用です↓
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/k …

参考URL:http://orokamononet.blog65.fc2.com/blog-entry-57 …

この回答への補足

回答してくださったみなさん、有難うございました。
勘違いしてた事、知らなかったことばかりで、1を訊いたら10ぐらいの事が返ってきたという感じです。

最後に、徳川さん、織田さんは勿論、豊臣さんまでいらっしゃるようで、大変失礼な質問をしてしまったようです。
関係者の皆さん、大変申し訳ありませんでした。

補足日時:2006/10/22 20:39
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この回答へのお礼

紹介して頂いたブログの元になったホームページを探したところ、↓ですね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm
ホームページの作成者が不明なので信憑性に疑問がありますが、このHPによると「豊臣さん」も39512位の順位となってますね(50人という人数は探せませんでしたが)。
豊臣を名乗ってる木下家の子孫が現在いらっしゃるとは驚きです。

お礼日時:2006/10/20 21:10

徳川将軍家も「当代のご先祖徳川四郎義季は新田義重入道上西の四男なり、将軍源頼朝入洛の時の随兵の一人たり」と書いています。

   得川と書いている本もありますが、同一人です。  南北朝時代「岩松右馬頭持国、大手の大将を承り、野田、徳川、佐々木、梶原をはじめとして、すきまなし・・・・」との記録があるそうです。
当然家康以前に各地に徳川家がありました。   常陸の徳川氏、因幡の徳川氏など、ただし幕府が出来てから、憚って改名した者が多い筈で、そのまま名乗っている家は少ないでしょう。
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この回答へのお礼

常陸と言えば水戸、御三家の事では?・・・と思って調べたら、御三家とは別で戦国時代から佐竹氏に仕えていた徳川氏というのが居たようですね。初めて知りました。
回答して頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/19 22:02

徳川宗家(将軍家の家系)の現在の当主に


18代目の徳川恒孝(つねなり)さんが居ます。
http://www.nikkei.co.jp/weekend/news/20030320s16 …
彼のエピソードについては次のページが詳しいです。
http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa17.html

徳川という名字は、群馬県の太田市にある徳川町の
地名に由来します(昔は得川と呼ばれていた)。
家康の先祖が新田義貞の親族に当たるためだから
でした。
そのため、家康以外にもその土地の出身の侍が徳川
姓を名乗っていた事もあったようですが、
徳川幕府成立後は畏れ多いという事で、「得川」
「禿川」と読みを変えずに漢字だけ変えてそのまま
の定着してしまった子孫も居ますよ。
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この回答へのお礼

現当主は普通のサラリーマンをされてたとは意外です。こういう人達は華族として天皇に関わるような仕事をされてると思ってました。(これも、また自分の勝手な勘違い?)

恒孝さんの名前に「家」が付いてないなあと思ったら、養子なんですね。しかも松平容保の子孫とは・・・。何か歴史の因縁というか不思議さを感じます。
徳川家当主と前田家当主の上司・・・う~ん、自分だったらご満悦というより気後れしてしまいそうです。

徳川町というのがあるならば名前を変えていない「徳川さん」がいらっしゃっても不思議じゃないですね。

回答して頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/19 21:42

No.5です。


 お礼の>しかしそこまで遡ろうとしても難しいし、そこまで行くと・・・って話しですね。

 これについては、遺伝子の研究が進んできた現在、そう難しい話ではないと思うんです。
 人体の細胞の中に存在しているミトコンドリアを分析することにより、現在の人類の共通の祖先が○○万年前(数字を忘れました)の一人の女性に突き当たるという有名な研究結果があります。その女性はイブ(ミトコンドリア・イブ)と名付けられました。場所はアフリカらしいです。この研究は決して荒唐無稽なものではありません。
 いずれこの手法が簡便化され、一般人がやれるようになると、庶民の前田さんが殿様の前田さんと室町時代に兄弟であったり、源氏と称している徳川氏の言い分が真っ赤なウソでであったり、また質問者さんが古墳時代で天皇家に結びついたり!!ということが起こるかもしれません。しかし、これをやるとミモフタモなくなって、よくないかもね(笑)。
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この回答へのお礼

再度の回答有難うございます。
「ミトコンドリア・イヴ」という言葉は初耳だったので、いくつかのホームページを見て回りました。
「日本人の95%は9人のイヴの娘の子孫」とありますので、大半の人はお互いどこかで繋がっていると言えますね。
http://www.geocities.jp/hakodatereports/mitoibu. …
何処で誰と繋がっているのか、知りたいような、知りたくないような・・・。

お礼日時:2006/10/19 21:07

まず申し上げておくと,「豊臣」というのは,「源」「平」「藤原」などと同じように「氏(うじ)」であって,「徳川」「織田」などの「名字」とは性質の異なるものです。

ですから,「豊臣秀吉」は厳密には「とよとみ‐の‐ひでよし」と読むべきです。ちなみに秀吉の「名字」は,「豊臣」という「氏」を賜った後も「羽柴」ですね。

……閑話休題。

徳川将軍家の流れを引かない徳川氏もいらっしゃるにはいらっしゃります。たしか佐賀県だったと思います。

織田さんは……。スケートやってますよね。イケメンが(笑)

最後に,「庶民に名字が与えられたのは明治以降」というのは違うと思います。公に出したりはしないものの,私的な名字は持っていたようです。

追伸:家康公の本来的な名前は「徳川(名字)次郎三郎(字<あざな>)源(氏)朝臣(姓)家康(諱<いみな>)」です。関係ありませんけど(笑)
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この回答へのお礼

>「氏(うじ)」と「苗字」は性質の異なるもの
言われてみるとそんな話を聞いた事あるような・・・と思い、ウィキペディアで早速調べてみました。
「氏」は天皇から賜るもの、「苗字」は勝手に名乗るもの。
今は「氏=苗字」という扱いのようですね。

佐賀県にも徳川さんがいらっしゃるのですか!

>最後に,「庶民に名字が与えられたのは明治以降」というのは違うと思います。
はい、#1さん、#4さんにも指摘されましたが、私が完全に勘違いしていました。明治以前も苗字は持っていたんですね。

回答して頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/18 22:34

 東北で寺の住職をしております。



 先日、檀家さんの法事で徳川さんという方に会いました。亡くなったおばあさんの娘さんのご主人だそうです。
 「徳川将軍家と何か関係あるのですか?」と伺いましたが、違うとのことです。「よく同じような質問をされます。」と苦笑いしていました。現在東京にお住まいですが、実家は富山県とのことでした。具体的な出身地も聞きましたが、忘れました。(すみません。)郷や字の地名が徳川ではないそうです。名字の由来についても、良く分からないとのことでした。明治以前からの名字なのか明治以降の名字なのかはっきりしませんが、将軍家の徳川さんとは別の「徳川さん」はおられます。富山県の方で詳しい方の回答があれば良いのですが。
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この回答へのお礼

やはり、将軍家とは関係ない「徳川さん」もいらっしゃるのですね。
是非とも由来を知りたいとこですが、当人もご存知ないのであれば仕方ありません。
>「よく同じような質問をされます。」と苦笑いしていました。
たぶん、当人にとっては歓迎しない質問なのでしょうけど、どうしても訊きたい質問ですよね。

回答して頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/18 22:17

タレント僧の織田無道さんは織田総本家とは無縁だそうです。


スケートの織田信成さんという正真正銘の織田信長直系が有名になったので
織田無道さんは信長の末裔というギャグを使えなくなってしまいましたね。
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この回答へのお礼

最近見かけないのですっかり忘れてましたが、織田無道さんって信長とは無縁だったのですか?
という事は、やはり「信長とは無関係の織田家」の人はいるって事ですね。
回答して頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/18 22:10

徳川は家康のオリジナルである、というのは先の回答の通りです。



織田家は越前国織田庄(現在の福井県越前町織田)の織田剣神社の神官の家であるとされています。
室町時代に入り、幕府の管領家で越前守護兼尾張守護斯波氏に仕え、斯波氏の所領の一つ尾張へ移り住んだのが、織田信長の先祖です。
現存する織田さんのご先祖は、その多くが織田信長の家系も含めて越前海岸に結びつくと思われます。

ちなみにNo.1の方もおっしゃってますが、庶民に氏名が与えられた、というのは間違いです。
姓はそもそも出自、現住所、職業、身分などを表したもので、戦国時代まではみんな姓を持っていました。
江戸時代に幕府は身分制を確立するために、武士以外にこれを名乗ることを許さなかっただけで、みんな「隠し姓」という形で姓を隠し持っていました。
 
 
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この回答へのお礼

つまり織田家に関しては、越前織田庄では複数の家系が存在している事は十分考えられ、よって信長の織田家とは関係ない織田さんがいらっしゃっても何の不思議もないという事ですね?

>戦国時代まではみんな姓を持っていました。
完全に間違って認識しておりました。てっきり日本建国から江戸時代までずっと庶民は「田吾作」とか「権兵衛」といった名前だけで、姓が付くのは特別な人だけと考えておりました。
戦国以前、室町、平安時代に偶然「徳川」や「織田」という隠し姓を持っていた可能性があるとは、初めて知りました。

ほんと知らないことばかり、教えて頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/18 21:41

某業界に徳川さんがいますが、その方はれっきとした徳川家の末裔です。


NHKの松平定知アナウンサーは桑名藩松平定勝の末裔。
http://www.nhk.or.jp/a-room/ana500/ana/00074.html

徳川家と直接関係のない得川さんや徳河さんはいますが、上野国新田郡得川郷(群馬県太田市徳川町)に縁のある人なら、遠く新田義重つながりという可能性もあります。

それ以外で、徳川姓の人がいるという話を何かで読んだことがありますが、具体的なことは忘れました。たしか、わざわざ徳川家の関係者に連絡して申し訳ないと伝えたとか何とかの話だったような気がします。

織田信長の末裔としては、最近ではフィギュアスケートの織田信成選手(大阪府出身)が有名ですね。
昔のオリンピック三段跳びの金メダリスト織田幹雄選手(広島県出身)は、戦国大名織田家とは無関係なはず。

番外ですが、青森県に羽柴秀吉を名乗る人がいます。東京都知事選挙や大阪府知事選挙、国政選挙などにも立候補して全国的に有名になりました。この人は豊臣家とは無関係です。
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この回答へのお礼

徳川(将軍)家に関係ない徳川さんって存在するのですか!
織田信成選手はテレビで知っておりますが、織田幹雄選手は知りませんでした。やはり戦国大名の織田家とは関係の無い織田家も存在するのですね。
青森の羽柴秀吉さん・・・テレビで見たことあります。この人は勝手に名乗ってるだけで本名ではないですよね? 

回答して頂きありがとうございました。

お礼日時:2006/10/18 21:24

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Q“徳川”という苗字

「徳川」という苗字の人に会ったことがありません。
テレビでも時代劇以外見たことがないです。
徳川幕府は長く続いたので子孫も沢山いるとおもうのですが・・・・・

現在織田信長の子孫でフィギュアスケートで活躍している男性がいますし、武田信玄と上杉謙信の子孫同士が昨年一緒にTVに出ているのも見たので “徳川の子孫はどうなっているのだろう??”と思いました。

元徳川が違う苗字を名乗るようになって(いたとして)現在に至るなら名乗らなくなった理由も教えて下さい。

歴史に全然詳しくないので難しいことはわかりません。

Aベストアンサー

簡単に言いますと、松平氏は、元々は三河地方の松平郷を支配する一豪族だったのですが、九代目当主の家康が23歳の時(1566年)に徳川という苗字に改めました。

以降、征夷大将軍と御三家(尾張・紀伊・水戸)の当主と御三卿(田安・一橋・清水)の当主だけが「徳川」を名乗ることができ、それ以外の人間は「松平」を名乗ることになりました。

そもそも、三河地方には松平家が本家・分家合わせて18系統ありました。
一般的にはこれを「十八松平」と呼びますが、家康はその本家格である安祥松平家の出身でした。
家康は、松平を統一し、三河地方の支配権を確立すると、朝廷に「三河守」の称号を申請します。
つまり、「一族と家臣団を統率し続けるためには、武力で支配しているというだけでなく、天皇からもきちんとした支配権のお墨付きが必要である」と考えたのです。
ところが、当時は「三河守」という称号は従五位下に相当する官職で、藤原氏や源氏などの伝統ある家の生まれの者しか任じられませんでしたので、任官を拒否されそうになりました。

そこで、家康は、「昔、藤原氏の一族であると名乗っていた得川氏」という系図を見つけてきて、そこに自分の名前を入れ、松平氏の系図に組み込んで申請し、許可を得ることに成功しました。
つまり、この段階で家康は「自分は、藤原氏の流れを汲む得川氏の末裔である」と称したのです。
ですから、この頃の家康の公文書への署名は本姓である「藤原家康」となっています。

やがて時代がくだり、家康が天下を取る頃になると、「得川は藤原氏だが、徳川は源氏の一族である」と称するようになります。
これは、家康が征夷大将軍を目指すにあたって、朝廷の慣例や過去の事例を学者に研究させ(有職故実)、「源氏でない者が、長らく征夷大将軍に任じられた例はない」と判断したためです。
そこで、「徳川は源氏一族である新田氏の系統である」と称するようになり、これ以降の公文書への署名は「源家康」となります。

「徳川」という苗字はあくまで、松平氏の中の家康だけが名乗ったものですので、その後を継いだ14代の将軍と御三家の当主だけが名乗ることになり、後に8代将軍吉宗の時に創設された御三卿の当主も名乗ることになります。

一般的に親藩と呼ばれるのは、御三家・御三卿以外の「松平家」を指しますが、家康以前から存在する十八松平は、江戸期以降は大半は旗本クラスでしたので、「徳川一門」とは言えないです。
前田、池田、黒田、蜂須賀、山内、島津、毛利、浅野、伊達の各家なども松平を称することが許されましたが、これらは一門ではないでしょう。

むしろ、
◆御家門(家康以降に将軍の兄弟などが創設した松平家=越前、会津、越智の各松平家)
◆御連枝(御三家の分家=美濃高須、陸奥梁川、川田久保、伊予西条、越前丹生、越前葛野、讃岐高松、陸奥守山、常陸府中、常陸宍戸の各松平家)
が「徳川一門」の扱いと考えていいでしょう。

ちなみに、5代将軍綱吉は館林藩主、6代綱豊は甲府藩主の出身ですが、やはり、将軍になる前は「松平」を称していたようです。
つまり、『徳川』は松平一族の中で、本家当主としての征夷大将軍(を継承する地位にある者=御三家・御三卿当主)だけが許される苗字」ということです。

簡単に言いますと、松平氏は、元々は三河地方の松平郷を支配する一豪族だったのですが、九代目当主の家康が23歳の時(1566年)に徳川という苗字に改めました。

以降、征夷大将軍と御三家(尾張・紀伊・水戸)の当主と御三卿(田安・一橋・清水)の当主だけが「徳川」を名乗ることができ、それ以外の人間は「松平」を名乗ることになりました。

そもそも、三河地方には松平家が本家・分家合わせて18系統ありました。
一般的にはこれを「十八松平」と呼びますが、家康はその本家格である安祥松平家の出身でし...続きを読む

Q徳川姓と松平姓の関係

徳川一門でも、徳川を名乗ったり、松平を名乗ったりしていると思います。
親族でこの2つの姓名はどのように使われているのでしょうか(2つの姓のボーダーラインはどこで切られているのでしょうか)?
又、松平姓は、徳川の遠縁を含んで、皆、徳川家の親戚なのでしょうか?
親戚の中で2つの苗字を分けるのは何の為なのでしょうか?理由があるとおもうのですが・・・。
教えて下さい。m(__)m

Aベストアンサー

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他の兄弟は次男秀康は結城家に4男忠吉は東条松平家に、5男信吉は武田家、6男忠輝は長沢松平家…と養子に出されてました。
つまりたとえ家康の子でも一度他家へ養子に行ったものは徳川姓は与えられなかったと言う事です。

同様に秀忠の4男保科正之も高遠藩主、保科正光の養子となっていて兄忠長と異なりのちに与えられたのは松平姓でした。
徳川家宣の弟・松平清武も越智家の養子となっていたため、のち松平姓が与えられています。

御三卿に関しては吉宗長男・家重に障害あると言うことで、そのスペアとして次男・宗武、4男・宗尹を江戸城内に住ませたのが起源ですので、存在目的が「将軍継嗣」でしかないと言う事もあり、将軍継嗣の条件である徳川姓が与えられたと言う事情によるものです。

なお水戸頼房に関しては徳川姓が与えられたのは徳川忠長死後であり、それまでは松平頼房と名乗っていました。
水戸家に関しては将軍継嗣になれないと言う事柄は公武応勅法制十八ヶ条を根拠としています。しかしこれは偽書であり実際にはこう言う規定はありませんでした。事実水戸綱条が将軍候補者としてに名前が上がった事もあり、水戸光圀も綱条が尾張・紀伊がダメなら水戸が将軍になると発言しています。

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他...続きを読む

Q現在でも源(みなもと)さんは居ますか?

天皇から賜わった姓としては「藤原」さんや、「橘」さんが現在でもわりと多いので有名だと思いますが、「源(みなもと)」さんや「平(たいら)」さんは現存しない姓なのでしょうか?
前者はよく聞く名前なのに、後者はほとんど、というか聞いたことないので不思議に思いました。

また、関連した質問として、上記の「藤原さん」たちは鎌足から脈々と続く藤原さんなのでしょうか?それともほとんど関係ないですか?
やはり藤原さんの中でも、教科書にでてくるような藤原氏の血筋の子孫は1%未満ですか?

Aベストアンサー

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、
聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い
伝えもない」ということでした。

もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その
廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名
(名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば
明治維新の時点での総本家は
源氏  徳川家(清和源氏)→久我家(村上源氏嫡流)
平氏  西洞院家(堂上平氏)
藤原氏 近衛家(摂関家筆頭・藤原氏嫡流)
橘氏  ※平安時代に没落
源氏と藤原氏は、細胞分裂のように数え切れないくらいの家に枝分かれしていること
はご承知のことと思います。源氏の足利・新田・武田・今川、平氏の北条・織田、
藤原氏の九条・西園寺などは有名ですね。明治維新の岩倉具視は村上源氏、三条実美
は西園寺の本家筋にあたります。

ですから、古代より脈々と続くこうした「お家柄」のご子孫たちは、上記の近衛・久我とか
九条・西園寺・岩倉・三条とかの家名を現在も名乗っておられますので、現在
藤原・源・平などを名字としている方々は、明治になってから名字としてそれらを
名乗るように決めた家ということですので、少なくとも「お家柄」の子孫ではない
と見るのが無難でしょう。
(だからといって、絶対に藤原・源・平氏の子孫ではない、とは断言できませんが)

なお、藤原道長とか藤原定家、源頼朝や平清盛などは、上記の家名がまだ無いか、
あっても定着していない時代の人物ですので、そのまま藤原・源・平を名乗っています。
藤原定家の子孫は、のちに冷泉家を名乗ります。

あと、橘さんはちょっと微妙ですね。橘氏は家名が成立する時代より前に没落して
しまっているので、家名を持たないまま橘氏のままで明治を迎え、そのまま名字を
橘にした、という地方の旧家があっても別に不思議ではありません。

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、
聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い
伝えもない」ということでした。

もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その
廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名
(名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば
明治維新の時点での総本家は
源氏  徳川家(清和...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q冷蔵庫は横にして大丈夫?

引越しで自分で小型の冷蔵庫を運ぼうと思っていますが、乗用車で運ぶため立てた状態では運べません。
横に寝かすか、斜めの状態で運ぼうと思いますが大丈夫でしょうか?良くは無いと思いますが、絶対にだめな危険行為でしょうか?ガスが漏れるとか。詳しい方教えてください。

Aベストアンサー

移動運搬するときの基本は立てたままがもちろんよいのですが、
仕方がない場合は斜めでもOKです。
最悪横にしても構いませんが、その場合はできれば1日ほど
立てたまま、コンセントもささずにしてから
使用してください。
 なぜ、立てたままにしないといけないかと言いますと、
ガスにはあまり関係なく、コンプレッサーより、オイルが出て行き
冷媒能力低下、及びコンプレッサー故障に繋がり易いためです。
あと、オイルがコンプレッサーに戻るには時間がかかります。
横にしての移動時間にもよりますが、最低2時間。できればやはり1日は立てたままにすることを重ねてお勧めいたします。
まぁ~斜め程度でしたら、1時間電気を入れずに立てていればOKです。

Q徳川の御三家の順位

なぜ徳川御三家で、尾張が筆頭、次が紀州という順番になったのですか?
尾張、紀州という土地になった理由を教えてください。
また、水戸は途中から御三家に加わったそうですが、これもなぜ水戸なのか教えてください。

Aベストアンサー

 三つの土地柄を考えると尾張は押しも押されぬ要地で、一大商業地であり一大穀倉地です。江戸大阪は天領ですから、諸藩の中で経済的にもっとも重要な地です。もちろん戦となれば、東海道をおさえる重要拠点です。
 紀州は、戦国時代雑賀党がいたこともあり、畿内で最後まで織田信長に服さなかった地です。また東西の水運の中継地で、ここは何気に金になります。江戸と大阪を結ぶ物流ルートです。ある意味宗教はうざいですから、その火種となる地を抑えたのだと思います。もちろん有事には大阪防衛の主力になったでしょう。

 一方水戸ですが、ここはたまたま江戸の近くに大きな土地が空いたので、まだ幼いわが子を家康が関東近くの地に置いたように思えます。伊達に対する防衛の意識も当然あったでしょうが、もしそれが主たる理由であれば、水戸ではなく奥州街道を塞ぐべく白河に置いたはずです。
 こうしてみると残された子供たちを長幼の順に重要拠点に配したのが見て取れます。

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qお通夜やお葬式で読まれるお経について(浄土宗)

先日大切な祖母が亡くなったのですが、お通夜やお葬式の時のお経について興味があり質問させていただきます。

以前、般若心経の現代語訳の本を読んで以来、その意味に感銘を受けすっかり虜になってしまいました。
そこで、祖母のお通夜とお葬式でも読経されるのかな?と思い注意深く聞いていたのですが、お焼香をしたり祖母との思い出を思い出したりしているうちにすっかり忘れてしまいました(笑)

調べてみたところ、般若心経は宗派もあまり関係なくあげられるとありましたので、もしかしたら読まれていたのかもしれないと思ったら気になってしまいました。

我が家は浄土宗なのですが、お通夜やお葬式であげれらるお経は「これ!」という決まったものがあるのでしょうか?

祖母は私にとって大事な存在でしたので、その祖母にどのような言葉が贈られた(?)のだろうかと気になったもので、
般若心経だけでなく、他のお経の意味についてもこれから勉強したいと思い質問させていただきました。

初歩的な質問で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>>我が家は浄土宗なのですが、お通夜やお葬式であげれらるお経は「これ!」という決まったものがあるのでしょうか?
ありますよ。差定(さじょう)といって基本的な作法・よむべきお経は決まっています。ただ地方や、寺院によって若干違いがあります。
 では基本的なものをご紹介します。

・通夜差定
1、香偈(こうげ)
我が心身を清らかにしたまえと念じ、香をたいて全ての世界時代の仏様に帰依し供養するという意味で、最初に読みます。
2、三宝礼(さんぼうらい)
佛(仏様)・法(仏教)・僧(僧侶を中心とした人々の集まり)という三つの宝を敬い帰依することをたたえる偈文。
3、三奉請(さんぶじょう)
一に阿弥陀さま、二にお釈迦さま、三にその他十方の仏さまがたをお招きする文です。
4、懺悔偈(さんげげ)←ざんげとはよみません。
自分自身が作った罪の全てを仏様の前で懺悔(さんげ)するためにお念仏する前にとなる偈文。
(十念・十回お念仏を声に出して称える。)
5、一尊哀愍(いっそんあいみん)
香偈の一種と思っていただければよいかと思います。
6、開経偈(かいきょうげ)
なかなかめぐり合えないお釈迦様の教えに人間に生まれてやっと出会えた喜びはなんいにもかえがたい。というような意味のお経をよむ前に称える偈文。
(焼香)
7、真身観文(しんじんかんもん)
浄土三部経のなかの『観無量寿経』のなかにとかれている、阿弥陀佛の姿を心の中で念じ観るという部分。
8、回向(えこう)
今まで積んだ功徳や善根を亡くなった故人に振り向ける。
9、降魔偈(ごうまげ)
仏教は煩悩を断ずるための教えであって、それは悪魔を切るの剣のようなもので、「南無阿弥陀佛」の念仏はどのような愚かな者であったとしても罪を滅ぼし浄土において煩悩を断ずることができるという、徳をたたえる偈文。在家のなくなった方に用いる偈文。
(十念)
10、摂益文(しょうやくもん)
『観無量寿経』の「光明徧照(こうみょうへんじょう) 十方世界(じっぽうせかい) 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう) 摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という文で、阿弥陀仏の光は全ての人に分け隔てなく注がれているが、南無阿弥陀佛と念仏する者は全てを受け入れられ捨てられることはない。という意味です。
11、念仏一会(ねんぶついちえ)
念仏の数の多少にかかわらずお念仏に出会い、お称えすること。
12、通夜回向(つやえこう)
お通夜読経や念仏の功徳を故人に振り向ける。
13、総回向偈(そうえこうげ)
全てのことを振り向けるための偈文。
14、同唱十念(どうしょうじゅうねん)
通夜に出席した人とともに、十回お念仏を称える。
15、総願偈(そうがんげ)
仏教の悟りを志す人たちが誓うべき四弘誓願の意味を表す偈文。

・葬儀差定
1、四奉請(しぶじょう)
三奉請の一に阿弥陀さま、二にお釈迦さま、三にその他全ての世界の仏に、四つに観音菩薩・勢至菩薩や全ての菩薩お招きする文。
2、懺悔偈
上記通夜4の通りです。
(十念)
3、根本陀羅尼(こんぽんだらに)
ノウボウアラタンノウタラヤーヤー ノウマクアリャミターバーヤー タタギャタヤアラカテイ サンミャクサンボダヤ タニャタオンアミリテイ アミリトウドハンベイ アミリタサンバンベイ アミリタギャラベイ アミリタシッデイ アミリタテイセイ アミリタビキランデイ アミリタビキランダギャミネイ アミリタギャギャノウキチキャレイ アミリタドンドビソバレイ サラバアラタサダニエイ サラバキャラマキレイシャキシャヨウギャレイ ソワカ
という、阿弥陀佛を讃える言葉をサンスクリット語という古代インド語で読むものです。
4、本誓偈(ほんぜいげ)
真実だ物が立てた本願の要旨は全ての人々を極楽往生させることで、阿弥陀佛の心にかなうためには念仏し速やかに極楽往生し、不退転の位に住すことであるという偈文。
(十念)
5、歎佛偈(たんぶつげ)
『勝鬘経』の一節で、仏の体も智慧も全てすばらしいものであると称賛する偈文。
6、下炬(あご)
導師がたいまつをもって引導を渡すこと。
(十念)
7、開経偈
上記通夜6の通りです。
(焼香)
8、歎佛頌(たんぶつじゅ)
『無量寿経』上に、阿弥陀佛が仏になる前の法蔵菩薩という菩薩であった頃、師匠である世自在王佛を賛嘆した偈文。
9、摂益文
上記通夜10の通りです
10、念仏一会
上記通夜11の通りです。
11、回向
上記通夜12の通りです。
12、総回向偈
上記通夜13の通りです。
13、同唱十念
上記通夜14の通りです。
14総願偈、
上記通夜15の通りです。

です。ですから、
>>祖母のお通夜とお葬式でも読経されるのかな?
とご質問の中にありますが、通夜葬儀ではよまれていません。
 浄土宗は基本的に南無阿弥陀佛の念仏を称えて阿弥陀佛の他力によって極楽に往生させてもらうという教えですから、自力修行によって「空」という境地を体得していくための『般若心経』は中心としてよむお経ではありません。ですから、浄土宗の流れを組む浄土真宗では、『般若心経』は一切よみません。あくまで、浄土宗でよまれる『般若心経』も補助的な意味で読まれるものです。
 浄土宗で中心としてよむお経は「浄土三部経」とよばれる三つのお経です。それは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つです。この三つのお経は、『妙法蓮華経(法華経)』や『般若心経』と並んでメジャーなものですから、現代語訳や解説書はかなり出ていますから書店でも探しやすいものであると思います。

>>祖母は私にとって大事な存在でしたので、その祖母にどのような言葉が贈られた(?)のだろうかと気になったもので、
浄土宗や浄土真宗・時宗と言った浄土教と呼ばれる仏教には、還相回向(げんそうえこう)という考えがあって、亡くなったかたは仏様になっていつでも私たちの隣にいて見守り導こうとしてくださるといいます。
たしかに、通夜葬儀はなくなった方のためであるかもしれません。けれども、仏教の本当の目的は私たち生きている人間がどのように生きていくかです。ですから、通夜葬儀のお経はは亡くなった故人が「私たちに向って」送ってくださった「このように生きていきなさい」というメッセージであるかもしれませんよ。
 
>>般若心経だけでなく、他のお経の意味についてもこれから勉強したいと思い質問させていただきました。
 非常にすばらしいことです。浄土三部経の一つ『阿弥陀経』のなかには「倶会一処(うえいっしょ)」阿弥陀仏の極楽浄土を目指して念仏を称えるものは、今一度極楽浄土で会うことが約束されているという意味です。ですから、浄土宗の通夜葬儀はさようならする会ではなく、極楽浄土で今一度会う再会の喜ぶを分かちあくことを約束する会なのです。だからこそ、自分自身がしっかりお念仏を声に出すことで阿弥陀仏とまたは故人と一生懸命生き抜いて後亡くなっと時には極楽浄土に向うことを約束することで、故人も「また会えるのか嬉しいんぁ」と安心して極楽に向うことができるのです。
 浄土三部経の中には『般若心経』とはまた違った仏教の味わいが書かれています。仏教は味わいがいのある宗教であり、味わいがいのある哲学でもあります。いろいろ興味深いことがたくさん出てくると思います。

長々書き連ねましたが、まとまらない稚文のため文意を読み取っていただきたく思います。至らないところがあれば、続けて回答させていただきます。
合掌 南無阿弥陀佛

>>我が家は浄土宗なのですが、お通夜やお葬式であげれらるお経は「これ!」という決まったものがあるのでしょうか?
ありますよ。差定(さじょう)といって基本的な作法・よむべきお経は決まっています。ただ地方や、寺院によって若干違いがあります。
 では基本的なものをご紹介します。

・通夜差定
1、香偈(こうげ)
我が心身を清らかにしたまえと念じ、香をたいて全ての世界時代の仏様に帰依し供養するという意味で、最初に読みます。
2、三宝礼(さんぼうらい)
佛(仏様)・法(仏教)・僧(...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q徳川本家、御三家の家紋に違いがあるのでしょうか?

徳川本家、御三家の家紋に違いがあるのでしょうか?
違いがあるのなら、どのように違うのか教えて下さい。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>徳川本家、御三家の家紋に違いがあるのでしょうか?

回答から先に述べますと、「若干の違い」がありました。

まずは、「葵のご紋」の使用について・・・。

(1)葵の紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂神社の神主、氏子、信仰者に葵紋が広がりました。

(2)三河から伊豆にかけて「賀茂」という地名が残っており、賀茂神社の社領が多くあった名残です。

(3)三河に居た松平氏、伊那氏、島田氏が葵紋を使っていたが、徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を図り、他家での使用を禁止しました。

(4)ただし、本田氏のみが賀茂神社神官の出自であったため、徳川家の独占に対して、
「殿こそ、新田の出であるのであれば、丸に一の「一引紋」に変更されたらいかがでしょう」
と、断り、家康もそれにはさすがに「理の当然」と考え、本田氏も葵紋を使用することを許可しました。

(5)賀茂神社の葵紋は、
そこで、徳川家では丸に三つ葉葵に変形させて、現代で言う「三つ葉葵」の紋を将軍家の紋所としました。
賀茂神社の葵紋は、次のサイトの一番上の右端の青い房に描かれた紋所です。

水戸家では、「茎無し」の三つ葉葵を使用しています。(次のサイトの二段目、左から四番目)
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP389JP389&q=%E8%91%B5%E3%81%AE%E7%B4%8B&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=9TqGTIu_H4ffcZ37uZ4I&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCkQsAQwAA&biw=1251&bih=561

また、徳川本家でも、家康や秀忠、家光と違って5代将軍の綱吉や吉宗などは「茎」を太くしています。
http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2007/08/30/kamonaoicc.jpg&imgrefurl=http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_1188.html&usg=__jxzriYUf2UeE0LVYQmMrN0hIi4Y=&h=691&w=144&sz=133&hl=ja&start=18&zoom=1&tbnid=2auxicMlXwz1CM:&tbnh=137&tbnw=29&prev=/images%3Fq%3D%25E8%2591%25B5%25E3%2581%25AE%25E7%25B4%258B%26um%3D1%26hl%3Dja%26sa%3DX%26rlz%3D1T4GGLL_jaJP389JP389%26biw%3D1251%26bih%3D561%26tbs%3Disch:10%2C472&um=1&itbs=1&iact=hc&vpx=444&vpy=61&dur=14719&hovh=400&hovw=83&tx=104&ty=267&ei=zjmGTOeJA4XBcfTXwZ4I&oei=rjmGTLfUOYOHcdvXzOwK&esq=7&page=2&ndsp=22&ved=1t:429,r:10,s:18&biw=1251&bih=561#javascript:void(0);



紀州徳川家でも「茎」は描かず、さらには、「葉」の葉脈の数を変えたり変形させたりしています。
(最初のサイトの6段目左から二番目の銀色の紋所・・・もちろん、金色で描かれることもありました。

このように、本家でも違いを顕わにし、御三家なども少しずつ時代と共に変化を見せています。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>徳川本家、御三家の家紋に違いがあるのでしょうか?

回答から先に述べますと、「若干の違い」がありました。

まずは、「葵のご紋」の使用について・・・。

(1)葵の紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂神社の神主、氏子、信仰者に葵紋が広がりました。

(2)三河から伊豆にかけて「賀茂」という地名が残っており、賀茂神社の社領が多くあった名残です。

(3)三河に居た松平氏、伊那氏、島田氏が葵紋を使っていたが、徳川家康が天下を取ると、葵紋の独...続きを読む


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