痔になりやすい生活習慣とは?

明治時代に散髪する人が多くなった中、武士(士族)で遅い人はいつごろまで髷を結っていたのでしょうか?
大正のころはまだいたという話を聞いたことがありますが・・・。

A 回答 (3件)

男性の場合、明治の末期には稀にチョンマゲを結って生活する人が存在したようです。

ただし、相当に奇矯な人とみなされたようです。

童話作家の石井桃子(1907年<明治40年>3月10日 - 2008年4月2日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95% …
は、現在のさいたま市浦和区で生まれ育ちました。
この人が幼年期のことを回想した
「幼ものがたり」 (福音館文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/4834018229
という本がありますが、その中に
「ちょんまげと自動車」(上記の版で301ページ)
と題して、
『私は、たった一人だが、チョンマゲを結って実際に歩いている老人を見て育った』
と書いています。浦和の街中の人ではなく、周辺の農村部から時折浦和に出てくる人だったらしいとのことです。
明治40年生まれで、浦和という小都市で育った石井さんが見た「チョンマゲを結って生活していた人」は、後にも先にもただ一人であったようです。
石井さんは
「大人になってから、『断髪令』が出たのが明治4年であると知って本当に驚いた。明治4年には自分が見たチョンマゲの老人は20歳くらいだったはずなのに、あの人はどういう信念を持って40年間もチョンマゲを結い続けてきたのだろう?と不思議でたまらなかった」
と書いています。

なお、女性の場合ですと、既婚女性が日本髪=髷を結うのは戦前ならごく普通でした。
下記の質問をご参照ください。
「日本女性が日本髪(髷)を結わなくなったのはいつ頃?」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4055266.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やっぱり明治時代末期でも珍しかったんですね。

お礼日時:2009/05/08 18:48

明治33年、古河財閥の古河市兵衛が9月28日に懇意の人を招き断髪式を行ったという記録があり、この市兵衛自体、髷に拘りがあった方ですから、大体この時期でも髷の男性は珍しかったと思います。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
今では時代劇でしか見られませんよね。

お礼日時:2009/05/08 18:50

昭和四十年代まで髷を結わされた子供がいたそうです。


祖父のこだわりらしいですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なんだか恐ろしいですね

お礼日時:2009/05/08 18:47

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Q日本女性が日本髪(髷)を結わなくなったのはいつ頃?

江戸時代の子供以外の日本女性は、全員が日本髪(髷)を結っていたはずです。
現在、女性が和服を着ても、日本髪を結うことはありません。結婚式で着物を着る場合はは文金高島田のカツラをかぶります。舞妓や芸者のような特殊な職業の場合は分かりませんが「自前の髪で日本髪を結う」という風俗は今では絶滅してしまったと思われます。

明治時代の女性の写真を見ると、江戸時代と同様に日本髪を結っているようです。日露戦争の頃に新しい結い方が流行し「二百三高地髷」といわれたといいます。

この質問を立てた直接の動機は、新聞で、昭和12年の大阪の富裕な商家の4姉妹が主人公の芝居「細雪」の製作発表の写真を見たことです。4姉妹を演じる女優は、30代から20歳くらい、うち2名が既婚者という設定ですが、いずれも現在の「和服美人」のように日本髪ではない「普通の髪」でした。

芝居の制作時にどのくらい厳密な時代考証をするのかは分かりませんが、果たして、昭和12年の時点で既に日本髪を結う風俗は廃れていたのでしょうか?あるいは、よほど年配の人だけの風俗になっていたのでしょうか?

なお、昭和10年代の日本女性の服装は、

1. 都会では、独身女性は外出時には洋服を着る方が普通になっていた。学校の制服は洋服になっていた。
2. ただし、結婚して家庭に入ると、外出時・日常時を問わずに和服を着るのが普通だった。
3. 農村では適当な和服(古着屋から購入)が普通。これは昭和40年くらいまで変わらなかった。

と理解しております。

江戸時代の子供以外の日本女性は、全員が日本髪(髷)を結っていたはずです。
現在、女性が和服を着ても、日本髪を結うことはありません。結婚式で着物を着る場合はは文金高島田のカツラをかぶります。舞妓や芸者のような特殊な職業の場合は分かりませんが「自前の髪で日本髪を結う」という風俗は今では絶滅してしまったと思われます。

明治時代の女性の写真を見ると、江戸時代と同様に日本髪を結っているようです。日露戦争の頃に新しい結い方が流行し「二百三高地髷」といわれたといいます。

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Aベストアンサー

>日本女性が日本髪(髷)を結わなくなったのはいつ頃?

NHKの朝ドラの「おしん」や「あぐり」等の記憶を辿ると、
おしんは明治の終わりか大正の初めに髪結いになり、髪結いの師匠から洋髪結いになるように薦められ成功するような内容がありました。

また、あぐりの中でも大正の終わりか昭和の初めにあぐりは美容師になるのですが、そのドラマのなかであぐりの義理の母親がある日突然日本髪から洋髪にする場面がありました。
また、1920年代にはモボ・モガが流行り、「華麗なるギャッツビー」のようなワンピースでおかっぱ頭に帽子が流行り、その後はパーマが流行ったのではないでしょうか。

昭和40年代頃まで、お正月に日本髪を結う人はいたと思います。
その頃、明治生まれのご近所のご隠居、おばあさんは和装で長谷川町子の「意地悪ばあさん」のような装いでご自身で小さな丸髷を結っている人も居た記憶があります。

日本髪を結うと箱枕でしか寝られませんし、一回横になるとまた、結い直してもらうか撫で付けてもらわないといけなく、時間的にも金銭てきにも結構たいへんです。

参考URL:http://wapedia.mobi/ja/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%AB%AA

>日本女性が日本髪(髷)を結わなくなったのはいつ頃?

NHKの朝ドラの「おしん」や「あぐり」等の記憶を辿ると、
おしんは明治の終わりか大正の初めに髪結いになり、髪結いの師匠から洋髪結いになるように薦められ成功するような内容がありました。

また、あぐりの中でも大正の終わりか昭和の初めにあぐりは美容師になるのですが、そのドラマのなかであぐりの義理の母親がある日突然日本髪から洋髪にする場面がありました。
また、1920年代にはモボ・モガが流行り、「華麗なるギャッツビー」のようなワンピ...続きを読む

Qちょんまげ

江戸時代から、明治時代にかけて、日本は武家社会から西洋文化へと変換していきますが、江戸時代よりの上流武家社会での髪型、いわいる“ちょんまげ”はどの様に変化したのでしょうか?

そして、上流武家はどの様に一般社会に溶け込んだのでしょうか?

いきなり毛が生える事もないと思いますが。

Aベストアンサー

散髪脱刀令という命令が明治4年に太政官布告で出ています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E9%AB%AA%E8%84%B1%E5%88%80%E4%BB%A4

かなりの反発があり、一揆まで起きています。

当時の女性からも反発があったようで、ちょんまげを切った旦那を離縁した奥さんもいたらしいです。

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

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Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Qちょんまげについて

ちょんまげの髪型ってそもそも、誰が考えたんでしょうか?それでなぜみんながやるようになったのですか?あとちょんまげをやめようという事になったのはいつごろなんでしょうか?よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

 いわるる丁髷(ちょんまげ)の起源は、平安末までさかのぼる。丁髷は月代(さかやき)をして結う。月代は頭の中央まで丸く剃るか、または抜いて落とす。元々、兜(かぶと)をかぶった時、頭が蒸れてのぼせ上がるのを防ぐために起こったという。始めは合戦の時だけ剃った。しかし、室町時代になると、烏帽子(えぼし)が捨てられ、これまでのたぶき(俗にいう茶筅(ちゃせん)髪)に代わって、武士はもちろん、庶民の間でも行われ始めた。応仁の乱後は月代も次第に大きくなった。また、髪にも変化をつけ、年齢に応じても、形に差があらわれた。装飾としての意味が大きくなったのである。

 江戸時代には青年になると、それまでの前髪をやめて、武士も庶民も丁髷を結った。髪の大きさや形は、身分によって差があった。髪の薄い人は入れ髪をし、禿げた人はカツラをかぶって体裁をととのえた。のりではりつけるだけの簡単なカツラもあったようである。

 1871(明治4)年9月23日、『散髪勝手たるべし』の布告が出てから、ちょんまげを結う人は次第に無くなった。

Q江戸時代生まれの人で、最後に亡くなったのは誰?

 明治時代以前に生まれて、一番最後まで生き残っていた方って、どなたなんでしょう?

 私は明治生まれの方とお会いした事があっても、慶応生まれの方とはお会いした事がありません。明治時代以前に生まれて、一番最後まで生き残っていた方って、どなたなんでしょう?そしていつお亡くなりになったのでしょう?
 私が物心ついたときには確か泉竹千代さんが最長寿の方でしたが、明治のお生まれでは、と思います。

Aベストアンサー

泉 重千代さん(1865~1986)120歳 237日
明治維新の三年前にお生まれになっています。
多分この方が、明治以前にお生まれになった方の中で最も最近までご存命の方ではないかと思います。


百姓の満平(1602~1796)194歳

百姓の松原仙右衛門 (不 明)185歳

甲州財界の巨頭 若尾逸平   93歳(1913年没)
金原銀行創業者 金原明善   92歳(1923年没)
関西実業界の大物 大井卜新  91歳(1924年没)
資本家 大倉喜八郎      91歳(1928年没)
日本株式会社の父 渋沢栄一  91歳(1931年没)
ビール王 馬越恭平      89歳(1933年没)
総合武術の竹内流の祖竹内久盛 93歳(1995年没)

これらも方々も江戸時代にお生まれになった方々です。

Q一部上場とは??

タイトル通りなのですが、一部上場企業とはどういう意味でしょうか?していない企業と比べて何が違うのでしょうか??現在就活中でして、この意味がよく分からないので教えていただけますでしょうか?又、その企業が上場しているか、していないかはどうやって見分けるのでしょうか??
お返事ください。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

企業が資金を集める方法には借金する方法と株式を発行する方法とがあります。借金すると、企業は儲かろうが、損をしようが、期限が来たら利息をつけて返済しなければなりません。しかし、株式を発行して得た資金は基本的に返す必要のないお金です。儲かったときだけ配当を支払えばいいのですから、株式の発行は企業にとって都合のよい資金獲得方法なのです。(TOBなどの危険もありますが・・・)
一方、株を買った人は配当がもらえるほかに、必要なときに株を売って資金を回収することができます。株を売るには買う人がいなければなりません。このような株の売り買いをするところが株式市場です。株式市場はできるだけ大きな市場の方が売りたい人、買いたい人が多く集まるので、取引が成立しやすくなります。逆に株を売りたいときに株式市場で取引できないと買い手が見つからないので、株式を持つ意味が半減します。
日本で一番大きな株式市場が東京証券取引所(東証)です。東証にも一部や二部などがあり、一部が最も活発に取引されます。そこで、株を売りたい人や買いたい人は東証の一部に行けば、売り買いが成立しやすくなります。
ところがどんな会社の株でもここで取引ができるわけではありません。上場基準と呼ばれる厳しい基準に合格した企業の株だけが、東証の一部で売り買いできるのです。
この東証一部で株式の取引ができる企業が一部上場企業とよばれる企業です。
東証一部に株式を上場できると、株を持っている人は取引が成立しやすくなるので、株に魅力が出て株価が上がります。また、一部上場企業は財務状況の公開が求められるので、粉飾やごまかしをしにくくなり、その結果、会社の信用が増します。
色々な株式市場がありますが、日本の企業のうち、市場で株を売り買いできる企業は一部にすぎません。その中でも東証一部で株を取引できる企業はごく限られたほんの一握りの大企業だけ。つまり東証一部上場企業は企業の中のエリートと考えられるのです。

>今までどんな勉強をしてきたのでしょうか?
>そんな事も分からないような人を企業が採用するとは思えませんが?

ひどいことを言う人もいるものです。私も就職するときは、大学が理科系だったので一部上場企業とか資本金とかまったく意味が分かりませんでした。今でも私の周りには一部上場企業の意味を正確に知らない人がたくさんいますが、ボーア半径とか熱力学の第二法則とかは良く知っています。それでいいのです。就活がんばってください。

企業が資金を集める方法には借金する方法と株式を発行する方法とがあります。借金すると、企業は儲かろうが、損をしようが、期限が来たら利息をつけて返済しなければなりません。しかし、株式を発行して得た資金は基本的に返す必要のないお金です。儲かったときだけ配当を支払えばいいのですから、株式の発行は企業にとって都合のよい資金獲得方法なのです。(TOBなどの危険もありますが・・・)
一方、株を買った人は配当がもらえるほかに、必要なときに株を売って資金を回収することができます。株を売るには買...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q芋焼酎と麦焼酎の違いを教えて下さい

こんばんは。

最近、缶チューハイを買うのがもったいないなと思うようになり(缶チューハイでは酔わないし、何缶も買うと高い)ので、お店で相談したら、焼酎と割り物を買うと経済的ですよ、と教えられました。

早速、オススメの「麦焼酎・むぎのか25度」というのと、「ダイエットハイサワー・グレープフルーツ」を買って来ました。両方で1200円ぐらいでした。

飲んでみたら、焼酎の割合を調節出来るので缶チューハイよりも強い度数にすることが出来て、ほろ酔いになっていい気持ちです(酔っ払っててスミマセン)。

思ったのですが、焼酎には麦焼酎と芋焼酎とありますが、どう違うのですか?芋はクセがあるような話も聞いたことがあります。

オススメされたのが麦焼酎なので、初心者には麦なのかなぁ・・・とか思ったりします。

焼酎ライフをエンジョイするためにはどうすればいいですか?麦と芋の違いも教えて頂けるとありがたいです。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

200円くらいのカップ焼酎が売ってあるので
そのあたりで飲み比べたらいいと思います
チューハイにするなら麦か米のほうが癖がないので美味しいと思います

米焼酎はあっさりしているので、とても飲みやすいです
臭いもほとんどありません(スタンダードで有名なのは「白岳しろ」)
ですからチューハイにはちょっともったいないって感じかな
ロックが美味しいです(最初は水割りから)

麦は安いし癖もないのでチューハイ向きかも

芋は焼酎を飲み慣れた人でないと、匂いがきつくて無理だと思います(スタンダードで有名なのは「白波」)
黒霧島とか島美人とかはそこまで匂いが強くないのでロックでも水割りでも飲めますけど、それでも初心者は辛いかもです。匂いがあるのでチューハイには向かないかなあ?とおもいます(匂いを楽しみたいときはお湯割り)

これらは私の感想ですが・・
焼酎は安いし、いろんな県からいろんなのが出てるので、いろいろ試して楽しんでくださいね
ちなみに「球磨焼酎」は「スコッチウイスキー」と同じ地名を冠する不動のブランドなんですよ

Qなぜ戦国時代に短銃は使用されなかったのですか

種子島は伝来しても、短銃は伝来しなかったのですか?
種子島銃の銃身を詰めれば、持ち運び簡単、接近戦に便利な短銃ができそうな気がしますが、そういう技術力や発想がなかったのですか? 根本的に火縄銃では、短銃は作成が難しいのですか?
銃を持つのは武士としてあるまじきこと、という精神論があったのですか?

江戸時代に入ってからも、短銃はあまりなかったのではないかと思いますがどうでしょう。時代劇の悪徳商人が隠し持っていたなんてのは、本当に時代劇の中だけの話なんでしょうね。
町方でも与力以上は護身用に所持していたとか、そんな感じであってもよかったような気がしますがどうでしょうね。
やっぱり資金、技術力、資源、精神論、の事情からでしょうかね?

Aベストアンサー

カリブの海賊みたいな海賊は腰に短銃をたばさんでいますよね。あの銃をよく見ると、先がラッパ型に開いています。いわゆる「ラッパ銃」ってやつですね。
なんであんな形になっているかというと、短銃だと弾と火薬を詰めるのが難しいからです。だから先をラッパ型に開いて弾を入れやすくしたのです。
もちろん、先が開くわけですから命中精度は極端に落ちます。だから短銃の活躍する場所といえば海賊のように狭い船内での斬った張ったのときくらいしかないわけです。日本の戦国時代ではヨーロッパの大航海時代のように船に乗り移ってチャンチャンバラバラというのがほとんどありませんでしたから、もちろん護身用にというニーズはあったにせよ、需要に対してまだテクノロジーが追いついていなかったのですね。まだ携帯電話が大型無線機みたいに大きかった時代に「なぜあの時代にスマホが作られなかったんでしょうか」っていうようなものです。
また海賊はあの短銃を何本も腰にたばさんでいますね。そう、撃ったら次、撃ったら次、というふうに(一発しか込められませんから)数を持たないといけません。この「使い捨てに近い感覚で道具を使う」というのは日本人のメンタリティには合わないというのもありますね。道具を非常に大切にする民族ですからね、我々日本人は。

また江戸時代の日本人が銃を持たなかった理由は、現代の日本人が銃を持たない理由と同じです。アメリカ人が銃を持つのは、実際に身の危険があるからです。日本人が銃を持たないのは、法律で禁止されているというのもありますが、銃を抜かなきゃいけないような危険な場面は、警察官でさえ一生に一度あるかないかという国内の治安状態が主な理由ですよね。

カリブの海賊みたいな海賊は腰に短銃をたばさんでいますよね。あの銃をよく見ると、先がラッパ型に開いています。いわゆる「ラッパ銃」ってやつですね。
なんであんな形になっているかというと、短銃だと弾と火薬を詰めるのが難しいからです。だから先をラッパ型に開いて弾を入れやすくしたのです。
もちろん、先が開くわけですから命中精度は極端に落ちます。だから短銃の活躍する場所といえば海賊のように狭い船内での斬った張ったのときくらいしかないわけです。日本の戦国時代ではヨーロッパの大航海時代のよ...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む


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