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旧東ドイツには民族差別的な事件が起こる原因のひとつとして、旧東ドイツは戦後ナチスに対して反省するという教育が旧西ドイツと比較して緩かった。と今年発売された「NHKドイツ語会話」の巻末のコラムに書いてありました。
しかし、過去の旧東ドイツの指導者のエーリッヒ・ホーネッカーは若い頃、共産党員でありナチスに弾圧されていたことがあったそうです。
また、そういう政治思想の人は戦後には東側に流れていったと聞きます。私個人の考えとしては「ナチス憎し」の人達が西側よりも東側に多く存在すると考えてしまうのですが、では何故、ナチスに対する反省の教育が緩くなってしまうのか不思議です。ひょっとして旧東ドイツのやり方はナチスのやり方と似通った部分があったのでしょうか?
ぜひお教え下さいませ。

A 回答 (2件)

いい着眼点ではないでしょうか?


急ごしらえで作られた東独の秘密警察(シュタージ)や国家人民軍ではナチ体制下の頭脳が数多く活用されていたようです。No.1さんご指摘のナチ批判=体制批判となる懸念はあったのではないでしょうか?また、ソ連の社会・民族に対する性格も影響していると思われます。

旧ドイツ国防軍の将校だった捕虜も、党の指導のもと国家人民軍創設に貢献していたため、旧体制の伝統がある程度受け継がれています。朝鮮人民軍の行軍画像でおなじみのグースステップも、グレーの軍服も、西独と比べれば、ナチのときとそう大きな違いは無いといえるでしょう。
ナチのゲシュタポも東独のシュタージも似たようなもので、上層部はともかく末端の職員になるとゲシュタポからシュタージにあっさり転向していた例も相当数あり、「首から上はすげ変わったが首から下はゲシュタポや親衛隊諜報部をそのまま受け継いだ」とまでいわれていたようです(ちなみに軍隊式の階級を取り入れているなど、ゲシュタポ等と酷似している面もあります)。
強固な新支配体制の構築を急いだ結果、日本や西でおこなわれたナチや軍国主義者の公職追放自体が不十分となり、それがナチに対する反省の不徹底につながった面は否めません。何しろ東独は資本主義と戦う前線基地でもありますし。そういった軍・警察の幹部が権力を握っていた中では、いつまでたってもナチとの決別は表面的なものにしかならないでしょうね。

また、ソ連は資本主義を否定していただけにユダヤ人等には逆に反革命分子とされるものが多くあり、その点で言えば差別も温存されていたともいえるでしょう。さらに、東独を築いたソ連自体も、「宗教はアヘン」とする偉大なるレーニンの指導の下で作られた国であり、宗教性の強い行為や民族には寛容な体質といえず、レーニン死後もイスラム教徒相手にもチェチェン人の強制移住やアフガン侵攻の歴史を持つものです。そんな体質の社会で育った人がドイツ人の仕事を奪うトルコ移民を見て義憤を感じ襲撃したとしても、違和感は感じません。

東欧の共産圏では新体制自体が「ナチからの解放者」をうたっている以上それ以上反省することは無かった傾向があるといわれることがありますが、体制の類似性やDNA継受による体質形成というのはさもありなん、といえると思われます。
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ナチスの独裁と共産党の独裁が独裁という点で、共通しているから、ナチスの独善・独裁を弾圧すれば、共産党指導者の独裁性に批判が及ぶ為ナチス批判の教育が穏やかになったと考えます。

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