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社会学者の宮台真司さんの言葉で「仲間以外は、みな風景」という言葉があるんですがどういった意味の言葉かわかりません...
どなたかわかる方詳しく教えていただけませんか??;

A 回答 (8件)

ある集団の中において、「自分」と「その仲間」(同僚、級友など}


以外の人間はいてもいなくても関係ない「風景」に過ぎないといった意味です。確かこれは日本人を指した言葉です。グループ意識、とも言い換えられるでしょうか。
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社会的マナーの対象範囲が、仲間内だけで、


社会に及んで内情対でしょう。

卑近な例になりますが、
私が食事をしてお勘定を払おうとしたときのことです。
レジでおばちゃん4人組が誰が払うかでもめています。
誰が払うかをなかなか決められないのに業を煮やして、
「誰が払うか決めてから来てくれ」とさきに勘定をしたところ、
おばちゃん達は、怒りの視線を向けてきました。
おばちゃん達にとっては、客が円滑に支払いをすることよりも、
仲間内で誰が払うかの方が大事なのです。

同じく飲食店での例ですが、
あるグループの一人がたばこを吸い始めました。
グループ内の誰かに機を使ってか、変な位置でたばこをくゆらせて、
そちらの方に煙が行きにくいようにしているのです。
その煙が逆にこちらに流れてくるので、視線でたばこを消すように
促しました。
彼にとっても、たばこのマナーは仲間内だけのことで、
それ以外の客に対してはどうでもよいことなのです。

これらの例に見るように、一部の人にとって、
マナーを守るべき社会が非常に狭いものに変わったように
思われます。
おそらくこういったことを漠然と
「仲間以外はみな風景」
と表現しているのではないでしょうか。
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宮台真司さんの意図するところはわかりませんが、中島みゆきさんの『帰省』という歌に、



「人は多くなるほど 物に見えてくる 転んだ人をよけてスクランブル(交差点)を渡る」

と、あります。

相通じるものがあるかもしれません。
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 今の若者は、個性的な自己を目指している一方で、クラス内の「同調圧力」(例えば、本当は夜遊びはしたくないんだけど、グループ内の他のメンバーがしているからする、という類のもの。

自己の価値観・倫理観で判断するのでなく、ただ単にグル―プから浮かない為に、仲間に合わさる行為)に非常に弱いです。私も高校の時は、この同調圧力に弱かったので、よく分かるのですが、仲間の視線に対しては極めて敏感です。常に、グループから浮かないために、常に気をつかいあい、ノリをあわせます。
 その一方で、グループ以外の人に対しては、全く気をつかわず、どうでもいいモノとして扱います。人として、視界に入らないのです。だから、常識を超えて行動も、風景(グループ外の人)の前では平気でできる。
 日本で、どうしてこのような現象が起きるのかを考えてみるのもおもしいと思います。私は、日本人の島国根性や建前と本音の社会が非常に関係していると考えています。
 けど、今の若い子は、私の時よりもある意味で大変だと思います。だって、携帯電話が登場したから。携帯は便利だけど、私は誰かに縛られている感じがします。携帯がある為、ずっーと、学校内の「狭い」グループに縛られる事になるから。世界はもっと広い!と彼らに声を大きくした伝えてたい
です!!
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【風景】とは、自分が知覚してる環境だと受け取ると、、



その環境の中で、コミュニケートしてる【仲間】との関係が存在している、、と言う意味ではないでしょうか。
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この言葉、よく言ったものだと思います。

私もよくそう感じますので。
私の経験なのですが、コンビニの人一人すれ違えないほどの狭い通路で向かいから若い女性が歩いてきたのです。
当然私はすれ違う為に身をよじります。でも空きは少しなので相手もそうしてくれないとすれ違えません。
が、その女性は一向にすれ違う為の動作に入る気配がありません。まるで私が透明人間かのようにズカズカと歩いてきます。
結局私ががんばってその場を乗り切ったのですが、どうなのでしょうか?
風景ならまだしも、障害物としても認知できないようです。最近の若い子たちは。
そういう経験他にも結構あります。書き出すときりが無いので書きませんが。
若者にマナーを求めるTV広告がありますが、マナー以前に脳のどこか一部に何か欠陥があるんじゃないかと思います。最近の子たちは。
私が若い頃はマナー違反を侵していても悪いことをしている認識はあったので、咎められると止めました。今の子はそれすら感じられなくなっている様子。「ケータイ脳」ってやつですね。
彼らが中心となり社会を動かす時代は数年~十数年後。日本てどうなってるんだろって心配でなりません。
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旅の恥はかき捨てというのもほぼ同じ意味でしょう。


ただし、かき捨て的な現象はそれなりの条件が整わないと成立しないし、またかき捨ての要因のひとつは非日常的な状況においてついついはしゃいでしまうとかそういう理由もあるのですが、「仲間以外は、みな風景」というのはそれが日常になっているということです。
気の会う友達グループの中だけでは社会生活は十分に行えるのに、例えば同じ学校のクラスの人間同士でもグループが違うと、他人というよりは全く視界に入らない、入ってもその辺の石ころと同じようなモノとしか意識できないということで、他人の立場に立てないわけではなく(グループ内ではきちんと気を使える)世間に無関心とか、視野が狭いというよりは、もうちょっと限定した部分での話かと思います。
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電車の中で平然と化粧する女たちの主観的世界を想像してみればわかると思います。



学校や会社で出会う友人や同僚たちには化粧で彩られた笑顔を振りまく一方で,
たまたま電車に同乗した他人には化粧の途中のぶざまな顔を見られても何とも感じない。
彼女たちにとって周囲の他人はつり革や手すりと同じ「風景」にすぎないので
恥ずかしいという感情も湧いてこないのでしょう。
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