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東の京都と書きながら、東京は京都よりも無秩序に都市が作られているように感じます。どういう事情でこうなったのでしょう?それとも、京都より進んだ合理的な計画でこうなったのですか?徳川家康と明治の高官にきいてみたいですが、どなたかわかる方がいましたら教えて下さい。

A 回答 (8件)

東京の都市計画は、明治21年に公布された「市区改正条例」とそれに基づき明治22年に告示された「市区改正設計(旧設計)」に始まります。



でも東京の真ん中には皇居があるため、皇居を中心として同心円状の街路を大きく変更できませんでした。

平安京、平城京などは遷都が決まってから新しく作られた都市ですから唐の都に倣った都市が作れたのでしょうが、江戸は皇居をはじめ、旧藩邸など既得権者が多くて、簡単にできなかったのでしょう。

それでも関東大震災、東京空襲で焼け野原になった地域の環状線に挟まれるところでは道路が碁盤の目に作られている地域もありますよ

参考URL:http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/plan/pj-02. …
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この回答へのお礼

>江戸は皇居をはじめ、旧藩邸など既得権者が多くて、簡単にできなかったのでしょう。

なるほど、と思いました。
そういえば初めての東京-横浜を結ぶ鉄道も、旧藩邸が道を塞いでいたため、海岸へ一部つきでるような形になって、伊藤博文や大隈重信が苦労したという逸話をきいたことがあります。
昔ってそういうしがらみがあって嫌ですね。
今もですかね。

でも皇居はちょっと意味合いが違うので、仕方がないかなとも思いました。
空襲や防災、自動車の影響など、色々な側面から都市は形を変えていくのだと勉強になりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/11 15:42

東京の大規模な都市計画は、関東大震災後に当時の市長により計画されましたが、国家的/市政的に理解されず市長の大風呂敷とあざけられ予算も碌に付けてもらえず、”昭和通”だけでぽしゃりました。

それが、計画通り100%実現されていたら、今のような 偉大な田舎村 には
ならなかったのでは。
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この回答へのお礼

震災って悲しいことだけど
都市にしてみれば再開発のチャンスですよね。

でも政治の話はよくわからないです。
結局、都市開発のための予算は集まらず、別のことにお金は流れていったということですか…。

外国の人が東京を見たら、どう感じるんでしょうね。
卑下するつもりはないですけど。
なんだかんだで私も東京が好きですし。

お礼日時:2006/11/11 22:19

東京は、地形的にも、社会階層的にも、山の手と下町に区分されます。

山の手は、武蔵野台地の末端に当たり、浅い谷が入り込んでいる複雑な地形で、直線の道路を通すのは合理的ではありません。主な道路運搬手段が荷車だった時代には、できるだけ坂を避けて道が作られました。
 一方、下町は、もともと沼沢地で、ここに碁盤状に走る運河を開き、その土で埋め立てて市街地を作りました。運河は排水だけでなく、物資の運搬に不可欠のものです。このように人工的に形成された土地なので、下町は方格状(碁盤目)の道路パターンを特色です。
 開拓地に計画的に都市を作る場合、方格地割が採用されるのは京都だけでなく、北アメリカでもよく見られ、またわが国では札幌がいい例です。これにたいし、交通上の要衝に位置する都市は、放射状の道路パターンを基本に道路網が形成されやすいといえます。
 なお、武蔵野台地は用水が得にくいため市街地の開発がおくれました。このため、古い耕地割りのまま市街化が進行し、迷路状の道路パターンが現在でも残っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ひとえに東京といっても、地域によって歴史が異なるのですね。
昔は荷車だったかと思うと坂道に対する感じ方も今と段違いですね。
坂を上がるのも降りるのも重労働だったと思います。
だから坂を避けて道が作られたんですね。
勉強になりました。

お礼日時:2006/11/11 22:12

江戸開府以来、人口の増加に応じて市域がどんどん拡大していったわけで、京都の中心部のように最初から整理された形で作られたものではありません。



地形的にも、台地と川や谷が入り組んでかなり凸凹しているので、碁盤の目や、すっきりした放射状に道路を作るのはもともと無理です。江戸城から東の低地は埋め立てで広がった部分もあって、山の手台地側に比べれば比較的整理されていますが。

戦後の復興計画でかなり大胆な都市計画案が出されたようですが、財政的に実現不可能ということで大幅に縮小されています。環状1号~8号道路も、いまだに完全に環状なっていないほうが多い状態です。都心部に僅か数百メートルの区間が開通しただけのものもあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>戦後の復興計画でかなり大胆な都市計画案が出されたようですが、

どんな計画だったのでしょうね。
財政が厳しかったというのは少し切ないですね。
でも昔の日本ってかなり無茶をしてたから、わかる話です。今の東京都は600億円くらいの黒字なのだそうで、そのお金をタイムマシンで送りたいですね。

現実に一つの都市を作っていくのには、様々な困難があるものなんですね。
勉強になりました。

お礼日時:2006/11/11 17:24

 付け加えます。

私は両方に住みました。京都は第二次世界大戦のときも文化財があるが故に爆撃を受けていませんので、旧い町がそのまま残っているのも一因です。

 東京は歩いてみるとわかりますが意外と急な坂が多くて、神田川の渓谷などかなり深いですから、必ずしもまっすぐの道を作るのが合理的ではないというのもあると思います。新宿や丸の内のような平らなところには碁盤目が発達していますが、坂の多い渋谷や上野は地形に沿って道が走っていますね。
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この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございます。
確かに東京は坂道が多いです。
地形に沿って道が作られるのはごもっともですね。

部分的に碁盤目になっているというのも確かにそうだなあと思います。

関東平野ってだだっ広い草原だったのかな?と思っていたのですが、意外とでこぼこしてるのでしょうか?

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/11 16:21

 東京が"都市"になったのは江戸時代からです。

徳川家康が三河から江戸に"配置転換"されたばかりの頃はとんでもないド田舎だったそうです。
 江戸が本格的に都市開発されたのは江戸幕府によってなのですが、その時防衛上の理由から、わざわざ曲がりくねった道路を放射状に張り巡らせ、一見無秩序な街を作ったのだとか。
 つまり攻めてくる敵が、大軍を一気に江戸城に押し寄せることができないような都市にした、ということなんだそうです。

 この話のネタ元は司馬遼太郎のエッセイ等々、です。
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この回答へのお礼

なるほど。
戦国時代を経て、江戸が作られたと思うとごもっともだなと思いました。
都市の防衛という観点は今の世の中ではあまりないですよね。
道をわかりづらくしても、核ミサイル一発でボカンの時代ですから。
でも昔は重要な基準だったのだと考えさせられました。

かつては大井川も、幕府防衛の意味で橋がかけられなかったという話を思い出しました。昔と今とでは、考える前提条件が違っていたのですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/11 15:31

都市計画のひとつの手法として、位置管理のしやすい碁盤目状ではなく、防犯や中央集権社会においての人的管理のしやすさから、放射線状というか「ドーナツ型」「バウムクーヘン型」に配置したと思われます。


碁盤目もバウムクーヘンも良いところもあれば悪いところもありますね。

今となってはこの形態を根本から変えることは不可能でしょう。
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この回答へのお礼

政治形態も深く関係しているということでしょうか。
中央集権社会だから放射状ということだと何となくわかりやすいなと思いました。
今になってみると、位置や方角がわかりづらくて、どうしてこんなふうに作ったんだろう?と思ってしまいます。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/11 15:26

まぁ今の東京の大部分は”元々浅瀬だったのを埋め立てた”ので計画的もなにもなかったとは思いますが(存在しない土地を計画することはできないので)。


それでも結構計画的に作られてますよ。
ただ形が升目上ではなく”(江戸城を中心として)放射線状に”作られているだけです。
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この回答へのお礼

なるほど。
勉強になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/11/11 15:22

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